第844話
幼い頃、ルネは地下に作られた小部屋にずっといた。
それが牢屋である事に気付かなかったのはギーの無知さ、そして彼女と過ごす時間がただただ幸せであったからだ。
彼女が閉じ込められているなどという認識は生まれなかった。
それが自身の罪だとギーは思った。
ルネは泣き虫だった。
自分と過ごしている間は幸せそうにしているが、自分と別れる時や、会いに来た時は決まって泣いていた。
一人が怖いと言っていた。
そこにどれだけの深い意味があったのか、ギーは考えようともしなかった。
ただ、一人ぼっちになるのが寂しいのだろうと思った。
もしくは一緒に読んだ絵本に影響されてお化けの類を信じているのか。
どちらにせよ、深刻には取り入らなかった。
自分をわかりやすく必要としてくれている事が嬉しかったのもあってのだと思う。
ただあまりに毎度泣かれるものだから、世話が焼けると軽口を言いながら、彼女を慰めてやった。
その時、ギーは約束をした。
「約束をしたのはルネじゃない。おれだ」
小さな小指通しを絡め合わせた。
額を擦り合わせて笑い合った。
「お前が怖がるもの全部から、守ってやるって言ったんだ」
だから、鍛錬を続けた。
必死に生きてきた。
全ては幼い自分が交わした約束の為。ルネの笑顔の為に。
だが――それは無駄であった。
(もうあいつはいなかったんだな。ずっと……ずっと前から)
ギーは静かに涙を流す。
幼い頃のあの無邪気な笑顔をもう一度見る事は叶わない。
(ルネはあの狭い部屋で一人で逝ったんだ。それなのにおれはそんな事にも気付かずに、ジジババ達の思い通りに動いて、呑気に生きて)
「ギー、貴方は騙されてる。きっと彼女の呪いに洗脳されて――」
「おれさ、にーちゃんなんだよ」
言葉を遮られた眷属はすぐに言葉を切り返せない。
彼女はギーに魔法をかける際――彼の家族となる際、自身をギーの双子の姉としてルネの記憶を上書きした。
だが真実を悟ったギーは正しい記憶を見分ける事ができるようになっていた。
どこからその話を知ったのかは定かではない。
恐らくは大人の中の誰かがうっかり話したのだろう。
それをギーは得意げにルネに話したし、ルネもその関係を受け入れていた。
ギーはルネを妹として扱い、面倒を見ていた。ルネは親しみを込めてギーの事を『おにいちゃん』と呼んでいた。
今のルネとはあまりにかけ離れた関係性。
だがそれこそが、それだけが真実だ。
「っ、皆んな、ギーを取り押さえて。彼を落ち着かせて正気に戻さないといけない。その為にはクリス様達を――」
動揺から顔を歪ませる眷属。
彼女は周囲の人々へ指示を出した。
それを拒絶する者はいない。この中で異常で恐れられるべき存在はギーの方であると彼らは認識しているのだ。
すぐさま大人達がギーを取り囲む。
その時だった。
「……え」
ぽたりと、地面に赤が降る。
それは眷属である少女の鼻から滴る血液だった。
自身の体の異変に眷属が気付いたのも束の間。
彼女の目から、耳から、口から……次々と血が溢れ出す。
「ルネ様ァ……ッ!!」
悲鳴が上がる。
人々は一斉に地面に膝をついた彼女を取り囲み、その容態を確認する。
それを一歩離れたところからギーは静かに眺めていた。
「ッ、ギー……ッ! あなた、まさか……っ!!」
「おれは確かにお前みたいに頭はよくねぇよ。けど……お前の不意をつくくらいの意志の強さはあったみたいだな」
ギーは矢筒に忍ばせていた包み紙をルネへ見せつける。
特殊な加工を施されたそれに隠されているのはこの地で生み出された、生命を害する蟲。
人を殺せる手段であり――クリスティーナ達に使うようギーに預けられていたものだった。
「おれが裏切るはずないって信じてくれてたのか? ……いや舐めてたんだろーな。お前の魔法に対抗できるはずがないって」
眷属の体内へ蟲を埋め込んだのは先の矢の攻撃。
それは彼女の頬を掠める程度であったが、一匹でも寄生すれば増殖は止められない。
唯一止める手段があるとすれば――それこそ、クリスティーナ達が求めた龍の血だった。
「ギー、う、うそよね? あなたは優しい子でしょう?」
蟲の脅威を眷属はよく知っている。
だからこそ、この状況がまずいという事も理解していた。
眷属の――それも、魔族の中でも特別視される程度の恩恵を受けている存在ならば、その回復速度は人と比べ物にならない。
だが、その回復力が蟲の侵食速度に勝てる保証はない。その場合不死身ではない眷属は死に至る。
そして仮に回復速度が侵食速度に勝り、生存できたとしても、蟲から与えられる苦痛を抱えたまま悠久の時を過ごすというのは何にも耐え難い拷問……耐え切れるはずがなかった。
「もしお前が本当にルネなんだったら……あいつらを見逃してくれたなら、おれは今からだってクリス達を追って頭を下げに行ったかもな」
つまり、今の自分には彼女を救う術――薬がないという告白。
ギーは両手を軽く上げ、助けようがない事を示した。
時間が経つにつれ、眷属の体から噴き出る血の量は凄まじくなり、彼女は苦痛と怒りから叫び声を絞り出した。




