第42話 守るという意義
客室へ戻るや否や、リオは息を吐いた。
「……お嬢様」
一方のクリスティーナは肘をついて窓の外を眺め、従者の声を無視した。
その様子に気付きつつも、聞こえているだろうという体でリオが一方的に話し始める。
「どうしてそう、わざと敵を作るような物言いばかりするんですか。……今に始まったことじゃないですけど」
今更でしょう、という心の中の呟きに重なる様に付け足されたリオの言葉に思わず肩が揺れる。
目敏い従者はその反応にも気付いただろうが、無視を続ける姿勢を崩さないでいると勝手に話が続けられた。
「ご気分を悪くされているのはあの女性にというよりもノア様に対してでしょう」
何も口にしていなくとも、顔に出していないつもりであっても、この従者はクリスティーナの考えを的確に衝いてくる。
虫の居所が悪いこともだが、クリスティーナがルイーズよりもノアに対して苛立ちを覚えていることすら見抜かれてしまっているとは。全てお見通しである従者に降参するように、クリスティーナは渋々口を開いた。
「彼の頭がもう少し悪ければ、気にすることもなかったわ」
この二週間、彼は毎日人に頼られ、一度も断ることなく手を差し伸べ続けていた。
その姿を見ていれば自ずと気付くことがある。
フロンティエールの住人の甘えの存在だ。
以前レミがノアのことを『生粋のお人好し』と評していたが、実に的を射ている言葉だと思う。
天性のものだろうが、彼は表情や仕草などその立ち振る舞いから人の好さを体現したかのような存在だ。話しやすさや親しみやすさを備え持った彼は実際、頼まれた事は全て引き受ける、助けてる人を見たら真っ先に手を差し伸べるという人思いな人間だ。
故に頼りやすく、彼に頼めば引き受けてくれるだろうという期待や信頼が培われている。
信頼と言えば聞こえはいいが、『彼に頼めばいい』という発想は思考の停止を齎す。その結果、本来彼に頼らずとも解決できる案件までもが彼の元へ行きつくという構造が出来上がっていた。
そしてそれらの行きついた先が今回のルイーズのような『自分の代わりに危地へ向かってくれ』という無茶振り。
彼が人の善意だけを信じ、その言葉の意味だけを汲み取り、頼まれたからというだけの理由で言われた通りに熟すだけの楽観的単細胞であれば。
頼りにされていることにただ喜びを感じ、安易に利用されていることに気付かないような愚か者であれば。
そういう奴だから仕方がないと呆れはすれど怒りを覚えることはなかっただろう。
しかし、残念ながらノアは聡い。
クリスティーナ達の指導に当たる時だけでも、彼の周囲をよく見る能力や相手の顔色を的確に窺える能力に感心する場面が何度もあった。
そういう面はクリスティーナと非常によく似ているのだろう。
(それにあの時の目は……)
ルイーズに縋りつかれた時のノアの表情を思い出す。
揺らいだ双眸。何かを悟った様な顔と、その奥に孕む諦観。躊躇いと疑念と、悲哀。
複雑な色を織り交ぜて揺らぐ瞳が、クリスティーナに確信を齎した。
彼はルイーズすらも意識していなかったかもしれない言葉の意図に全て気付いていたのだ。気付いた上で、それが愚かな選択だとわかっていながらも頷いたのだ。
クリスティーナは、何故だかそれが許せなかった。
「お嬢様はノア様を買っていらっしゃるのですね」
「買う?」
リオの言葉の意図が見えず、思わず振り返って問いかける。
漸く目が合ったことに微笑みながらリオは頷く。
「はい。あの方のことを買っているから、それを下に見られたり他者に搾取されるような姿が気に食わないのではないですか?」
クリスティーナは暫し瞬きを繰り返す。
わざわざ愚行を選ぶノアにもどかしさを覚えているのだとクリスティーナは己の感情を分析していたのだが、それも彼がもっと上手く出来ることを知っているから……つまり彼のことを買っているからだと言われてしまえば辻褄が合う。
目から鱗だと面食らう主人の様子に従者は再び苦笑を零した。
「なんでこうも、不器用なんですかね」
「主人を下げるような物言いは不敬だわ」
「それは失礼しました」
言葉では謝罪するものの、表情は相変わらずへらへらしている。
……いや、へらへらというよりもにこにことしている。
やや呆れ混じりに眉は下げられているが、和らげられた目尻と口元に緩やかな弧を描いて作られた笑みは慈愛に満ちている。
主人の顔を覗き込むように首を傾ける彼の顔が非常に精巧な作りである分、急に優しい顔をされると反応に困るのが少し悔しい。
「……貴方を咎めているつもりなのだけれど」
「どうかしましたか?」
しかもこれが無自覚だという。
日頃外面用の笑みばかりを作る癖、時折見せる気の抜けるような微笑。それによる主人の動揺を誘うまでが目論見なのではないかと疑ってしまいそうだ。
