第145話 何度でも差し伸べられる手
突如、体を壊したシャルロットはその後も容態が良くならず、やむを得ず魔法学院を休学することとなった。
その事実を知った友人達からは定期的に体調を心配する旨の手紙が送られてきたが、その中に整った筆跡で書かれたやけに端的で愛嬌の欠片もないような手紙も紛れていた。
最早メッセージカードと変わらない程度の文字数しかないものであったが、それでも快調に向かうようにと思いを綴ったそれも、シャルロットは大切に保管している。
そして友人達への手紙の返事には必ず大袈裟に心配するようなものでもないと安心させる為の言葉を添えた。
(……嘘吐きだなぁ)
筆を机に置いて、書き上がった手紙を眺めながらシャルロットは心の中でぼやく。
重い体と時折霞む視界。食欲も以前よりなくなってしまった。
体調に明らかな変化が出ているというのに医者は原因がわからないという。
久しぶりに会った父は人が変わった様だった。
以前の様な温厚さは鳴りを潜め、久しぶりの娘との再会を喜ぶこともせず家族と過ごす時間も取らなくなった。
更に高価な骨董品を集め、それらに酔いしれ、稀にシャルロットと顔を合わせた際にはその良さを懸命に知らしめようとする。
常に笑顔を浮かべているのに、目は泥の様に淀んでいてどこか不気味な父。
怖かった。突然起きた体の変化も、親しかった相手の突然の変化も。
しかしそれを誰かに打ち明けることは出来なかった。
一日の殆どをシャルロットに付き添うジルベールは時折気を遣って声を掛けたが、それにも大丈夫だと偽りを返すことしかできなかった。
もう駄目だと一度言葉にしてしまえば、胸の内にしまい続けた恐怖が溢れて止まらなくなってしまいそうだった。
駄目かもしれないと一度でも口にしてしまえば、それが現実になってしまいそうだった。
どうしようもなく怖くて仕方がなかったからこそ、それを言葉にすることすら恐れてしまった。
書き上げた手紙をぼんやりと眺めている内、視界が滲み始めたことにシャルロットは気付く。
いけないと強く目を瞑り、深く息を吐く。
そして気持ちを落ち着けてから窓へと視線を向けた。
館を静かに見下ろす月と輪郭を曖昧に歪ませた夜の庭。
少しだけ夜風に当たれば気でも紛れるだろうかとシャルロットは窓へ手を掛ける。
しかし鍵を開けたその瞬間、シャルロットが力を加えるよりも先にやや乱暴に窓が開けられた。
突如吹き抜ける冷たい夜風。それに横髪を攫われたシャルロットは夜風の冷たさと差し込む月明かりに目を細めた。
「まだ起きていたのか」
聞き覚えのある、けれどやけに懐かしさを覚える声。
ここに居ないはずの『彼』の面影に、シャルロットは目を見開いた。
月明かりを背に受けたままシャルロット見下ろすオリヴィエは相手の驚いた表情に満足したように口角を上げた。
「お、オリヴィエ……どうしてここに」
「そろそろ会いたくなる頃合いだと思っただけだ」
冗談めかしに笑った彼はしかし、すぐに相手を咎めるように目を細めた。
全てを見透かしたような、自身に溢れた視線がシャルロットを射抜いた。
「僕を見縊るなよ、シャルロット。お前が吐く嘘くらい簡単に見抜けるに決まっている」
魔法学院にいるはずの彼が何故この場にいるのか。
一つの思惑がシャルロットの頭を過るが、そんなはずはないと彼女は無理矢理切り捨てる。
「お前は何かあったとしても人に助けを求めることが出来ない。そういう奴だ」
だがそんなはずはない、そうでないようにというシャルロットの願いを一蹴するように、オリヴィエは鼻で笑った。
「だから僕が来た。お前が自ら声を出せないのなら、僕が言わせてやる」
(やめて。その言い方じゃあまるで……)
恐怖を上書きするように、代わりに膨らみ始めた期待に気付いたシャルロットは顔を歪ませる。
必死に留めていた感情を無理矢理こじ開けるような、力強い言葉が降り注ぐ。
「幸いにも僕は稀代の天才だからな。お前の悩みを聞いてやることくらい些細なことに過ぎない」
(まるで――)
オリヴィエは窓の傍へ降り立つとシャルロットの顔を覗き込む。
自信に満ちた力強い笑みが真っ直ぐと彼女を見据えたかと思えば、それは真剣な眼差しへと変わる。
そして初めて言葉を交えたあの時と同じ様に、彼は手を差し伸べたのだ。
「だから言ってくれ、シャルロット。僕はお前の為に何をしてやれる? 今、お前にそんな顔をさせているのは何だ?」
(私の為だけにきてくれたみたいじゃん……っ)
事実、オリヴィエはシャルロットの異変にいち早く気付いて駆けつけたのだろう。
シャルロットの為だけに学院を抜け出し、国の端までやってきてしまった。
それは言葉で言う程簡単なことではない。ただの学生という身分であっても、親しい友人の見舞いに赴く為の時間と体力を惜しむものだ。
だがオリヴィエの場合それ以上に厄介な問題が付きまとう。友人の安否を心配して遠出をした、という言葉だけで事が済まされる訳がないのだ。
どのような理由であれ、自分とは違う想いを抱いているのだとしても、恋い慕う相手が自分の為に駆けつけてくれたことはとても嬉しい。
だが彼が抱えることになる問題を、彼のことを思うのならば偽りの言葉を貫くべきだとシャルロットは知っていた。
だが、そう結論が至った時にはもう遅かった。
溢れた涙が頬を伝い、心の奥底にしまっていた暗い感情が喉を通って零れ落ちる。
嗚咽混じりに吐き出された本心は止まらなかった。
オリヴィエはシャルロットの吐露に耳を傾け続ける。
そして一通り彼女の想いを聞き届けたところで、オリヴィエはシャルロットの頬へと手を伸ばす。
「……わかった。それがお前の望みなんだな」
濡れた目の下と溢れた雫を人差し指で掬い取りながら、彼は再び微笑んだ。
「必ず何とかしてやる。だから泣くな」
不安を微塵も感じさせないような声音。
だが威勢のいい言葉の後、彼は困った様に目を逸らすとやや言い淀んだ。
「……でも泣きたくなったらすぐに僕に言え。隠される方が癪だ」
「ふふっ……結局どっちなの」
「堪えるくらいなら泣いてしまえってことだ。お前が泣かないようにするのは僕の役目だ」
矛盾したような言い分や妙に格好つけきれない部分に気が緩んでいく。
溢れる涙が落ち着きを取り戻し、軽口を交えながら互いに笑い合う。
だが安心する反面、渦巻く不安と罪悪が確かに存在していた。
オリヴィエは嘘を吐かない。どこまでも実直で、自分が決めたことは貫き通す。
だからこそ彼の言葉は信用できるし、彼ならなんとかしてくれるだろうという期待を抱いてしまう。
だが、自身の選択は正しかったのだろうか。
彼に深い業を背負わせてしまってはいないか。
その特殊な境遇を思えば、彼が進もうとしている道が茨の道であることは明らかであった。
(……ごめんね)
話せば彼は必ず助けると言うだろうとわかっていた。
それでも全てを語ってしまったこと、それによって彼を巻き込んでしまったこと、これから彼を待ち受けるだろう困難。それを招いた自分の弱さにシャルロットは心の中で許しを乞うたのだった。




