第30話 ピクニック
漸く森へ足を踏み入れた一行はノアの案内に従って道を進む。
森の中へ入ってからは流石にすれ違う人の数もまばらとなり、声を掛けられることも殆どない。
「ノアってなんて言うか……顔が広いんだな」
「あはは、よく言われるよ。……あ、この辺りで右かな」
馬車道の途中、しみじみと呟かれたエリアスの言葉に笑っていたノアが足を止めて脇へ逸れた。
道らしきものは一切見当たらず、無造作に生えた木々が広がっている。
膝丈ほどまですくすくと育った茂みを大股で踏みしめて先導して見せる彼の背にリオが声を掛ける。
「危険ではないのですか」
魔物は本来、殆ど人里へはやってこない。
それはつまり人がいない場所に潜んでいるということに他ならない。
例え舗装された商人用の馬車道を使っていたとしても、人里から離れているだけで魔物に遭遇することがある程だ。実際にイニティウム皇国を出てからのクリスティーナ達は何度か魔物からの襲撃を受けていた。
人が使う為に整えられた道ですら完全に安全を保証することが出来ないのだ。リオの発言は道を外れて森を進めばそれだけ危険性が高まるのではないか、ということを危惧してのものだろう。
「大丈夫だよ。道を外れると言ってもあと数分歩く程度のものだし、今まで何度も足を運んだことのある場所なんだ」
現在地は先程までいた街が遠目に確認できる程度の距離である。まだ人里から近いといって良い位置だ。
更に周囲に近くに獣が行き来した痕跡も見当たらない。
「それに、この森は魔物討伐の為に散策する冒険者も多くてね。こんな手前じゃあ魔物も怯えて出てこないのさ」
「冒険者」
有名な職業だが、クリスティーナ自身には馴染みのない職だ。
武術や魔法の腕に自身のある者達が金や浪漫を求めて選ぶ職であり、他者からの依頼を熟すことで収入を得る完全歩合制の世界。依頼は猫探しや軽いおつかいから始まり、傭兵の真似事や魔物の討伐など体を張る仕事まで多岐にわたるという。
冒険者を取り上げる著書も、実際に名を轟かせるに至った偉人も数多い。故に栄光を手に入れようと夢見て冒険者の道を歩む者は後を絶えないらしい。
また、冒険者は身分や出自を問わない為職を失った者の受け皿となることもある。
しかし生計を立てるには猫探しなどの所謂「簡単な仕事」だけでは不可能。体を張ることを求められる仕事を熟さなければ生活すらままならないという厳しい現実も待っているという。
故に冒険者という職は人々へ夢を与える反面、死者を多く出している職業と言える。
クリスティーナが冒険者という職に馴染みがないのは彼女が貴族だからに他ならない。
命を懸けずとも生活に困ることがなかった公爵令嬢にとって冒険者の道を歩む者の心中は図ることが出来ず、物語の中で語られる印象がどうしても強いのだ。
故に会話の中で当たり前のように出てきた冒険者という単語をクリスティーナは思わず反芻してしまった。
「興味ある?」
「……少し」
幸いノアはクリスティーナの反応を不審に思うこともなかったようだ。
クリスティーナは誤魔化すように頷く。
「あー、旅に金銭問題は付き物だしね。長旅の予定ならお金を稼ぐ方法は知っておいても損はないよ」
「確かに」
同意したのはリオだった。
「おっと、君が興味を示すのはちょっと予想外だったな。気になるのであれば後で続きを話してあげよう」
茂みをかき分けながら進んでいたノアは突如一歩大きく脇に逸れる。
同時に草を巻き込んだ風がクリスティーナ達の横をすり抜けていき、仄かな花の香りを届けた。
木々が規則性もなく好き勝手に立ち並ぶ景色は終わりを告げ、目の前には開けた空間が広がった。
背の低い雑草に混じった野花が微笑む花畑。きちんと手入れされた庭園の圧倒されるほどの華やかさとは違う、無造作に咲く花々。
それらは色や種類等もまばらで統一感など皆無であったが、一つ一つが小さな花から形成された花畑は人の手が入った庭園とは違う愛らしさを感じる。
「日も当たるし静かだし、見た目も悪くないだろ? ピクニックにももってこいさ」
パン屋の主人に持たされた紙袋を軽く掲げながらノアは片目を瞑ってみせた。
そういえば野に咲く花などに注目する機会は今まで殆どなかったが、悪くはないとクリスティーナは思った。
特に最近は魔物の血やら従者の生首やらやけに血なまぐさい光景を目の当たりにしてきたこともあり、そよそよと風に身を任せて揺れる小さな花の姿に気が緩んでしまいそうだ。
「貴方って多少は気が利くのね」
俺みたいに気が利く奴はそういないよ、と冗談めかしの声が返ってきた。
バゲットにハムとレタス、チーズ、ペースト状の卵を挟んだサンドイッチは見た目以上に食べ応えがあって一行が満足するには十分な食事だった。
案内人が言った通り魔物が現れる様子もなく、ただただ平穏な時間は思わず自分の立場を忘れさせてしまいそうな程のどかだ。
「そういえばさ」
指についた卵を舐めながらノアが呟いた。
ただの世間話程度のつもりなのだろう、彼は食べかけのサンドイッチへ視線を落としたまま続けた。
「レミが君に謝っておいて欲しいって」
「……それは、一体何に対しての謝罪かしら」
昨日の昼間……彼から感じた嫌悪感と手を振り払ってしまった時の彼の表情を思い出す。クリスティーナは動揺が滲まぬよう、なるべく淡々とした口調を続けた。
途中、具沢山のサンドイッチの食べ方に困ったらしいエリアスがパンの後ろから具をはみ出させて呻き声を上げ、ノアが笑いながら紙ナプキンを差し出してやる。
「何にって言われると難しいなぁ。ただ、何か君の気に障ることをしたんじゃないかって気にしてた」
「謝られるようなことをされた覚えはないわ」
事実、レミから直接的に何かをされた覚えはない。
自身の得た体験をもとにクリスティーナが勝手に苦手意識を抱いてしまっている訳だが、そこに彼の言動は一切関係ないのだ。
故に彼がクリスティーナを気に掛けている現状というのはおかしな話である。
「そっか。なら彼には特に気にしてなかったと伝えておくよ」
是非ともそうしてくれと心の中で答えながら新たに一口サンドイッチを齧る。
一方でノアは一足早くサンドイッチを食べきったようだ。胡坐を掻いた姿勢のまま伸びをしたかと思えばクリスティーナの隣で寝転がった。
「あいつ、不器用だけどいい奴なんだ」
「そう」
「うん」
仰向けに寝転がったままの彼の視線を何となく追ってみる。
ふわふわと柔らかそうな雲がぽつぽつと浮いている、綺麗な青い空。
傍で無防備な姿を晒す存在があるからだろうか、尚更緩んでいる空気を感じながらクリスティーナは暫くぼんやりと空を眺めた。
空に美しさを見出し、何もせず見上げるだけ。
そんな時間の過ごし方をしたのはいつぶりだっただろうかと考える。
悪くはないなと心の中で独り言ちながら、クリスティーナは最後の一切れを口に放り込んだ。