第八章 極楽浄土の攻防
伏見稲荷大社を後にし、JR稲荷駅から電車に乗って約二十分。宇治駅で降りた三人は十分ほど歩いて平等院の南門に辿り着いた。一番混む時間帯らしく拝観者の数も多い。
元々平等院は平安時代に創建された貴族の別荘だったが、のちに寺院に改められた。近くに流れる宇治川はあの世とこの世の境と言われており、対岸にある朝日山を見渡す地に極楽浄土は創り出されている。
寝殿造りの寺院や浄土を模して造られた庭園など、その全てが眼福だった。本当にあの世とはこんなに美しい場所なのかもしれないと錯覚するほどだ。
南門から入るとすぐ近くにミュージアムなどもあったが、涼は目もくれず鳳凰堂の方へと向かって歩いて行く。
道すがら目についたのは天下の三名鐘の一つと呼ばれている梵鐘だ。総高が二メートルにもなる巨鐘で、笠から口が穏やかなカーブを描いており姿形が美しい。竜や鳳凰、唐草紋や衣をなびかせた天人などの浮き彫りが素晴らしく、行き交う人々の足を止めている。しかし、これはどうやら復元されたものらしく、実物は国宝に指定されていて、ミュージアム内に収蔵されているという。
途中、桜や楓の木などを見かけたが、夏場ではピンクの花びらも紅葉も拝めなかった。もちろん深緑も悪くないが、季節ごとに様変わりする庭園の姿も見てみたい。とても見応えがあることだろう。
「涼、やっぱり鳳凰堂なんだな」
彼方が問うと、涼は鳳凰堂を正面から拝める阿字池の前で足を止めた。
十円硬化の絵柄でよく見ているが、本物の鳳凰堂は言葉を失うほどに素晴らしい。池の中央に中堂が東を向いて建てられており、そこから左右に翼を広げたみたいな翼廊が伸びている。中堂の背後の尾廊は池の向こう岸にまで達していて、まるで鳳凰の尾だ。この建物を上から見れば瑞鳥が翼を広げて飛んでいるように見えるだろう。
中堂には阿弥陀如来像が祀られているが、対岸からでも尊顔がよく見えた。
「……四羽の神鳥か」
涼が鳳凰堂を見据えて呟く。この鳳凰堂自体が神鳥と言えなくもないが四羽とはどういう意味だろうか。
ふと一瞬の静けさを感じて、彼方は心のままにスマホのシャッターを押した。
「もしかして、神鳥って鳳凰堂そのものを指すんやのうて、あの屋根に乗っとる鳳凰のことを言っとるんやないか?」
賀上が中堂の屋根の棟飾りを指さした。大棟の南北両端に金銅製の鳳凰が据えられている。二羽ともしっかりと胸を張り、鋭い目つきで両翼を広げて向き合っている。この阿弥陀堂が鳳凰堂と呼ばれているゆえんはこの立派な棟飾りにあるという。
「せやけど、二羽しかおらんな」
「どこか他にも棟飾りがあるんじゃないですかね」
なぜか涼が黙ってるので、賀上と推理し合っていると、三人の目の前に一羽の鷺が飛んできた。鷺は阿字池の真ん中に降り立ち、翼を二、三度震わせる。鷺を中心にして池に波紋をができるのを見て、涼がハッと顔を上げた。
「彼方。さっき写した写真を見せろ」
「さっき写したって鳳凰堂の?」
言われるがままスマホを差し出すと、涼は親指と人差し指で写真をズームした。
「あった。四羽の神鳥」
「え? スマホの中に?」
覗き込むと、涼は鳳凰堂ではなく阿字池をズームしていた。
「見ろ。鳳凰堂が池に鏡写しになってる」
「あっ、本当だ」
確かに、涼が言うとおり阿字池にはキレイに鳳凰堂が映っていた。まるで建物が二つあるように見える。実物を見たくて池に顔を向けたが、微風が吹いているせいかスマホの画面以上にはキレイに映っていない。
「ああ、なんか俺の母親が言うてたな。鳳凰堂が池に完璧に映るんは、無風の状態のときだけやって。少しでも池に波紋ができると、建物が歪んで映るんや」
「え? じゃあ、俺は運がよかったんですかね」
「せやな」
偶然とはいえ、彼方は自分の運の良さが嬉しくなった。
「不思議だな。本当に画面の中に四羽の鳳凰がいるように見える……」
「『極楽舞いし四羽の神鳥 水天下りて二羽の使いを阿弥陀に放つ』……」
涼がゆっくりと口角を上げた。どこか満足したような表情に、彼方は四文目の暗号が解けたのだと悟った。
「涼、答えがわかったなら教えてくれよ」
「水天とは水神のことだ。水難除けや雨乞いの本尊として信仰されている。つまり水天が下りるとは雨が降るという意味」
「雨が降る? ……ああ! 雨が降れば阿字池に映る鳳凰は……」
「そう、消える。そして消えた二羽の鳳凰は阿弥陀へ飛ぶ」
