第二章エピローグ3 災厄へのカウントダウン2
ノックを三回し、返事を待たずにノアは生徒会室の戸を開く。
「お邪魔しまーす」
「あ、ノア先輩、レミ先輩!」
「やあやあ、久しぶりだね」
生徒会室にいるのは現生徒会の成員と次期生徒会の成員。書類と向き合っていた面々は顔を上げてノアとレミを迎え入れる。
声を掛ける面々に挨拶を交わしながら、ノアは一人の女子生徒の元へと足を運んだ。
「やあ、レベッカ」
「あ、ノア先輩! よかった、ちょっと聞きたいことがあって」
声を掛けられ、笑顔で振り向くのは赤ぶち眼鏡とおかっぱ頭が特徴の女子生徒だ。
その傍では難しそうな顔をしている男子生徒が立っている。
「聞きたい事って、君は会計だろう? 引継ぎはジャンの仕事じゃないか」
「大体のことは伝えたんだよ! ただ、説明の途中で数字の合わないとこ見つけてさぁ。二人で一から書類見直してたんだけど、不備が出たとこ全然見つからなくって」
「それを探すのも会計の仕事だろう! 生徒会長は何でも屋じゃないんですけど?」
ノアがレベッカの傍に立つ男子生徒を訝しむように睨みつければ、参ったと言うように彼は両手を上げる。
二人の正面に積まれた書類は随分な量で、相当苦戦しているようだということが窺えた。
「……もー、しっかたないなぁ。問題があったのはどこ?」
「っ! ノア先輩ぃ!」
「さんきゅ! マジ助かるわ!」
口先では文句を言いつつも、ノアの視線は彼らが見ていた書類達へ向けられる。
それに対し、歓喜の声が二つ重なった。
数字のずれが見つかった箇所を説明する為にジャンが書類を一部差し出し、それを受け取ったノアは二人の仕事を手伝い始める。
(いや、何ちゃっかりと会計の仕事把握してるんだ……)
ノアが指示を出し、手分けをして山のような書類へ目を通していく。
そんな様子を後方で窺いながらも友人の相変わらずの容量の良さにレミは舌を巻いていた。
忙しなく働き始める三人の背中を静かに見守っていると、ふとノアが振り返る。
「あ、レミ。もし手空いてたらちょっと手伝ってくれない?」
「構わないけど……。ぼくは会計の仕事はよくわからないぞ」
「大丈夫大丈夫! 流れ作業だからそんな難しくないよ。流れはレベッカから教えて貰って!」
「レミ先輩、お願いします!」
ノアに続いてレベッカもレミへと振り返る。
赤ぶち眼鏡の奥で潤ませた瞳がレミの瞳を捉え、互いの視線が交差する。
その瞬間、レミはびくりと肩を震わせた。
硬直し、レベッカを見たまま顔を青くさせるレミ。
「……ん、レミ?」
「っ! ああ」
自分やレベッカの声に反応を返さないこと、不自然に身を硬くした彼の様子を不思議に思い、ノアが声を掛ける。
その声が届いたのだろう。暫し呆けていたレミはハッと我に返り、ぎこちなく微笑みながらレベッカの元へと歩み寄る。
(レミ……?)
一連の彼の反応を視界に捉えながら、ノアはふと疑問を抱く。
レミがレベッカの隣へ並んだのを見届け、自身の作業を再開して尚その疑問は頭の片隅に残っていた。
何度か作業をしているふりをしながらノアはレミの様子を窺う。するとその度に彼の異変を思い知らされる。
(やっぱり顔色が悪いな……)
初めは形容しがたい僅かな違和感だったはずのものがじわりじわりと確信へ近づく。
先程までは特に変わった様子もなかったはず。レミの様子が明らかに変化したのは彼が作業に取り掛かる直前、レベッカと目を合わせた時のことだ。
レベッカと目が合った途端見せたレミの表情がノア脳裏を過る。
固まった彼が見せた顔は恐怖。その一色で塗り潰されたかのようなものだったとノアは推察する。
それ以降から彼の顔色は悪く、言動もどこかぎこちなく感じる。
(うーん……レミは不調を自分から訴えるタイプじゃないしな。体調が悪いなら無理させるのも悪いし、声掛けた方がいいかな)
作業を並行させながらも、レミへ声を掛けるべきかをノアは検討する。
そこへふと、今朝の光景が過った。
学院を離れ、移動する最中。隣に並ぶクリスティーナ。
(……ああ、もう。気を抜くとすぐに思い出す)
恋の病は思いの外重症だと苦く笑いながら、ノアはため息を吐く。
今は恋愛沙汰に触れる時ではないんだよ、と自らの頭に文句を零す。しかしその瞬間、妙な胸騒ぎが彼を襲った。
(……待って)
当時のことを思い起こす。隣を歩く彼女が少し言い淀んでから告げた言葉。
――きちんと見ていてあげて。
それを思い出した途端、小さな胸騒ぎは正体不明の悪寒となって警鐘を鳴らす。
彼女の言葉の真意はわからない。この妙でいて不快感を伴う危機感の正体もわからない。
けれど何故か、今まさに良くないことが起ころうとしているという確信がノアの中に生まれていた。
「レミ――」
ノアは顔を上げ、レミへと声を掛ける。
しかしそれを遮るように彼とレベッカの間に積まれていた書類が床へと崩れ落ちた。
「あ。悪い、ぶつかったかも」
「いえ! 際に置いてしまっていたのは私ですから……!」
レミはノアの声に気付くことなくレベッカと共に落ちた書類を拾い集める。
その一連の流れに不審な点はない。
なのにノアの中に生まれた嫌な予感は膨れ上がる一方で収まってはくれない。
