1,ヲタクな平社員
多田野久晴、後一年もすれば三五歳を迎える中年の男性。
陽キャと陰キャ、どちらかというと明らかに陰キャでボッチになるのが苦にならないタイプ。
一般男性より背丈はある方だが、少しの猫背が覇気のないイメージを与えている。
絵は上手く、アニメやゲームなどをこよなく好むヲタク趣味の持ち主。
特に、中二病の心を刺激しそうなロボットやメカ物に関しては異常で、今でも関連する設定資料などを集める収集癖がある。
年齢=彼女イナイ歴で、彼女と呼べる年頃の若い女性とのお付き合いは一度も無い。
精々、女性と関わったとしても自分の母親か一人か二人の年配の事務員くらい。
もし、年頃の若い女性が近づいてくれば条件反射で自ら離れてしまう。
まるで、同極同士を近づけたら反発して逃げる磁石のように。
そんな、女子とは無縁な社会人生活十数年目で信じられない出来事が起きた。
三月初め、出向による転勤で新たに配属された部署は今まで久晴が経験した社会人生活とは正反対。
なんと、新たな配属先は課長を除いて全員女子社員ばかりでほとんどが二十代の若手揃い。
しかも、世の男が目移りしそうなほどの美人ばかり。
女性との付き合いの経験値が皆無に等しい久晴にとって、目の前にいる美女達に囲まれる状況に目の焦点が合わず胸の鼓動が自分の耳に届く程の最高潮な緊張状態。
しかも、陰キャな久晴にとって居心地が悪く逃げ出した気分で、
「あの……、男子社員は……? もしかして、今日は外回りの仕事とか……?」
と言って不安な表情を浮かべて課長に質問する。
心の中の何処かで「一人でも同僚の男子がいてくれ」と祈ったに違いない久晴。
だが、課長は困り顔で所属する部署の事実を言い伝える。
「実を言うと、僕以外に男子は君一人だけだよ」
課長の一言で淡い希望が打ち砕かれショックの久晴は、思わず言葉を失いフリーズ状態となる。
フリーズ状態の久晴を見た女子社員達は、皆クスクスと笑いを堪えるのに必死だった。
その時、一見したら白人女性と見間違えてもおかしくない女子社員に見覚えがある久晴は、
(間違いない! 絶対、大晦日で会ったはずだよな……)
と疑問に思い不思議そうな顔で首を傾げる。
そんな久晴もここへ配属する前は、華も希望もない壮絶ブラック企業で働く万年平社員だった……。
今は社会人らしく清潔感のあるサッパリとした髪型だが、出向による転勤前までは目の下が隠れるくらい前髪を伸ばしボサボサで寝癖がひどい髪型で誰が見てもみすぼらしかった。
前髪を伸ばした理由は、コンプレックスの塊と思っているキツい目付き。
幼少の頃から、他の子供と比べて目尻が吊り上がって鋭い目付きをしている。
キツい目付きが原因で、小学の頃からの同級生の中にいるいじめっ子達からは「変質者」か「凶悪犯」とあだ名で呼ばれ続け心のないイジメのターゲットにされていた。
久晴は、同級生からのイジメに耐えることが出来なくて前髪を目の下まで伸ばすようになった。
その結果、同級生はおろか小学校の児童から怖がって近寄る者は誰一人いない。
そのことを深刻に思った小学校の担任は、
「多田野君、前髪を切った方が男前になると思うぞ」
と煽てるように話し掛け、前髪を切るように促した。
しかし、キツい目付きを再び人前に晒せば嫌がらせを再度受けると決めつけ、
「みんなに揶揄われるくらいなら、隠したほうがマシです……」
と言って、全面的に拒否し前髪を切ろうとはしない久晴。
当然、心のないイジメが原因で小学からの親友と呼べる人は無きに等しかった。
それから、中学を卒業後は隣町の工業高校へ進学。
進学した理由は、心のない悪友達との縁をどうしても切りたかった事が一番。
それ以上に強かったのは、以前から興味を持っていたCGやCADの勉強がしたかった。
その理由は、ヲタク趣味に耽っているときに偶然に見掛けた映画のCGに心を奪われ調べたら機材と努力をすれば出来ることが分かり興味を持ち始めた。
家族も、資格が取れれば就職で有利になると目論んで進学を認めた。
幸いにも、久晴の進学する高校に中学からの同級生は一人もなく縁切りは出来た。
だが、その代償はゼロというわけではない。
女子率が異様に低い工業高校、余程の物好きか資格目的の理由がない限り女子が入学することは皆無に等しい。
さらに、ヲタク趣味が重なり女子に対する免疫が自然と低下するのは当たり前。
その結果、女子に対して極度のコミュ障となってしまった。
