第51話 不安定な幻影
ベルフェゴールと対峙するエリアスとノア。
張りつめた空気の中、互いに出方を窺って睨み合う三人の意識を削いだのは誰かの初動ではなかった。
「か……さ……!」
この状況に不釣り合いな、子供の明るい声音。
その場を見たす緊迫感と相手の動きを警戒することに注力していた誰もが幻影の出現に気付いていなかった。故にエリアスとノアは不意を衝かれるような形でその存在を認知し、思わずそちらへ注意を向けてしまう。
幸いだったのは相手もまた、同じように幻影に気を取られていたことだ。
ベルフェゴールの注意が逸れていなければ、この一瞬で攻め入られていたはずである。
更に、現れた幻影の異質さは更に三人の戦意を乱した。
しゃがみ込んで両腕を広げる女性らしき何かと、その胸の中へ飛び込む三、四歳程度の幼い少年らしき何か。
曖昧な表現しかできない理由こそ、その場の全員の目を釘付けにする最たる要因であった。
幻影が映す二人の輪郭は実に曖昧だ。
それに加えて、その体の殆どを黒い淀みが覆い隠していた。
粘着質のある泥のようにも、纏わりつく煙のようにも見える、本能的に不快感を抱かせるような『淀み』。
それはまるで二人の輪郭を溶かすように頭や体の至る所から溢れ出し、地面へ滴っては蒸発して姿を消す。
「××××……た、縺?∪……」
「縺翫°え……縺!」
女性と少年の仲睦まじい様子。しかしその会話の殆どは不協和音のように不安定な音を奏でていることに加え、大きなノイズ音に掻き消され、聞き取ることは出来ない。
悍ましさすら感じそうなその幻影は視覚的にも聴覚的にも不快感を与え、見た者の心を不安感で揺さぶろうとする。
幻影が話す度に鳴る耳鳴りに頭痛を覚え、エリアスは顔を顰める。
その時、少年がふと顔を上げた。
何かに気付いたように向けた視線は丁度エリアスのいる場所を射止める。
薄く汚れた布切れを身に纏う少年。
黒い淀みに包まれても辛うじて見える黒髪と、長い前髪から覗く大きく澄んだ瞳。
「縺九≠縺輔s縲√□繧後°縺上k繧」
黄色の瞳がエリアスの視界へ入り込んだ瞬間。
その幻影は霧散する。
恐らくは記憶の持ち主との距離が一定数離れたからだろう。
淀みによって顔立ち等の詳細はわからなかった。
しかしあの幻影は恐らく――。
今まで見たことのない類の現象。生まれた疑問に思考が支配される。
我に返るまでに後れを取ったエリアスの意識を引き戻したのはノアの詠唱だった。
「――アクア・スフィア!」
杖の先から放たれる水球をベルフェゴールは一歩後ずさり、半身で避ける。
その場の誰よりも先に思考を切り替え、行動に出る事の出来る優れた冷静さと判断力。
それに敬意と感謝を抱きながら、エリアスは地面を蹴った。
人は後退る時、重心が後ろへ行く。
特に咄嗟に後退った場合、体勢を整えるまでに僅かな時間を要する。
ノアの攻撃は命中こそしなかったものの、誰よりも先に動き相手に体勢を変えさせたという点のみで十分評価に値する行為だ。
そして生み出された一瞬の隙を逃さないのは前衛のエリアスの役割だ。
彼の作った可能性が無駄になるかどうかは結果へ繋ぐことが出来るかに掛かっている。
ベルフェゴールとの距離を詰めるエリアス。先程までの動揺は消え去り、その瞳は繰り広げられる戦に対する心構えのみが映される。
二人の間には盾の代わりに氷の膜が生成されるが、エリアスの動きはそれが完全な形を成すよりも早かった。
氷の盾を巻き込んで振り上げる剣。その切っ先はベルフェゴールの胴体を捉えるが、傷は浅く致命傷には至らない。
エリアスは更に前方へ踏み込んで剣を振りかざす。
しかし今度は剣が標的を捉えるよりも先に背後から僅かな殺気を感じ取った。
十中八九魔法による攻撃が来るだろうと予測した彼は、敵の視線の動きから自分に迫る攻撃手段を予測しようとする。
その瞬間、後方で指を弾く音が僅かに響く。
それを合図とするかのようにベルフェゴールの右目すれすれに現れた小さな水滴。それは一秒にも満たない時間で弾け飛んだ。
勢いに乗って飛び散る水は彼女の右目へ命中し、相手は咄嗟に右目を閉じる。
同時にエリアスは空を切る鋭い音が後方から迫ることを認識し、その場で身を屈めた。
魔法を発動させるタイミングで視界を潰され、軌道が逸れたのだろう。エリアスを切り刻もうとしていた風の刃は彼の赤髪を掠めるに留まる。
しかしエリアスの瞳に宿る警戒心はそれを回避した後も消えることがない。
彼は視線を動かすよりも先に剣を頭上へ大きく振るった。
彼の頭上を埋めていたのは無数の氷の槍だ。それは半数がエリアスの剣によって粉砕される。
しかし仕留めきれなかった残りの半数は無情にも彼を蜂の巣にしようと降り注ぐ。
エリアスは自分の武器で頭を庇いつつ、地面を蹴って身を捩る。
降り注ぐ槍達一本一本が地面に到達するまでに掛かる時間の差を利用した彼は、槍の先を掠めるように次々と回避行動を取っていく。
