第52話 『怠惰』の魔族
ベルフェゴールの動きを止めることに成功するノア。
しかし彼の警戒が解かれることはなかった。
「エリー!」
息を乱す騎士を呼び、早口で捲し立てる。
「彼女は今、こちらの声が聞こえていない。今のうちに話しを聞いて欲しい」
エリアスは視線だけをノアへ向ける。
正面に敵がいる以上気軽に気を緩めることが出来ないからだろう。
それでも彼が真剣に耳を傾けていることはその態度から十分伝わった。
ノアはその視線に応えるように頷いてから続ける。
「君は魔族と互角にやり合う能力がある。けど、俺がいる状況では本来の実力が出せない……足を引っ張ってしまうだろう」
エリアスは物言いたげに身動ぎをする。しかしノアはそれに対し、言いたいことはわかっていると言うように片手を挙げて制した。
「自分を卑下してるわけじゃあない。ただ君と俺では相性がとてもいいとは言い難いという話だ。恐らく君は俺とペアで組むよりは一人の方が本領を発揮できるタイプだろう」
水魔法でも視覚を妨げる、注意を引くなどの支援は可能だ。しかし水魔法が真価を発揮するのは他属性の魔法が絡んだ時。前衛と二人きりでは最大限に能力を発揮することが難しいのだ。
それに加え、エリアスは二人分の攻撃を請け負っている。彼の疲労の具合を見るに、体力も底を尽きかけているといって良いだろう。
これらの要素を鑑みるに、安全を優先するのであれば選択肢は一つしかないというのがノアの結論であった。
「俺からは撤退を提案したいんだけど、君の立場的にそれは可能かな」
これまでのエリアスの言動から、彼がクリスティーナを守る立場の人間であることは察しが付く。恐らく雇用関係、ないしはそれに近しい関係が築かれているはずである。
ここでノアが問題視したのは彼らの間に交わされた制約である。例えば戦闘時の逃走が許可されていない場合、彼はノアの提案に乗らない可能性がある訳だ。
エリアスは眉根を寄せ、険しい表情を作る。
「立場だけでいうなら可能だ。ただここで仕留めなかった結果、更に厄介になるのであれば賛同は出来ない」
「なるほど」
目の前の敵を逃がした後のことがわからない以上、迂闊に撤退することが出来ないということだろう。
「けれど現時点で俺達が勝つことは難しいだろう? それよりは一度体勢を立て直して迎え撃つ方が勝率が上がる。逃げる為ではなく勝率を上げる為にも、一度彼女から離れるべきだと思うのだけれど」
「それは……そうだな」
勝率が低い中がむしゃらに突っ込むよりも、一度距離を置いて戦略を練り直す。それはエリアスから見ても実に堅実的な考えであった。
どの道、自分達が負ければ相手がクリスティーナ達の元へ向かうことは明白なのだ。敗北と撤退のリスクが同等のものであるのなら撤退した上で再戦した方が良いことは確かである。
「オーケー、なら次は作戦だ。俺の魔法が破られるのも時間の問題だからね、手短に話すよ」
ノアは要所のみを取り上げ、会話の時間を短縮する。
強敵に勝つための作戦であれば綿密に練る必要があるが、逃走の為の作戦であれば前者よりは幾分か難易度も下がる。
思いの外単純な作戦にエリアスは目を丸くしたが、すぐさま頷きを返して納得を示した。
その瞬間。
まるで大きなガラス細工が破壊されるかのような音を伴い、水球が弾けた。
飛び散る破片は水ではなく氷。
どうやらベルフェゴールは巨大な水球全体を氷に変換し、無理矢理内側から破壊したらしかった。
「……面倒」
地面に降り立った少女は、恨みがましくノアを睨みつける。
先程まで無気力だった瞳には苛立ちが募っていた。
「さっきまではあった魔力の反応も、消えてる。……どうして?」
「……さあ、何のことだか」
畏怖によって高鳴る鼓動と震えを誤魔化すようにノアは不敵な笑みを返す。
彼女の言うことに心当たりはあったのだが、それを語ってやるつもりは毛頭ない。
「そう」
刹那。ベルフェゴールの姿が消える。
……否、ノアには辛うじて彼女の動きが見えた。
「っ、ノア!」
エリアスも彼女の動きを目では追えているものの、それに追いつくまでには至らない。
凄まじい速度で距離を詰めるベルフェゴール。
