第68話 悪女の切り札
「……剣。でも振るえないなら関係はない」
クリスティーナが剣を携えたことに対して僅かな驚きを見せつつも、ベルフェゴールの動きは止まらない。
氷で作られた剣を握りしめ、頭上から降る殺意にクリスティーナは身構えた。
いつもならば自分を守る存在が近くにあった。
だがこの瞬間、彼らの助力は期待できない。
誰の守りもなく圧倒的な脅威へ立ち向かうのは初めてだった。
魔物を相手にする時とはあまりにも異なる重圧。
必要以上に四肢へ力を籠めていなければそのプレッシャーに呑まれてしまいそうだ。
恐怖はある。その証拠として剣を握る手は震えていた。
しかしそれでも決して落とさないようにと彼女の指先は柄にしっかりと絡まっている。
(……しっかりしなさい。覚悟ならもうしていたはず)
クリスティーナは自身を奮い立たせる。
理不尽に聖女などという称号を与えられ、半ば追い出されるように母国を去った日から短くはない時間が経った。
いつか自身へ降りかかる危機について、その間何度も考えてきた筈だ。
それに、何もできない歯痒さも味わってきた。
ここで動けなければ、自分は守られることしかできない存在であったと認めることになる。
何もできないままは嫌だと思ったのは自分。強くなることを望んだのも自分だ。
そのきっかけが今まさに、目の前に転がっている。
これを拾わずして、いつ変わるというのだろう。
(だから立ち向かうのよ、クリスティーナ)
恐怖を凌駕するだけの強い意志が、彼女の胸には宿っていた。
***
「――クリス」
レディング公爵邸の中庭。
講師から教えを請いながら木刀を振るっていた幼いクリスティーナは後ろから聞こえた穏やかな声に振り返った。
「お兄様」
「やぁ。頑張っているみたいだね」
「はい」
振り返ったクリスティーナにセシルが軽く手を挙げる。
一介の令嬢が剣を握る必要はない。にも拘らずクリスティーナが剣の教えを受けていたのは兄であるセシルの進言があったからだ。
セシル・レディングは後に魔法学院を第三席で卒業することになる兄だ。魔法の技術も非常に優れていると言えるだろう。
だが彼に関する噂で一番名高かったのは剣の腕についてであった。
出場した剣術大会では悉く優勝を掻っ攫い、あっという間にその名を轟かせた男。
更にそれだけでは飽き足らず、魔法学院内に通いながらも魔法は最低限の行使しか望まず、授業内であっても剣術が通用する要素は全て剣術を使って無理矢理押し通すという前代未聞の生徒だったらしい。
魔法よりも剣を好んでいたのか、魔法を好ましく思っていなかったのかはわからなかったが、クリスティーナやアリシアですら彼が魔法を使う姿は見たことがない。
一方で暇さえあれば人目につかない場所で剣の鍛錬を繰り返していた彼の姿は何度か見たことがあった。
剣術に対する熱意と周囲を圧倒する実力。それらによって兄と言えば剣術、という印象がクリスティーナの中に根強く残っていた。
そしてこの優秀な兄の剣術の腕は彼が魔法学院へ入学する前――クリスティーナが幼い頃から囁かれていた。
故に当時のクリスティーナは兄が剣術に対して並々ならぬ思いを抱いているだろうことを悟っていた。
更にまだ兄に対して苦手意識を芽生えさせる前であったこともあり、この頃から忙しくしていた兄の気が少しでも引けるかもしれないからと目論んでクリスティーナは剣術の基礎を学びだしたのだ。
だからこそ、剣の鍛錬をしている姿を見た兄が自ら声を掛けてくれたことは彼女にとってとても喜ばしいことであったと言える。
だが、一方でどうしても付き纏う疑問はある。