時折彼の腕や頬を掠める槍はあったが、どれも皮膚を浅く裂く程度の影響しか与えることは出来ない。
氷の槍が全て降り注ぎ、辺り一帯の地面を抉っても尚、エリアスは息一つ乱さずに真ん中に佇んでいた。
(本当に、揃いも揃って規格外ばかり……)
後衛として出来る限りの支援を施しながらも、眼前で繰り広げられる激しい戦闘にノアは舌を巻く。
魔法を使わせる余裕を生ませないよう、ベルフェゴールと一定の距離感を保つエリアスは次々と剣技を繰り出して相手の攻撃手段を絶つことに成功している。
しかし、魔族が優れているのは魔法の扱いの身に留まらない。身体能力も再生能力も人間と比較すれば十分常人離れしたものであると言われている。
事実、ベルフェゴールは後退を続けているものの、エリアスの攻撃を殆ど躱していた。
(魔族を倒すなら、致命傷を負わせなければならない。浅い傷では魔族の再生能力が上回ってしまう)
ノアが無詠唱で放った水魔法はベルフェゴールの背後で水柱を形成し、彼女の背中目掛けて飛び出した。
しかし完全な死角からの攻撃ですら察知してしまう彼女はそれを安々と回避する。
背後からの回避に徹したベルフェゴールの体をエリアスが捉えるが、素早く体勢を変える彼女はその攻撃を受けつつも急所を避けた。
エリアスの剣によって切り裂かれた相手の腕は徐々にその傷口を塞いでいく。
相手が再生能力に優れた存在でなければ、エリアスが与えた傷は命を刈るには充分すぎる数だ。
しかし魔族相手では消耗戦に持ち込むことすらできない。
(長期戦になればなる程、近接戦闘を得意とするエリーが不利になる。それに――)
首を断たんと振るわれた剣を、体を仰け反らせて避けるベルフェゴール。
その足元を狙ってノアが水魔法を発動さる瞬間、彼女と視線が交わった。
間近の敵から後方の控えへ視線を巡らせる意図は一択。
ノアは水の刃を彼女の足元へ放ちながらも身構えた。
彼女の鼻先を剣が通過する。更に体を仰け反らせた勢いを殺すことなく宙返りをした彼女は、直後に続く魔法の追撃すらも避けてみせた。
軽やかに地に着地したベルフェゴール。彼女の頭上には複数の氷の矢が現れていた。
矢先が向く方角は全てノアの立つ場所。
しかし彼女が標的をノアへ変えたことを悟ると同時にエリアスが攻撃を中止し、矢先とノアの間に入るように立つ。
そして放たれた矢を全て叩き切り、再びベルフェゴールとの距離を詰めに掛かる。
この流れは既に何度も繰り返されている。
エリアスはノアを庇いながら魔族を牽制しているのだ。
彼の体力は攻撃と自身の回避以外の要因によっても削られている。
(……駄目だ。このままだと足を引っ張ることしかできない)
攻撃に備えて身構えていたノアは、自分を庇ったエリアスの背を見つめながら歯がゆさに唇を噛む。
このままではエリアスの体力が尽きた時に形勢を逆転され、押し負けてしまうことだろう。
互いの安全を考えて出来る事。この状況の打開策。
それを考えるのは客観的な視点から戦況を見ることが出来る後衛の仕事だ。
額に浮かぶ冷や汗を拭う暇もなく、思考を構築するノア。
やがて彼はベルフェゴールへ向けて杖を振りかざした。
「水よ、我が呼びかけに応え、彼のものを拘束せよ」
詠唱が聞こえたからだろう。ベルフェゴールの注意がノアへ向けられる。
魔族である彼女であれば、今まで連発していた物とは別格の何かが来ることは察するはずだ。続けられるエリアスの攻撃にも注意を向けながら、ノアの繰り出す魔法を警戒する。
常人であれば到底不可能である業を成し遂げている彼女だが、それ以上精神をどこかに割くような余力はないはずだ。
彼の策はそこを衝いたものだった。
詠唱の最中であるのにもかかわらず、ベルフェゴールの足元から発生する水。
二手の警戒に手一杯であった彼女は他の魔法の詠唱と同時に発動した無詠唱魔法の存在に気付くことが出来なかった。
ベルフェゴールの右足と地面の間から発生したのは水柱。それは凄まじい勢いを以て彼女の足を押し上げる。
意図しない形で片脚の重心を失った彼女は体勢を崩す。そこには勿論隙が生まれる。
「――アクア・ジェイル」
後ろへ体重が掛かる少女の体。その背後に巨大な水球が突如として姿を現した。
それは変形し、標的の頭上から覆いかぶさろうとする。
その大きさは人一人を容易に呑み込んでしまう程のもの。ベルフェゴールはその水球との衝突を避けるように身を捩る。
しかしそこへ剣技の応酬を続けていたエリアスが更に距離を詰めた。
彼は今まさに剣を振り切ろうとしている瞬間であったが、何かを察したのかその動きを停止させる。
そして剣を振るう代わりにベルフェゴールとの距離を更に詰めるよう突進し、その肩で相手の体を突き飛ばした。
体勢の回復が間に合わない状況で突き飛ばされた少女の体は成す術もなく巨大な水球へ呑み込まれる。
ベルフェゴールの体を取り込んだそれは彼女から酸素と自由を奪い取った。




