第48話 達観と盲目
彼は未だ堪えきれない笑みを浮かべているが、多少は落ち着きを取り戻したようだ。
クリスティーナは無言で彼の横顔を眺める。
「俺が人に親切にするのはね、いつだって俺自身の為なんだよ」
「貴方自身の?」
クリスティーナが聞き返した声に頷きが返される。
「最初は認めて貰う為だった。子供の頃の俺は、人より特別な存在になりたかったし、なれると信じていた」
藍色の目が細められる。
一行は彼の言葉に静かに耳を傾けていた。
「親切というのは褒められる行いだろう。だから俺は人に尽くすことで称賛を受ければ受けた分だけ、自分が特別だという証明になると考えた」
「……貴方の口ぶりはまるで、今は違うと言っているようだわ」
先程から彼の口調は全て過去形である。ということは今の彼は違う考えを持っているのだろう。
クリスティーナの指摘をノアはやんわりと肯定する。
「そうだね。俺は昔よりも物分かりが良くなった。自分が特別ではないことも、万人から認められるような特別になれないことももう知っている」
彼の視線は自身の持つ杖へ向けられる。
その表情は憂いを孕みつつも、自虐や自嘲といった類の感情は抱いていないようだった。
「それでも俺がこの不毛な行いを続けるのは、俺が胸を張って生きていく為だ」
優しいかった語気がほんの少しだけ強まる。
切なさに揺らいでいた瞳は彼の中に生まれた強い思いを表すように、いつの間にか不安定さを消した。
「俺は俺以外の何者にも成れない。でも逆に、俺以外の誰かも俺には絶対に成れない。決して届くことのない物に手を伸ばして追い求め、嘆き続けるのは不毛だ。けれど自分という個を磨くことは出来る」
過去を懐かしむように目を細めた彼は緩く微笑む。
「『人生ってのは最期に笑ってた奴が勝ちだ』。友からの受け売りなんだけどね、俺はこの言葉がすごく好きなんだ」
その顔はとても穏やかで、クリスティーナは彼が自身の言う『友』を心から敬愛していることが一目見てわかった。
クリスティーナやオーバン、フロンティエールの人々へ向ける親しさとはまた違う、もっと深い感情。
ノアは湧き上がったその感情に暫く浸る様に微笑んでから真っ直ぐ進行方向へ顔を上げた。
「俺が特別になりたかったのは自分の選んだ道が正しいものだと認められたかったから。けど、誰かに認めてもらうだけじゃあきっと駄目なんだ」
空いた手が正面へ伸ばされ、何かを掴むように強く握りしめられる。
「失敗も後悔もひっくるめて……歩んできた自分全てを愛してやることができて初めて、俺はきっと、俺として生きてきた自分に悔いを残さず、笑ってやることが出来る」
強い風が一行の間を通り抜ける。巻き込まれたノアのフードが剥ぎ取られ、より一層彼の表情が良く見えるようになる。
不敵に、強い光を目に宿した彼は口角を更に上げた。
「俺の価値を決めるのは他者じゃなく、俺自身なんだと思い直したんだ」
クリスティーナは今までの彼の姿を思い出していた。
深く淀む瞳、表情の奥深くに潜む諦観、悲哀に揺らぐ瞳……。ノアの中に隠された昏い感情達。
あれらは見間違いや勘違いには到底思えない。不備なく彼の感情の機微を把握できているとクリスティーナは確信している。
そして何度も見た彼の幻影。親子のやり取りで聞こえたいくつかの単語がクリスティーナの頭に残り続ける。
それらから、彼が自身の思いの丈を赤裸々に語った訳ではないのだろうということは察しが付いた。
しかし一方でここまで語られる間、彼が嘘を吐いたり取り作ったりした様子は見られなかった。
彼は自身の中に何らかのしこりを残しつつも、前向きな心持ちを心掛けている最中……変わろうとしている最中なのかもしれない。
(……そう。彼はきっと――)
「素敵な考えだと思うわ」
「ありがとう」
胸の内で導かれた一つの結論。
それに一人納得しながらも、クリスティーナはそれを言語化することはしなかった。
彼が内に潜めているものが何であれ、付き合いの短い者が容易に干渉するようなことではないと思ったからだ。
彼女の言葉にノアは照れ臭そうに笑う。
「俺は俺のことを好きでいる為に、後々悔やむことがない様に、自分に出来ると思ったことは躊躇なく行動に起こすことにしている」
だから自分の為。
今までの親切は決して無償で行われてきた愚行ではないのだと彼は言うのだろう。
「君は良しとしなかったのだろうけど……。今回の俺の選択も、今まで人に尽くしてきたのも、俺が俺自身に胸を張れる為のものだ。差し伸べられる手を伸ばさなかった先で罪悪を覚えたり、あの時助けてやればよかったと後悔したくないからね」
「……今は別に気にしてないわ。それに少し安心もしているの」
「安心?」
「ええ」