何でもないと首を横に振るクリスティーナに素直に頷いた従者は少しの間、話すことをやめた。
一室を静寂が包んだことによって、街の喧騒が嫌でも耳に入る様になる。
昨日の訓練の後から魔力制御は続けているが、考え事をする程度の余力は残されている。それに加えて先程の玄関でのやり取りもあってか、どうしても窓の外が気になってしまう。
「お言葉ですが」
やがて霧のせいで数メートル先の様子すら定かではないのにもかかわらず窓ばかり眺める主人の姿を見て、リオが再び口を開いた。
今度は何かと視線を向けると、赤い瞳に真っ直ぐ射止められる。
彼はじっとクリスティーナを見た後、その長い睫毛を伏せて続けた。
「社交界にて広まったクリスティーナ様の身勝手さは大変大きな噂になりました」
「本当に良いお言葉ね」
突然主人を侮辱し始めた従者の後頭部を殴る準備をしながら先を促す。
クリスティーナの右手には握り拳が作られているが、従者はそれに怯えることなく続ける。
「噂程ではないと思いますが。周囲の視線も、言葉も、関係も。それらを気にせず己が思うまま突き進んでこられたのが貴女様でございます」
姿勢を正し、片膝をつく従者。
彼は不敵に笑って主人の顔を見た後に首を垂れた。
「だからこそ、貴女様らしくもない。公爵家の御令嬢という縛りすらなくなった貴女様が、一体何に躊躇われていると言うのでしょう」
クリスティーナの『躊躇い』に目敏く気付いた従者が穏やかに、日頃よりも丁寧な口調で話す。
「私が傍に居るのは、貴女様を聖女などと言う肩書に縛り付ける為ではありません。貴女様のことをお守りする為です」
彼から笑みが消え、やや長い前髪の下から見える赤い瞳は決意と忠義に満ちている。
外から漏れる喧噪、彼が言葉を区切る度に齎される静寂。それらが緊迫した空気を作っている。
「貴女様の御身は勿論、思慮や望みなどの在り方まで。その全てをお守りできなければ意味がありません」
凛と張った、一室に良く通る声。
しかし噛みしめるようにゆっくりと、丁寧に言葉は紡がれていく。
「御身をお守りした果て、貴女様が聖女として世界の中心に立たれることになったとしても。クリスティーナ様としてのお姿を失ってしまっては意味がないのです。貴女様の心も守れなければ、意味などないのです」
公爵令嬢として暮らしていた時のクリスティーナは自身の選択に疑問を覚えることは殆どなかった。
異を唱える時は堂々と矢面に立ち、自身が正しいと信じ、または望んだ選択であれば周りの批判や反対に折れることはしない。そういう振る舞いを続けてきた。
しかしクリスティーナは知っている。それが許されていたのは公爵家という国でトップクラスの地位にクリスティーナが立っていたからだ。
裏で彼女のことを悪女と囁く者達も、堂々と歯向かうことは出来ない。例え裏で手を下そうと目論む存在があったとしても、それを押さえ込むだけの圧倒的な力が公爵家にはあった。
仮に公爵家にいた頃のクリスティーナが今と同じ状況に立たされたのだとしたら、迷うことなく護衛を引き連れて森へ向かうはずだ。
多少無茶な選択を取ったとしても、自身や護衛が受ける損失は小さなものだから。クリスティーナの決断一つで公爵家の権力や武力が揺らぐことはないのだから。
だが今は違う。
護衛は二人のみ。更にクリスティーナはいつどこで命を狙われてもおかしくない立場である。
クリスティーナが己の正しさのみを信じて突き進めば、自分も護衛の二人も、容易に危険へ陥る可能性だって考えられる。
故にクリスティーナは自分の身を弁えて選択をしたつもりだ。
例えそれが自身の望んだ選択ではなくとも、今の自分の立場では仕方がないのだと言い聞かせた。
しかし目の前の従者は、そんなことはしなくてもいいのだと言う。
今までのように自分の道を進めばいいのだと。
「勿論、御身が最優先ではあります。体無くして心は存在し得ませんから。故に不測の事態には貴女様のお気持ち全てを優先することは出来ないかもしれません」
一度伏せられる瞳。
しかしその視線が再びクリスティーナへ向けられたとき、彼の唇は柔く弧を描いていた。
「しかし場面に応じて的確に取捨選択を行うことは元より我々の仕事。何かが起こる以前から全てを貴女様が背負う必要はないのです」
再び静かに浮かべられる微笑。
安心させるように、そして言い聞かせるように、彼は言った。
「私のことはどうぞお気になさらず。貴女様の望むこと、向かう先こそ私の望む道でございます。クリスティーナ様」
鮮やかな赤い瞳は、どこまでも真っ直ぐと主人を見つめる。
優しくも確かな意志の強さを孕むその視線は、クリスティーナの悩みすら消し飛ばしてしまうような心強さを与えた。