第66話 戦況悪化
「姿が、変わった……」
人とは言い難い歪な姿を取るベルフェゴールの見目にクリスティーナは小さく呟く。
同じく驚いた様子のノアがその声に頷く。
「魔族は人族と近しい姿を持つというのが有名な話ではあるけれど……もしかしたらそれは仮初の物だったのかもしれない」
彼はいつでも助力できるようにと細心の注意を払い、険しい顔つきでベルフェゴールと前衛の三人の様子を窺う。
その顔色は良いとはとても言えないものだ。
「姿を変えるのも魔法の類だと仮定すれば、その労力を惜しむ程彼女追いこんでいる証拠にはなる。……ただしそれは同時に、彼女の戦闘能力が底上げされることに他ならない」
「……そっちはまだ掛かるの?」
クリスティーナは未だ光を絶やさない転移大結晶へ視線を向ける。
巨大な水晶が帯びる光は起動直後に比べて随分と強くなっている。
しかしノアは苦々しく頷いた。
「ああ。もう少し……あと少しなんだ」
焦りを滲ませる二人。移動が可能になるまでの時間を稼ぎきることが出来るのか、それとも前衛が倒れるのが先か。
前者であって欲しいと思いながらも、望みは決して高くないだろう現実が彼女達に重く伸し掛かっていた。
一方で前衛はベルフェゴールが放つ気迫に呑まれぬよう気を張りつめ、彼女の出方を窺っている。
その視界の中でベルフェゴールは傍に漂っていた大鎌を掴み直す。
それが殲滅の為の第一手であることは明らかであった。
故にリオとエリアスはそれを封じるべく動き出す。
先にベルフェゴールへ近づいたのはリオだ。
彼は新たに用意された氷のナイフを握ると彼女の背後を取った。両手に握られた刃が交差するように彼女を切り裂く。
だが、それは一切の手ごたえを与えなかった。
リオは僅かに目を見開く。
ベルフェゴールは残像を残し、彼が対応できる速度を凌駕した動きでそれを躱してみせたのだ。
ならば、彼女は一体どこへ向かったのか。
残像を切り裂くに留まったリオは視線を彷徨わせた。
だが彼が敵の姿を見つけるよりも先に轟音が鼓膜を揺らす。
その音に導かれるように視線を動かせば、反対側からベルフェゴールと距離を詰めていたエリアスが彼女と対峙している様を捉える。
エリアスは敵の接近に辛うじて気付いたようで、すんでのところで身を躱していた。
彼の目と鼻の先で地面に大きな穴を空ける武器。
それは大鎌ではなかった。
「動くの、やっぱり疲れる……」
持ち主の体躯以上の大きさを誇る大槌。
それを彼女は涼しい顔で持ち直した。
咄嗟に避けたものの、その攻撃のすさまじさにエリアスは息を呑む。
だが怯めばその一瞬が命取りになることは重々承知していた。
彼は一歩踏み込んで剣を振り上げる。
だが、それはリオの時と同様に空を切った。
ベルフェゴールは前衛の三人と均等に距離を置ける場所へ立つとため息を吐いた。
「こうすれば……楽になるかも」
彼女は大槌を肩に担ぐと片手を前へ翳す。
次の瞬間、翳された手から真っ黒な何かが溢れ出す様をクリスティーナは目撃する。
それは黒い煙――『闇』としか形容しようのない何かだ。
同時に襲い掛かるのは途轍もない嫌悪感。あれは触れてはいけないものであると本能が告げた。
『闇』はベルフェゴールの目の前で大きな集合を作ったかと思えば、三つに分散して前衛へ襲い掛かった。
「駄目……っ!」
「クリス!?」
思わず叫び、手を伸ばすクリスティーナ。
だがそれに反し、前衛の三人は警戒こそしているものの、『闇』を避けようとする動き一つ見えない。
見るからに怪しい現象であるのにも誰も反応を示さない。
クリスティーナの反応を間近で見ていたノアもまた、何故彼女が急に焦っているのかがわからないと言った様子で驚いている。
(まさか、見えていないの?)