さらに、追い打ちを掛けるように痴漢えん罪の被害。
朝、電車で秋葉原に向かう途中三十代と思われる隣の女性が突然と左手を掴まれ『この人、この手で私のお尻を触りました』と痴漢を訴えられた。
当然、隣の女性に対して全く何もしていない。
そのときは、状況が把握できず慌てふためきながらも無実を主張する久晴。
だが、駅の係員は女性の主張を完全に信じ久晴を連行しようとする。
女性は、久晴に対して何を企んでいるのか不敵な笑みを浮かべていた。
そのとき、偶然にも乗り合わせたスーツ姿の男性が久晴の無実を証明した事と、学生証で久晴が高校生だと気付き「この男ではないわ」と女性が主張を取り下げにより釈放。
おそらく、女性は久晴を社会人だと勘違いして多額の慰謝料を請求しようと企てたに違いない。
その後、久晴は女性が危険な存在と意識的に植え付けられトラウマに。
電車に乗る際は、座席に座ったり両手でつり革を握ったりして対策するようになった。
さらには、女子とのトラブルを避けるために女子率が圧倒的に低い専門学校へ進学。
こうして、久晴の女性に対する苦手意識は高校生で経験した痴漢えん罪のトラウマと女子率皆無な高校生活に加え、女子率が圧倒的に低い専門学校への進学によって形成された。
それから、専門学校に通って二年目を迎え就活を迎えることになった久晴。
その頃になると、CGとCADに関するスキルがプロ並みの腕前と呼ばれるくらいに習得し教師や生徒からも一目置かれるように。
その上、CGとCADに関する資格を多数獲得し教師ですら久晴に教えを仰ぐことも。
関連する資格を多数有した久晴は、念願だった就職先にどうしても就きたかった。
それは、映画やアニメなどの様々なイベントで目立つようになったCG関係の仕事。
当時、CG映像を手掛ける注目株のプロダクションのことをネットで知った久晴。
(絶対、このプロダクションの一員になる!)
と思った久晴は、パンフレットを枕元に忍ばせ希望に満ちあふれていた。
そんな、夏休み期満中に帰宅した久晴は胸の打ち明けると心に決めた久晴。
(進学は認めてくれたから、就職も間違いなく認めてくれるに違いない)
と心の中に確信し、就活用のパンフレットを手に胸の内を打ち明ける久晴。
「俺っ、CGクリエイターに憧れている。だから、このプロダクションに行きたい!」
すると、家族総出の猛反対受ける羽目となる。
まず、久晴の父親は鋭い眼差しで真っ向から否定。
「久晴っ、趣味の世界で生きるなんて夢物語が通用する世の中だと思っているのか!」
さらに、久晴の母親が諦めさせようと説得する。
「お父さんの言う通りよ。社会人として、安定した生活をした方が賢明です!」
その上、追い打ちを掛けるように久晴の兄が現実を突きつける。
「いいか、ああいうアーティスト系の仕事は才能が認められて成り立っている。お前みたいな専門学校出身は誰も相手をしてくれない。だから、賢い生き方をしろ」
まさかの猛反対に動揺の色が隠せない久晴だが、丁寧に説明し注目しているプロダクションであることを訴える。
それでも、家族は久晴の言い分に耳を傾けることはなかった。
そんな久晴を不憫に思った専門学校の担任が進路相談で、
「これからは、3Dプリンタや三次元技術がこれから工業の将来を担うことは間違いないだろう。どうだ、その道の会社で勉強してみないか?」
と提案され、久晴の心に一筋の希望が見え始めた。
就職すれば両親も安心する上、CGクリエイターを目指せるチャンスある。
久晴は迷わず専門学校の担任の提案に乗ることにした。
紹介されたのは、創設して十年にも満たない黒井製作所という名の会社。
話によると、他社から依頼された三次元部品の試作作成や医療用のシミュレーションモデルの製作で業界から注目を集めて勢いがある企業。
さらに、会社の社長は変わった人で個人の才能や将来を尊重する人だそうだ。
その話を聞いた久晴は、
(この会社に入れば、目指したかったCGクリエイターに近づける)
と思い提案を受け入れ採用試験を受けることにした。
就職の件で、家族にも話したら「安定した就職先なら安心だな」と手放しに喜んだ。
こうして、専門学校を卒業翌月に親元を離れ黒井製作所に入社することになった久晴。
会社の創設者である黒井社長は入社式のスピーチで、
