第七章エピローグ 彼のみぞが知っている
弱々しい呼吸を繰り返しながら眠る少年を男は見下ろす。
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炎に包まれた集落。この少年以外は全て逃げ仰たらしいそこで男は少年を見つけた。
穴という穴から血が溢れ、皮膚が裂け、異常な程に上昇した体温。
彼の状態が異常である事、そして彼を襲うそれが病気の類ではないであろう事は明らかだった。
彼を探す者、案ずる者の気配は一つとしてこの集落一帯にはない。
金色の瞳は男を真っ直ぐと映すが、声を掛けても言葉は返されない。
一応権威ある肩書を背負う身である以上、この状況でか弱い子供を見捨てる事もできない。
彼を業火の中から助け出す事も簡単だった。
男は少年を抱えようと、仕方なく彼に触れる。
不思議そうに瞳が丸められた。
地下牢に閉じ込められていた少年。
その立場から他者からの干渉を受けて来ていない事は察しがつく。
だから初めは自分を助けようとする男を意外に思ったのだと思った。
だが彼を抱き上げて移動する最中、どうやらそれが間違いであったらしい事を男は悟る。
正面に抱かれた彼は男の胸板を両手で弄ったり、男の肩、髪や顔などに自身の頬を擦り寄せる。
それは心を許しただとか、甘えから来るものではない。
少年は自分の記憶の中で、他者に触れた事すらなかったのだ。
彼は初めて触れた人間の感触に違和感を覚え、その感触の正体を確かめようとしていた。
胸糞の悪い話だと男は低く呟いた。
だが同時に胸の奥で僅かな燻りが生まれる。
妙に落ち着かない、浮ついた違和感。
それが不愉快で彼は大きく舌打ちをしたのだった。
男は集落を去る前に手掛かりを探した。
そして見つけた一冊の書物。
男は蟲の詳細と薬の調合方法が記されたそれと少年を自分の棲家まで持ち帰ったのだった。
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棲家のベッドで瞼を伏せる少年。
小さく開かれた口から漏れるのはいつ止まってしまってもおかしくない、微かな呼吸だった。
それを聞きながら男は面倒だと吐き捨てた。
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周期に従い、丁度目覚めた氷龍を男は慎重に屠る。
稀に見せる隙を見逃さず、急所を突く。
このまま氷龍を討伐する事も考えた。
脚に翼に頭……それができるだけの怪我を既に負わせていた。
だがここまでで既に半日が過ぎていた。
時刻は時期に夜がやってくる頃合い。そうなれば一度戦いを止めなければならない。
消耗した体力の事も考えれば早ければ半日で片をつけられるが、長引けはあと数日は掛かる事も充分に考えられた。
棲家から山頂までの移動距離を考えれば、既に少年が命を落としていてもおかしくないだけの時間が経っている。
一刻の猶予もない状況。
またここで下手に戦闘を長引かせれば周囲にも大きな被害が降り掛かる。
そう判断した男は生きている氷龍からなんとか新鮮な血を採取し、一つの小瓶に入れてその場をあとにした。
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正しく調合できたのだろう。
意識のない少年へ書物通りに作った薬を飲ませてから数日が経った頃、出血と発熱が完全に治り、彼は目を覚ました。
言語が全く理解できず、また感情の起伏が皆無に等しい、文字通り空っぽな少年だった。
これでは理由を付けて追い出そうにも男の主張を理解する事すらしてはくれないだろう。
厄介な拾い物をしてしまったと男は独り言ちたのだった。
少年が目を覚ましてから一週間が経った頃。
来客があった。
時刻は真夜中。好ましくない連中であった。
持ち出した書物を返せという主張から、件の集落の関係者である事がわかる。
素直に差し出しはしなかった。
だが玄関で来客らと口論になって暫くした頃、目を覚まし、玄関へ近づこうとしていた少年の気配に気付いた。
あの少年の存在を知られれば更に面倒な事になるだろう。
これ以上大事になるのはごめんだ、と男は心の中で悪態をついた男は短い時間で頭を働かせる。
一度拠点を失った彼らが蟲の研究を再開するまでには相応の時間と金が掛かる。
その間にエンフェスト山脈を挟んだ両国へ彼らの存在を仄めかしておけば最低限睨みを利かせてくれるだろう。
どの道氷龍の一件も混乱を広めるより先に状況を伝えなければならなかったし、そもそもこの蟲の剣に関しては一個人が背負うには重過ぎる問題だったのだ。
……そう、自分に言い聞かせた。
そして男は自分へ殺意をぶつけにかかった相手に剣を抜いたものの、最終的には書物の在処を隠し通す事を諦めた。
男は己が持つ『剣聖』という肩書きを利用し、パーケムとルーディックの関係者へ報告の手紙を送った。
体に異変を感じたのはその後暫くしてからの事だ。
来客と対峙した時、相手が投げた砂のようなもの。恐らくはそれが原因だった。
警戒したが、背後の存在に気を取られたせいで扉の前を空ける事もできずに少しだけ受けてしまったのだ。
その中に例の書物にあった蟲と呼ばれるものが含まれているのだろうと男は踏んだ。
だが異変を確信した時には体調も万全ではなくなり、単身で氷龍と対峙するには健康状態が心許ない。
また、来客の件も頭を過った。
自分が長く小屋を離れている間に彼らや、その同類が小屋を訪れ、少年と鉢合わせてしまうかもしれない。
不在時に家を荒らされるなど溜まったものではないと、男は山頂を登らない言い訳をした。
体調は酷く不安定だが、受けた蟲の数が少なかった事や体内での蟲の生存率が安定していない事が幸いしたのだろう。
早急な死を覚悟するような症状はなかった。
ただ、緩やかに。
一日一日で体調の差を感じないほど本当に緩やかに、けれど着実に彼の体は蝕まれていった。
***
眠るにはあまりに騒々しい雄叫びを聞く。
山頂から聞こえたその声に嫌な予感がしたが、幸いにも男の棲家を雪崩や魔物の群れが襲う事はなかった。
どうせ碌でもない事が起きているのだろうと頭の片隅で思いながら男はベッドの上で寝返りを打つ。
過ったのは見違える程に成長した一人の青年の姿だったが、男はそれをすぐに頭の外へと追い払った。
「どうでも良いさ。あいつがどうなろうが、知ったこっちゃない」
フン、と鼻を鳴らす。
一度だって語られたことのない過去の真相も。
今の彼の心中も。
――その真実は、彼のみぞが知っている。




