悪役令嬢は断罪されてこそ華となる
それは唐突に起こった訳では無い。
常日頃から行われていたことの延長であると言って良いだろう。
「あなたのような人がトリーク様の隣に居るのは相応しくありませんわ!それを何故理解できないのかしら?」
学園が社交界に慣れるためにと開いたパーティー。
そこに集う紳士淑女達はいずれこの国を運営していくであろう将来有望な若者たち。
その集まりに似つかわしくないヒステリックな声が上がった。
居丈高に一人の少女に罵声を浴びせる女。
名をマヨイ・ネースル。
彼女の横暴な振る舞いに誰もが眉を顰めながら、遠巻きにしている。
「恥という言葉を知っているかしら?男爵家程度ではそういった教育もできないのかもしれませんわね」
「っ……!」
罵声を浴びせられている少女は口を引き結んでそれに耐えている。
彼女がこういった仕打ちをされるのは今に始まったことではなかった。
この理不尽に罵倒されている少女は男爵家であるギュズター家の一人娘である、ショーコ・ギュズター。
何故、このような事をされているのか。
それにショーコは心当たりがあった。
「まったく……どういって取り入ったのかしれませんが、あなたが公爵令息であるトリーク様に相応しくないという自覚くらいはあるのでしょう?彼も迷惑している事がわからないのかしら?」
「トリーク君はそんな事……」
「なにかしら!?もう少し大きな声で喋ってくれませんこと!」
怒声が響き渡る。
赤いドレスを華麗に着こなすマヨイの姿は周りの女生徒達よりも大人びており、その姿だけでも存在感は抜群だ。
そんなマヨイが悪魔のような形相で声を荒げるのだから周囲への威圧感は絶大であった。
「どうせそうやって気弱なフリをして近づいたのでしょう!あぁ嫌だ嫌だ。トリーク様の優しい心につけ込んだというのね!」
「私は……」
「口答えをするんじゃありませんわ男爵家の娘風情が!」
ショーコとトリークは所謂、幼馴染であった。
公爵家の息子と男爵家の娘。
普通に考えれば身分が違いすぎる二人であったがこれには理由がある。
単純な事で親同士が仲が良かったのだ。
トリークの父とショーコの父は若い頃に戦場で背中を預けあった仲であり身分を越えてお互いのことを友と考えていた。
そんな二人に生まれた子供同士が仲良くなる事も必然であり、これが両家の間だけであれば何も問題はなかったはずだった。
しかし、歳を取ると共に世界は広がっていく。
本人たちが身分を気にしていなくても周囲はそうではなかった。
外から見れば家柄が違いすぎるし、両家の間にある心情的な繋がりは容易に見える物ではない。
そのため、魅力的に成長した公爵令息であるトリークの側に居る身分違いの恥知らず。
そう見られてしまうのがショーコであった。
「はぁ……いくら言ってもあなたは理解されませんのね?何故まだここに居るのかしら?普通の神経をしていれば学園を去るくらいはすると思うのですけど」
「……っ」
トリークの隣に居るショーコの事が気に入らないという人間は水面下にはそれなりの数が居ただろう。
しかし、それを直接的に指摘する人間などは居なかった。
当人同士が幸せそうにしているのだからそこに水を差すなんていうのは憚られる。
普通の人間ならばそう考えるだろう。
気に入らないからといって他人を攻撃できる人間は悪人だ。
そして、その悪人がマヨイだった。
彼女は事あるごとにショーコへと絡んでは罵声を浴びせた。
当然、トリークが居ない所でだ。
彼女が本性を表すのはトリークが居ない短い間だけ。
マヨイが孤立した瞬間に忍び寄ってきては彼女へ何度も嫌がらせをするのだ。
決してトリークにはバレないように。
そして、彼女が決して否定できない身分の違いという武器を使い執拗に叩くのだった。
「場違い。そう、あなたは場違いなのです。理解するまで何度でも言いましょう。あなたのような卑しき身分の者はあの方に相応しくないのですよ」
マヨイの言葉に反論をする事はできる。
“私達の間柄に口を出さないで”
そう言ってやりたい気持ちはショーコにもある。
しかし、ショーコは彼女が言う事も一理あると考えてしまう。
身分の違い。
公爵家と男爵家。
綺羅びやかな彼と至って普通の自分。
その事実が彼女の身体を縛り付け動けなくしていた。
いつもならばこのような催し物の際にはトリークが必ずショーコの隣に居た。