後退しつつ咄嗟に杖を構え直すノアだったが、彼が対策を練るよりも先に彼女が腹部を蹴りつけた。
「が、は……っ」
真正面から攻撃を食らった攻撃は相当な威力を以て吹き飛び、樹木へ向かっていく。
(――っ、まずっ)
辛うじて意識を繋ぎとめたノアは、このまま木に衝突すれば致命傷にもなり得ることを悟る。
詠唱をしている余裕はない。迫りくる樹木に視線だけを向けて、ノアは杖を振るった。
ノアの後方、即座に現れたのは先程ベルフェゴールを捉えた水球だ。
高台から湖へ飛び込んだ時のような音を伴いながらノアの体は水球に呑み込まれる。
水のでは浮力によってある程度の力が相殺され、それ故に水に包まれた体はそこに乗っていた力を著しく低下させる。
だがそれだけでは完全に力を殺すことは叶わない。
ノアの体は水球から弾き出された。
「ぐ、っ……」
鈍い音と共に太い幹へ激突するノア。
肺が圧迫され、酸素が体から逃げていく。
衝撃を和らげたとは言え相当な打撃を受けた体は悲鳴を上げた。
彼はずるずるとその場に座り込む。
「っ、問題ない」
喘ぎながらも自身の生存を味方へ伝えるべく声を絞り出す。
ベルフェゴールは未だ息のあるノアを見据えて目を細めた。
「……可哀想」
彼女の手の中に、氷の大鎌が形成される。
その刃先をノアへ向けながら、彼女はため息を吐いた。
「何もできないのに、必死に藻掻く。結果はわかり切っているのに。諦めることが出来ない」
止めを刺すべく腰を低く落とし、鎌を構える少女。
しかしその目論見を妨害するように背後から剣が振り下ろされた。
エリアスだ。彼は奇襲を避けた敵の正面へ回り込み、相手の進路を塞ぐ。
鋭く息を吸い込んだ彼はベルフェゴールの顔目掛けて突きを繰り出す。
一方で相手は、それを首を傾けて避けながらも独り言のように言葉を紡ぎ続ける。
「凡人は何にもなれない。才能に夢を見ても何も変わらない。無意味」
突きを避けた彼女は大鎌を頭上で持ち替え、エリアスの背後から首を刈り取ろうと武器を操る。
迫る大きな刃。エリアスは重心を低くすることでそれを交わす。
「生まれながらの才で、不毛な人生を強いられるなんて……とても可哀想」
「……ハッ」
凡人に、大して興味もないとでも言いたげに抑揚なく並べられるセリフ。
それに耳を傾けていたノアは思わず鼻で笑う。
「……なるほど。史実通り、という訳だ」
杖に体重を預け、覚束ない体幹ながら何とか立ち上がる。
ノアは杖の持ち手を両手で包み込み、目を伏せた。
「客観的な視点から、いとも容易く哀れみのレッテルを貼る。深く考えることを避け、陳腐な固定観念に囚われる。その姿勢こそ『怠惰』そのものと言えるだろう」
オーケアヌス魔法学院では魔法の技術を磨く授業の外、歴史を学ぶ授業がある。
中には聖女や七人の従者、魔王軍の幹部に関して取り上げられる内容もあった。故にノアは彼女の正体に見当がついていた。
「魔王軍幹部、序列第七位――ベルフェゴール」
少女の赤い瞳は見開かれる。
そしてエリアスは武器を交えていた相手の僅かな動揺を見落とさない。
甲高い音と共に、大鎌が弾かれる。
持ち主が手元を狂わせたことによって、大鎌は彼女の数メートル後方へ落下した。
「可哀想かどうかは君が決めるものじゃない。俺自身が決めることだ」
乱れていた呼吸が落ち着きを取り戻していることを確認し、ノアは杖の先へ集中する。
「頼んだよ、エリー!」
「おう!」
体勢を立て直すべく後退するベルフェゴール。しかし同じだけ前進をするエリアスによって反撃が困難となる。
身体能力と再生能力が突出しているとは言え、魔族の体力も無限ではないのだろう。
二撃、三撃と流れるような動きで繰り出される剣技。それの命中率は格段と上がっている。
皮膚を裂くに留まっていた攻撃は肉を巻き込み始め、傷が完全に塞がるよりも先に新たな傷が生まれる。
一方で武器の生成と回収を諦めたベルフェゴールは素手での対抗を試みる。素早く繰り出される拳は一度でも当たれば致命的な隙を見せることになるだろう。
エリアスは剣の動きを留めないよう心掛けながらそれを半身で交わす。
優れた敏捷性を持つ双方の戦闘は苛烈を極めた。
