第851話
足取りはゆっくりだが、着実に自分達へと近づく多くの気配。
それがインセニクト族ではないであろう事をエリアスは悟っていた。
人数や移動の仕方――統率の取れた動きがインセニクト族から襲撃を受けた時とは大きく異なっていた。
パーケムやルーディックが氷龍の騒ぎに気付き、動きを見せたには少々早すぎる。
国が動くには相応の時間が必要となるものだ。
であれば第三者。
元からエンフェスト山脈付近にいたのであれば氷龍が暴れた際の異変や危険を感じている筈だ。
にもかかわらず山へ侵入した集団は更にエリアス達が身を潜めている洞窟へと真っ直ぐ向かって来ている。
友好的な関係を築ける相手だと楽観視する事はできなかった。
エリアスは洞窟の奥で息を顰める。
イクシスを隠す余裕はなかった。
洞窟の中に人がいる事は悟られるだろう。
(流石にキツイな)
ただでさえ碌に休めていない日々が続いた挙句、龍と戦った後だ。
いくら戦士としての過酷な環境に慣れていようと、彼の体力も限界が来ていた。
体は重く、動悸や頭痛がする。呼吸は意識していなければ浅くなってしまう。
極め付けには目の焦点が合わず、視界は不明瞭であった。
普段通りの体調で、尚且つ一人であったならばまだ勝機もあったかもしれない。
しかしこの体調で、更に意識のない仲間二人を庇った状態ではその可能性も皆無だった。
雪が踏み締められる音がいくつも続く。
それは洞窟を前に一斉に止まる。
エリアスは洞窟の壁に凭れ、身を潜めながら剣を構える。
「そちらへいらっしゃる方々。姿を現してはいただけませんか」
(早々に仕掛けてくる様子はねぇか)
男の凛とした声が届く。
だがエリアスは様子を窺い、洞窟の中に留まった。
「我々は皆様の敵ではございません。ただ、神からの神託を受け、皆様をお救いすべくこちらまで赴いたのです!」
「神とか神託とか……もううんざりだっての」
集落での出来事が過る。
ルネに陶酔していた集落の人々を思い出しながらエリアスは思わず恨み言を連ねる。
(正直アイツら見て来たあとだし、この手の人間に良い印象はねぇ……けど)
エリアスは自分の後ろで横たわる仲間二人を見る。
クリスティーナはいない。残ったのは三人だけで、動けるのは不調の自分だけ。
この状況を作った時点で、そして今相手に敵意がないという事実が生まれた時点で、エリアスの取るべき選択は一つしか残されていない。
(リオは、起きたらキレるかな)
護衛ともあろう者が護衛対象を一人にするなどと激昂するリオを想像し、エリアスは苦く笑う。
想像した通りの未来になった場合には甘んじて受けるしかないと、彼は思った。
しかしそんな彼の決意を危うく揺るがすような言葉が次いで聞こえる。
「――我々は聖国サンクトゥスに属する聖騎士です」
「な……っ!」
エリアスは顔を強張らせる。
聖国サンクトゥス。その国はパーケムやルーディックから更に東へ、何国も跨いだ先にある国であり――旅の初めから、エリアス達が最も警戒していた勢力の一つだった。
「皆様の御身を悪きものどもから救済すべく馳せ参じました。どうか、私共に心をお許しください。神は、貴女様方の無事を何より望んでいらっしゃるはずでございます」
(どうする……!?)
予想外の事態。
クリスティーナをここから遠ざけて正解だったと最悪の事態を免れている事には安堵するも、自分達が見舞われている状況は深刻化する一方である事にエリアスは焦りを募らせた。
だが今さら焦ったところで新たな選択肢が増える訳でもない。
エリアスは再びリオとクロードの姿を視界に留めてからかたく目を閉じた。
深呼吸をする。
そして一度揺らいだ覚悟を再び確固たるものにしてから、彼は目を開け、立ち上がった。
エリアスは剣を鞘に収めると洞窟の外へと踏み出したのだった。
***
木陰に隠れていたクリスティーナは洞窟を取り囲む人々を観察していた。
白を基調とした服や銀の鎧を身につけた人々は洞窟の先に潜む者を待ち構えている。
そしてその三十を超える集団の戦闘に立つ者が明かした身分を聞いた瞬間、クリスティーナは息を鋭く呑んだ。
――聖国サンクトゥス。
クリスティーナ達が魔族と並んで警戒していた勢力。
何故、大陸の東端付近にある国がこんな地域に足を踏み入れたのか。
その理由は明らかであった。
本当ならばエリアスがどう出るのか、そしてその先の展開まで把握しておきたかったが、万が一にでも自分が見つかってしまえば全てが水の泡だ。
(エリアスはきっと、先程話した通りに動くでしょう)
彼が冷静であれば、それ以外の選択が取れない事も悟るはずだ。
そう踏んだクリスティーナは聖国の使者が洞窟の先へ気を取られているうちに、そっとその場を離れ、下山する。
木の陰や茂みを駆使し、身を低めて進むクリスティーナ。
やがて聖騎士らの声が一切聞こえなくなり、周囲に人の姿が見えない事を確認してから、彼女は落としていた重心を持ち上げると一目散に駆け出す。
(今捕まるわけにはいかない。まずは人里まで逃げ切ってから、彼らと合流する方法を考えなければ)
悔しさや不甲斐なさが込み上げる、クリスティーナは唇を強く噛む。
それでも後ろを振り向く事なく必死に突き進んだ彼女がエンフェスト山脈を抜けたのはその三日後の夜だった。