「……でも、お兄様。他の令嬢や……お姉様だって、剣術を学んだりはしていません。私が学ぶべき意義があるとも思えません」
公爵令嬢という立場は非常に高貴なもの。クリスティーナには常に護衛が付いているのが当たり前だ。
それに幼い頃から家庭教師に魔法を教わっていたクリスティーナは万が一のことが起きた際に身を守る術も備えていた。
令息であれば剣の腕を磨くことが優秀さを示すことにも繋がるなど、政治的な方向で見ても剣術を学ぶメリットはあるのだが。令嬢はそうではない。
お淑やかで華麗に振る舞ってこそ評価される立場。それが貴族令嬢だ。
故に、何故わざわざ自分に剣術を進めたのかという疑問はクリスティーナについて回った。
セシルは少しだけ考える素振りを見せてから、その問いに答えた。
「万一のことを考えた時、身を守る術は一つでなくてもいいだろう?」
「……護衛がいる限り自分の身を自分で守らなければならない状況もそうないとは思いますが」
「はは、確かにね。でも僕は妹達のことになると殊更心配性なんだ。少しでも不安要素は減らしておきたい」
気を引きたい相手から心配されて気を悪くする者はいないだろう。この時のクリスティーナも悪い気はしなかった。
「リシアは複数の魔法適性を持つ。けどクリス、君は違う。君は優秀だが、氷魔法以外は使えない。これでは氷魔法が通用しない時、困ってしまうだろう?」
「なるほど」
あくまでクリスティーナに剣術を勧める理由。
才ある姉との差を明確に感じて気落ちする反面、自分が剣術を学ぶことで兄の心労が減るのであればという思いが彼女の中にはが生まれていた。
「自ら前線に立てる程の技術を身に着ける必要はないのさ。相手に一瞬の隙を与える。クリスの場合、これさえできれば十分だ」
セシルはクリスティーナの手に握られた木刀を見て目を細める。
「切り札というのは何も、一撃必殺の強力な技でなければいけないわけではない。いざと言う時、活路を見出す一手は全て切り札と言っても遜色ないだろう」
彼の言いたいことを聞き逃すことがないように、きちんと覚えていられるようにとクリスティーナは真面目な顔で耳を傾ける。
セシルはそれに微笑みを零した。
「貴族令嬢は剣を持たない。そんな常識が染み込んでいる世界だからこそ……君が剣を持った時。君は相手に一矢報いることが出来る」
大きな手がクリスティーナの頭に乗せられる。
母を亡くしてから久しく頭を撫でられることがなかったクリスティーナは彼の腕の下で緩みそうになった頬に力を込めた。
「どんな恐怖が迫っても目を瞑らない事。勝機を探し続ける事。それが出来れば君の強みはまた一つ増えるはずだ、クリスティーナ」
「はい、お兄様」
兄の期待に応えよう。少しでも安心させよう。
そうすれば兄はまた自分の鍛錬を見に来てくれるかもしれない。
頭を撫でられながら、クリスティーナはそんなことを考えていた。
……クリスティーナの鍛錬へセシルが訪れたのはそれが最初で最後のことだった。
***
ふと脳裏に過る過去の情景。
(……嗚呼、本当にあの人は)
今目の前で脅威に晒され、剣を構えている現実。
もしもの時の為にと勧められた剣術が今まさに役立とうとしている瞬間。
ただの貴族令嬢ならば万が一にも遭遇しないような光景。
それら全てが兄の想定の範囲内であるような気がしてならない。
彼は一体どこまで知っていたというのだろう。どこまでが予測の範疇なのだろう。
クリスティーナの胸の内にはある種の苛立ちが募った。
そして秘密主義でいい加減な兄に対する強い感情が、恐怖心を打ち消していく。
気が付けば手の震えは止まっていた。
腹が立つ。何もかもが兄の掌で転がされているかのような感覚も、それに甘えようとしている自分も。
