第三章プロローグ 其の怪盗、変幻出没につき
宝石箱をひっくり返したかのような空と夜の闇を照らす家々の照明。
天も地も輝かしい鉱石で埋め尽くされたかのような様相を誇るのはフォルトゥナ西端、宝石の街ニュイ。
都心から離れた国境沿いの街ではあるが、アンティークや魔導具、宝石などの売買が盛んであるニュイでは常に多額の金が行き来する。
更に国境を越える観光客などの出入りは盛ん。更に希少な物品に執着している裕福層が一定数、表の通りに住まわっているお陰で常に大きな都市の一つとしての煌びやかな姿を誇示することが出来ている。
しかしその街は裏の顔を持つ。
煌びやかな姿を騙り続ける裏では高い税を払いきれず貧困差に苦しむ人々が困窮に耐えながら暮らしている他、高値の物品を狙った盗賊などの犯罪者が蔓延っている。
果てには貴族の手によって大掛かりなオークションイベントが定期的に開催されるも、完全会員制であるそのイベントの実態は違法な物品を取り扱う闇市と大差ないものという始末。
ニュイとは、金と欲とプライドという醜い姿を偽りで飾った街。
その街では最近、一つの通り名が噂になっていた。
***
偽りだらけの汚れた街。その地面を一つの影が蹴りつける。
ステップでも踏むかのようなテンポ感で、ブーツの踵が小気味よい音を鳴らす。
照明の少ない裏道。その上を駆ける者の姿を月明かりだけが照らし出す。
品の良いスーツを纏い、羽織ったマントをはためかせる男。男は素顔を晒すことを避けて身に着けられた、豪奢な装飾をあしらえた仮面で目元を覆っている。
単身で道を走り抜ける男は口角を上げてうっすらと笑みを浮かべる。
その時。
「待て!」
複数の足音が男へと近づき、進路を阻むように数名が道を塞いだ。
その存在に気付いた男の足がはたと止まる。
更にそれを追い詰めるかのように、彼の背後からも数名がやって来る。
「これはこれは。随分なもてなしだ」
退路を塞がれて尚、男は笑みを深める。
端を持ち上げたままの唇が穏やかな声を漏らす。
「その虚勢もいつまで続くか見物だな。いい加減観念しろ、盗人め」
男の声に答えたのは正面に立ちふさがる団体の中央に佇む人物だ。
色素の薄いブロンドの髪の中年男性。彼は一歩前へと進むと、その顔を焦りと怒りで歪ませる。
「おや、閣下。君のような身分の者がこんなところにいても大丈夫なのかな?」
「お前には散々好き勝手をされているからな。ひっ捕らえる瞬間を目の当たりにしなければ気が済まない」
飄々と振る舞う腹の底が見えない男。どこまでも余裕そうなその態度が閣下と呼ばれる男の癇に障る。
『閣下』が苛立ちを募らせ、それを僅かに顕わにする。
しかし仮面の男は愉快だとでも言うようにそれを鼻で笑った。
「ハッ! それはまた、光栄なことだ。まさか私のことをそこまで熱く想ってくれているとはね」
「その口調といい振る舞いといい、どこまでも腹の立つ男だ。――やれ!」
『閣下』は男を挟み込む者達へと襲撃の合図を出す。
男の体格はさほど良くもなく、『閣下』の引き連れる者達の方がよっぽどガタイは良い。更にここは非常に狭い道。大勢で寄ってたかれば難なく男を捕まえることが出来るだろう。
そんな推察の中、『閣下』は仮面の男が捕まるまでの過程を見届ける。
何人もの男が仮面の男へと突進し、その体を掴もうと腕を伸ばす。
しかしその瞬間。
仮面の男はポケットから出した小型の球体を足元へと投げ捨てた。
宙を舞った球体が地面へと衝突する。それと同時に球体は破裂音を伴い、煙幕を噴き出し始めた。
瞬く間に覆われる視界。襲い掛かった者達の動揺する声が上がる。
「慌てるな、ただの目くらましだ! 道さえ塞いでおけば奴の逃げ場など――」
統率をとるべく『閣下』はすぐさま指示を出す。
しかしそのすぐ真後ろで突如響くヒールの音。
軽やかに地へ足を付けた何者かの存在に『閣下』は息を呑む。
「さて、お遊びもここまでにしておこう」
「き、貴様――」
穏やかであり余裕を含んだ声。先程まで正面から聞こえていた声が真後ろから届く。
咳き込まないよう口元を覆いながら『閣下』は勢いよく振り返る。
立ち込める煙の中、僅かに人影が揺らぐ。
不鮮明な視界の真ん中に立つ仮面の男。彼は『閣下』へと見せびらかすように人差し指と中指の間に美しい宝石を挟みこんで笑みを深めた。
「今宵も私の勝ちだね、閣下」
「待て……っ!」
仮面の奥。全貌を曖昧に隠した瞳が細められる。
『閣下』はすぐ傍に立つ人物へと手を伸ばす。
しかしそれはいとも容易く躱されてしまった。
「良い夜を」
くすり。小さく笑う気配だけを残し、その体は煙へと溶け込んで消える。
すり抜けた腕を伸ばしたまま、『閣下』は怒りの余り顔の血管を浮かせて戦慄いた。
「遊翼……っ!」
煙に紛れて追手を撒いた仮面の男は、周囲に人影がないことを確認した。
握っていた宝石をしまい込み、一つ息を吐く。
次の瞬間、彼の体は重力に逆らうように宙へと舞い上がる。
体の重みを感じさせないような動きで浮かび上がった彼は近くの屋根の上に着地する。
そして目的地へ向けて屋根の上を駆け抜けていく。
偽りの美しさで飾られた街。
それを蔑むように見下ろし、踏みつけながら彼は行方を晦ませた。
優れた手腕で物品を盗み、貴族を翻弄していく男。
人の意表をつくように現れては追手が伸ばす腕を簡単にすり抜けて消えていく。
思いつきもしない場所から現れては去っていく謎多き青年。
彼には目に見えない翼が生えているのではないか、などとまで言われる程に、他者から見たその姿はあまりに自由であった。
――『遊翼の怪盗』。
それは突如として現れた正体不明の盗賊を指す言葉。
街の人々はいつしか彼をそう呼ぶようになっていた。