四人の反応からクリスティーナが導いたのはそんな結論だった。
目の前で起きていることが見えていないかのような四人の様子。五人の中で自分だけが気付いた良からぬものの存在。
彼らの目に『あれ』が見えてないのであれば何とか出来るのは自分だけだと思いつつも、対処の方法がわからない。
その上距離も開いており、今から駆け寄ったとて『闇』が彼らへ触れる方が先であることは明らかであった。
「その場から離れて! 今すぐ!」
遠くから飛ぶクリスティーナの声に何事かと困惑の色を見せる三人。
しかしその声に含まれた必死さを感じ取ったからか、一斉に後退を開始する。
だが目に見えない、気配すらないものを避けるというのは至難の業だ。
それに加えて、黒い煙には追尾性があるようで、距離を置いた彼らを追いかけ続ける。
『闇』は容赦なく彼らへと距離を詰めた。
だがそれが三人へ覆いかぶさり、飲み込もうとした瞬間。
不自然な動きでそれは彼らから距離を取った。
自らそうすることを望んだというよりは何かに弾かれたかのような動き。
クリスティーナが何か手を下したわけではない。何が『闇』を弾く要因となったのか定かではない。
だがそれはベルフェゴールにとっても予想外のことであったようだ。
彼女は目を丸くし、その現象に驚いて見せる。
「……そう。わかった」
ため息混じりの呟きの後、ベルフェゴールは手を下ろす。
それに伴って『闇』は霧散し、姿を消した。
「あなた達がとても……とても面倒だというのはよくわかった。それに」
大槌を構え直しながら、彼女は視線を移す。
赤い瞳が捉えたのはクリスティーナの姿だ。
「あの子が本物だという事も」
『本物』その言葉が指す意味をクリスティーナは察する。
そして魔族である彼女の狙いが自分であることも確定した。
何故、一連の流れでクリスティーナを『本物』と断定したのかは予測の域を出ない。しかしそのきっかけが自分だけ『闇』を視認できたことにあるのは確かと言える。
武器を持ち直したベルフェゴールの視線が後衛へ向けられたからだろう。
主人が攻撃されることを危惧したエリアスがその視線を遮るように回り込み、彼女との距離を詰めた。
だが彼が手を打つより先に、彼女は再び姿を消す。
視界から消えた敵の気配を追って視線を移動させるエリアス。彼は何かに気付いたように口を開くが、それが言葉を発するよりも先にリオが地面を蹴った。
向かう先にはオリヴィエがいる。
彼は辛うじて立ち上がっているが、先の消耗と負担の影響から随分と動きが鈍くなっていた。
まともに動き回ることが出来ない彼だが、その能力の厄介さをベルフェゴールは身を以て知っている。
故に確実に潰しておこうという魂胆から彼との距離を詰めたのだ。
大槌を振り被るベルフェゴール。
だが彼女が攻撃を繰り出すよりもほんの一瞬だけ、リオが早く辿り着く。
「失礼」
「な……っ!」
彼はオリヴィエの負傷していない方の肩を蹴り付け、後方へ転倒させる。
刹那。
凄まじい威力と重量を持った大槌がリオを叩きつけた。
受け身をすべて無視するような威力を持ったそれは全身の骨が打ち砕いた上で彼を吹き飛ばした。
すでに絶命しているだろう彼の体はまるで埃のように容易く吹き飛ばされ、壁へ直撃する。
大きく吹き飛ばされたリオは壁に大きな凹みを齎し、崩壊した瓦礫に埋まる。
体の構造を無視したかのようにあちこちが折れ曲がった体。肉を骨が突き破り、押し潰された臓物が血に塗れた凄惨な遺体。
それは繋がっているだけで幸いであったと感じさせる程歪んだ四肢を放り出し、動きを止めた。
「リオ! ……っくそ」
「ああ……間違えちゃった」
吹き飛ばされた仲間へ意識を傾けながらも剣を構え直すエリアス。彼は相手の意識をオリヴィエから自分へ移すべく、ベルフェゴールが大槌を振るうより先に動き出した。
更に、オリヴィエと彼女の間に氷の針が降り注ぐ。それはオリヴィエへの接近を牽制する意図が含まれていることは明らかだった。
「わかった。ならあなたからでいい」
ベルフェゴールは小さく呟くと振り返ることすらせずに大槌を後ろへ振り回した。
それは後方から迫るエリアスへ向けた明確な殺意。だが彼は体を仰け反らせてそれを避けた。
髪を掠める大槌。それが通過した瞬間にエリアスは懐へ潜り込む。
(……速い。それにわたしの動きに追いついてきている)
彼の剣捌きはもう何度も見た。だがその度に彼はベルフェゴールの記憶の上を行く能力を発揮して見せるのだ。
森の中で戦った彼ならば今のベルフェゴールに攻撃を仕掛ける余裕すらなかっただろう。そもそも彼女の動きを目で追えたかさえ怪しい。
