第53話 滑空
跪くベルフェゴール。
彼女が感じたのは何か大きなものに押し潰されているかのような力だ。
それに逆らうように両脚に力を込め、腰を浮かせる。
しかしそれを眺めていた青年は、眼鏡の奥で黄緑の瞳を細める。
刹那、更に強い力がベルフェゴールを襲い、無理矢理地面へ縫い留めた。
あまりにも強大な力に、ベルフェゴールが踏みしめる地面は亀裂を伴って大きく凹む。
不可に耐えられず破れる血管。体の節々からは血が噴き出した。
ベルフェゴールが動けないことを確認すると、青年は霧を纏ってその場から離れた。
彼が次に向かうのはエリアスの後方、ノアのいる方角だ。
彼の移動を阻害するものはない。濃霧の中、青年は迷いなく真っ直ぐ突き進む。
やがて彼の耳に届いたのは荒い呼吸音。進行方向に人がいると確信させる情報を基に、青年はノアへ近づいた。
濃霧の中浮かび上がる人の輪郭。その正体が明確になると同時に青年は足を止める。
一方、周囲へ注意を向ける余裕のなかったノアは突如現れた青年の姿に驚いて顔を上げる。
「……やっぱりお前か」
呆れたようなため息とともに呟かれる一言。
目を見開くノアは、状況を理解するまでに時間がかかるとでも言うように彼の姿を見て呆けてしまう。
そして数秒の後、歓喜に満ちたように笑みを浮かべた。
「リヴィ……!」
「話は後だ。全く、何をどうしたらあんな化け物を釣り上げるんだ」
「はは……ごめん、助かったよ」
小言を零しながら差し伸べられる手。ノアがそれに触れると同時に青年は短く言葉を零す。
「"飛べ"」
直後、二人の体はふわりと浮き上がる。
体は地面を離れながらも移動を開始する。これは青年の魔法の一種であることをノアは知っていた。
杖を脇に抱え、空いた手で鼻を押さえながらノアはエリアスがいるであろう方角へ視線を向ける。
「あ! リヴィ、エリー……もう一人もお願いしたいんだけど」
「わかってる。赤髪の男だろう」
面倒だと言いたげに眉根を寄せながらも指を鳴らす。
「おあっ!?」
少し離れたところから声が聞こえたかと思えば、濃霧を突き破ってエリアスが飛び出してくる。
ノア達と同じく地面に足がついていない彼の体は青年の腕に吸い込まれるような形で接近する。
一定の方向でエリアスの体にかかっていた力は青年が彼の体を受け止めたことで消滅した。
「な、何……って、あれ。ノア?」
「やあ。無事で何よりだよ」
自分の意志とは無関係に動く体に困惑していたエリアスへ暢気に手を振るノア。
青年は自身を挟んで行われるやり取りを聞き流しつつ、徐に二つの体を小脇に抱え始めた。
「というかこれ、どういう状況だ?」
「ああ、彼の魔法は特殊でね――」
男性の中では小柄な部類に入る青年が自身の身長を上回る体を抱えているという何とも不釣り合いな状況。体格的にも到底安々と成し遂げられる行為ではないはずだ。
それに対してノアが補足をしようとした時、三人の体は唐突に上昇した。
更に彼らはベルフェゴールから距離を取るように滑空する。
瞬く間に濃霧を突き抜け、先程まで戦闘を繰り広げていた地点は遠ざかっていく。
「空を飛ぶことが出来るんだよ」
青年に運ばれたままの体勢でノアが言葉を付け足した。
「本当にこっちでいいのか?」
「ああ。合流したい相手がいるからね」
ノアの指示で街とは反対の方角へ移動する青年。
彼は敢えて開けた道を避けて木々の生い茂る地点を通過していた。
時折太い枝に着地をしては次の木へ乗り移る。それを繰り返しながら一行は全身をする。
先程自分達を取り囲んでいた霧に比べればフロンティエール全体を覆う霧は優しいものだが、それでも視界が悪いことには変わらない。
クリスティーナ達が向かった方角へ移動している間、すれ違いを避けるべく周囲の気配を入念に探る必要があった。
しかし戦闘時程気を引き締める必要はなく移動も人任せな分、エリアスには幾分か心の余裕が生まれていた。
故に気配を探りながらも自分を抱えている青年の横顔を盗み見る。
「なあ。アンタ、もしかして少し前にフロンティエールの宿屋の前にいなかったか?」
髪色と空を飛ぶ魔法。それらに心当たりがあったエリアスはフロンティエールへ到着した日のことを思い出していた。
クリスティーナへ声を掛けた青年――雰囲気は大きく異なる気がするが、特徴は同じだ。
そう思い問うたエリアスであったが、声を掛けられた青年は横目で彼を一瞥しただけ。すぐに視線をそらしてしまう。
「さあ」
「え、リヴィ、もしかしてフロンティエールに滞在してるの?」
はぐらかしたのにも関わらず、更に深堀をしようとする悪意なき言葉に青年は深々と息を吐いた。
「違う。所用で来ただけだ。すぐ出るつもりだった……お前が森へ突っ走るところを見なければな」
「あ、見られてたんだ」
青年に親し気に声を掛けるノア。
しかし彼はその途中でその様子を静観しているエリアスの視線に気付き、話題を変えた。
「彼はオリヴィエ。俺とレミの友人だ。こっちはエリアス、最近知り合った友人」
「あ、どうも。おかげで助かったよ」
「別に。大したことはしてないし、気にしなくていい」
エリアスの礼には素っ気ない返事を返されるが、何か気を悪くしているといった様子はない。
元よりそういう振る舞い方をするタイプなのだろう。
「ところで、事の経緯については僕にも知る権利があるんじゃないか」
「あ、そうだね。ええと、何から話したものか……」
霧の異常発生についてから話すべきか、魔族の襲撃から話すべきか。
要点を整理しながらノアが考え込んでいた時、エリアスが何かに気付いたように下方を見る。
「あ、待て」
「お。もしかして見つけた?」
「多分。気配がある」
「了解」
進行方向から感じる気配。それは一人分だけであったが、常日頃からリオの気配が感じられないことをエリアスは体感している。
それに加えて異常な状態の森の中、迷いなく奥へ突き進む者がクリスティーナ達の外にいるとは考えにくい。
エリアスはそう考え、指示を出した。
その指摘に従い、オリヴィエは下降する。
小さな音を伴って着地する彼と、抱えられた二人。
エリアスの予想通り、その正面にはリオとクリスティーナが立っていた。