だが、今回ばかりは……。
(――ほんの少しだけ、感謝してあげます。お兄様)
恐怖を振り払い、クリスティーナは地面を踏みしめる。
刹那、振り下ろされた大槌が盛大な音を立てて地面を砕いた。
ぱらぱらと破片を零しながら持ち上がる大槌。
だが、そこに肉塊は残されていなかった。
「……っ!」
「思いの外、拙い動きなのね」
予想外の展開に今度こそ大きな動揺を見せるベルフェゴール。
くすりと笑う気配を感じ、彼女は素早く左へと視線を移した。
その瞳が銀髪の少女を捉える。だがそれを視認した時、相手は既に次の一手へと動き始めていた。
クリスティーナが地面を蹴り、ベルフェゴールの横をすり抜けた瞬間。
閃光の如き一線がベルフェゴールの頭部に走る。
遅れて彼女の右目を走る赤い一線。
それは眼球を深く切り裂き、血を溢れさせた。
「っ……!」
激痛に顔を歪めるベルフェゴール。
彼女は無事であった左目でクリスティーナを睨みつけ、すぐさま反撃に出た。
「皆……皆皆みんなみんなみんな面倒……!」
再び振り上げられる大槌。
たった今一撃を繰り出したクリスティーナに、体勢を立て直した上でそれを避けるだけの余裕はなかった。
クリスティーナは剣士ではない。剣術の基礎を積んでいるからとは言え、攻撃後の隙を消せる程洗練された身のこなしは出来ないし、剣を振るった直後に回避行動を取ることも難しい。
だから彼女が強敵に対応できるのは不意を衝いた一瞬のみ。二撃目は通用しない。
「クリス……!」
後方でノアの声が聞こえる。彼は酷く焦っているようだった。
今度こそ策が尽きたクリスティーナへ大槌は襲い掛かる。
だが、クリスティーナの目には焦りも恐怖も浮かんではいなかった。
その瞳に映るのは一つの確信。それだけ。
あまりにも強大な力が差し迫る中、彼女の脳裏を剣術の鍛錬へ顔を覗かせた兄とのやり取りが通り過ぎる。
――一瞬の隙を与える手段を得るだけで良いとお兄様は言いますが、その後はどうすれば良いのですか。
相手の隙を得ただけでは勝敗はつかない。何か決定打になるようなものがなければ隙を作ったところで意味はないのでないか。
そんな疑問を抱いたクリスティーナの問いに対し、セシルは少し目を丸くしてからおかしそうに笑った。
――言っただろう、それで十分なのだと。
自分の命を消し飛ばそうと迫る存在を感じながら、クリスティーナは口を開く。
「一体いつまで寝ているつもりなのかしら」
その口が吐くのは皮肉の利いた毒。
彼女は無意味な受け身も回避行動も投げ捨てて、普段通りの口調で話し続ける。
「主人をここまで働かせておきながら、大層良いご身分のようだわ」
――『君自身』はそれでいいんだ、クリス。だって君には……。
そう答えるセシルはふと何かに気付いたように庭の一角へ視線を寄越した。
そして視線の先に立つ存在へ手を振る。
「来なさい、貴方の役目を果たして見せなさい。――リオ・ヘイデン」
彼女の声を掻き消さんとする勢いで大槌が振り下ろされた。
だがその軌道の先をほんの一刹那の内に黒い影が過る。
再び獲物を逃した槌が地面を抉り、大きな音を轟かせる。
巻き上がる土煙、大槌のシルエットを背に立つ影が一つ。
「申し訳ありません、遅くなりました」
主人であるクリスティーナを抱き上げ、リオは穏やかに笑いかけた。
額を始めとし、至る所を血に塗れさせながらその場にそぐわない笑みを浮かべる従者。彼の顔を見上げたクリスティーナ満足そうに笑みを返す。
――真っ先に主人のピンチへ駆け付ける、君だけのナイトがいるのだから。
昔、セシルが言った言葉がクリスティーナの頭には響いていた。