「この会社は、君達同様に創設して未だに新米である。新米だからこそ伸びしろがあると私は思っている。君達の意見や要望などは何でも私に言ってくれ」
と言って、新卒の新入社員にアピールしてきた。
入社した社員は久晴を含めて十人にも満たない程度だが、大会社の数百人を相手にするような熱の籠もった黒井社長のアピール。
そのカリスマ性に、期待を膨らませる久晴。
一週間ほどの研修を終えた配属先は都内の港区に構えるオフィスビルの本社部門。
設計関係の資格がある理由で、顧客からの部品試作の設計を担当することになった。
久晴の仕事は、顧客からの受け取った手書きの図面を3D図面に製図して支社に部品の製作を依頼するのがメイン。
中には乱雑な手書きで理解に苦しむ図面もあるが、想像を膨らませ真面な三次元の製図に仕上げ顧客の要望に対応する久晴。
その図面の完成度に社長や支社の人達に絶大な信頼を受けていた。
そんな中、昼休みの合間を見てSF映画に出てきそうなロボットやメカの3D図面を製作する久晴。
その図面を黒井社長が偶然に目撃して、
「これは、面白い物を作るではないか。多田野君!」
と笑顔で話し掛け、久晴の肩をポンッと軽く叩く。
「こっ、これ……、趣味で製作し……」
と自信なさそうに久晴は、制作中の3D図面について説明する。
黒井社長は、未だ未完成の3D図面を感心してみている。
「もしかして、やりたかったことあるのか?」
と黒井社長の問い掛けに、久晴は恥ずかしそうに目指していた職業を話した。
それは、家族の圧力で挫折したCGクリエイターに憧れていることを。
黒井社長は、久晴の話を真摯に受け止めるように聞き入れ驚きの反応を久晴に見せる。
「それは面白い。多田野君、この会社を夢に向かうための踏み台にしなさい!」
なんと、黒井社長は久晴の夢を後押ししたのだ。
その言葉に、心を救われた久晴は感動して何を言えばいいのか分からなくなる。
「そのためには、まず自信の無い発言を何とかしないとな。後は、みっともない前髪が君の自信を奪っているとアドバイスを送ろう」
と黒井社長の指摘に、慌てて前髪を押さえて拒否する久晴。
「今すぐはない、今すぐでは。焦らず、時間を掛けてコンプレックスを克服すればいい」
と言って、久晴を宥めて黒井社長は笑顔でその場を後にする。
久晴の目に、黒井社長の背中が大きく見えた。
(いつか、デビューして恩返しをしたい)
と思った久晴は、黒井社長の背中を見て心の中で固く誓った。
活気のある職場で、久晴は地道に努力を重ね評価は上々。
久晴は、会社の仕事を勤めながらCGクリエーターを目指していた。
ところが、入社して三年後に事件が起きた。
なんと、あんなに元気で明るかった黒井社長が仕事中に突然倒れた。
その場に居合わせた社員は、黒井社長の救急搬送される姿に騒然。
その後、黒井社長は急性くも膜下出血が原因により五十代手前の若さで他界。
突然の訃報で久晴を含む社員は、何を言えばいいのか分からなくなった。
葬儀が終わり、後任の社長となったのは営業部の部長である金原幸男。
理由は、創設者の子息は学生引き継ぐのには無理があることに加え、会社取締役員で実質ナンバー2が金原だった。
創設者の家族は、金原を信頼しており会社の運営を任せることにした。
だが、金原に委ねたことが暗黒時代の幕開け。
金原の方針は、前任の黒いとは違い営業マンを優遇し製造や他の業務に関して軽蔑。
不都合になる役員は役職を奪い閑職部署に飛ばし、他社から都合のいい人材をヘッドハンティングして自分の意のままに操れる組織体制を整えた。
その上、自分の方針に従わない社員は見せしめのため合法的な不当解雇。
本社部門にある設計業務は、経費節減を理由に仙台の東北支社へ移管。
パソコンの扱いが出来ることを理由で、久晴は業務部へ移動となった。
業務部の部長は、戸渡修蔵で名家である事を自慢する白髪頭が目立つ年配の男性で金原が他社からヘッドハンティングをした。
戸渡という男が曲者で、一世代前で誰もが使いそうにない表計算ソフトを愛用し自分の関係する事以外は無関心。
しかも、名家を自慢して威張っているので久晴を含めた部下からは内心を煙たがっている。
その上、不慣れな一世代前の計算ソフトは他人に否応なしに押しつけ今日中に終わるまで帰宅させないパワハラ体質。
例え、仕事内容が分からなくても「出来て当たり前だ」と説明すらしない。
設計畑の久晴にとって、不慣れな経理業務に悪戦苦闘の日々。
