第163話 逃走と反撃
一行は廊下を駆け出す。
リオに腕を引かれ、促されるようにして走り出したジルベールが困惑の声を漏らす。
「一体何が……!?」
「詳しいことは俺もわかりませんが、ッ」
「リオ……!」
突如、クリスティーナを抱えながら移動していたリオの重心が傾く。
主人を落としてしまわない様にと咄嗟に片膝をついたことで何とか転倒を防がれるが、彼の体調が芳しくないことは明らかだ。
「失礼、少し眩暈がしただけです。俺のことよりも、今はとにかく急いだ方がいい……そうですよね?」
「……ええ」
クリスティーナは後方を見やる。
リオとジルベールの身体能力が高いお陰で多少距離が離れてはいるものの、後方から『闇』が迫ってきている状況は変わらない。
例え体調が悪いと弱音を吐かれようとも、ならば足を止めて休もうと進言できる状況ではなかった。
「でもこの進路は不味いわ。使用人を巻き込んでしまう可能性もあるし……シャルロットに近づきすぎれば影響が出ないとも限らない」
「一度外へ出ますか」
「ええ」
今溢れている『闇』に隠し扉を開けた時程の禍々しさはない。
距離か遮蔽物の数か、恐らくはそのどちらかが闇の濃さに影響しているはずだ。
シャルロットに纏わりついていた『闇』が先ほど目の当たりにした物よりも随分薄かったのも同じ理由だろう。
つまり距離を取り、出来る限りの障害物を間に挟むことが出来れば『闇』が届かない位置を見つけることが出来るかもしれない。
だがこの不気味な黒い靄がどんな影響を齎すかわからない以上、自分達は勿論、すれ違う可能性のある人々にも気を配らなければならない。
自分達の逃走経路の途中に人がいた場合、『闇』に触れてしまう可能性がある。クリスティーナはそれが良くない事であることを何故だか本能的に悟っていた。
だからこそ、自分達が『闇』の標的になっている内は他者とすれ違うことを避けなければならない。更に、既に魔導具の影響を受けていると考えられるシャルロットを巻き込んでしまえば彼女の体長を悪化させてしまう可能性にも繋がる。
これらの理由から、一先ず人の行き来が少ないだろう場所を目指す必要があった。
クリスティーナの見解を聞いたリオは頷きを返すと再び立ち上がり、廊下の床を蹴る。
そして後続のジルベールへと視線を投げた。
「ジルベール様、この時間帯に人の出入りが少ない場所に心当たりはありますか?」
「……いくつかあります。現在はどこも人手が足りていない状況ですから、そちらへ向かえば他者と遭遇することは滅多にないでしょう」
距離を取りたいとは言え、館の敷地外へ出る為の門には見張りの兵がいる。彼らを巻き込んでしまう可能性を考えれば敷地の外へ逃れることは悪手だ。
つまりオリオール邸の敷地内でこの状況を解決する必要があった。
「ご案内をお願いしたいところなのですが……。玄関を通過すれば高確率で人と遭遇するでしょう。窓からの脱出を提案したいところなのですが」
「……窓ですか? ここは二階ですが」
現在地は二階。死ぬことはないが着地に失敗をすれば怪我をしてしまう高さだ。
クリスティーナとリオの身を案じたジルベールが複雑そうな顔をするが、それに対してリオは自信ありげに微笑んだ。
「俺達の事を気にしてくださっているのであれば、問題ありません。更に高い場所から落ちたこともありますから」
「崖から落ちても何とかなっているのだからこのくらい熟してくれなければ困るわ」
冗談っぽい口調のリオの言葉に耳を傾けながら、イニティウム皇国を出てから程なくして崖から落ちた時のことをクリスティーナは思い返す。
尤も、あの時のリオは首の骨を折っていた訳なので無事だったとは言い難いのだが。とにかく、自分達は問題ないという主張がジルベールに通れば問題ない。
そして二人の思惑通り、彼女達の大丈夫だという主張が根拠のないものではないことをジルベールは悟ったのだろう。
ジルベールは頷きを返すと廊下の窓を一つ、思い切り開け放った。
「あれの脅威がわかるのは私だけでしょう。先に行きなさい」
「……わかりました」
切羽詰まった状況で悠長に話し合う時間はない。そんな時間を作る暇があるのならば飛び降りる方が早い。
それはジルベールも理解しているのだろう。先に逃がされることに複雑な思いを見せたものの、彼は素直に頷いた。
そして窓の縁に手をつくとそれを軽々と跨いで宙へ躍り出る。
それを視界の端で見送ったクリスティーナは彼の背が窓の下へ消えた次の瞬間、『闇』を見据えて両手を翳した。
もう何度も扱って来た聖魔法の一つ。
ベルフェゴールと対峙した時、シャルロットに纏わりつく『闇』を祓おうとした時……それらの経験を思い起こしながらクリスティーナは魔力を籠める。
刹那、翳された両手が淡く光ったかと思えば襲い掛かる『闇』を呑み込む様な眩さを帯びる。
ほんの一時、辺りを白く塗り潰すかの様な光が放たれ、『闇』を呑み込んでいく。
クリスティーナ達へ手を伸ばしていたそれは一瞬の後に光によって掻き消されたのだった。
『闇』を晴らした光が収束する頃。音を立ててジルベールが着地をする。
宙へ躍り出た瞬間、彼は視界の端が白く染まる違和感を覚えたものの、背を向けていたが故にその正体を知ることは叶わなかった。
振り返った頃には全て事が済んだ後であり、ジルベールは結局それを気のせいとして頭の中で片を付けたのだった。
「クリス様、リオ様!」
着地地点から十分に後退したジルベールが二階で待っていた二人へ声を投げる。
「しっかりと掴まっていてくださいね」
「ええ」
それを合図にリオが窓の縁へと足を掛け、クリスティーナを腕でしっかりと抱きしめながら飛び出した。
直後に二人を包む大きな浮遊感。だがそれは長くは続かなかった。
急速に地面が迫る中、リオは一切体勢を崩さない。
そして確かな振動と着地音を伴って綺麗に両足を地面へ付いてみせたのだった。
土煙を僅かに立てながら、腰を落としていたリオが顔を上げる。そこには無事を知らせ、安心させるような微笑が湛えられていた。クリスティーナもまた、動じた様子もなく次の動きの指示を求める様にジルベールを見やった。
「こちらです」
二人が怪我を負っていないことを確認したジルベールは彼女達の様子に安堵の息を漏らす。
そして大きな庭の広がる方角を見やると二人を先導する様に走り出した。
彼の案内に従う様にリオも移動を始めたことにより、抱えられているクリスティーナも自ずとその場を離れる事となる。
抱きかかえられたまま、クリスティーナは『闇』の動きを把握する為に自分達が飛び降りた窓を見上げる。
自分達を追う影の姿はもう見られない。だが念には念を入れて距離を取っておいた方がいいはずだ。
クリスティーナ達は建物から離れるべく、その場を後にした。




