第129話 消えない闇
「っ……!」
席を立ったクリスティーナはシャルロットの元へと駆け出す。
血を吐き、何度も繰り返し咽る彼女の背へ手を伸ばすも医学的な知識がある訳ではないクリスティーナはどうしてやることが正解なのかわからない。
だが助けを求めるようにリオの姿を探せば、彼は既にシャルロットの従者であるジルベールに声を掛け、使用人と館の主治医を呼ぶように投げかけていた。
すぐさまジルベールが使用人を呼びに行き、その場から姿を消す。リオも手を貸すべく彼と共にその場を離れていった。
「クリス様」
遠ざかる背中を見送りながら自身に出来ることはないかと焦るクリスティーナへと、傍へ駆け寄っていたエリアスが声を掛ける。
その声は動揺するクリスティーナとは打って変わって落ち着いており、安心させるような優しさを孕んでいた。
「なるべく下を向けるようにしてあげてください。咳が止まらない場合は優しく背中を叩いて吐き出すのを手伝って……とにかく喉を詰まらせないようにしてあげるのが大事です」
「え、ええ……。わかったわ」
「……それと、なるべく冷静さを装ってください。他者の動揺を感じれば本人の不安を煽ることにも繋がります」
次いで小声で囁かれた指摘にクリスティーナは我に返る。
血を吐き、体が異常を来している場で一番精神が不安定になりやすいのが本人であることは間違いない。
突然の出来事に動揺したクリスティーナは身体的な補助だけでなく精神的な支援もしてやらなければならない事までに気付けていなかった。
いつもはぞんざいな扱いをしてしまいがちな騎士だが、この時ばかりは彼が傍にいてくれてよかったと心から思う。
クリスティーナは小さく頷いてからシャルロットの背へ触れた。
刹那。自身の体温が急激に下がっていくような感覚をクリスティーナは覚える。
背筋が凍るような、冷水を頭から被ったかのような悪寒。
それは特定の場面で度々感じて来た不快感と類似していた。
「……っ」
何故、という言葉が思わず漏れそうになったのをクリスティーナは何とか呑み込む。
だがその胸中は動揺で渦巻いていた。
動揺していることにシャルロットが気付かぬよう取り繕い、彼女の背を優しく叩く。
しかし例の嫌悪感を覚えた直後、クリスティーナの視界は突如として歪んだ。
過る幻覚。エリアスを治療した際に見た際と酷似した感覚を齎しながら、その幻覚はここが現実世界であると思わせる程の生々しい感覚を以て、それはクリスティーナの意識を引きずり込む。
だがクリスティーナが幻覚を見ている間、現実で経過したほんの数秒程度であった。
意識が現実へ戻され、幻覚から解放された彼女が次に見たのはシャルロットの体に絡みつくような薄い靄であった。
それは僅かに黒みを帯びており、長い糸の様にどこかへ繋がるように漂っている。だがそれが向かう先は建物の方向であることしかわからず、明確な位置までは把握が出来ない。
ふとオリヴィエとの会話がクリスティーナの頭の中で呼び起こされる。
シャルロットが病持ちなのかと聞いた時の煮え切らない返答。
(……もしかして)
オリヴィエの発言、そして彼女に纏わりつく闇。そこから導かれる答え。
クリスティーナは眉を寄せる。
(彼女の不調の原因が単なる病ではなくこれにあるとするなら……)
クリスティーナは黒い靄を見つめる。
ゆらゆらと漂う闇。それ以上に大きなものをクリスティーナは打ち消したことがある。
医者で解決出来ない問題であったとしても、この闇が見える自分であれば何とか出来るのではないか。
そんな憶測がクリスティーナの中に芽生え始めていた。
クリスティーナは自身の周辺を軽く見回す。
エリアスはシャルロットへの応急処置をクリスティーナへ任せ、安心させる役割に回っている。
もうすぐ使用人が来ることを伝え、元気付けるような声掛けを続ける彼の言葉はクリスティーナにも届いていた。
今ならばシャルロットを除けば、クリスティーナの正体を知る者しか残されてはいない。
自身の力で解決できるものであるのかを試すには今が絶好の機会だろう。
そう結論付ける一方で、クリスティーナには躊躇う気持ちも存在した。
ここで聖女としての力を試せば自身の正体がバレてしまう可能性がある。もしそうなった場合、どう転ぶかはクリスティーナ自身にも推測は出来なかった。
「……ふたり、とも」
その時、掠れた声でシャルロットが言葉を発した。
口元を赤く濡らしながら、彼女は優しく笑いかける。
「たまに、あるの。……だから私はだいじょ、ぶ、だから」
「話さなくていい。オレ達の事は気にしなくていいから」
血を吐きながらもクリスティーナ達を気遣うシャルロットをエリアスが宥める。
だが制止の声を聞いても尚、シャルロットは声を絞り出した。
「ごめんね、しんぱい……かけて」
彼女の瞳がクリスティーナを見る。
優しくて、温かくもあり、不安定に揺れる瞳。
それを見たクリスティーナは歪みそうになる表情に力を籠めた。
そして自身を落ち着かせるように深く息を吸い込むと、シャルロットに触れている手の先に集中をする。
(……躊躇う事じゃないわ。使いたいと思った時に使わなければ、この力に翻弄されて終わるだけよ)
強大な力の運命に振り回されることが避けられないのであれば精々その渦中でくらい、自分の思う道を貫かなければ。
自分以外の要因によって不自由な思いをすることはクリスティーナにとって本意ではなかった。
故にクリスティーナは魔法の行使を決意する。
闇が掻き消されることを念じて、魔力の流れを感じ取る。
やがてクリスティーナの手は温かな光に包まれて、シャルロットに絡まり付いていた靄を掻き消していった。
だが次の瞬間。クリスティーナが覚えたのは僅かな違和感だ。
確かにシャルロットを包む闇は消えたというのに、クリスティーナ自身に残るのはあまりにもない手応えのみ。
今まで氷属性に準ずることはないであろう魔法を何度か使ってきたが、その際感じたのは倦怠感や魔力の消費したはっきりとした感覚だった。
そこから考え得るのは、今回の魔法の使用は魔力消費を殆ど必要としなかったということ。
それが意味することまでは分からないが、この手応えのなさは何故だかクリスティーナを不安にさせた。
「シャルロット様!」
そこへ、使用人を引き連れたジルベールが戻って来た。後方には手を貸していたリオの姿もある。
ジルベールと使用人達はすぐさまシャルロットを寝室へと運ぶ支度を始め、クリスティーナとエリアスは自ずとシャルロットから引き離されることとなる。
やれることもなく、シャルロットが運ばれて行く姿をクリスティーナ達は見送ることしかできない。
だが遠ざかっていくシャルロットの姿を見ていたクリスティーナは突如として鋭く息を吸った。
従者に抱きかかえられて建物へ向かうシャルロット。
彼女の体には先程祓ったばかりの闇が再び纏わりついていた。
嫌な予感は大きく膨らみ続け、クリスティーナはシャルロットの姿が見えなくなるまで、呆然とただその姿を見送ることしかできなかった。
一方で合流を果たしたリオは途中まではシャルロットを見送っていたものの、その視線を館の敷地の隅へと移動させる。
遠く離れた木の陰に身を潜めていたらしい一人の姿。それはやがて軽々と塀を飛び越えて姿を消す。
リオはその姿を静かに見送りながら赤い瞳を細めたのだった。