更に、経理部の課長職には大学院卒の阿久井邦明という大柄で中年の男性も久晴を苦しめる。
阿久井の仕事姿は動いている様子はなく、「いっぱい仕事があるのだよ」と言ってパソコンの画面を見ているだけで何をしているのか理解しがたいところがある。
その上、一回こっきりの約束と言って仕事を何度も押し付け出来た資料をチェックするだけ。
おまけに、口頭で「この仕事やって」と資料を渡すだけで依頼内容事態が分からない。
内容が分からず問い合わせても、「見れば分かる」としか言わないので仕事が進まない。
久晴は、理不尽な二人の上司に振り回され押し付けられイライラが募っていた。
そんな中、派遣の女子社員が半年の契約で次々と辞めてしまう原因が久晴が風紀を乱していると戸渡が決めつけ転勤させるよう社長である金原に要求。
その結果、久晴は入社十年目で東京本社から東北支社の仙台へ転勤という名の島流し。
戸渡と阿久井は「栄転」と言って満面の笑みを浮かべるが、久晴本人からは理不尽な理由による左遷としか思えない・
しかも、僅か二週間という引っ越しの短期間スケジュール。
久晴は、引っ越しや移動の手続きをしたいのに阿久井は引継ぎの書類を事細かく作成するよう要求し移動のための準備は何も出来ない。
その結果、引っ越し当日でバタバタとなり電車には間に合わず深夜バスで仙台へ移動する羽目に。
こうして、両親と別れ話をする余裕もなく東京を離れることになった久晴。
さらに、転勤後に久晴の耳にショッキングな悲報が届いた。
なんと、憧れていたプロダクションが財政難により大手企業に吸収され解散。
(あの、憧れていたプロダクションが……)
とショックで、後のことが考えられなくなっていた。
その日を境に、自暴自棄にとなりヲタク趣味に費やすようになった久晴。
ただ、趣味の感覚でロボットやメカ物のCGやCADを制作することは今も変わらず。
しかし、多忙な仕事により目的を見失いかけているのは間違いなかった……。
こうして、理不尽な理由で東北支社へ転勤となった久晴。
配属された部署は、営業部内に新設されたばかり営業支援係。
別名「監獄係」と呼ばれ、本社で受けた以上の過酷な労働を強いられていた。
その元凶なのは、曲者揃いの東北支社の上司達と派遣の女子社員。
一人目は、東北支社の支社長は葛谷という四十代半ばの男性。
金原の腹心だけに実力もあり、営業一筋で接客対応は評判は非常に高い。
だが、身内の社員に対しては横暴で卑劣なところがあり部下は踏み台の考えが強く、気の弱い部下に対しては名指しで批判し周囲を震え上がらせる。
しかも、出世に繋がりそうな仕事に関しては横取りして自分の手柄に。
だが、失敗すれば部下に責任転換する悪知恵を持っており「部下殺し」の異名を持つ。
もう一人は、久晴の上司に当たる畠田主任は後五年強で定年を迎える年配の男性。
畠田は団塊世代の思考が根強く仕事は終わるまで帰ることは許さず、ミスやペースが落ちれば謎の根性論を展開して精神的に追い詰める。
部下の休暇届や退職願についても絶対に認めようとはせず、休日だというのに無理矢理仕事を押しつけ部下を疲弊させる。
その上、奢りを強要し部下の懐事情は完全無視する守銭奴。
余りの非道と暴走ぶりに、社員の間では密かに「監獄係の看守」と恐れられてる。
そして、派遣で雇われている松江という女子社員も社員の足を引っ張っている。
中年太りで茶髪のパンチパーマに、浅黒い肌と典型的なオバさんの容姿に相応のわがままな性格。
自分の好みであるイケメンの若い男子社員や上司には媚びを売るが、それ以外には冷遇な態度を見せ無関係な仕事や電話の応対を押しつけてくる。
久晴も冷遇の対象で、恐妻のような振る舞いを見せる。
一応、簿記の資格を所有しているがパソコンのタイピング技術はぎこちなく手慣れた様子はない。
ヘビースモーカーで、イライラすれば煙草を噴かすことが多く席にいないことは多い。
こんな、曲者揃いの東北支社で唯一の救いは生産課の課長である向井五郎。
向井はは畠田と同じ年代の男性で、三人の理不尽な押しつけに対し自分が不利になるというのにも関わらずブレーキ役を自ら買って出て久晴のような弱い立場を助けた。
久晴の東北支社勤務は、理不尽で過酷な業務による疲弊する中で向井の励ましが唯一の希望となっていた。
久晴の過酷の一日は早朝から始まる。
東北支社の始業時間は、午前八時だというのに一時間前に出勤することから始まる。
