第765話
翌日。必要最低限の持ち物を纏めたモーリスは自室で場内の構造を思い出していた。
城内で最も書物に触れていた彼は昔に記された城の地図を何度も見ていた。
余所者の侵入によって齎される危険ななど、非常時に備えた隠し通路がこの城にはいくつも存在していた。だが現在までその通路の存在は言い伝えられる事がなく、殆どのものがその通路の存在を知らない。
また隠し通路の中には周辺に城の関係者の行き来が少ない出入り口や地下へ繋がる通路も存在した。
だからこそ多くの人間が住まう城の中でも脱出計画は成り立つと考えている。
夜の逃避行の計画を緻密に振り返り、腹を括る。
そして周りに不審がられないよう、日頃の業務へと向かうのだった。
午前の会議を終え、モーリスは図書館へと向かう。
昼食をとる際のいつもの習慣であり、また外へ出た後、人と馴染む為の常識を少しでも身につけておこうという考えもあった。
しかし彼が本を数冊見繕い、それをテーブルに置いた時。
廊下が騒がしい事にモーリスは気が付く。
何となく嫌な予感がしたのは、今晩の計画というやましさがあるからだろう。
だがどうにも思い込みには思えない。自分が絡んでいるような気がして仕方がなかった。
胸騒ぎを抱えながら静かに図書館の扉を開ける。
「――だから言ったんだ! こうなる前に始末するべきだったと!」
「しかし明確な証拠もなく罪を突きつければ民は恐怖を覚える。あれが忌むべき存在だったとしてもだ……それはお前達だって納得した話だった!」
「だが結果はこれだ! お前達の判断のせいで――死者が出た!」
――死者が出た。
扉を開けた先で聞こえた声が頭の奥底に響き、モーリスは立ち尽くす。
全身の血の気が引いていく気がした。
「今すぐにも奴を隔離するべきだ! そしてこれ以上呪い殺される前に手を打たなければならない」
「でなければ次は我々かもしれない!」
「それは……っ」
「――わかった。そうしよう」
「な、だが……っ!」
「証拠など、多勢の手によればいくらでも生み出せる。皆信じるはずだ。それよりも、呪いによる死者を減らす方が優先すべきだろう」
何人もの人々の会話が誰についてのものであるかはすぐにわかった。
そして彼女に迫る危機の存在を同時に知る。
このまま夜まで待つ事はできないとモーリスの頭が警鐘を鳴らした。
(いかないと、エマのところへ――)
「……っ!」
声を荒げる人々の死角から廊下へ飛び出そうてしたモーリスはしかし、一歩前へ踏み出したところで後ろから腕を掴まれる。
驚いて振り返れば、動揺を滲ませるルフィーノの姿があった。
「私が行きます」
「ルフィーノ様……っ」
「エマ様の元へ向かわれるのでしょう? 現状の理解は私も追いついていませんが、仮にエマ様に殺人の嫌疑が掛けられているのだとすれば……それが既に城内に広まっているのだとすれば、モーリス様がエマ様と接触する事は望ましくないはずです。下手をすればお二人が同時に疑われてしまう」
「しかし」
「……外へ行かれるのでしょう?」
モーリスにだけ聞こえる声でルフィーノが囁く。
何故それを知っているのかと息を呑めば、モーリスの考えを汲み取ったようにルフィーノが微笑む。
「エマ様から伺いました。一緒にいかないかと私も誘ってくださったのです」
エマはルフィーノを友として信頼している。
だからこそモーリスも彼の言葉は真実だろうと信じる事ができた。
「私がエマ様から状況を伺って来ます。万一彼女に危険が迫っているのであれば必ず連れ出します。幸い私は他の方から警戒されにくい立場にあるます……ですから、信じて待っていていただけませんか」
死者が出た今、人々は恐怖と疑念から普段以上に気を張り詰めている。
そんな中、エマと接点の多いモーリスが不審な動きをしようものならば彼らを刺激してしまう事は間違いなかった。
「……わかりました。では、図書館の最奥の本棚前でお待ちしています」
モーリスが指定した場所は脱出の為に使おうと考えていた通路が隠された場所だ。
ルフィーノがエマを連れ出してくれればそのまま逃げ出す事ができるような場所をモーリスは合流場所として選んだ。
「わかりました」
「ルフィーノ様」
ルフィーノはモーリスと入れ替わるように廊下へと出る。
そんな彼の名をモーリスは呼ぶ。
そして不思議そうに振り返った彼へモーリスは深く頭を下げた。
「エマ様の事をどうか……よろしくお願いいたします」
「……勿論です」
ルフィーノは微笑み返し、頷く。
その様子を確認してからモーリスは他の者達へ見つかる前に図書館の中へと戻る。
閉まっていく扉の先では未だ議論を繰り広げる人々がいた。
「それに、『善良な魂は必ず報われ、悪き魂には必ず鉄槌が下される』。――あの方がこのような結果を招いた事もまた……あの方の魂が悪きものであったからだと言えるだろう」
これからの事に考えを巡らせていたモーリスは、彼らの口から聞き覚えのある言葉が溢れた事に気が付かなかったのだった。




