第45話 水遣いの応戦
「アクア・スラッシュ」
ノアは杖を左から右へ振る。同時にその動きに連動したように、水の一線が二体の魔物へ命中した。
しかしそれ自体の威力には期待できない。水は刃物の様に鋭く成れないからだ。
打撃にもなり得るか怪しい攻撃は相手の顔を濡らす。
目に入った水に狼狽える魔物。そこに生まれた隙をノアは狙う。
彼はローブの裏に隠し持っていた小瓶を取り出し、片手のみでその栓を開ける。
中へ入っていたのは黄色い液体だ。
ノアはそれを正面へ振りかけ、更に杖でそれを指示した。
「アクア・スフィア」
無作為に飛んだ液体がビー玉程度の小さな球体を二つ作る。
そしてそれらが素早く魔物達の頭上へ飛んだかと思えば、突如弾け飛んで飛沫をまき散らす。
微細な雨粒と化したそれが魔物の頭へ、体へ付着した。
しかし次の瞬間、魔物が悲鳴を上げて地面の上を転げ回った。
降り注いだ液体が触れた箇所からは白い蒸気が発生し、魔物達の皮膚を僅かに溶かしていった。
そもそもの液体の量が僅かであった分、致命傷には及ばない。
しかし激痛を与えるに十分の範囲を負傷させた。暫くはまともに動くこともままならないだろう。
「よし」
ノアは空になった瓶を投げ捨てた。
そしてシモンの腕を掴み、半ば無理矢理その体を背負い込むと明るく言い放った。
「……逃げよう!」
ノアはシモンを背負って森を駆け抜ける。
「ノア! トドメ刺さねーのかよぉ!」
「心配しなくても暫く動けないよ。止めを刺す分の時間で逃げた方が早く街に着けるしね……!」
心配する声を宥める。
日頃は安全であるはずの範囲に魔物が現れた。それが先の二体だけではない可能性を考えれば、魔物と遭遇する前に少しでも早く森を抜けるべきだとノアは結論付けた。
ただでさえ水魔法は戦闘向きでないことに加え、今はシモンがいるのだ。シモンの安全を確保することが先決だろう。
「ノア、お前……」
早く街へ出たい一心で走るノアの頭上からシモンが声を掛ける。
振り向くことが出来ないので耳だけ傾けていると驚いたような呟きが届いた。
「……体力なさ過ぎじゃね?」
「うるさ……っなぁ!」
痛い所を衝かれ、シモンの言葉に思わず噛みつくノア。
しかしその言葉すら乱れた呼吸によって途切れてしまう。無念だ。
数分走っただけでノアの息は絶え絶えになってしまっていた。
年中屋内で研究に勤しむ者が多い魔導師の体力の平均値を舐めてはいけない。特にノアは魔導師の中でも自分の時間の殆どを研究に費やすようなタイプである為、魔導士間で相対的に見ても体力量は平均以下である。
子供相手であろうが即座に悟られてしまう程、ノアの体力のなさは壊滅的なのだ。
一度足を止めて膝に手を置く。
数秒間、ノアは呼吸を整えることに徹していたが、背後からの敵意に気が付くと咄嗟に身を翻した。
「……っ!」
彼の頬とフードの一部を鋭い爪が切り裂く。
「……ほんと、どうなってるわけ」
心配そうに名前を呼ぶシモンに大丈夫だと片手を振り、頬を流れる血を雑に拭い取る。
ノアは杖を構える。
魔物が五体。二人を囲むように姿を現した。
一方でノアは背後を取られないようゆっくりと後退をする。
オーケアヌス魔法学院の生徒は時折実践演習として魔物と対峙する授業を受ける。
しかし原則教師の監視の元、数人編成の班を形成しての戦闘形態である為命の危機に瀕するという事態は発生しない。
更に授業で討伐に当たる魔物の数は精々二、三体。
単独で、しかも相手が五体となるとノアが経験したことのない領域である。
(流石にきつい、かなぁ)
身の危険を覚えて杖を握った手が震えるが、シモンにバレることがないようその手に力を込めて誤魔化した。
――せめて、シモンを逃がすことさえできれば。
気に掛けるのが己の身一つであれば撃退は出来ずとも逃走くらいなら可能であったかもしれない。
もし自分が一人でなかったのなら。今ここで誰かが駆けつけてくれたのなら――
(……ないなぁ)
ふと過った考えをノアは否定する。
真っ先に浮かんだのは親しい冒険者達だったが、彼らは慎重で賢い。誰かの為に危ない橋を渡ることはないだろう。
今のノアの立場が例えば、依頼を共に熟す家族同然のパーティーメンバーであればまた違ったかもしれないが。
ノアは、自分が彼らにとって特別な存在ではないことを知っていた。
自分が彼らを特別視していないからだ。
他者へ向ける気持ちの強さは、自分が他者から向けられている気持ちの強さと同等であることが多い。
例えば、相手から嫌われていると感じれば理由もなくわざわざ好意を抱きに行くことはないし、相手が自分に対して強い好意を向けてくれていれば多少なりともプラスの気持ちが働くものだ。