一応、支社長が管理するアパートみたいな社宅寮はあるが自転車で実質一時間程の距離があるため午前六時には寮から出なければならない。
出社早々、営業課のデスクを布巾で拭くことから始まる。
季節によっては、エアコンの電源を入れる必要もある。
これが終われば、コンビニで購入したおにぎり二つで朝食を簡単に済ませる。
朝食が終われば、始業三十分前に朝礼に並ばなければならない。
もし、並んでなければ遅刻扱いと見なされ上司に公開説教される軍隊並みの厳しさ。
朝礼が終われば、ようやく仕事に就ける。
まず、最初は営業から持ち込んできたプレゼンの資料作成が始まる。
しかも、超短期間で資料を完成させなければ無いため休む暇も無い。
ところが、支社長や他の営業マンから割り込みの依頼が持ち込まれ最悪の場合は今やっている仕事を後回しにせざる得ない状況となり納期の遅れやミスの原因に。
その上、久晴に支給されたパソコンは上司のお下がりで型落ちの中古のノートPC。
例え、新型が支給されたとしても処理能力が無きに等しい激安のノートPC。
ちなみに、上司や営業マンには最新の高性能パソコンが支給されてはいるがお飾り状態。
当然、資料作成の際は処理落ちで悪戦苦闘の日々。
その上、無責任なことに頼んだ支社長や営業マンは無情にも他の仕事で出掛けてしまい情報不足は日常茶飯事。
おまけに、率先的な電話の応対を強要により集中力を奪われ納期の遅れやミスの原因に。
その結果、資料が完成する頃には終業時間ギリギリ。
だが、出来上がった資料を提出し修正があれば残業は確定。
当然、資料が出来上がった頃には深夜で下手すれば社泊する羽目に。
最悪なことに、終業時間だろうが仕事の途中だろうが容赦なく本社の阿久井から電話で仕事を押し付けられ脱線し残業が確定。
それも、資料や説明は一切なしで「言えば分かる」と超短期間で押し付けられ何をやればいいのか分からない。
それが、平日だけでなく休日ですら仕事を押し付けられるから体が休まらない。
いくら残業して終わらせても、業務内容がホワイトカラー(社内業務のこと)を理由に残業代は支給されず長年に渡り昇給なしの低賃金の報われない日々。
おまけに、身形や少しの反論で査定の減点対象扱いされ昇給すらない。
それでも、辞めることの出来ない理由が「監獄係」の異名と深く関わっている。
それは、久晴が転勤して間もなかった頃に長期の無断欠勤で解雇された仲間がいて怒り狂う畠田の言動に目の当たりにして怖い目に遭ったことがある。
他の社員から、畠田の理不尽な仕打ちに耐えかねず退縮願いを提出したが「日本語がなっていない」と拒否をされ耐えかねず社員寮から脱走したうわさ話を聞いたことがある。
その話と畠田の言動が怖くなり、逃げることが出来る勇気がなかった。
久晴が唯一出来ることは、暇があれば近所の神社に出掛け参拝することだけ。
(このままでは、何時倒れてもおかしくありません。どうか、どうか、一刻も早く悪夢が終わりますように……)
と久晴は、神社の境内で祈ることしか出来なかった
だが、畠田は叱咤のネタにされ耐えることしか出来なかった。
悪夢のような東北支社の生活、いつまで続くのかため息ばかりの久晴。
そんな中、営業支援係は何らかの形で退職を繰り返し畠田の部下は久晴を含めて四人。
その中で、去年に入社した新卒の女子社員の加納菜摘が久晴の所属する部署に配属された。
「おい、彼女に仕事に仕方を教えとけ!」
と言って畠田は、女性の扱いに苦手な久晴に教育を押し付けた。
菜摘は、実家が果物農家の娘で素朴で純粋のイメージを絵に描いたような人柄。
小柄だが胸が異様に大きく、他の男子からは性的対象の目で見られのが彼女の悩み。
だが、女性が苦手な久晴とっては敬遠の対象で近寄れば無意識に離れようとする。
それでも、仕事のことは必死に教え先輩として出来る限りのことをする久晴。
菜摘に対して、免疫をつき始めたのは半年くらい。
半年くらいになると、普通に会話が出来るようになっていた。
それでも、菜摘が自ら近寄ってくると条件反射的に離れるのは相変わらず。
菜摘は、必死な久晴の姿に仕事で頼れる先輩として慕っている。
だが、問題は上司である畠田の自分の立場を悪用したタチの悪いセクハラ。
菜摘に対しては、「セクハラは上司とのコミュニケーションの一貫だ」と法に触れるか触れないかの瀬戸際のようなセクハラをしてくる。