「阿弥陀って……中堂に祀られてる阿弥陀如来像のことか?」
「いいや。もっと遠くだ……」
「遠く?」
「これで、余計な暗号は全て解けたぞ」
微妙に顔を輝かせている涼に彼方と賀上は顔を見合わせた。
「余計な暗号? どういう意味だよ」
「全て解けたって、五文目もあるんやで。途中で放棄する気やないやろな」
「五文目は後だ。――完璧な答えをだすためには、まず賀上家に行く必要がある」
涼の言葉に、彼方はドキッとした。やはり、そこは避けられないのか。
「賀上、昨日頼んだこと家族には了承を得ているだろうな?」
「ああ、あの件な。別にかまへん言うてたで。うちのもんは宝探しを本気にしとらんからな。お父はんなんか半笑いやったわ」
「――?」
どうやら涼は彼方の知らないうちに賀上に何事か頼んでいたようだ。疎外感を感じていると、賀上がさっさと踵を返した。
「ほな、もうええ時間やし。そろそろうちに行こか」
「え、ええ」
尋ねそびれて鳳凰堂に背を向けたときだった。目の端に映った人影に彼方の心臓が止まった。とっさに数メートル離れた桜の木を見ると、サングラスをかけた男がこちらをじっと窺っている。
「嘘だろ……」
伏見稲荷にいたときから感じていた妙な視線。いや、伏見稲荷だけではない。昨日からだ。昨日の広隆寺からずっとこの視線は自分たちに絡みついていた。
「――!」
とっさに、足が男の元に向かう。
これだけ広い京都で、こう何度も鉢合わせるなんて不可能に近い。あの男は間違いなく自分たちの後をつけているのだ。
「彼方?」
涼に呼ばれたが、彼方は止まらなかった。
まず、あの男が自分たちに悪意を持っているのかどうか確かめなければならない。狙いがなんにせよ、これ以上付きまとわれるわけにはいかない。場合によっては警察に通報しなければならないだろう。
「――あの!」
唐突に声を掛けた彼方に、男は驚いて肩を揺らした。誤魔化そうとする余裕もなかったのか、慌てふためいて逃げ出す。
「おい、ちょっと待てよ!」
彼方はすぐに後を追いかけた。相手は脱兎のごとき早さだが、自分も負けていない。
「待てってば! あんた、なんなんだよ!」
彼方が男に追いついたのは、鐘楼の前だった。腕を掴んで男の足を止めるが、相手はどうにか追跡者から逃れようと必死に暴れた。
「離さんかい!」
「離すかよ! あんた昨日からずっと俺たちをつけてるだろう! なんの用だよ!」
「な、なにか勘違いしとるんやないか? 俺は君たちのことなんか知らん!」
「嘘つけ、あんた昨日広隆寺にも天龍寺にもいただろ? 俺、ちゃんと見てるんだからな」
「人違いや!」
懸命に逃れようとする男の手が、自らのサングラスに当たった。
「――えっ?」
地面に落ちたサングラスが硬い音を立てる。顔を隠すものが無くなったその顔に、彼方は強い衝撃を受けた。
男の右目の下には古い傷があった。ナイフで切ったような一文字の傷だ。目元には皺が刻まれ幾分歳をとっているが、この顔を忘れたことはない。
「……」
心臓が大きく跳ねた。動悸が激しくなり、幼い頃に感じた恐怖がよみがえる。
「あんた……」
彼方の力が弱まった隙を突いて、男は手を振り払って南門へと逃げていく。
「――ま……待て」
ほとんど無意識に、彼方は男の後を追う。どうにか南門に辿り着いたとき予想外の事態が起こった。
男が門の外に立っていた女の手を引いて走り出したのだ。女は引きずられるようにして男と共に逃げていく。
「……えっ?」
チラリと見えた女の顔に、彼方はひどく動揺した。
「――っ。どういうことだよ……」
女の顔には見覚えがあった。
京都に来た初日に訪れた宝泉院の受付の女性……そう、笹木の思い人のあの女性だ。
彼方は混乱して門の外に立ち尽くした。
「――彼方! おまえ、急になんやねん! いったい、なにがあったんや」
自分を追って来た賀上の声がどこか遠くで聞こえる。
「どうした、彼方」
涼の声だけがやけにはっきりと耳に届いた。頭の整理がつかないまま、彼方はフラフラと二人へ近づく。
「……いた」
「え?」
珍しく心配そうな顔をする涼に、彼方は我知らず抱きついた。
「――おい」
「ゆう……かいはん」
「?」
彼方は掠れた声を必死に絞り出す。
「……誘拐犯」
「――」
「誘拐犯がいた……」
涼の背中に回した彼方の手は、情けないほど大きく震えていた。