彼が居る限り、マヨイがちょっかいをかけてくるような事はできない。
遠回しな嫌味を言われる事はあってもここまで直接的な罵声を浴びせられる事はない。
しかし、今日はトリークが急遽欠席する事になってしまった。
そうなればこの悪女が黙っているわけなどない。
衆人環視の中で殊更に身分の違いを強調して周囲に向けて喧伝する。
ショーコがトリークには相応しくないという事を。
恥知らずな女であると声高に叫ぶ。
周囲に居る人達は誰も止めるような事はしない。
黙っているが誰もが心の何処かで思っているのだ。
マヨイの言う事も正しい部分もあると。
身分が違うと。
立場が違うと。
面倒くさい令嬢に目をつけられたくはないと。
それはいつもの光景。
そう、いつもの光景になるはずであった。
「そこまでだ!」
バンッ!と大きな音とともに扉が大きく開かれる。
誰もが息を呑み扉の方を見た。
そこに立っていたのは金髪碧眼の偉丈夫。
拳を強く握る姿からは彼の憤りが周囲に伝わる。
歯を食いしばり憤慨する表情からは彼の怒りが伝わる。
トリーク公爵令息であった。
「トリーク様っ!何故ここに……!」
今日は欠席するはずであった彼が現れた。
居るべきではない人間。
それによって困惑する人間たちが多くいた。
そして、一番動揺しているのは当然のことながら彼の婚約者を貶していた者。
守護者が居ないと思い込んで暴れていたマヨイであった。
「マヨイ・ネースル嬢。君がしてきた事は全て把握している。ショーコに対する執拗な嫌がらせ……私にバレないようにしていたようだが悪事はいつか白日の下に晒されるものだ」
「な……なにを言っているのです?」
「君の悪行を私は知ってしまったという事だ。全てを言わなければ君は理解できないか?」
トリークは呪い殺せそうな視線でマヨイを睨む。
周囲が何と言おうとも。
身分がどれだけ違おうとも。
トリークはショーコの事を愛している。
その大切な幼馴染を見えない所で傷付けられていたのだから当然の怒りだった。
「まさかこの学園にこのような人間がいるとは……身分……そんな物を理由に人を差別する人が居るなんてね」
「……っ!」
「マヨイ・ネースル。君は本当に醜い人間だ。君は身分身分と先程から言っていたが、それがどれほどの事だろうか?鏡を見てはどうだい?君の顔はまるで悪魔のような醜悪さだ。どれだけ身分が高くともそのような内心では全てが台無しだ」
静かに。
有無を言わせぬ迫力を備えてトリークがマヨイに語りかける。
その彼に気圧されながらもマヨイは己の過ちを認めるような事はしなかった。
「トリーク様!この際だから言わせてもらいますがこれはあなたのためを思っての事でもあるのですよ!」
「私のため?」
「そうです!あなた達がどう考えようとも身分の違いという物はあるのです!あなたは本当にこの女が公爵令息であるあなたを支える事ができると思っているのですか?」
もう取り繕うような事はしない。
そう思わせるような勢いをつけてマヨイが気勢を上げる。
既にショーコへと嫌がらせをしていた事をトリークは把握しているはずだ。
だからこそ、決定的な場面を抑えるためにこのパーティーを欠席するという嘘を付いた。
ショーコの側を離れたふりをして悪者を炙り出そうとした。
今この時はそういった経緯の集大成なのだ。
「支えれると思っているか……だと?」
マヨイから投げかけられた問い。
それは身分の違いを認識しろという事。
ある意味ではマヨイのいうとおりにトリークの事を思っての発言にも思える。
だが、そんな事はトリークはとうの昔に覚悟していたのだ。
「ショーコは確かに男爵家の娘だ。身分という話だけをするならば公爵家に相応しくないという声があるのもわかる」
トリーク自身、そういう問題があるのは理解していた。
どうしたって身分差というものはあるし、それはいくら目を逸らしたとしても無くならない物。
それについて悩んだ事もあった。
だから、もう結論は出ていたのだ。
「しかし!ショーコは私が認め、私が愛し、私が選んだ女性だ!このトリーク・シュルツがだ!それ以上に彼女が私の伴侶に相応しい理由など無い!」
会場に居る全員に聞こえるように。
そして、目の前に居る愛しい少女へと伝わるように彼は宣言した。
「トリーク君……」
ショーコの眼は潤み今にも泣き出しそうであった。
