第758話
てっきり城の外でやりたい事の一つや二つ思い描いているものだとモーリスは思ったのだが、エマがポカンと口を開いたのを見てどうやらそうではなかったらしい事を悟る。
「……漠然に城から出たいって思ってただけって事?」
「い、いや、ほら、だから……あれよ、逃避行! そう、逃避行がしたいの」
「逃げた先に何もない逃避行なんて全く心動かされないけどね。その本もそうだったの?」
「そ、それは……違う、けど」
エマは難しい顔になりながら本の内容を思い返す。
初めは言い淀んだ彼女だったが、やがて本の内容に対するモーリスの問いに自分なりの結論を見つけたのだろう。
彼女は一つ頷くと改めて呟いた。
「うん、違う。だってあの本は――」
そこまで話した彼女はハッと我に帰ると突然モーリスを睨め付けたり顔を顰めたり、唸り出したりところころ表情を変える。
その奇妙な様子に一体何なのだとモーリスが問おうとしたが、エマが不服そうに彼から顔を背ける方が先であった。
「モーリスには教えてあげない!」
「まあ、別にどっちでもいいけど。読まないし」
「本の話だけじゃなくても教えてあげない」
「外に行きたい理由? まあ、言いたくないならいいけど」
ただの世間話の延長だし、と溢すモーリス。
可愛げも面白みもない反応にまた口を尖らせたエマであったが彼女はそこでふと何かを思い付いたようであった。
「一番の理由は教えてあげないけど、もう一つの方ならいいよ」
「どうぞ」
「聞きたい?」
「どっちでも……いや、聞きたいです」
頷く事を求められている事に気付きながらもモーリスは適当に遇らう。
しかしその途中でエマの圧を感じ、更に既に一度エマを傷付けたという後ろめたさもあり、モーリスはすぐに言い直す。
エマは満足そうに口角を上げると咳払いを一つする。
そして穏やかに微笑んで遠くを見る。
「お花を見てみたいわ」
「花? 図鑑ならここにも数冊くらいあるでしょ」
「もう! モーリスって本当にロマンがわからないのね! 実際に見るのと紙からしか得られない情報が同じわけないでしょ!?」
「そういうものかな。見た事がないからそんなに必要に感じた事もないけど」
「見た事がないから夢があるんでしょう? ……勿論、それも充分素敵だけど。でもきっと実物にはもっと隠された魅力があると思うの」
モーリスは手を広げて自身の掌に氷の造花を生成する。
形を細やかに再現したそれは装飾として目を奪う美しさがあった。
「お気に召さなかったみたいで」
「あ、待って待って、消さないで」
それなりの自信作ではあったが、本物の魅力には劣ると聞かされたモーリスは作り出した花を消そうとする。
しかし彼が動くよりも先にエマは彼の手から氷の花を奪い取った。
「拗ねないでよ」
「拗ねてたのはエマの方でしょ」
ひんやりと冷たい花を丁寧に撫でて笑うエマの様子を眺めながらモーリスは密かに笑みを浮かべる。
生花への憧れは皆無だが、それを見た彼女が今以上の笑顔を見せてくれる事を想像すれば、確かに本物の花を見せる価値はあるように思えた。
「行ってみる?」
「え?」
「外」
「…………えっ」
エマの手から造花が滑り落ちる。
それを慌てて受け止め直してからエマは再びモーリスを見た。
「逃げるのは難しい。きっと一日も経てば追っ手が来るだろうし、僕はそんなに強い魔法を使えない。エマも人を傷付けるのは嫌だろうし」
「むー」
「今は、って話だよ。何か方法を見つけたらその時に動けばいい。城の転移結晶も上手く活用できるだろうし。……けど、逃亡じゃないならもっと実行しやすくなると思う。人目を盗んで外を一目見てからバレる前に戻って来るんだよ」
「できるの?」
「そのくらいならきっとね。僕がどうしてここにいるのか忘れたの?」
モーリスは城の人々の一日の習慣や動向、そして城の構造を細かく把握していた。
エマを喜ばせる為、一時の間自分や彼女の居場所を誤魔化す程度であれば自分の集めた情報から可能にする事ができるとも踏んでいた。
「えっ、いいの? 本当に?」
「いいよ。僕も見た事ない景色にはそれなりに興味があるから」
外の世界を見た事がないのはモーリスも同じであった。
エマは前のめりになって話しながらはしゃぎ、その様子に呆れながらもモーリスは彼女の話に耳を傾ける。
時期はいつにするか。
外までの行き方はどうするのか。
外に出たらどこを目指すべきか。
少しずつ計画を詰めていくエマは未だかつてない程活気に満ちていた。
エマの機嫌はすっかり好転し、先程のモーリスの失言についても気にしてはいないようだ。
それを確信したモーリスは取り繕った表情の下、静かに安堵したのだった。
しかしこの約束が果たされるよりも先、国の情勢は大きく傾く事となる。
外から現れた一人の余所者。
髪の色も瞳の色も勿論モーリス達とは異なる。
だが排他的思想を持つ民らが挙って嫌悪する存在であるはずの彼は城に滞在する内、周囲の人々を次々と懐柔していった。
中にはただ親しみを持つだけではなく、彼は信仰心を向けるように陶酔する人々もいた。
そんな異質な彼の存在はやがてモーリスの人生を大きく狂わせる鍵となったのだった。




