第189話 敵意の矛先
親子が立ち去ったのを見送った後、ヴィートは抑える気のない深い溜息を吐いた。
そしてクリスティーナの腕を引くと焦りをにじませた形相のまま小声で捲し立てる。
「もー! びっ、くりしたよ。ニコラの事バラすんじゃないかって……!」
クリスティーナを引き寄せ、小声で話しているのはブランシュに会話の詳細を聞かれない為だろう。
念の為、彼女が聞いていないことをクリスティーナ自身も確認してから
「まさか。名の知れた怪盗と知人だと主張しても大抵は嘘か誇張だと思うでしょう。焦るのは事実である事を知っている場合だけだわ」
「うーん、確かに。実際それは正しかった訳だし。……おれはびっくりしたけどね!」
クリスティーナから手を放しながらヴィートは口を尖らせる。
だがその視線がクリスティーナからブランシュへと移動したところで、彼は不思議そうに首を傾けた。
「……ブランさん? どうかした?」
「え……あっ」
クリスティーナとヴィートが声を潜めて話す間、ブランシュは一人考え込む様に難しい顔をして黙っていた。
それに気付いたヴィートに声を掛けられると彼女ははっと我に返り、やや動揺を見せる。
「いえ、大したことではないんですけど。『遊翼の怪盗』はどんな人なんだろうと。皆さんのお仕事と『遊翼の怪盗』の目的を鑑みるに、彼も皆さんのお仲間なんですよね?」
「あー……まあ、そうだね。協力関係ではあるかな」
取締局の素性をブランシュがどれだけ把握しているのかが定かでない以上、それに関わる問いを投げられたとしても遠回しな言葉で誤魔化すしかない。
故にヴィートは『遊翼の怪盗』が仲間であるとは断言しなかった。
ブランシュもまたそれを言及することはせず、自身の中に生まれた疑問に頭を悩ませている様だ。
「……私、『遊翼の怪盗』は傲慢で自分勝手な人だと思っていたんです」
「おー」
クリスティーナとヴィートはオリヴィエの姿を思い浮かべながら否定できない事実に口を噤む。
ブランシュはワンピースの裾を両手で握りながら視線を落とした。
「父は、皆さんや『遊翼の怪盗』の為に手を貸すことを惜しまなかったはずです。父の協力が役立つ場面もきっとあった事でしょう。……ですが父が不自然な失踪を遂げた後、父を助けようという動きは殆ど見られなかった」
「言っとくけど、おれ達は探してたからね? 表立って動けない事、成果が上手く出てない事は申し訳ないと思うけどさぁ」
「わかっています。ディオンさんとお話をさせていただいた事や、こうして私の気持ちを尊重して無理を通してくださっているという事実で皆さんに対する疑念は完全に消えていますから」
ヴィートは不貞腐れ、口を尖らせる。気を悪くしたことがすぐにわかるその態度を見たブランシュはすぐに頭を下げた。
「……ただ、『遊翼の怪盗』に対してはどうしても良い印象を抱けないんです」
ブランシュは視線を落としたまま顔を歪める。
葛藤や拒絶、願望、必死さ。それらが入り混じった表情の中、クリスティーナは僅かな違和感を感じる。
「『遊翼の怪盗』はその間も古代魔導具の回収の為に街中を駆け回る癖、その力を父の為には使ってくれない。……だから、自身の目的さえ果たすことが出来るならばその為に手を貸していた者がどうなろうとも気に掛けない人なのだと」
「それは少し……主観が入り過ぎな気がするわ」
違和感の正体を探りながら、クリスティーナは口を挟む。そしてブランシュの発言に一つの指摘を落とし込もうとした時。ブランシュはクリスティーナの話を待つことなく自らの発言を続けた。
「わかってます。今の私があまり冷静ではない事は。でも……怪盗として街を暗躍する彼が父の為に尽くしてくれたのなら、もしかしたらもっと早く手掛かりが見つけられていたかもしれないと……」
そこでブランシュは一度言葉を切る。
そして自身の気持ちを落ち着ける為に深く息を吐いた。
「……そう責める気持ちを消すことが出来ないのに、さっきの女の子の話を聞いてしまって……『遊翼の怪盗』の善行を耳にしてしまったからこそ、私の認識の彼との齟齬に動揺してしまっているんです」
「貴女は……」
ブランシュの中には『遊翼の怪盗』を悪として確立させたいという意志がある。
だからこそ彼の他者を思う様な行いが彼女の気持ちに揺さぶりを掛けて動揺を齎す。
では彼女が『遊翼の怪盗』を悪と定義付けたい理由は何か。その疑問に一つの答えを見出したクリスティーナはそれを静かに口にした。
「……貴女はきっと、お父様を心配する気持ちと彼を助けることが出来ないやるせなさを他者を責めることで和らげようとしているのだわ」
「他の人を責めることで……」
「自衛の為に他者を嫌う事事態が悪いとは思わない。……けれど、逃避の為に誰かを悪と呼びたいのなら、一度踏み止まって考えなさい。その時の感情のみで動いた結果、後悔することがないように」
ブランシュの主張は客観的に見るのであれば滅茶苦茶だ。だが、自分を苛む罪悪から逃れるべく他者を責めてしまう心理は人の弱さの一つとして備わっているものであることをクリスティーナは知っている。
故に、クリスティーナがブランシュに与える助言は一つだ。自衛の為に誰かを批判したいのならばせめて後にも後悔をしないという自信を持ってから行うべきであるというもの。
自衛という目的を貫くのならばそれによって自身が傷を負う事のない様あるべきだ。そして感情に振り回された勢いのみで動いた時のリスク――自分が後悔する結果を招くかもしれない可能性についても把握しておく必要がある。
それでも尚、誰かを責めずにはいられないというのならばそれは本人の気持ちの問題だ。他者が干渉して変わるものではない。
故にこれ以上クリスティーナがブランシュへ言える事はないだろう。
自衛の為に他者を悪へと定義付けているという指摘、そして忠告。それらに思うところがあったからなのか、ブランシュはそれ以上誰かを攻撃するような発言をすることはなかった。
「……戻ろっか」
口を閉ざしあうクリスティーナとブランシュ。その間に流れる重い空気に気付いたヴィートが空気を切り替える為に二人へ笑いかけた。
三人はリオとエリアスの元へ向かうべく踵を返し、歩き出す。
クリスティーナとブランシュの間に残っていたぎこちなさもヴィートの明るい声掛けと時間の経過によって緩やかに溶けていく。
だが、クリスティーナの中に生まれた違和感は小さなしこりとなって彼女の胸中に残り続けていた。
ブランシュが『遊翼の怪盗』に向ける敵意とその理由。クリスティーナの至った『心配ややるせなさを和らげる為』という予測も間違ったものではないはずだ。
だが何かを見落としているのではないかという腑に落ちない感覚と小さな不安感にクリスティーナは密かに眉根を寄せたのだった。




