第761話
ルフィーノは見識が広かった。
閉鎖された国の書籍から得られる知識には限りがあり、国の中では優れた知識量を誇るモーリスがルフィーノから聞いた事もないような話を教わるような事も多くあった。
「モーリスさん」
エマを待ちながら図書館で勉学に励んでいたところ、傍から声がした。
顔を上げれば栗色の髪の青年が目を閉じたまま微笑んでいる。
「ルフィーノ様」
「ああ、よかった。あっていましたか」
目が見えない代わりに人の僅かな気配の差異から個人を判別しているというルフィーノはその感覚に優れてはいるものの、それでも時折人を間違える事があるとモーリスは以前聞いた事がある。
「こんにちは。エマ様はまだのようですね」
「そうですね」
「私も同席してもよろしいでしょうか」
「今更でしょう」
「それもそうですね。失礼致します」
やや上擦った、媚を売るような声でルフィーノが問う。
それは彼が戯ける時の合図だった。
モーリスは肩を竦めながら自分の隣の椅子を引いてやった。
ルフィーノは穏やかで落ち着いた物腰の青年だが、時折冗談や軽口を言う。
彼の日頃の振る舞いや人柄からあまり冗談が通じるようには思えない為、モーリスは初めの方は意外に思った。
だが何度も話をすれば彼が存外他者と関わる際に会話という行為に有益さを求めない、ただ他者と話し、相手の反応を感じる事が好きな青年らしいとモーリスは悟り始めていた。
椅子が引かれたのに気付き、礼を一つ述べてからルフィーノは椅子に座った。
「本日もお勉強ですか? モーリスさんは本当に真面目なお方ですね」
「他にする事もありませんから。ご存知の通り、この国は嗜好品も少ない上にあまりに高額です」
「確かに、新たな知識を探求する事も娯楽にはなり得るかもしれませんね。本も根が張りそうではありますが、お城にいればお金をかけずに沢山読む事もできますし。……生憎と私には読書を試す事すらできませんが」
「……そういえば、ルフィーノ様は博識ですが目が見えませんよね。どのように勉強されたのですか」
「勿論耳ですよ。目が見えないからこそ私は耳から情報を得るしかありません。ですから自然と他の方々とお話しする事に慣れたのでしょう」
周囲と打ち解ける事が得意な背景を聞いてモーリスは合点がいく。
ふとそこで、モーリスは一つの疑問を抱く。
否――かつて抱いていた疑問を思い出したのだ。
「そういえば、ルフィーノ様はどのようにここへ迷い込んだのですか? 目が見えない中、お一人で見知らぬ地を歩く事はあまりに困難なのでは?」
足を踏み入れた事のない地を一人で、視覚も機能しない中歩くと言うのはあまりに無謀だ。
それに国の外は雪山に囲まれているのだと外へ出た経験のある者から聞いた事もあった。
他者よりも遭難の可能性が跳ね上がりそうな盲目の青年が何故一人でいたのか、また何故無事にここまで辿り着いたのか。
その疑問を受けたルフィーノはモーリスの考えも尤もだと頷いた。
「私は国の教えを信仰している立場でして」
「所謂宗教というものですか?」
「そうですね。あまりその言葉に馴染みがないようですが、この国もまた宗教によって築かれた国だと私は考えていますよ……すみません、少し話が逸れましたね」
生まれた時から強い思想の傍で生きる者達は己の内にある信仰心をただの常識と錯覚する事もままある。
閉鎖されたこの国には、そしてこの国に住むモーリスにはまた、その節があると言う事がルフィーノが言葉を通じて伝えた事であったが、この時のモーリスはあまり彼の言葉の真意を理解していなかった。
不思議そうに首を傾けていると、返事がない事から上手く伝わらなかったのだろうと悟ったルフィーノがゆっくり首を横に振り、気にしなくていいと口添えした。
「私は所謂僧侶と呼ばれる立場の人間です。私のような者はこの世を司る神を慕い、想い、その信仰心をお伝えする事を使命とします。その為に幾つかの試練を定期的に行わなければならないのです」
「修行ですか?」
「その通りです。この国に存在しない外の知識も理解していらっしゃるとは、やはりモーリス様の勉学へ向かう姿勢は尊敬すべきものですね」
「……すみません、何かを信仰している人に会ったのは初めてなので、不快な思いにさせるかもしれないのですが」
「何か私に聞きたい事でも? 構いませんよ」
モーリスは言葉を悩み、少しだけ黙る。
しかし好奇心には勝てず、自らが違和感を覚えた事を彼へ問う事にした。
「神様というのは空……人の住まう世とは違う場所にいるという考えが多いと認識しているのですが、ルフィーノ様が命懸けで行った修行の成果や姿勢はどのようにして神様へお伝えするんですか? 神様が人より少ない数しかいらっしゃらないのであれば全人類を見守り続ける事もできないですよね」
「……モーリスさんって、夢がないって言われませんか? よくて現実主義者とか」
「エマ様から散々」
「やはりそうでしたか」
文脈を組み、やはり気を悪くさせたかとモーリスはルフィーノの顔色を窺ったが、存外彼は嫌な顔を見せなかった。
代わりに困ったように眉を下げながらくすくすと愉快そうに笑みを溢す。
予想外の反応にモーリスが驚いていると、ルフィーノは彼が抱いた疑問に答える為に口を開いたのだった。