最初、ノアが魔力制御の指導を無償で申し出た時は胡散臭さも相まって彼を疑った。
関係を構築してからは、クリスティーナ達に世話を焼くことによって発生する彼の損失を危惧した。
しかし一連の流れが彼の言うように『自分の為』であったのなら、これはそもそも利害が一致していた故の決定であり、彼の真意を探る必要も彼の損失に対する埋め合わせも気にしなくてよいということだ。
それにしたって彼の働きぶりから得られる利益と彼自身が得られるメリットとを比べると帳尻があっているとは到底思えないわけだが。
しかし目に見えないものの価値観ばかりは本人の考え方や気の持ち様でいくらでも変わることだ。クリスティーナが否定するべきものではない。
「んー、そうは言ってもさ、ノア。例え理由があってやってることだとしてもそれが当たり前だと思われるのは……それに対して何もないってのは、やっぱ寂しくないか?」
ずっと静観していたエリアスが眉を下げた。
彼の言葉にノアは暫し思考を巡らせてから苦笑を零す。
「そりゃ、感謝されたり好意が返ってきたりすれば嬉しい。大勢とまではいかずとも誰かの心の中で特別な存在として残ることが出来たのなら、俺の人生は更に色付くことだろう」
「ノア……」
「けれど、やっぱり一番大切なのは自分が自分を好きでいることだと思うんだ。だから、俺のしてきたことが誰かの心を動かすことになり得ないとしても俺はそれでいいんだよ」
途中、エリアスが何かを言いかける。しかしノアの切なくも真っ直ぐ先を見据える様な目を見て言葉を呑み込み、結局「そっか」とだけ呟いた。
思うことはあれど、それに対する簡単な同情も労いも彼には不要だと、そう藍色の瞳が告げている。
「……心外だわ」
「え?」
しかしそんな中、クリスティーナはぽつりと不服を述べた。
何か気を損ねるようなことを言ってしまったのかと自身の言動を思い返すノアの姿を視界に留め乍ら彼女は続ける。
「貴方は自身の在り方を模索するのに必死なあまり、貴方自身の強みである洞察力を扱いきれていない」
「どういうことだい?」
クリスティーナの言葉の意図がわからず困った様に答えを求めるノア。
仕方がないと言いたげに深く息を吐いてからクリスティーナは言った。
「貴方はもう既に人の心を動かしているというのに、それに気付いてやることすら出来ないのね」
「クリス……」
見開かれた目は彼女の言わんとしたことを悟ったのだと伝える。
その表情に構うことなくクリスティーナ目を細めて続きを述べた。
「貴方は私達の力になった。貴方のしたことは今後、私達が身を守る為大いに役立つことよ」
異論は認めないと強い口調でクリスティーナはノアを諭す。
「貴方が手を尽くしてくれた指導は私の好奇心を擽らせたわ。もっと自ら学んでもいいと思わせた」
クリスティーナの隣にいたリオが彼女の声を聞きながら静かに目を閉じて微笑んでいる。
彼女の話の向かう先を見守る様に、耳だけを傾けている。
「私達はここへ来た。礼も報酬もろくに渡していない貴方に死なれたら寝覚めが悪いから……心から感謝しているからよ」
その場にいるクリスティーナとノア以外がそれぞれ笑いかける。
クリスティーナの言葉に同意すると言う様に。
ノアは面食らったままに、四人を見回した。
「今までの態度を鑑みて他者に対し高望みをしないのも、諦めを抱くのも結構だわ。けれど真実に気付けない程に目を閉じるのは怠慢以外の何物でもない。見たがっている物が目の前にある。けれどそれに気付くことが出来ない。……それでは意味がないでしょう」
クリスティーナはノアの正面へ回り込み、彼の顔を正面から見つめる。
「私達の気持ちまで勝手に決めないで。気が付く前から拒絶しないで」
彼女はノアへ詰め寄り、胸倉を引き寄せる。
突然のことに不意を衝かれた彼は引き寄せられる力に従うように前屈みになる。
視線の高さが同程度になった辺りでクリスティーナは胸倉を解放し、代わりに彼の頬を両手で挟み込んでその顔を覗き込んだ。
藍色の瞳と空色の瞳が至近距離で見つめ合う。
「目を開けなさい。心に刻みなさい。私達をここまで動かしたのは貴方の行いだと」
何かを言おうと形の整った唇が小さく震え、しかし込み上げる感情を押し留めるようにに噛みしめられる。
言葉を紡ぐことが出来ないノアの顔をクリスティーナは解放してやる。
彼女の手はゆっくりと降ろされていくかと思われたが、それはノアが握りしめていた片手へ伸ばされる。
「安心して頂戴。貴方のくれた、生きる為の術は私の中に残り続けるから。貴方の行いを忘れたり軽んじたりすることはない……貴方のくれたものを抱えて生きていくの。それだけのことをしてくれたのよ」
