第763話
奇妙な出来事が起き始めたのはそれから数日が経った頃だった。
仕事に勤しむモーリスは時折城の関係者らが交わす噂を耳にするようになる。
エマ様は呪われた方であるだとか、寧ろ彼女こそが国中に呪いを掛けている存在だとか、そんな根も葉もない噂。
だがこれまでどれだけ悪意ある噂を流されても気にも留めない振る舞いを見せていたエマが今回ばかりは調子を崩して動揺を見せ、普段は見ることのない不自然な言動がモーリスの印象にも強く残り出していた。
だが妙な事はそれだけではない。
確かにエマの周りで不可解な事件が起こり始めていたのだ。
エマの傍で控えていた者が階段を落ちて大怪我をしたり、エマが庭を歩いていた時、彼女に強く当たっていた従者が頭上から落ちた植木鉢に肩をぶつけ、肩の骨が砕けたりした。
そんな、彼女が傍にいる時に降り掛かる不運が五つを超えた時、人々がエマに向ける目が変わった。
いつしか城の者達はエマと関わる事を恐れ、彼女はこれまで以上に孤立する事になる。
だがそれでも事故は減らない。
人々の不安は膨らむ一方で、城の中の空気は常に重苦しいものへと変わった。
(エマは今日も来ないのか)
事故が明らかに増えてからというもの、エマは図書館へ顔を出さなくなった。
その他の城内で顔を合わせる事はあったが、周囲の人々の視線を気にすれば自ら声を掛けることもできなかった。
図書館で本をいくつか見繕い、モーリスがテーブルへ使ったその時の事だ。
「し、しかし……っ」
「ルフィーノ様がお優しい事も理解していますが、しかしここまで立て続けに事故が起きているという事実は変わりません」
「ご本人の見解も伺っていないではありませんか」
「罪人が自身の罪を指摘され、それを認めるとでも?」
「……っ、まず、証拠がありません」
「そうですね。ですから、まだ大っぴらに動く事はできません。しかし、ほんの些細な物でもあの方の行いを決定付けるものが見つかれば、その時は……」
二人の声がモーリスの耳へ届く。
一つはルフィーノ、もう一つはモーリスとも面識のある城の使用人の一人だった。
傍の本棚に身を隠し、モーリスは二人の会話に耳を傾ける。
二人がいくつか言葉を交わしたところで、使用人の方がルフィーノから離れようとする。
「貴方がお優しい方である事は重々理解しております。……悪き存在から利用されてしまってもおかしくはない程に貴方は慈悲深い。ですから、どうか……くれぐれもお気を付けくださいね」
ルフィーノは何も答えない。
使用人は一言断りを入れてから図書館を後にした。
図書館から出た彼が扉を閉めた音を聞いてからルフィーノは思い悩むように大きな溜息を吐いた。
そして彼自身も外へ出ようと一歩足を踏み出した時。彼はふと顔を上げ、モーリスがいる方を向く。
「どなたかいらっしゃるのですか」
自分の存在に気付かれたのだと理解したモーリスは素直に本棚の影から抜け出し、ルフィーノの前へと立つ。
「ルフィーノ様」
「……っ! モーリスさん……っ」
「一体何のお話を?」
何度も交流を続ける内、自分とエマの関係についてはルフィーノも薄々気が付いているだろうとモーリスは踏んでいた。
しかしそれを言葉にして明かした事はない。
その為にモーリスは嫌な予感から滲み出しそうになる動揺を何とか胸の内に押し込みながら普段通りの声音を心掛けた。
「その……」
何と話すべきか悩んだのだろう。
ルフィーノは困ったような顔と共に暫し言い淀んだがすぐに何かを決意したように真剣な面持ちでモーリスへ顔を向けた。
「ここ最近、城内でお伺いする不穏なお話と……エマ様についてお話を伺っていました」
「エマ様が城の者を害しているというお話ですね」
「は、はい。……しかし私はどうしても納得がいかないのです。あのように素直でお優しい方が人々を傷付けるような行いをするはずがないと」
ルフィーノは顔を歪める。
エマの事を思い、彼女を信じる姿を見せる彼の様子にモーリスは少なからず安堵をした。
自分と同じ意見を持つ者がいるという事は大勢の主張に孤独で反発するよりもずっと心が救われるものであった。
「機会を窺い、エマ様とお話をしてみます。他にも、お城の方々の誤解を解けるよう動いてみようと思うのです。皆様、私にはよくしてくださっていますし、もしかしたら少しは考えを改めていただけるきっかけを作れるかもしれません」
「そうですか」
「モーリス様も、勿論エマ様を信じていらっしゃいますよね?」
彼の問いを聞いた途端、モーリスは言葉を詰まらせる。
緊迫した状況下に置かれても尚、モーリスはエマの肩を持って矢面に立つ決断ができなかった。
それは自分が数え切れない数の人々の敵に回る覚悟が出来ていなかったからであり、また自分が城の関係者らと敵対する事で自分やエマが更に生き辛くなる事を恐れたからでもあった。
そんな不安を抱えていたからこそ、モーリスはルフィーノへも自身の想いを明かす事を渋っていた。
「勿論、他の人が話す事は何の信憑性もありません。まだ何の証拠も出てはいないのですから」
そして――モーリスは結局己の気持ちを誤魔化すことしかできなかったのだった。