「ありがとうございます、レミ先輩」
レベッカは自身が集めた書類を一つに纏めるべく、レミの持っている書類の束へと乗せる。
親し気な微笑を浮かべながらレミの顔を覗き込んで、微笑みかける。先程よりも至近距離から、屈託のない笑顔が彼へ向けられる。
次の瞬間、レミの顔が歪んだ。
先程と同じ――いや、それ以上の恐怖を顕わにした顔。
彼の手から書類が滑り落ちる。
重みを持っていた紙の束が音を立てて床へと落下した。
「えっ」
レベッカが驚いた声を漏らす。
――異変はそこでは終わらない。
「先輩、もしかして体調が悪いんじゃ」
顔を蒼白とさせ、冷や汗を流すレミの様子にレベッカが気付く。
レベッカは心配するように彼へ近づき、声を掛け。
「レミせんぱ――」
手を伸ばしたその瞬間。
――レベッカの体が崩れ落ちた。
突如糸の切れたマリオネットのように、頭を床に打ち付けた彼女はそのまま制止する。
レベッカが倒れた音は他の仕事に勤しんでいた面々の耳にも届く。その場にいた全員が床に倒れた女子生徒の姿へ注目した。
時が止まったかのように重い静寂が生徒会室を満たした。
「……え?」
呆気に取られる誰かの声。
誰もが状況を理解できずに呆けていた。
ノアも同様だ。あまりにも急な出来事に思考の整理が追い付かず、立ち尽くしてしまう。
しかしそれでも真っ先に我に返り、行動に出たのは他でもない彼であった。
「っ、誰か保険医を呼んで! 近くに先生がいるならそっちでもいいから!」
「お、おお!」
混乱と恐怖が場を支配するよりも先に、声を張り上げる。
指示が飛んでから数秒の空白があったものの、遅れて我に返ったジャンが廊下を飛び出していった。
「落ち着いて! 騒ぎが大きくなると指示が通らなくなる!」
更に遅れて心配や不安から口々に言葉を漏らす生徒達をノアは一喝する。
そして倒れたまま動かないレベッカの元まで駆け寄った。
レベッカを仰向けに寝かせ、口元へ耳を傾ける。
しかし呼吸音は聞こえない。
(呼吸がない……っ)
出来る限り動揺を表に出さないよう、ノアはレベッカの首筋へと手を添える。
先程まで普通に接していた人物だったとは思えない程冷たい感触が指先から伝わり、それが嫌な予感と不安を増幅させる。
目を閉じ、指先へ意識を集中させる。
しかしどれだけ探っても、彼女の脈を感じることは出来なかった。
何とか可能性を見出そうと脈を図り直そうとも結果は変わらない。
絶望的な状況下に眩暈がした。それでもノアは何とか自分を奮い立たせ、意識を繋ぎとめる。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界に入るのは横たわる女子生徒の体と、立ち尽くす一人の爪先。
「れ、レミ……」
ノアは顔を上げ、目の前で立ち尽くす友の名を呼ぶ。
知人の死という言葉が頭から離れない状況下、動揺を上手く隠しきれないノアの表情を見たレミは何かを悟ってしまったのだろう。
青い顔のまま、放心状態であった彼の顔が絶望に彩られ、更に大きく歪んでいく。
鋭く息を吸う短い音がした。ひゅ、ひゅ、というか細い呼吸音が彼の喉から絞り出される。
その呼吸は不規則で、あまりにも浅い。
顔を蒼白とさせるレミは、数秒遅れて正常に呼吸が出来ないことに気付いたらしい。自身の喉を両手で押さえて苦し気に喘いだ。
堪らず蹲り、その息苦しさに涙を溢れさせる。
しかしどれだけ本能が酸素を求めようとも、彼の体がそれを拒絶する。
そして血の気の失せた顔で大きく震えていたレミは、やがて力尽きたように倒れ込んだ。
「っ、レミ……!」
意識のないままに浅い呼吸を繰り返すレミ。
更に人が倒れたことにより、混乱が広がる生徒会室。
生徒達の騒ぐ声の中、倒れる二人を目の当たりにして、どう動くべきなのかとノアは途方に暮れる事しかできなかった。
***
「……だから言ったのに」
その全貌を霧に埋める森林地帯、ミロワールの森。
奥まった場所に位置するとある洞窟の中、醜い獣たちに囲まれて横たわる少女は呟く。
その体は手足を一本ずつ失い、人としての姿も僅かにしか残せていない。だが回復速度は明らかに低下しているものの、それでも彼女の体は少しずつ修復が施されていく。
やがては失った手足も元に戻るだろう。
「予定とは違ったけど……仕方ない」
ベッドの役割を果たしてくれている魔物達の毛並みを優しく撫でながらベルフェゴールは双眸を細めた。
「災厄は始まった……もう誰にも止めることはできない」
ゆっくりと瞼を閉じる。
その裏に浮かぶのは白いローブの魔導師の姿。
彼はこの絶望を目の当たりにして、どんな顔をするのだろうか。
また足掻くのだろうか。それとも諦めてしまうのだろうか。
それとも彼が決断するよりも先に自分がその首を刈り取ってしまうのだろうか。
どんな結末でもいい。
どんな結末であっても、愉快なことには変わりがないはずだから。
赤い瞳は好奇心と殺意で鈍く輝いている。
「……待ってて。また会いに行くから」
――楽しみだね。
魔物の群れの中で少女は呟く。
洞窟の中、機嫌良さげに口遊まれる少女の歌声が小さく響いていた。