握られた指先を丁寧に解き、自分のものより一回りは大きい掌をクリスティーナは両手で包み込んだ。
見開かれた瞳が揺らぎ、滲む。
「……そう、だね。ごめん」
握られた掌を見下ろして、されるがまま。ノアが小さく呟いた。
その声は珍しくつっかえて、情けなく震えている。
潤んだ瞳はそれ以上情けない姿を見せない様にと固く閉ざされ、眉根は何かを堪えるように寄せられる。
やがて彼は弱々しく言葉を紡いだ。
「俺は、助けに来てくれた君達の気持ちまで軽んじた発言をした。君が気を悪くするのも仕方がない」
「次からしないと言うのなら大目に見てあげてもいいわ」
「……ああ、勿論だ」
ノアが小さく頷きを返したことを確認して満足したクリスティーナはゆっくりと手を離す。
何かに耐えるようにきつく目を閉じて眉根を寄せる相手の様子を静かに見守っていると、今まで大人しくしていたシモンがノアの脛を蹴った。
「え、いっっっだ、何っ!?」
感傷に浸る様に普段の数倍は儚い空気を纏っていたノアの様子は一変。突然訪れた激痛に耐え切れずその場に崩れ落ちた彼は脛を片手で擦りながら悶え苦しんでいる。
「やーい、バカノア!」
「こーらこらこら! 今いいとこだったでしょうが!」
「い、痛い……魔物にも蹴られたことないのに……」
突然の悪戯にエリアスが間へ入ってシモンを宥める。
シモンは不貞腐れたように口を尖らせたかと思えば声を荒げる。
「オレだって感謝してるし! お前が来てくれた時、すげーほっとしたし、守ってくれた時もヒーローみたいですげーか、かっこよかったし……! オレもお前みたいになりたいって思ったんだ! だから……だから、そーゆー風に言われるのすげーむかつく!」
「シモン……」
「ばーかばーか! ノアのバカ!」
「し……っ、シモンーー!」
痛みからか感極まってか、はたまたその両方か。
ノアは目を潤ませたまま勢いよくシモンに抱き着いた。
「もー、ほんとに可愛い奴だなぁ! ごめんよ、もう言わないからー!」
「ぎゃー! 引っ付くなバカァ!」
「素直じゃないのね」
「お嬢様が言うんですか?」
騒々しく取っ組み合いを始めたノアとシモンを横目に呟いたクリスティーナにすかさず口を挟む不敬な従者。
その一秒後、クリスティーナに脛を蹴りつけられた彼はノアの二の舞となってその場にしゃがみ込むこととなる。
「……私達以外にもいるじゃない。案外貴方が気付いていないだけかもしれないわね」
「はは、そうかもしれないね」
がっちりと腕の中に拘束した上でシモンに頬擦りしていたノアはその動きを止めて穏やかに微笑む。
一方でシモンは照れ臭いのか、顔を真っ赤にしたまま暴れたままだ。
そろそろ移動を再開しようと進行方向を見やったクリスティーナ。
その時自分の耳が何かを拾い、彼女は深々とため息を吐いた。
恐らく彼女よりも前に気付いていただろうリオとエリアスはやれやれと肩を竦めて笑っており、騒いでいて気が付くことの出来なかったノアとシモンは不思議そうに瞬きをしている。
「敵襲?」
「いいえ」
杖を構えて立ち上がるノアにリオが首を横に振る。
彼はそれ以上語るつもりがないようで、代わりに自分の目で見ればいいと進行方向を顎で指し示す。
ノアはそれに従う様に濃霧の先へ目を凝らし、遅れてその正体に気付いた。
「撤回するわ」
呆然と立ち尽くす彼の横で、クリスティーナは鼻で笑う。
五人の視線の先。徐々に距離を詰めるそれはクリスティーナ達へ近づくにつれてその輪郭を明らかにしていく。
更に聞こえるのはノアの声を呼ぶ野太い男女の声だ。
やがて霧の中から姿を現したのはオーバンを先頭にした十を越える冒険者達。
自分のしてきたことが誰かの心を動かせなくてもいいと彼は言っていた。だから自分のしてきたことがそのまま返ってこずとも構わないのだと。
それは嘘ではないのだろう。
けれど平気だということと期待してしまうことは別の感情だ。
わかっていると諦めたつもりになっていた彼はきっと、心のどこかで期待していたのだ。
もしかしたら、自分の予想を裏切ってくれる人がいるのではないか。そんな思いがきっとあったはず。
「……貴方の目って、案外節穴なのね?」
「っ……もぉ~~、なんなんだよぉ……っ」
そんな予測には、ノアの反応を見れば誰だって行き着くことが出来るだろう。
何度も耐えていた彼の感情が堤防を決壊させて溢れ出す。
口を小さく戦慄かせ、強がるように文句を垂れる彼は眉根を寄せて深く俯いた。
被り直したフードの下で唇を噛みしめる彼の頬を一粒の雫が流れ落ちる。
目を見ずとも、顔を隠されていてもわかる。
きっと彼の滲んだ瞳には安堵と喜びの色がはっきりと浮かんでいることだろう。
クリスティーナは涙を流す彼の姿に気付かないふりをしてやることにした。