第七章プロローグ 空っぽな忌み子
窓一つない独房が擦れる音がする。
鉄格子で区切られた部屋の隅、冷たくかたい床に寝転がった少年はピクリとも動かないまま虚な瞳で柑子の先にある通路を見つめ続けていた。
何の望みもない。
不満もない。
何かを思う為に必要な判断の基準と知識も、その少年は何も持っていなかった。
彼が生かされていたのは同族の中に殺しを恐れるという数少ない常識がまだ生きていたからだった。
寒さから小さく震えれば足首の枷についた鎖がまた鳴く。
やがて何人かの大人たちが箱を持って姿を見せる。
彼らは少年の姿を見て嫌悪した。
汚物を見るような目でそれを見下ろし、鉄格子越しに箱の中をぶち撒ける。
中には何十という数の細かな虫がいた。
羽はない。
それらは無数の細かい足を使って少年へ向かった。
自身に迫った悍ましい光景が少年の金の瞳に映ろうとも、彼は動かない。
ただ体を襲う痛みに耐えるように静かに目を閉じた。
意志も感情と持たない。
空っぽ。
何もない。
それが『忌み子』として地下牢に閉じ込められた少年だった。
***
クロードはゆっくりと目を開ける。
頭の下には布を何枚も重ねられ、体は毛布でぐるぐる巻きにされている。
視線を動かせば周囲が低い天井と壁で覆われ、唯一先が続く通路の外には真っ暗な闇が広がっている。
そこでクロードは夕刻前にこの場を見つけた自分達が一夜をここで過ごそうと決めた事を思い出した。
「……うーん、特別待遇」
移動中に吐血したせいで余程心配を掛けたらしく、洞窟で夜を越す支度を整えるや否やクロードは休息を取るように懇願されてしまったのだ。
主にエリアスの罪悪感が強そうであった事もあり、クロードはそれを受け入れた。
疲労が溜まっていたのは事実であったし、仲間の気遣いもありがたいと思ったのだ。
夕方頃に眠ったはずだが今は外の様子を見るに真夜中。思いの外長い時間眠っていたらしい。
クロードの呟きでリオとエリアスが彼に近づく。
「目が覚めましたか」
「大丈夫か? もう少し休んでろよ」
「ありがとう。けど本当に問題ないよ。内臓が脆くなって衝撃に弱くなってるだけ」
「大丈夫じゃねーだろそれ。てか今後は前線に立つのもやめた方が」
「衝撃さえ受けなければ問題ないよ。とはいえ二人もいるからね。有事以外はお言葉に甘えようかな」
体を起こしたクロードは傍で横になっているクリスティーナの姿に気付く。
彼女はすやすやと安らかな寝息を立てていた。
クロードは自分を包んでいた毛布を彼女の毛布の上に被せてやる。
「衝撃さえ受けなければ、ってお前なぁ」
「しかし事実、何度か魔物の相手をしているところを見たところ、クロード様は攻撃をいなす事が得意そうですよね」
「そうだね。こんな体だからいつ無茶ができなくなるかも知れなかったし、できるだけ体の負担を掛けない戦い方を模索していたんだ。守る剣ならエリアスより得意かもしれないよ」
「守る剣、か」
クロードの戦闘スタイルは前の敵の殲滅を前提に動くリオやエリアスとは異なり、相手の動きに合わせて動く事や、相手が隙を見せる事を前提にしたスタイルだ。
それ故に立ち位置を移動せずとも立ち回る事が得意で、護衛であれば護衛対象の正面からほぼ動く事なく戦う事ができる。
「なあクロード」
「うん?」
その時ふとエリアスがクロードを呼ぶ。
「もしかして機嫌悪いか?」
その問いにクロードは首を傾ける。
エリアスは真剣そのもの、というかどこか不安げにクロードの顔を見つめている。
「やっぱオレが無茶な運び方しちまったからさ」
「いや、そんな事ないよ、全然。どうして?」
「あ、なら勘違いか。いや、なんか表情がかたい気がしたからさ。珍しくて」
「そうですか?」
「お前は変なとこで他人に無頓着だから信用してねぇ」
「デリカシーの欠片もないような方に言われましても」
日常的な軽口の応酬を始めるリオとエリアス。
それに耳を傾けながらも彼の脳裏を過ぎるのは先程見た夢の事だ。
「……蟲の話もしないとね」
「んぁ?」
「いや、話すって言ってたでしょ」
モーリスとエマの城で少しだけ触れた話題。
突然変わった話題に不思議そうな顔をする仲間達へクロードは補足を入れた。
「明日、クリスが起きたら話すよ。考えたくはないけど……もしかしたらインセニクト族や魔族に遭遇してしまうかもしれないから」
「お、おお」
「わかりました」
「見張りは交代する?」
「寝ろ」
「俺達がクリス様に怒られます」
リオが予備の毛布を皮袋から出してクロードへ押し付ける。
それを受け取るとクロードはくすぐったそうにはにかんで再び横になった。
しかしなかなか眠りに付くことはできない。
(あの頃なら何でも耐えられた。けど、今は……正直どうなるか想像とつかないなぁ)
あんな場所に戻るのはごめんだとクロードは心の中で呟くのだった。
山を下る一行が踏み入れた地はパーケムの隣国『ルーディック』。
しかし残り半分の道のりだと息を吐いた彼女達が実際に山を離れる事となるのはまだ先の事であった。




