第746話
ぼんやりとした意識のまま、クリスティーナは花畑の中に横たわる。
どこからともなくそよぐ風を肌に感じ、ゆらゆら揺れる花をただ眺める。
クリスティーナは地面にしては高さのある何かに頭を預けていた。
更に自分の頭が撫でられる感覚を覚えたところで、漸くクリスティーナの意識は鮮明になっていく。
「クリス」
「……お母様?」
声が聞こえた方へ寝返りを打ち、仰向けになる。
そこにはあまりに懐かしい姿があった。
クリスティーナによく似た髪と目を持つ彼女は目元を和らげて慈愛に満ちた笑みを見せた。
「よく眠っていたわね。どんな夢を見ていたのかしら」
「……夢」
眠りにつく前のことを思い出そうとする。
しかし断片的に思い出す記憶のどこまでが現実で、どこまでが夢の出来事なのかがわからなかった。
ただ、現実か夢かわからずとも壮絶な時間を過ごしていた事はわかる。
小さな幸せがいくつもあった。けれどそれを壊してしまうような強い苦しみや悲しみもあった。
「……クリス?」
頬を優しく包まれる。
目元を指でなぞられ、そこで漸くクリスティーナは自分の目に溜まる涙に気付いた。
「可哀想に。悲しい夢だったのね」
「……悲しいだけじゃありません」
どうしてだか、今はまだこの涙を流してはいけないような気がする。
クリスティーナは涙が流れそうになるのを何とか堪えた。
体を起こせば、母親に優しく抱き寄せられる。
その温もりに身を委ねながらクリスティーナは首を横に振った。
「幸せも、ありました。……それ以上に沢山の痛みもあったけれど……それが必要のないものには思えなくて」
「そう……」
頭を撫でられている内、溢れ掛けていた涙も引いていく。
そして気持ちが落ち着いてからクリスティーナは母親から離れた。
「もう大丈夫です。ありがとうございます」
「いいの? いくらでも甘やかしてあげるのに」
「はい。……自分で歩いていかないと」
クリスティーナはゆっくり立ち上がる。
その時、手首で金属が擦れる音がした。
手首を見ればそこにはブレスレットが付いていた。
「……え?」
「うん? どうしたの?」
「あ、お母様……これ」
「私があげたブレスレットね。どうかした?」
「えっと……これ、どうしてここに?」
(だってこれは、リオが――)
それは母から貰った大切なアクセサリーだった。
だがそれは自分の手元にあるはずがない事をクリスティーナは知っている。
しかしクリスティーナの問いに母は首を傾げた。
「どうしてって、どうして? 貴女にあげたものなのだから、貴女が持っていていいのよ」
「いえ、その……」
クリスティーナは辺りを見回す。
しかし傍にリオの姿は見当たらない。
「リオは、どこですか?」
「リオ……?」
母は首を傾げる。
「だぁれ? その人」
その言葉を聞いた途端、寝ぼけ眼だったクリスティーナの意識は完全に覚醒する。
ゆっくりと瞬きをしたクリスティーナは母の姿を見て眉を下げながら苦笑した。
「大切な人です。私にとってなくてはならない存在で」
「まあ」
「……だから、探しにいかないと」
クリスティーナは母から背を向ける。
だがその時、つま先に何か固く軽いものがぶつかった。
「あ! ごめん」
視線を下せば、つま先にぶつかったガラス玉に手を伸ばす。
「ごめんクリス。チェーンが千切れちゃったみたい」
「……ヴィート」
当たり前のように自分へ話し掛ける彼の姿にクリスティーナは一瞬呆けてしまってから、彼のネックレスを拾い上げてやる。
そしてそれをヴィートの掌に乗せてやる。
「ごめんね、ありがと!」
クリスティーナよりも少しだけ小さな手だ。
その手がネックレスを取りこぼしてしまわないように、クリスティーナは両手で彼の手を包み込み、しっかりとそれを握らせる。
「……もう落としては駄目よ」
「ん? うん、わかった。大事なものだしね」
「ええ」
「……クリス? 泣いてるの?」
何も知らないような声があまりに無邪気で、それが胸を締め付ける。
僅かに震えた声をヴィートは聞き逃さず、彼女の顔を覗き込んだ。
しかしその首の根っこはすぐに引っ掴まれ、彼はクリスティーナから引き離される。
「ヴィート、あまりクリスを困らせるな」
「……ヘマ」
褐色肌の女性が咎めるようにヴィートを睨み付けた。
ヘマ自分の名前が呼ばれると視線をクリスティーナへ映し、静かに微笑んだ。
「どうした、クリス」
「…………いいえ」
「疲れているのか。あまり覇気がないな」
「そうね。少し疲れてはいるのだと思うわ」
「そうか。……何かできる事はあるか?」
「その気持ちだけで充分よ」
ヘマ僅かに顔を顰めて相手の顔色を窺う。
クリスティーナの言葉を疑っているようだった。
「本当よ」
「アンタはニコラに似て自分を蔑ろにする質だと踏んでいるからな。アタシの信用を得るのは難しいだろう」
「困ったわ、本当なのに」
途中からヘマは揶揄うようにニヤニヤと笑い始め、クリスティーナもまたそれに釣られるように笑ってしまう。
彼女との会話は長く続くものではないが、心地よかった。
「なら、一つだけお願いをしてもいいかしら」
「何だ?」
「あ、ずるい。おれも聞くよ」
「……応援、して欲しいわ」
彼女達は楽しかった記憶であり、同時に大きな痛みを叫ぶ傷だ。
けれど彼女達との時間をなかったものにしたいとは思わない。
できる限り、覚えていたい。
「私がこれからも前を進めるように、応援して頂戴」
「それは……勿論構わないが」
「そんな事でいいの?」
「ええ。貴方達が私を思ってくれてるって感じるだけで、きっと私は今より少し強くなれるから」
クリスティーナはヘマの手を優しく包み込んだ。
そして数秒間彼女の体温を感じてから二人から離れる。
「さよなら」
「……ああ。お前が未来を築けるように祈ってる」
「頑張れ!」
クリスティーナは小さく手を振り、二人に背を向ける。
ふと母がいた場所へ視線を戻せば、そこにはもう誰もおらず、再び視線を先程向いていた場所まで戻せば、ヴィートとヘマの姿も消えていた。
(ああ、なんて――)
悲しみと喜びが同時に押し寄せ、溢れ出しそうになる。
それを何とか押し留めながらクリスティーナは深く息を吐いた。
(……幸せな夢)