彼らの戦闘を遠目に見ていたノアは順調な滑り出しを確認すると目を閉ざした。
彼の口から紡がれるのは今までで一番長い呪文。
「……其れ即ち数多の生命を惑わすものなり。其れ即ち万物を隠すものなり」
視界を閉ざし、魔法に集中するノアにはエリアス達の動きが見えていない。しかしそれでいいのだ。
ノアに求められるのはエリアスの時間稼ぎが効いている間に詠唱を終わらせること。エリアスの腕を信じる事だった。
「時に脅威となり、守護となり得る其の身。実体持たぬ姿こそ本質なり」
不要な考えは捨てる。魔法の精度は精神力が大きく関わっている。
使用する魔法の難度が上がれば上がる程、僅かな感情の揺らぎが失敗へ繋がるのだ。
「集え、移ろえ、散開せよ。汝の全ては我の手に」
離れた場所から聞こえる詠唱を背に、剣を振るうエリアス。
同じく長い詠唱に気付いたベルフェゴールだが、魔法に警戒するだけの余力はもう残されていなかった。
精度が増していく一方の相手の攻撃。それは一瞬のミスで致命傷を負いかねないと思わせる程の脅威である。
日頃から剣術を評価されているエリアスだが、彼の真価は後がなくなってから――窮地に立たされてから発揮されるものであった。
強靭な精神力と生に対する執着、強い野心を併せ持つエリアス。逆境に立ったその時、彼は剣術以外の要素すら巻き込む。正真正銘、自身の全てを活力へと変換するのだ。
体力の消耗という常識と理屈を超えた境地へ立つ。彼にはそれが許されるだけの素質があった。
ただしこれは本人自身知るところではない特性である。
エリアスの剣術の腕前と平穏な公爵領の騎士という立場の中生活してきた彼の環境は、その真価を発揮するに値しなかった。故に気付くような機会は今までなかったのだ。
今、彼の集中力は目の前の敵にのみ向けられている。
磨かれた戦士としての勘と能力を存分に奮う彼は自分自身の変化にすら目を向けず、己の成せる最善の為だけに全てを注ぐ。
突き出す剣先。体力の消耗と相手の攻撃精度の上昇により、ベルフェゴールの回避は間に合わない。
脇腹を掠めた武器が確かな手応えを残す。
ベルフェゴールの体勢がブレる。負傷によって鈍くなる敵の動き。
それを糸口に、明確に付け入ることのできる隙を生み出そうとするエリアス。
彼は己の体に乗った勢いを殺すことなく片足で一回転。ベルフェゴールの横腹へ蹴りを叩き込んだ。
回避も受け身もままならない体は吹き飛ばされる。
相当な力が加わり、凄まじい速度で飛ばされるからだ。しかしエリアスの移動速度はそれを上回っていた。
低く落とした重心、強く踏み込んだ地面。
その地面に亀裂が走り、大きく凹みが生まれると同時に彼は一直線にベルフェゴールへ向かった。
「この声聞き届けし者よ、その身を以て応え賜え」
「っ……」
ベルフェゴールは目を大きく開き、眼前に迫るエリアスの姿を見る。
彼らと相見えてから初めて見せた動揺。悠久の時を生きる彼女にとってその感情は久しく抱いて来なかったものだ。
振り下ろされる剣。
それは彼女の胸元から腹部までを大きく切り裂いた。
「全ては我の意のままに」
鮮血を飛び散らせながら、更に宙を舞う少女の体。
深い斬撃を浴びせたエリアスは深追いせず、その場で足を止めてそれを見送った。
ベルフェゴールの体はそのまま樹木に激突する。
「――濛霧集散」
鈍い音を立てて体を打ち付けたベルフェゴール。大きな打撲や深い切り傷を負いながらも尚、彼女の体は傷を修復する。致命傷には一歩及ばなかったのだろう。
しかし立ち上がった彼女が迎撃に出ようとしたその瞬間、ノアの詠唱が終わる。
最後の一声と共に発生したのは濃霧。
生成された霧は三人の視界を大きく遮るが、彼の魔法はそれに留まらない。
それは元より発生していた霧をも巻き込んで、更に三人の周囲を包み込む。
水属性超級魔法、濛霧集散。広範囲に霧を発生させたり、自在に操ることのできる魔法。ノアが唯一使用できる超級魔法である。
一寸先すらわからなくなる程の濃霧。その効果は煙幕と変わらない程に絶大だ。
ノアとエリアスの立てた作戦は実に単純なものであった。