それは悲しみでも悔しさでもなく嬉しさのために流す涙だ。
ショーコがトリークのためを思って耐えていた時、トリークはショーコのためにマヨイの尻尾を掴むために動いてくれていた。
身分というどうにもできない武器を振るわれ、それを告げればトリークに迷惑がかかると思い耐える事しかできなかったショーコ。
その姿を見て、何も言わずとも彼はわかってくれていたのだ。
「きぃぃぃ!何故わかりませんの!?その女はあなたには相応しくないというのに!高貴な身分の者には高貴な身分の者が!下賤な身分の女には下賤な相手が相応しい!ただそれだけの事が何故わかりませんの!」
地団駄を踏み、髪を振り乱して絶叫する。
その姿は自信満々にショーコを貶していた令嬢の姿は無かった。
そこに居たのは誰が見ても無様という言葉しか似合わない女。
その姿は身分がどれだけ高くとも、その内心は醜く浅ましいという事をこれでもかと体現していた。
そして、化けの皮が剥がれたマヨイに対して好意を持つ人間などいるはずもなかった。
「おい!見苦しいぞ!」
「あんたのほうが場違いの邪魔者だぞ!」
「大体、あんたの家名だって聞いたことないわよ。いい加減にしたら?」
周囲で静観していた者たちが次々に声を上げる。
マヨイの有無を言わせぬ迫力に声を上げれずに居たが、彼等の多くも不快ではあったのだ。
身分というのは確かにある。
だが、それはあからさまにひけらかすのは下品な行為だ。
その認識は彼等にもあったのだから。
「なにっ!なんなのよ!さっきまで黙ってた癖に外野どもが!」
手のひらを返したようだった。
先程まで罵声を浴びせていたはずのマヨイが今では罵声を浴びる側となっていた。
「マヨイ嬢。君が行った蛮行は余さず学園側にも報告をさせてもらった。この学園は紳士淑女が学ぶ場だ。それこそ君のような人間が通うには相応しくない場所だよ」
「な……私をこの学園から追放するというのですか!」
「わかっているじゃないか。君の居場所はもうこの学園には無いんだよ」
腕の中にショーコを抱きしめながらトリークが口にした言葉は死刑宣告のようなものだ。
彼の実家であるシュルツ家はこの学園に多大な影響を及ぼす大貴族。
その令息からの訴え、言い逃れのできない証拠、現行犯と言って良い今の状況。
条件さえ揃えばマヨイをこの学園から追放する事などトリークにとって容易いこと。
マヨイもそれを悟っていた。
「そんなっ!どうか……それだけはどうかお止め下さい!」
「もう遅いっ!君がショーコに対してどれだけの事をしていたか……君が女性でなければ自分自身の手で殴り飛ばしたいのだ!そうされないだけありがたいと思いたまえ!」
「ひっぃ!」
トリークの怒声に哀れな悲鳴をあげるマヨイ。
その姿は数分前からは考えられないほど哀れだ。
身分を盾にショーコを糾弾していたのだから、更に高い身分を持つトリークにマヨイは抗う事はできない。
単純な話であった。
拳を強く握り、怒りで震え、目に涙を溜めたマヨイは出口へと歩き出す。
何を言おうとも自分の言葉がトリークに届くことはない事を彼女は理解した。
トリークはいつだってショーコの事が一番大切なのだという事をマヨイは深く実感していた。
そうして力無くマヨイはパーティー会場を後にする。
その場にいる誰もが彼女の背中へと冷たい視線を向ける。
だが、マヨイの事など見ていない人物が二人だけ居たのであった。
「ショーコ……すまなかった。つらい思いをさせてしまった。あの女の尻尾を掴むのに時間がかかってしまって悪かった」
「いいえ、良いのです。辛いことなどありませんでした。確かに私の身分が低いのは本当の事……」
「そんな事は関係が無い!私はショーコ……幼い頃から君の事が好きなのだから。それに、身分など結婚してしまえば同じ家になるだろう」
「トリーク君……」
後に残されたのは身分だけではなく周囲の視線をも気にする事無く抱き合いながらお互いの想いを確かめ合う二人なのであった。
◇
豪奢な部屋の中で一人深く息をつき、ソファーへと沈み込む女性が居た。
着ていたドレスが皺になるのも構わずに力を抜き、天を仰ぐ。
額に手をやって目を瞑っているのは先程までパーティー会場で罵声を浴びせられていた悪女。
マヨイであった。
「ふぅ……疲れた……あぁ疲れた……緊張したぁ……」
彼女は大多数の前で付けていた仮面をかなぐり捨て、会場から逃げるように自分の屋敷へと立ち去った。