横暴な畠田の言動や行動を制止しようとするが、上司の立場を悪用した圧力に耐えることしか出来ない久晴。
唯一の救いは、暴走する畠田を止められるのは製造課の課長である向井の制止。
「畠田さん、もう少し若手を労った方が……」
と言って向井が制止すると、畠田は悔しそうな表情で久晴含めた部下を憎む。
向井の制止に久晴は「助かった」と言いそうなくらいの安堵と、畠田に対して「また何を押し付けられるのか」と言う恐怖に挟まれ震えるしか出来なかった。
それから、悪夢のような東北支社へ転勤してから三年目の十月終わり頃。
何とか耐え続ける久晴だが、何時倒れていてもおかしくないほどフラフラな状態。
畠田の暴走はエスカレートし、久晴のことを「タダ働き」と渾名を付けて侮辱すれば、菜摘のことを「ボイン」とセクハラ紛いの愛称で呼んで嫌がる姿を楽しむ。
挙げ句の果ては、営業支援係の部下達を「奴凧」と呼んで見下す始末。
侮辱と激務の耐える日々、久晴と同僚の三人の脳裏に浮かぶのは恐怖と絶望。
そんな中、重要な説明会があり大会議室に集まったのは午後二時前。
久晴は、騒然とする大会議室に招集された中にいる。
騒然とする中、葛谷が姿を現すと恐怖を感じたのか静寂となる。
「本日は、会社の運営で重要な話があるので耳を傾けていただきたい」
と言って、黒井製作所の業績について話し出す葛谷。
説明会の内容は、ここ数年の業績不振による赤字経営について。
大スクリーンに映し出した業績は、赤字が続いていることは誰が見ても明らか。
特に、営業の直結する受注に関しては思った以上に芳しくない。
「主な原因として上げられるのは、近年の円高による株安と海外勢に受注が取られていることが大きく関係していると思われる」
と葛谷は説明しているが、営業課の怠慢な仕事姿勢とプレゼンのスキルが不足しているのではと心の中で思う久晴。
だが、本当のことを言えば畠田に何をされるか目に見えているため胸の中に収める。
おそらく、他の従業員も思っているにも違いない。
その証拠に、営業課本陣以外の人達は葛谷を憎んでいるのが何よりも証拠だ。
そんな中、葛谷の口から衝撃の事を集まった人達全員に告げる。
「来期についてだが、会社運営の立て直しを図るべく三月一日からKONOEホールディングの傘下に入ることが決まった」
なんと、会社がKONOEホールディングスの子会社化すると聞いて誰もが騒然。
KONOEホールディング、明治初期に近衛精密として創業し平成に入ってから世界戦略の一環として社名を変更した転職サイトで最高評価の一流ホワイト企業。
創業当初は、他の企業から依頼された部品を製作するのがメインだった。
今では、企業の注文を受けながら蓄積したノウハウを独自に発展し新商品をヒットさせ世界戦略が成功して一流企業に発展し注目を集めている。
「傘下に入る予定は、来年の四月一日。金原社長は、子会社化すると同時に会長兼相談役となり退陣」
と説明する葛谷は何かニヤついたように、
「金原社長は、次期社長に私を指名したことを報告する」
と言った瞬間、集まった人達が不満と絶望が混じったように騒ぎ出す。
間違いなく、金原が一番信頼している葛谷を社長に指名し自分の影響力を保つのが狙いあることは誰が聞いても明らか。
集まった社員達は、不満が噴出するように大会議室は怒号の渦と化す。
この光景に、葛谷は机をバンッと思いっ切り叩き「静粛に!」と怒鳴って黙らせる。
大会議室に響き渡る音に、騒然とする社内の人々は何一つ喋らなくなった。
「尚、皆さんは親会社からテストを必ず受けるように。そして、来年の二月に社内監査の予定があることを伝える! 以上だ!」
と言い残した葛谷は、期待に胸を膨らませ大会議室を後にする。
営業課以外の人々は、葛谷の背中を殺意のあるような目で恨み続ける。
そんな中、不安になった久晴は信頼できる向井に話し掛ける。
「この後、どうなるのだろう……?」
「残念だが、子会社になること以外は全く分からん。もし、先代の黒井さんが生きていれば……」
と向井は言って、肩を落とし思わずため息を吐く。
その姿を見た久晴は、「何処が会社員が安定した生活なのか」と言いたいくらいに落胆。
こうして、自分のデスクに戻ると受信トレイに受領する親会社からのメールを開く。
メールの添付ファイルを開くと、Web上で行える謎の多いテストの数々。
