第799話
長い溜息が吐き出される。
クロードは緩やかに笑顔を取り繕った。
「確かに地下牢にいた時は時々蟲をひっくり返されたりしたし、全く効果がなかったわけじゃないよ。けど、事実として僕には後遺症も残ってない」
「そりゃ見ればわかる。おれが言いてぇのは……後遺症がないってのは、寄生する蟲を正しく対処したって事じゃねーのかよ」
ギーの指摘にクロードはハッと息を呑む。
「そんな、事……」
否定する声は途中で途切れた。
彼は口を片手で覆い、顔を歪める。
「僕が健康だったのは、蟲が完成していなかったからだと……。寄生する力がまだ弱かったんだと思っていたけど」
「二十年? 三十年? 前の話だろ、確かにその可能性もあるだろうけどよ……思い当たる事もあるんじゃねーのかよ」
「…………わからないよ。だってあの時の僕には何かを知る力も悟る力も殆どなかったんだから」
『わからない』。
その回答はないとも言い切れないという返答と同義だ。
「ふーん」
ギーは頭の後ろで手を組み、壁に凭れ掛かる。
「ま、実際どーかなんてわかんねぇけどよ、おれらが動き回るよりもお前が何か思い出す方が早かったりしねーかって思っただけだ」
「……考えてはおくよ。君の指摘も尤もだと思ったからね」
どうしてそんな事も思いつかなかったのか。
ギーの指摘に対してクロードが抱いた感情はそんなものだった。
一つは集落との因縁が絶たれた時、蟲による心身の消耗を自身で対処出来る程余裕がなかったから。
しかし自分がろくに動けずとも何かしらの対処が施される可能性はあった。
『誰か』の手によって的確に蟲の侵食を無効化されていたのだとすれば――。
そこまで考えが至ったクロードの脳裏に過ったのは炎に覆われた集落の中、血に塗れた自分を抱き上げる一人の姿だった。
もしかしたら、という推測が過った時。
何故が訝しむような視線を自身へ向けるギーに気付いた。
「まだ何かあるの?」
「いや……なんつーか、ババア達から聞いてたよりもだいぶ大人しいっつーか」
「普通っぽいって? それとも集落を燃やすような人間には見えないって言いたいのかな」
ギーが言葉を呑む。
図星だったのだろう。
「いいよ。どうせそんな事だろうと思った」
二人きりで話している以上、好意がない相手であっても機嫌を損ねそうな話題というものは抵抗感が現れるものだろう。
ギーからすれば当然の知識であるクロードの罪。
敢えて避けていた言葉をあっさりと口にしたクロードを前にバツが悪そうに視線を逸らすギー。彼を観てクロードは大きく肩を竦めた。
「僕は何もしてないよ。本当に。……君は信じないだろうけどね」
ギーは何も言わない。
だがその瞳には疑いの色しかない。
同族との確執。変わらない自分の立場。
「……何もしていない。これからだってする気はなかった。会う気すらなかったんだからさ」
クロードは深く息を吐いた。
「…………最後くらい、好きにさせてよ」
重く深い響きの声。
揺らぐ金色の瞳がギーの背後、窓の外へ向けられていた。
「なんてね」
最後の意味をギーが問うよりも先、クロードは明るい笑みを浮かべて話を切り上げた。
「そろそろ寝たら? 僕と話してたって気まずくなるだけでしょ」
「お、おう」
「そこは形だけでも否定しておくのが世渡りってものだよ」
ギーはクロードに背を向けて横になる。
だが暫くは眠れなさそうだと悟る。
閉じた瞼の裏で、ギーは考えを巡らせる。
ゾエ達が話す忌み子の存在、その罪について。襲撃を受けたクロードが見せた冷徹な一面。
そして仲間を思って感情を見せる人らしい一面。
どれも彼の中には全く異なる印象として刻まれる。
だからこそ戸惑う。
彼の本質はどれなのだと。
(ま、わかったところでって話だよな。過去は変わんねぇし……難しい事考えるのはルネの仕事だし、おれは死なねぇ事だけ考えよ)
頭を埋め尽くす悩みを開き直って投げ捨てる。
そうすればすぐに睡魔がやって来て、ギーはすぐさま眠りについたのだった。
***
「いってらっしゃい」
翌日。朝食を済ませた一行は廊下に出る。
ギーは相変わらず両手を縄で繋がれ、エリアスがそれを握っている。
クロードは隣の部屋――リオが休んでいる部屋の前で立ち止まるとクリスティーナ達を見送る姿勢を見せた。
「リオもだけど、お前も休んどけよ。ほんとに」
「そうするよ。無茶するなってリオにも怒られたばっかだし。いい報せ、待ってるからね」
「ええ」
クリスティーナ達の背を見送ってからクロードは部屋の中へ足を踏み入れる。
一歩部屋へ入れば鼻をつくのは血のにおいだった。
ベッドのシーツには赤黒いシミが広がり、ビリビリに破かれている。
そしてリオはその上で引っ掴んだ枕に顔を埋め、うつ伏せになっていた。
暴れた拍子に散ったのだろう血液は床や壁に付着していた。
「ッ、リオ」
枕に顔を押し付け、溢れる呻き声や悲鳴を押し殺す彼の傍へクロードは駆け寄る。
赤く染まる服の隙間から晒される肌。そこからはいくつもの血管が破られて血が噴き出していた。
(たった一晩で、こんな……)
咽せ返るほどに血のにおいは充満しており、それが彼の受けた苦痛の大きさを証明しているようであった。
「リオ、大丈夫だよ。クリス達は部屋を出たから」
隣の部屋にいるはずの仲間達が自分を気に掛けないようにとできるだけ物音を立てないようにしていたのだろう。
片手でシーツを引っ掻き、もう片方の手で枕を必死に掴む彼の手をクロードは優しく撫で、ゆっくりと解いてやる。
(早く、どうにかしないと)
例え傷がすぐに治るのだとしても、痛みが無いわけではない。
感情の機微が小さい彼であっても精神が無いわけではない。
こんな苦痛が続けば、体が生きていようとも、いつ心が壊れてしまうかわからないとクロードは思った。
仰向けに寝かされ、苦しげに喘ぐ仲間の声を聞きながら彼は顔を曇らせるのだった。