あの場所にすでに彼女の居場所は無い。
もう、戻ることはないだろう。
そう思うと少しだけ寂しさをマヨイは感じていた。
先程までの事を思い返す。
公爵令息であるトリークに自分が行っていた事がバレた事。
トリークがショーコと熱烈に抱き合っていた事。
全てが終わった事をマヨイは自身に用意された屋敷の一室で改めて確認していた。
そうしてどれくらい経っただろうか。
彼女が居る部屋の扉がコンコンと叩かれ、そして扉が開かれた。
「おや。お疲れのようですねマヨイ様」
「あぁ、このような姿で申し訳ありません。でも、全てが終わったと思うと気が抜けてしまって当然ではありませんか?」
「ふふふっ。そうですね。本当にご苦労さまでした」
部屋の中に入ってきたのは初老の男性。
うら若き乙女であるマヨイとは接点が無さそうな人間であった。
「パーティー会場での顛末を見届けさせていただきました。旦那様も満足されるでしょう。シュルツ家一同から感謝を捧げます」
「それは良かったです。私としても手応えはありました。あなたから合格点を貰えたのであれば依頼完了というのに問題は無さそうですね」
老人はシュルツ家の執事であった。
そう。
トリーク・シュルツ公爵令息の実家であるシュルツ家の執事。
その男性がマヨイへと金貨が入った袋を渡す。
「こちらお約束の成功報酬でございます。金貨300枚。ご確認下さい」
マヨイはそれを受け取り確認していく。
何故、シュルツ家の執事がマヨイへと報酬を渡すのか。
それは依頼を完璧な形で達成したからだ。
では、その依頼とはなんだったのか?
「はい。確かに頂きました。これにてシュルツ公爵令息であるトリーク・シュルツ。そしてショーコ・ギュズターに対する悪役令嬢業務は完了したとみなします」
つまり、マヨイがショーコへと嫌がらせをしていたのはシュルツ家からの依頼であったのだ。
「我が主からの依頼とは言え、心苦しくなるような事ばかりをさせてしまいました」
「いえいえ。それで報酬を受け取るのですから当然です。それに、まさかこの歳になって昔に憧れていた学園生活を体験できるとは思っていませんでしたから」
マヨイの本当の姿は普通の感性を持った役者を生業とする平民の娘である。
本来の年齢も学園に通う年齢ではない。
童顔とメイクで上手に馴染んでいたとは言え、周りよりも少しだけ大人びていたのは当然だったのである。
そんなマヨイの本当の姿は先程のパーティー会場で喚き散らしていたものとはかけ離れていた。
身分を振りかざして他者を攻撃するなどしたことは無いし、したいとも思いはしない。
だから、自分でやっておいて自分の行いに眉を顰めるという事は何度もあった。
しかし、それをやるのが仕事なのだから仕方がない。
まともな人間ではやってのけない事をするから悪なのだ。
何故、そんな事をマヨイがする事になったのか、それには訳があった。
「最初は正気を疑いましたよ。架空の上位貴族の身分やら何やらまで用意して自分が可愛がっている子供達へ嫌がらせをしろだなんて。ほんと大貴族の考える事はスケールも何もかもが違うというか何というか……」
駆け出しの舞台役者であったマヨイはある時、小さな演劇の公演の帰り道でシュルツ家へと招待されてこの計画を告げられた。
そしてシュルツ家の当主、そして同席していたギュズター家の当主から依頼をされたのだ。
トリークとショーコの試練になって欲しいと。
何故そのような事を依頼するのかと困惑するマヨイに向けてシュルツ公爵は自らの考えを語った。
“絆を強めるには困難が必要。命の危険がある戦場でお互いに背中を守りあったからこそ公爵家であるシュルツ家と男爵家であるギュズター家が身分を超えた繋がりを持ったように。あの子達にも困難が必要だ”
その言葉と報酬の良さに釣られたマヨイは依頼を受ける事とする。
そうして彼女は家名を持たないマヨイからマヨイ・ネースルという架空の上位貴族となったのだった。
貴族の立ち振舞いなど何も知らなかったマヨイ。
彼女は学園への潜入前にこの老執事にミッチリとそこらへんを仕込まれたものだった。
挨拶や食事のマナーは勿論、貴族としての基本的な考え方や有力貴族の顔ぶれ。
ありとあらゆる知識をスパルタで仕込まれた。
もっともそれらは新しい演目だと思えばマヨイにとっては苦ではなかった。