それがこの短時間の中で目まぐるしい成長を見せ、今や彼女に一撃を与えようとしている。
敵の動きと速度を数度見ただけで対応してくる順応性と柔軟さ。
戦闘を長引かせれば長引かせる程、回数を重ねれば重ねる程、彼という存在は脅威になり得るだろう。
ベルフェゴールは目の前の存在に対し、結論付けた。
エリアスは相手の胴へ向かって剣を振るう。
だが次の瞬間、彼の手に掛かった重さが全て失われる。
「は……っ!?」
エリアスは顔色を変えた。緊張のあまり鋭く吸われた息に動揺を隠せない声が乗る。
土を抉る音、重い音を立てて彼の剣が地面へと落下した。
攻撃を食らわせる瞬間、彼は己の武器を取り落としたのだ。
騎士に有るまじき失態。精錬された者であればある程あり得ないミス。
事実、エリアスが騎士となってから剣を取り落とすなどということは一度もなかった。
己の武器を失うという事は相手へ明確な隙を与える。更に剣を持つことで誇りを得る騎士がそれを容易に手放すという事は恥に値するという考えがあったからだ。
故に戦場で剣を落とすことが無いよう、自ら鍛錬を積んできたのだ。
そんな彼がこの重大な場面で、しかも外からの力の影響を一切受けていないこの状況で何故剣を落としてしまったのか。
その理由は至って単純であった。
――疲労。
先の戦闘で既に限界だった体に鞭を打ち、迷宮を突き進み、その果てに強敵との再戦。
常人であれば戦闘がまともに成立するはずすらないのだ。
そんな状況下で剣を振るい続け、残された体力を絞り尽くした彼には最早、剣を握るだけの力すら残されていなかった。
訪れた本当の限界。それが訪れたのは無情にも、間近に敵を控えたこの瞬間であった。
剣の軌道を読もうと身構え、警戒していたベルフェゴールはその結末に目を丸くする。
そういえば、と彼女の脳裏に過るのは森で膝をついていたエリアスの姿。
彼の体力はあそこで尽きていたはず。にも拘らず剣を握れたこと、ここまで戦い抜いたことこそが奇跡に近い偉業と言える。
限界に抗い続け辿り着いた極地。それすらも魔族の自分の回復能力と体力には及ばない。
嗚呼、やはり人というのはなんて――
「……可哀想」
そう呟く彼女の顔に浮かぶのは心からの同情。嫌味などではなく本心からの言葉。
未だ起こった事態に理解が追い付かず、驚愕するエリアスが我に返ったのは目の前で大槌が降り上げられてからのことだった。
自分に差した影。
避ける時間はないと知らしめる光景。
エリアスは悔しさと絶望の中、唇を噛んだ。
だがその時。ベルフェゴールとエリアス、そして振り上げられた大槌の上を更に影が通過した。
二人の視界の端へ映るのは黄橡の髪。
オリヴィエは逆さの体勢で飛行し、大槌へと手を伸ばした。
指先が冷たい武器を掠める。
「”潰れろ”」
吐血で喉を痛めた弊害か。掠れた小さな声が絞り出される。
彼の声を聞き届けた大槌は小刻みに震えだしたかと思えば亀裂を走らせ、破壊された。
氷塊がベルフェゴールとエリアスへ降り注ぐ。
「……はぁ」
壊された武器の残骸を見上げ、ベルフェゴールはため息を吐く。
次の瞬間、彼女はエリアスの鳩尾を蹴りつけた。
予備動作が殆ど見られず行われた攻撃。それをエリアスは避けることが出来ない。
「が、あ……っ!」
武器を用いていないのにも拘らず凄まじい強さを誇る力が襲い掛かり、彼の体は壁へ叩きつけられた。
蹴りによって引き起こされたとは思えない程の打撃音を伴って壁に衝突し、エリアスは床に転がる。
辛うじて息はあるものの、急所を突かれた彼は腹部を押さえて喘ぐことしかできなかった。
吐き出される胃液に血が混ざり、床を汚す。
ベルフェゴールはエリアスの生死を気にする間もなく、更に上空を漂っていたオリヴィエへと手を伸ばした。
危機を察して距離を取ろうとするオリヴィエだが、その動きは彼女の手から放たれた氷の鎖によって阻まれる。
彼の腕へ巻き付いたそれは敵の撤退を許さない。
そして彼が魔法を行使するよりも先にベルフェゴールはその鎖を操り、オリヴィエを地面へ叩きつけた。
容赦なく投げ捨てられた体は音を立てて地面へ激突。肺から酸素が逃げ出し、背中から落下した彼は声にならない悲鳴を上げた。
だが「全員殺す」と宣言をしたベルフェゴールの殺意は潰えない。
彼女は足元に転がる敵を見下ろし、その首へと手を伸ばした。
「……のものを拘束せよ。アクア・ジェイル!」
だがその危機がオリヴィエへと触れるよりも先に、ノアが早口で呪文を唱え終える。
オリヴィエとベルフェゴールの間に現れるのは多量の水の膜。そしてそれはベルフェゴールを拘束しようと襲い掛かる。
その魔法の厄介さを知っている彼女は後退を余儀なくされた。