(これって、入社テストみたいな問題ばかりだな……)
と思いながらテストの内容を見る久晴。
当然、後輩である菜摘も気になって久晴に相談してきた。
「何ですか? これって、入社テストみたいですけど?」
「あれ、こっちとは内容が違う……? もしかして、テストはランダム?」
と言って、少し間合いを取って菜摘のパソコン画面を見て困惑する久晴。
久晴の行動に困惑する菜摘は、ぎこちない笑顔で呼び寄せる。
「あの……、近寄ってださい……。私っ、襲ったりしませんよ……」
すると、恐る恐る近寄りパソコンの画面が目視できるまで近寄る久晴。
「もしかして、カンニング防止の対策? とにかく、テストを受けた方が良さそうだ」
と久晴は言って困惑を隠せなかったが、パソコンがない作業員はランダムのテスト用紙で受験していると聞いた事を思い出す。
とりあえず、何の目的か分からないWebで出題されるテストを受ける久晴。
久晴の姿を見た菜摘や同僚も、趣旨を理解しない状態でテストを受けることにした。
そこへ、畠田が久晴達の受験を妨害するように話し掛ける。
「お前ら、そんなゲームをする暇無い! 我が係の重要なことだ!」
まるで、本人の事情なんて無関係のように割り込む無神経な畠田。
理不尽な割り込みに、テスト中の久晴達は困惑をしていた。
そこへ、偶然にも向井が姿を現し暴走気味の畠田から久晴達四人を助けるように制止する。
「畠田さん、彼らはテストを受けている最中だ。少しは、彼らに配慮したらどうですか」
向井に制止された畠田は気難しい表情で、
「むっ、テストなら仕方が無い……。サッサと終わらせろ、奴凧ども!」
と言い残し忙しそうに後にする。
その姿に、向井に感謝する久晴と同僚の三人は中断したテスト受験を再開する。
このテストが、自分達の人生を大きく変える一つの要因であることを誰一人知る由もなかった……。
こうして、Webでのテストが終わったのは受験して一時間後。
終わった頃には、日がすっかり暮れて家路に急ぐ頃合い。
仕事とは勝手が違う頭脳を使い、生気を失ったように疲れ切り今にも帰りたい気分。
中には、机から立ち上がった瞬間にフラフラになる者も。
そこへ、待ち構えたように畠田が元気よく乱入してきた。
「何ボサーッとしている! サッサとこっちに来い!」
と大声で叫び、強引に呼んでくる畠田は元気そのもの。
それに対して、謎のテスト後で疲労困憊の久晴と同僚三人の足取りはフラフラ。
だが、逆らうことは出来ず重い足取りで畠田のいるところまで向かう。
辿り着いた場所は、書庫室と思われるような埃臭く薄暗い空き部屋。
外気を取り入れる窓は一つで、背の高い男性でも手を伸ばしても届かない位置。
冷暖房は完備しておらず外気と同じくらい寒い。
「なっ、何ですか、この空き部屋……? えっ、机が五つも……?」
と言って、机が五台置かれていることに気がつく久晴。
畠田は、久晴と部下に衝撃の事を言い放す。
「いいか、お前らよく聞け! 来年の監査に備え、今からここが営業支援係の仕事場となる!」
と畠田の一言で、驚愕の余り皆「えぇぇぇ!」と大声を思わず上げてしまう。
なんと、大人五人が入るにしては狭すぎる部屋が営業支援係の一室。
「照明はちゃんと機能するし、暖房器具は支給するか心配する必要はない」
と説明する畠田だが、薄暗い部屋に不満が噴出の久晴と同僚三人。
さらに、畠田の衝撃の一言が追い打ちを掛ける。
「言っておくがワシのメインは営業課だ! 仕事はWebでの通話やメールで連絡する」
なんと、畠田は営業課の広いところから仕事の指示を出すと聞いて愕然。
どうやら、社内監査から逃れようとする葛谷と畠田の悪知恵。
例え、監査から逃れたとしても座席を戻す気は全くないだろう。
彼等の脳裏に、絶望という二文字しか思い浮かばない久晴と同僚の三人はガックリと肩を落とす。
「いいか、今日中に引っ越しを終わらせろ! 明日もいっぱい仕事があるぞ!」
と言い残しウキウキ気分で帰宅する畠田。
仕方なく、疲れる体に鞭を打って座席移動する久晴と同僚三人。
話す気力はなく、ため息ばかりで、心は囚人か奴隷であった。
翌日、久晴と同僚三人は営業課に振り回される毎日。
変わったことは、営業支援係の移動先は元書庫室と思われる狭い一室。
倉庫としては十分広いが、机や椅子を置いたら人一人が通れるくらいの動線の狭さ。
その上、上司である畠田の長机が作業スペースをさらに圧迫。