演じる舞台が劇場か、それとも学園かという違いしか無いと思っていた。
結末以外の細かい部分は自分で台本を書かなければならないという事が一番辛いところだっただろうか。
そういう苦労の末にこの演目は成り立っていた。
そして、無事に終わりを迎えたのである。
「なんにせよ、私の学園生活はこれで終わりです。何かと苦労が多かったのでやっと終わるという思いが大きいですね。もう制服を着なくて良いのは本当に気が楽になりますよ」
「いえいえ、十分に制服姿はお似合いでしたよ」
「冗談を言わないで下さい。無理がないかなと気が気でなかったのですから」
準備が整い彼等が通う学園へ潜入し、チマチマとショーコをいじめて数ヶ月。
中々にストレスフルな日々であった。
本当はやりたくもないイジメをしなければいけないという事とともに、いつ本当の姿が誰かにバレてはしまわないかという考えが常に付きまとっていたからだ。
シュルツ公爵家が用意した身分は誰からも疑われる事無く機能した。
立ち振舞は徹底的に仕込まれたので自信はついていた。
一番心配していた容姿については元々が童顔なので制服さえ着れば年齢の違いは目立なかった。
そもそも年齢を偽って学園に通う者が居るなどと普通の人は想像していないのだからバレないのは当然だったのかもしれない。
しかし、マヨイ自身がボロを出せばそれで終わりという事は変わりがないわけで、中々に気が抜けない日々であった。
だが、苦労の甲斐はあったはずだ。
マヨイという悪女からの攻撃を耐え忍び、それを退けてお互いの想いを確認しあった彼等の絆は深まった事だろうと思う。
何もせず平々凡々と日々を過ごし、予定調和のように結婚をする。
そんな日常を繰り返すだけよりも印象深い一幕を提供できたはずという自負はある。
この演劇の内容を知っているのは私に依頼をした二人とこの目の前の老執事だけ。
知らぬ間に演者にされてしまったトリークとショーコは気の毒だとは思う。
彼等が求めた物では無いだろうし、余計なお世話と言えば間違いなく余計なお世話。
だけど、きっとこれは彼等の糧になる。
そう考えるのは役者としての、マヨイの信念でもあった。
「素晴らしい物語には魅力ある悪役が必要。私がその役を担えたのであればこんなに嬉しいことはありません。あの二人の行く末に幸がありますように祈っています」
それはマヨイの偽らざる本心であった。
この数ヶ月間、彼等だけを見ていたのだ。
あの二人の物語の一助となるように苦慮してきたのだ。
幼い頃から一途に想い合う微笑ましい男女がよりよき関係へと進む礎になるために動いていたのだ。
いつか、あの二人の子供が出来た時に
“お父さんは私をいじめから庇ってくれた格好良い男の人だったんだよ”
そんな昔語りにされるようにと。
「ところでですね。マヨイ様。もう少しだけネースル家の令嬢をやってみる気はありませんか?」
「どういうことですか?」
仕事をやり遂げたからには私はこの身分を返上しなくてはならない。
この屋敷もこのドレスもこの家名も本来の私の物ではない。
十分すぎるほどの報酬を受け取った私はただのマヨイに戻るはずであった。
だが、老執事はもう少しだけその名前を名乗らないかと言うのだ。
悪役令嬢となるためだけに作られた架空の貴族。
対象の試練となる事だけを理由に存在する存在。
今日、この時を持って消滅するはずの女の子を老執事は含み笑いをしながら見つめてくる。
「やはり、世間には困難こそが絆を強くするという考えを持つ人が少なからずいるという事ですね」
戸惑う私をよそに彼が一人の人間を部屋へと招き入れた。
シュルツ家の老執事と同じくらいの年齢に見えるその人はやはり著名な貴族の執事をやっているらしい。
そうして彼が私に依頼をするのだ。
「私の家からもシュルツ家と同様のご依頼を出したいのです。どうでしょうか?マヨイ・ネースル様」
その言葉に私は笑顔を浮かべる。
どこにでも居る平民の女の子はいつの間にか居なくなっていた。
代わりにそこに居たのは悪役令嬢。
野心に満ち溢れ、他人を平伏させる魅力を放ち、周囲に悪意を振りまき、そして最後には愛の前に敗北して去ってゆく。
そんな役目を担う令嬢が微笑む。
「悪役令嬢をご所望ですか?喜んで承ります。私が責任を持ってあなたがたの描く物語に悪の華を添えましょう」
悪役には悪役にしかできない役割があるよね