勿論恋愛等による過剰すぎる愛情表現など、例外は多岐に渡るが。
少なくとも、自分と彼らの関係は同等の感情の働きによって築かれているものであるとノアは考えていた。
ノアは人に親切にする。どんな人間であっても自分に出来る限りのことで尽くす。それが初めて出会った者であってたとしても。
ノアは大抵の人間と仲良くなることが出来る。相手の警戒心を丁寧に解して、気が付けば軽口を言い合える仲に進展している。
ノアは『誰に対しても』親切で、気さくに話す。
殆どの人間に対して、全く同じ温度と距離間で接するのだ。初めての相手も、何年物付き合いがある人間も同じ価値でしか捉えることができない。
故に、それに勘づく人間は彼と同じだけの距離を取る。彼に深く干渉することはせず、気楽な友人として、しかし替えの利く立場として関わるのだ。
彼らは賢い。だからきっと自分の元へは来ない。
「やるしかない、よね」
ああだこうだと考えたところで、状況が好転することはない
ノアは深く息を吐いた。空元気に口角を上げて杖を構える。
暫し互いに睨み合った後、先に動いたのは魔物の方だった。
牙を剥き出した二体が同時に飛び掛かる。
一方でノアは二歩、三歩と後ろに後退しながら半身で交わしていく。彼の反射神経は遠距離攻撃を主とする者とは思えない程優れていた。
しかし彼には体力という致命的な問題が存在する。既に疲れ切っていた体は三体目の動きを視認しながらも思うように動かない。
ノアは咄嗟に杖を突きだした。それは大きく開かれた魔物の口内へ潜り込み、その喉に命中する。
激痛に呻き、悶える三体目。とても戦闘どころの騒ぎではないそれはその場に苦しそうに蹲った。
「――水よ、我が呼びかけに応え、彼のものへ水槌を下せ。アクア・フラッド」
上級以上の等級の魔法は初級、中級に比べて詠唱が伸びることが特徴だ。
ノアは上級魔法『アクア・フラッド』の呪文を唱えた。視界の左右から飛び掛かる四、五体目を視認したからだ。
彼との距離を詰めた二体の魔物。それらが彼へ触れる直前、彼と魔物との間に残された僅かな隙間から何の前触れもなく多量の水が発生する。
それは凄まじい速度と量を持って双方の魔物へ飛び出し、周囲の木々を薙ぎ倒しながら数メートルも相手の体を吹き飛ばした。
二体の魔物の生死は確認するまでもない。圧倒的な水の脅威に襲われた魔物の体は形を変えて横たわっていることだろう。
「すげぇ……」
シモンが小さく呟いた。
しかしそれに反応する程の余裕はノアに残されていない。上級魔法の使用によって多大の魔力を支払った彼は大きな眩暈を覚えていた。
体勢を崩さないよう、地面を踏みしめるノア。
その背後からは、先に攻撃を仕掛けてきた一、二体目の魔物が再度ノアへ飛び掛かろうとしている。
(魔力はだいぶ使ったけど、まだ行けるか)
上級は厳しいかもしれないが中級以下の魔法を酷使すればこの場は切り抜けられるかもしれない。
素早く方向転換を行い、距離を詰める魔物達へ魔法を行使する。
「アクア――」
「ノア!」
しかしその詠唱は何者かの声に遮られる。
もう随分と聞いていない、懐かしい声。ノアは咄嗟に振り返ってしまった。
背後にあったのはシモンを探している最中も見た幻影。
親子のうち、大人の方が発した声だった。
しまった、と思った時にはもう遅い。二体の魔物が魔法を発動させる間もない程に距離を詰めていた。
「……ざけんなよ」
焦燥と憤り、悲嘆……複雑に入り混じった感情を表出させながら、彼は奥歯を噛み締めた。
霧の特徴も、ミロワールの森を警戒しなければならない理由もわかっていた。にも関わらずまんまと動揺を誘われた。
何よりも自分を窮地に立たせたのがあの幻影の男だという事実はノアにとって許容しがたいことだった。
しかし険しい表情で低く呟きを零しながらも、冷静さは決して欠かない。彼は自身に出来る最善の選択を導く。
攻撃を受けてしまうのは仕方がない。ならばせめてシモンの負傷と自身の致命傷の回避に徹さなければ。
そう結論を見出したノアが受け身の姿勢へ転じたその時。
彼の視界を何かの影が横切った。
「これで戦闘向きではないと言われるのですから」
刹那、今まさに襲い掛かろうとしていた二体と床に蹲っていた一体の魔物が首から血を噴き出して倒れ伏す。
残ったのはノアとシモン、そして血の滴るナイフを握った男。
ノアの瞳に映るのは風に靡く黒髪と、その下から覗く鮮やかな赤い双眸。
「末恐ろしいものですね。魔法というのは」
左右で薙ぎ倒されている木々を暢気に観察しながら、リオは感心するように呟いた。