畠田の長机の上には、Webカメラが設置し久晴と同僚三人を監視。
畠田は、疲労困憊の部下のことは全く配慮せず、
「コラーっ、お前ら覇気がないぞーっ! 気合いだ、気合いを出せーっ!」
と畠田が、Web上で謎の根性論を全開し追い打ちを掛ける。
その上、松江は仕事とは無関係な勧誘電話を容赦なく押し付け足を引っ張る。
当然、劣悪な環境と長時間労働で疲弊した久晴や同僚三人は、作業スピードが遅くなりミスが目立つようになった。
勿論、その事を葛谷や畠田に厳しく指摘されやり直し。
この悪循環が続き、募る不満と怒りの矛先を何処へ向けたらいいのかモヤモヤが続く。
(早く……、早く終わって帰りたい……)
と切実に思う久晴だが、葛谷や営業マンの押し付けられるプレゼン資料の作成に加え畠田の催促と怒号で体は疲弊するばかり。
さらには、やっと定時に帰れると思ったら阿久井からの電話で仕事を押し付けられる。
そんな、悪循環から解放される日は何時来るのだろうと絶望する久晴と同僚三人。
こうして、仕事から解放されたのは夜中を回っていた。
辺りは真っ暗で、もうすぐ冬の訪れを告げる寒波が仕事疲れの体に凍みる。
当然、この時間帯では開いている店はコンビニ意外にはほとんど無い。
(寒波や大雪が降れば、泊まり込みは確定かもしれない……)
と思い、ガックリと肩を落として帰宅の途に着く久晴。
帰り道に、いつもの如く神社へ寄り道をし手を合わせ祈る。
(どうか、悪夢のような現場から解放されますように……。このままでは、何時倒れてもおかしくありません……)
翌日、畠田にイジりのネタにされたことは言うまでも無かった……。
こうして、何もかにもが慌ただしい師走を迎える頃。
今年の東北は例年にない大雪で、街並みですら真っ白な銀世界。
こうなると、除雪するまでは何処が家の敷地か何処が道路なのか分からない状態。
久晴はというと、大雪だというのに満足に休ませて貰えず同僚三人と共に激務の毎日。
「おい、タダ働き! このプレゼンの資料を今日中にまとめておけ!」
とWeb越しで畠田が、他のプレゼン資料作成中の久晴に押しつけてきた。
久晴は、長時間労働で曜日の感覚が麻痺している。
他の同僚も、ゾンビのように抵抗する気力が残っていない。
元書庫室の営業支援係は、外と変わらぬ寒さで支給された足下の小さな暖房機で辛うじて寒さを凌いでいるが劣悪な環境は相変わらず。
さらに、最悪なことに今日に限って突然の寒波で外に出歩くことが無理な天候。
車のない久晴は、当然の如く会社に泊まり込みが確定。
(早く、こんな異常から解放されたい……)
と心の中で願う久晴だが、抵抗する術はなく仕事に追われてるしかなかった。
その日の夜、机の上で眠る久晴は不思議な夢を見る。
その夢は、暗闇の中にも拘わらず輝く天使が穏やかな表情で祈りを捧げている。
その横顔は、今まで会ったことのない女性だがぼやけて顔はハッキリしない。
久晴は、天使の横顔に心を奪われたのか思わず近寄ろうとする。
(女性が苦手なのに、緊張することなく何故近寄れる……? 夢だから?)
と心の中で自問自答する久晴。
だが、足は無意識にも天使の所へゆっくりと近寄って行く。
そんな中、体は何故か天使のところとは反対の方へ引っ張られて行く。
「おい、お前こっちに来い! ワイと遊べ!」
と聞こえた方に顔を向けると、悪戯っ子に扮した阿久井が目に入る。
その隣には、同じく悪戯っ子に扮した葛谷と畠田と松江の三人がいる。
「だっ、誰か助けてくれ! 誰かーっ!」
と久晴は必死になって叫んだが、体は阿久井達の所へ強引に引っ張られて行く。
「誰かーっ! 助けてくれ、誰かーっ!」
と何度も何度も叫ぶ久晴だが、体は自分とは違う方へと引っ張られて行く。
「誰かーてっ、あれっ……? 今のって、ゆ……夢っ……?」
と思わず叫び、久晴は激しい運動したような凄い寝汗で目を覚ました。
見渡すと、真っ暗だが狭い営業支援係の一室だと分かる。
夜中三時を回り寒波は収まったが、他は酷い疲れで深い眠りについている。
一応、女子である菜摘は医務室で眠っている。
(また、仕事に追われるのかな……)
と思い、悪夢とも言える残業地獄から逃れるのは不可能だと肩を落とす久晴。
だが、趣味を楽しむ時間もなければ夢の希望もない社会人生活の中で、年末に思いがけない出来事が待ち受けていることを知る由もない久晴であった……。