そこへ更に、十本程の氷の槍が背中から降り注ぐ。
水魔法へ対する回避へ意識が向いていたベルフェゴールは瞬時に繰り出された槍への対処が間に合わなかった。
それは彼女の横腹と肩を貫き、修復に時間が掛かるだろう傷を残す。
「焦らなくても、殺してあげるのに」
ベルフェゴールがエリアスとオリヴィエへ接近することを恐れ、ノアは牽制の為に水魔法『アクア・フラッド』を繰り返し放つ。
それを躱すこと自体はベルフェゴールにとって難しいことではない。しかし躱した傍から更に放たれる水の攻撃は倒れ伏す相手への接近を困難なものへとさせた。
このままでは埒が明かない。仮に粘った末に距離を詰められるとしても、付け入る隙を見つけるまでに無駄な時間が掛かることは確かだった。
仕方ないとため息を吐き、彼女はエリアスとオリヴィエへ止めを刺すことを後回しにする。
となれば彼女の次の狙いは勿論後衛の命。どちらから仕留めようかと考えたところでふとベルフェゴールは思い出した。
「……そうだ。殺すのは一人でいいんだった」
目的を邪魔する存在がいれば手間が掛かる。手練れ揃いの前衛が厄介であったせいで苛立ちを募らせ、我を忘れてしまっていた訳だが、ベルフェゴールの元々の狙いは少女の命一つなのだ。
面倒ごとが嫌いという彼女の性質が理性を狂わせ、熱が入り過ぎた結果本来の目的が疎かになっていたらしい。
標的を殺しさえすれば、いくら邪魔が増えようと相手にしなくていいのだ。標的だけを殺せるならそれが一番楽な道に違いない。
そう自身の目的を思い出したベルフェゴールはクリスティーナへ狙いを定めた。
彼女の手には再び大槌が生成される。
「……っ、クリス、下がるんだ」
ベルフェゴールの赤い瞳がクリスティーナへ向けられていることを悟ったノアが指示を出す。
本来であれば庇いに出てやりたいところであったが、転移大結晶に触れ続けていなければならないノアの行動は制限されてしまっている。
故にせめて自分と同じ場所まで下がるようにと声を掛けたのだが、クリスティーナはそれに頷くことなく、ノアの前へ立ちはだかった。
「私の身に何かあったとしても、貴方に何かあったとしても、結果は同じでしょう」
転移大結晶が使えないとなればクリスティーナ達は来た道を引き返して逃げるしかない。
だが、満身創痍の中で全員が彼女の足を振り切れるとは思わない。正直、一人逃げおおせられるかも怪しいとクリスティーナは踏んでいた。
どちらを取ろうと全滅するくらいならば、少しでも抗うべきだろう。
「主人たるもの、付き人を差し置いておいそれと前に立つべきではない」
クリスティーナは迫る脅威を真っ直ぐと見据える。
「けれど生憎、私にだって自分の身を守る手段くらいあるわ」
「クリス……」
普段通り、淡々と話すクリスティーナ。
しかしノアはその手が震えていること、それを抑えようと拳を握りしめていることに気付いていた。
「それに、貴方も言ったじゃない」
恐怖を感じていないわけじゃない。にも拘らず彼女は気高く、不敵に笑ってみせた。
それが虚勢であっても構わない。自分を奮い立たせる要素になるのであれば、何だっていいとクリスティーナは思った。
「私を『特別』にしてくれるのでしょう? こんなうってつけの見せ場、そうそうないと思うのだけれど」
「……全く、君って奴は」
この期に及んで啖呵を切る姿にノアは苦笑する。
大見栄張りにも程がある。一見何の根拠のない強がりだ。
だが不思議なことに、彼女の言葉にはそれ以上の説得力を感じさせる何かがあるように思えた。
(年下の女の子が腹を括ってるっていうのに、俺が躊躇うのは道理じゃないよなぁ)
ノアは彼女を止めるのをやめた。代わりに口角を上げてベルフェゴールを見やる。
「仕方がない、乗ってやろうじゃないか」
「そう来てくれなければ困るわ」
彼女の顔は見えない。だが満足そうな声色で、これまたどこか偉そうな声が返ってくる。
「とはいえ、策はあるのかい?」
「ええ。賭けではあるけれど」
ノアの問いに対し、クリスティーナは自分の計画を手短に話した。
その内容に、ノアは目を剥く。
「……君、正気かい?」
「この場で冗談を言うように思えるのなら、気狂いは間違いなく貴方よ」
辛辣な返し。しかしそれは考えを改める気はないと十分にわかる内容だ。
ノアは関心と呆れの両方が入り混じったため息を吐いた。
「はぁ、ほんと君って奴は。すぐに驚かせてくれる」
前方、ベルフェゴールが身を低くした。
急接近の合図だろう。悠長に話している余裕はない。
「オーケー、君に委ねるよ」
「ええ」
短い言葉が返される。
直後、ベルフェゴールの姿はクリスティーナの目の前に現れた。