エリアスがベルフェゴールの気を引いて時間を稼いでいる間に、ノアが濛霧集散を使用。
周囲に蔓延する霧を巻き込んで自身の周辺を濃霧で多い、相手の視界が遮断された間に撤退するというもの。
残りわずかな魔力という不安要素、更に魔法自体の難度が高いという状況でであっても作戦通り成し遂げたノアは安堵から小さく息を吐く。
後は事前に打ち合わせていた方角へ撤退するだけだ。
そう考えて一歩、進行方向へ踏み出したノア。だがそこで彼の視界は大きく歪む。次いでやってくるのは金づちで殴られているかのように強烈な頭痛と吐き気を齎す倦怠感、過呼吸。
限界まで魔力を搾り取られた体が警鐘を鳴らし出したのだ。
ノアはそれを無視しながら杖を突き、平衡感覚を失った身体を支える。
「……あ?」
無理矢理にでも動かなければと歯を食いしばった彼の視界に地面が映る。そこに刻まれた血痕を見て、思わず声が漏れた。
遅れて自身の顔に手を伸ばす。濡れる感触が指先に伝わる。
地面を汚した血痕の正体は無理をした代償のように流れる鼻血であった。
「さすがに……っ、やり過ぎたか……」
片手で鼻を押さえながら顔を顰めるノア。上級魔法の連発どころか無詠唱での酷使、超級魔法の行使等、魔導師の誰が見ても無茶だと口をそろえて言うことだろう数の魔法を使用したのだ。体にガタが来るのも当然の結果であった。
しかし欲を言うのならば撤退するまでは持ちこたえて欲しかった。意識を保つのが精いっぱいである彼は内心そんなことを呟きながら、前進することすらままならない状況に途方に暮れる。
一方で濃霧の発生を合図に戦闘を中断させたエリアスの体も限界を迎えていた。彼は音を立て、半ば崩れ落ちるように両膝をつく。集中力が切れると同時に自覚した疲労を無視することは出来ないようで、今すぐにでも休息を取るべきだと体が限界を主張した。
すぐに距離を取らなければと頭ではわかっているのにも拘らず、鉛のように重い脚が意地でも動くことを拒絶する。
剣を地面に突き立てて荒く呼吸をするエリアスは、自身の数メートル先にある気配へ注意を向けた。
「……やっぱり人間って、可哀想。どれだけ頑張ってもわたし達より先に力尽きる」
何かが空を切る鋭い音。恐らくは例の大鎌を弄んでいるのだろう。
(まずい、ノアも動いてる気配がない)
せめてどちらかが動ける状況であれば肩を貸すなり抱えるなりして逃走を試みることもできる。
しかし今の状況では撤退も絶望的であった。
ゆっくりと距離を詰める気配を感じつつ、エリアスは何か活路はないものかと頭を働かせる。
だが彼が何かを見出すよりも先にベルフェゴールが地面を蹴った。
せめて攻撃を弾かなければ。
そんな考えから、しゃがみ込んだ体勢のまま乱暴に剣を構えるエリアス。だが、がむしゃらに剣を振るって勝てる相手でないことはエリアスが良く理解していた。
このままでは間違いなく自分の命は刈り取られる――。
そんな危機感の中、エリアスが唇を強く噛んだ時。
突如としてエリアスの横を走り抜ける影があった。
霧の中、僅かに視認できたのは黄橡色の髪。その持ち主はエリアスの肩に優しく触れたかと思えば、次の瞬間には前進して霧の中へ姿を消す。
膝をつく騎士の横を通り過ぎたのは一人の青年だった。
彼はそのまま真っ直ぐと突き進み、ベルフェゴールがエリアスと鉢合わせるよりも前に彼女の正面へ躍り出る。
「っ……!」
突如現れた三人目に目を見張りながらも大鎌を振るうベルフェゴール。
しかし青年はそれを簡単に避けてみせる。彼ははまるでダンスのステップを踏むかのような軽やかさで地面を蹴り、宙を舞った。
その足元を大きな刃は通過する。
風に乗る花弁のように柔らかな軌道を描いて着地した青年。
そしてベルフェゴールの懐に潜り込むと彼は相手の胴体目掛けて手を伸ばした。
その動きから魔法を警戒して仰け反るベルフェゴールであったが、如何せん互いの距離があまりにも近かった。
故に彼女は、相手の指先が自身の胸元を掠めるのを許してしまう。
それを確認した彼は覇気のある声で短く呟いた。
「――"跪け"」
瞬間。ベルフェゴールは目に見えない何かに押さえつけられるかのような不自然さで、その場に跪くこととなる。