第一章エピローグ 賽は投げられた
イニティウム皇国、皇宮内。
建国祭から一週間程経過したある日のこと。
皇太子フェリクスは執務室で書類に筆を走らせていた。
紙の上を筆が滑る音、ページを捲る音。補佐の者も控えている為一人ではないが、互いに職務に集中している空間には一定の緊張感が漂っている。
「失礼します。セシル・レディング様がお見えになられました」
「入れてくれ」
しかし執務室の戸が叩かれたことによってその空気に綻びが生まれた。
扉を開けた騎士に促される形でセシルは室内へ足を運ぶ。
一方でフェリクスは傍に居た補佐へ視線を向け、退室を促した。
無言で下される指示に小さな頷きを返して立ち去る背中と閉まる扉。
それらを見届けてからセシルは柔らかく微笑む。
「失礼致します、殿下」
「その話し方はやめてくれ。今は誰もいない」
セシルはフェリクスの幼馴染であり、学院の同級生として親しい間柄を築いてきた相手だ。
フェリクスはプライベートで言葉を交わす際、友人に堅苦しい言葉を使われることを嫌った。
「では」
こほんとわざとらしい咳払いを一つ落とす友。
彼は備え付けられたソファへ座るよう手で示され、素直にそれに従った。
セシルは質の良いソファに腰を掛けてから話を切り出した。
「今日僕を呼んだのは、思い出話に花を咲かせる為ではないんだろう?」
「残念ながらな」
フェリクスはこめかみを押さえながら深く息を吐いた。
一方で目の前の友人は相変わらずの笑みを崩すことがない。まるでこれから話す内容が粗方予想が出来ているとでもいうようだ。
「毒の混入についてだが、当時失踪した使用人が遺体で発見された。死因は自殺。当時のいくつかの証言からも彼女が犯人であった可能性は高い」
「そうか、やはり死んでいたか。目的はクリスへの冤罪か、君の暗殺か、それともあの場にいた三人全員の始末か……。何にせよ裏で糸を引いている存在がいると見て間違いはなさそうだ」
空色の瞳が細められる。
相変わらず口角は上げられているものの、その笑みは穏やかなものから嘲笑という言葉がふさわしいものへと変化していた。
彼の発言からその真意を汲み取るに、先日の暗殺未遂がただの一使用人による計画だとは考えていないのだろう。真犯人の自殺も、更にその裏で糸を引いている何者かによる口封じだと捉えているようだ。
セシルはとんとんと人差し指で膝を叩く。
「こちらも調査の結果は出たよ。リシアとクリスに関わった助産師も乳母も死んでいた。こちらも自殺だ」
「……そうか」
想定内ではあるものの、決して望ましくはない展開にフェリクスは重々しく息を吐く。
「しかし君の協力のお陰でクリスは旅に出た」
「あまりに無理矢理な提案ではあったがな」
フェリクスは事前にセシルからクリスティーナの正体を聞かされていた。
茶会の前にレディング公爵領で起きたことも、聖女を狙った犯行である可能性を危惧していたセシルの考えも、暗殺未遂が発生した時点で把握をしていた。
その為フェリクスが自身の暗殺の容疑者としてクリスティーナを疑うという考えははなからなかったし、それよりもいかに聖女である彼女の命を刈り取らないよう動くべきかという選択に迫られていた訳だ。
幸い、犯人はすぐに特定できた。皇宮の騒ぎに乗じて逃亡した使用人が一人いたからだ。
しかしセシルはその調査を進めると同時に真犯人の存在は秘匿するようフェリクスへ指示を出していた。実の妹に冤罪をかけようと言い出したのだ。
そして初めこそそれに反対したものの、フェリクスは結局それに従う決断をした。
「……彼女には、私が愚かな権力者に見えたことだろう」
我ながら随分と横暴に事を運ばせたものだと苦笑せざる得ない。
一刻を争う中、手段を選ぶことが出来なかったのは口惜しいことだ。
「それだけではないな。この先、国民の目には私が無能な皇太子として映ることだろう」
「惜しくなったかい? 自身の名声が」
「惜しくはないと言えば嘘になるな」
揶揄うように喉の奥で笑う友。
その言葉に肯定する一方で、フェリクスの決意は固まっていた。
「私の使命はこの国の繁栄を色褪せさせないこと。国を守ることだ」
フェリクスは目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは街を行き交う人々と使用人、友人など自分と関わりのある人々の笑顔。
先人が残した平和という宝物。
それらが穢される未来を避けられるというのであれば保身を二の次にする覚悟くらい、皇太子となり国を背負う運命を定められた日から出来ているというものだ。
「その為ならば嫌われ者も喜んで引き受けよう。その末に玉座を降りることになろうとも構わない」
「流石は僕の友だ。君のような友を持てたことを誇りに思うよ」
セシルは満足そうに深く頷いた。
信頼を置く相手からの称賛は嬉しいものだ。フェリクスも笑みを返した。
「どのように転ぼうと、僕達に待つのはきっと茨の道だ」
セシルの言葉にフェリクスは無言で肯定をする。
この意志が少しでも揺らいだその時、自分達は自ら選んだ道に傷つけられることになる。
「賽は投げられた。先のことは彼女達に掛かっている」
セシルの瞳がフェリクスの後方にある窓へ向けられる。
彼の瞳と同じ色を持つ広々とした空。
皇宮を見下ろす陽の光、どこまでも続く空。
その下を一羽の鳥が羽ばたいていった。




