第166話 自らに求める物
一度それだと認識してしまえばそれを裏付ける物が次々と現れる。
よくよく観察してみれば『塊』の上部は一度窪んでから再度膨らんでいる。恐らくは人の首と頭部に該当する箇所だろう。
更に頭部に当たるであろう箇所には小さな凹凸が見られる。それが眼球や鼻、口であると今のジルベールならば容易に察することができてしまう。
苦悶や恐怖に満ちた顔。植物となってしまったそれらから個人を特定する事は難しいが、それでも彼らが身に纏っている服からオリオール邸に仕えていた者であることは明白。ジルベールの目の前に広がるのは跡を絶った失踪者達の末路であった。
「こんなことが……許されていいわけがない。何故ですか、旦那様……っ」
ジルベールは拳を握りしめ、肩を震わせる。
だがそれ以上取り乱すことはせず、募る思いを深呼吸とともに押し留めると彼は魔導具らしき物の有無を確認するように辺りを見回した。
「……リオ、手を放して」
一方でクリスティーナはすぐそばで広がっているはずの光景を思い返し、何も話すことができないでいた。
人の命を軽んじ、尊厳を踏みにじるような所業。ただでさえ見慣れぬ人の死という現象に加え、悍ましさを増した死に様。それらに対する本能的な嫌悪感はクリスティーナに恐怖を植え付けた。
それは大きな震えとなって現れ、クリスティーナはそれを抑え込むことができない。
そしてクリスティーナの心中に気付いているからこそ、リオは首を縦に振るわけにはいかない。
「いけません」
「もう大丈夫よ。それに、私が見なければ誰が古代魔導具の有無を見てくれるというの」
「それでもです。俺は御身を守れこそすれど、貴女の心まで守り切れるかはわかりません」
衝撃的な光景を目の当たりにすればクリスティーナは心に傷を負うだろう。もしかしたらトラウマとなってしばらく引きずり続けるかもしれない。
故に主人が望んだことであったとしてもリオは頷くことを躊躇していた。
「……お願いよ、リオ」
日頃気丈に振舞っていても、他の令嬢より肝が据わっていても、クリスティーナがただの一人の少女であることは誰よりも知っている。そんな自負はリオにはある。
そして取り繕えない程に困惑し、震えるクリスティーナの姿は長い付き合いの中でも殆ど目にしたことがなかった。
それ程までに恐怖を植え付けるものならば、彼女が胸を痛める要因となり得るのならばそれから守ってやりたい。
敬愛する相手が胸を痛める姿は見ずに済むのであればそうしたい物だ。
だが当の本人が何故だかそれを良しとしない。
主人との間に生まれた感情の乖離にもどかしさを覚えたリオは、クリスティーナの目を覆う手に僅かに力を込めた。
「守られ続けて貰える立場は身分とともに捨ててきたわ。……言ったでしょう。私、もうただのお荷物になりたくないのよ」
「『お荷物』にならないというのは何も敢えて自らが傷つく道を歩むことではないでしょう」
一度目のベルフェゴール襲撃後、二人きりの時に打ち明けられたクリスティーナの悩みを忘れたわけでは勿論ない。
元より不必要に助力を受ける事を嫌う節があることも理解している。
だがそれでも、何故敢えて自らが傷つく道を進もうとするのかがリオにはわからなかった。
「自棄だとか焦りで言っているのではないわ。ただ、恐ろしい事から目を逸らすだけじゃなくて、それを乗り越える力を身につけないといけないと思ったの」
「乗り越える力……ですか」
「そう。貴方の言う通り、身体的な問題の殆どは貴方達が何とかしてくれるでしょうし、私が貴方達の領域まで上りつく事は出来ないでしょう。けれど精神面の弱さは私自身の問題。切迫した状況下での動揺で足を引っ張るようなことはしたくない。最早守られるだけの『お嬢様』ではなくなった私には必要な物のはずよ……それに」
クリスティーナは自身の目を覆う手に静かに触れる。
彼女の瞼の裏を過るのはフロンティエールで見て来た光景だ。
優しさに甘んじ、それを利用する愚かさ。
思いやりは必ずしも同じ熱意で帰っては来ない世の理不尽さ。
理不尽な結末を知りながら他者の為に身を削り続ける者。
人の心が変わる瞬間。
保身をやめ、他者の為に一歩踏み出した者達。
やるせなさや苛立ちを覚える事はあったが、それに触れることでわかった他者の内面がある。他者を深く知れたからこそ築けた関係がある。
良いことだけが全てではない事をこの最近の出来事でクリスティーナは痛感していた。
「しがらみのなくなった環境で都合の良い物ばかりを目にしたくはないわ。良い物も悪い物もその全てを目に映した上で、自分のこれからを考えていきたいの」
『お荷物』になりたくないという自身のプライドの為も勿論ある。
だが、それ以上に聖女である自分がその力をどのような時に扱うべきかを考えていく為にも、将来自分がどう在りたいのかを考えていく為にも自分の目や耳に届く範囲の世界の姿程度は自身の胸にきちんと刻んでおかなければならない。そうクリスティーナは思ったのだ。
「もしかしたらすぐにどうにかなるものではなくて、苦しい思いをしてしまうかもしれないけれど……その時は貴方達に言うわ。だからその時は私が強くなる方法を一緒に考えて。……お願いよ、リオ」
リオがクリスティーナの身を誰よりも案じていることはクリスティーナもわかっている。
いつも身を挺してくれる事には心から感謝しているし、信頼もしている。
だがそれだけではいられない、いたくないのだという主張に耳を傾けて貰える様、クリスティーナは穏やかに語りかけた。
「守るだけではなく、見守って欲しいわ。遠ざけるのではなく、傍で支えていて欲しいの」
震えが止まった訳ではない。滲み出る振る舞いからは説得力を感じることが出来ないだろう。
だからその分言葉を尽くした。
リオは口を閉ざしながらクリスティーナの言葉を静かに聞いていた。
そして彼女が話を終えた後も数秒間沈黙を貫いた。
「……その言い方はずるいですよ」
僅かな間の後、重々しく開かれた口から咎めるような声が漏れる。
彼は一つため息を吐く。
「約束してくれますか」
「約束?」
「苦しい時はきちんと伝えてください。一人で堪え過ぎないでください」
「……ええ、約束するわ」
元より自らが通した条件だ。クリスティーナが突っぱねる理由はない。
そして己の身を案じてくれている相手に心労を掛ける我儘を通すのならば何らかの形で自身が報いなければならない物である。
「……それと、以前も申し上げましたが。俺は貴女様に不自由な思いをして欲しい訳ではないのですよ」
「わかっているわ。私を思っての事であるということくらい」
出来るだけ好きにさせてやりたい。けれど傷ついては欲しくない。
そんな思いに板挟みにされているリオの意図は汲み取れる。
主人に逆らった事や不自由さを感じさせてしまった事を後ろめたく思っているのか、リオは小さく言葉を付け加えた。
それに対し、クリスティーナが小さく笑みを零した時。彼女の目を覆っていた片手がゆっくりと下ろされていく。
「ありがとう、リオ」
視界が晴れる。
クリスティーナは深く息を吸い込み、もう一度眼前に広がる光景と対峙することになる。