第七章 迷子の回廊
翌日、京都駅で賀上と合流した後、三人は電車で伏見稲荷へと向かった。
稲荷駅で下車すると、すでに人が道に溢れていた。伏見稲荷は日本人だけでなく世界中の人々に人気のスポットだ。外国人観光客が多いのも頷ける。
今まで回ったどの場所よりも人が多いので、彼方は密かに涼の体調を心配した。寝不足は解消されているだろうが、彼が人混み嫌いなのは変わらない。なるべく顔色の変化を見逃さないよう気をつけていないと、またダウンしかねないので怖い。
「ひゃあ、すごい人やなぁ」
「――人混み、しんどい」
「もうかよ」
堂々と聳える朱色の大鳥居を潜ったとたんに涼が弱音を吐き出したので、彼方は呆れた。見ると、涼は暗号文に目を落としたままだ。口ではああ言っているが、今は暗号に夢中なので人の多さにも辛うじて耐えられているようだ。
手水舎で身を浄め、彼方は眼前の楼門を見上げた。門の中はすぐに外拝殿がのぞいている。楼門も外拝殿もそれは見事な朱色だ。
ここは全国に三万社はある稲荷神社の総本宮だ。東山の最南端に位置する稲荷山に鎮座し、その起源は七一一年にまで遡る。『今昔物語集』や、かの有名な清少納言の『枕草紙』などにも書き残され、古くから人々に親しまれている名社だ。
「涼ー。下ばっかり向いてちゃもったいないぞ。それから、危ないから顔を上げろ」
天龍寺のときと同じ注意を促しながら外拝殿を参拝し、三人は千本鳥居へと向かう。
「ここは、たくさんの社があるんだな」
ようやく涼が周囲に気を配り始めた。敷地内のあちこちに社がたくさんあるのが不思議らしい。
「社だけやない。鳥居もお狐さんも多いで~」
「……」
涼は一つ一つの社に大きな興味を抱いたようだ。彼方も時間が許せば全ての社を回ってみたいが、いかんせん数が多すぎるのでそうもいかない。
拝殿の背後に回ると、いよいよ千本鳥居が見えてきた。
信仰の対象となっている稲荷山には『お山巡り』と言われる巡拝コースがある。そのスタート地点が『千本鳥居』だ。連なった朱色の鳥居は伏見稲荷のシンボルなので、暗号文の『朱の回廊』とも符合する。鳥居の一基一基は人々の崇敬から奉納されたもので、今では一万基を超えているという。
稲荷山の深緑に佇む朱色に圧倒されながら、三人は階段を登り始めた。
「ここ、夜中に来たら怖いねん」
「来たことがあるんですか?」
「ない。せやけど怖そうやろ。なんでも夜中に千本鳥居を潜ると別世界に連れて行かれるっちゅう噂や」
「どこの神社も夜中に行けば怖いですよ」
「そら、そうやな」
たわいもない話をしながら、延々と続く回廊を進んでいく。緩い登り階段とはいえ、感覚は登山に近い。体力がない者にはきついかもしれない。
「どうや、涼ちゃん。暗号解けそうかー?」
「丸投げするな」
「失礼な。推理の邪魔をしたらあかん思うて、余計な助言は控えとるんや」
賀上は心外そうに口をすぼめたが、明らかに嘘なのが悲しい。
永遠に続くかと思われた回廊が途切れ、少し開けた場所に出る。そこで足を止めた人々が、なぜか石灯籠の前に並んでいた。まだまだ先が長いのでスルーしようと思ったが、賀上がここまで来たら、これを試さないと損だと言い出した。
「なんですか、あの石灯籠」
「これはおもかる石っちゅうてな。灯籠の上に乗っ取る石を持ち上げたとき、重いか軽いかでその人の願いが叶うかどうかわかるんや」
「へぇ」
「――くだら……」
またもや身も蓋もないことを言いかけた涼の口を、彼方はとっさに手で塞ぐ。並んでる人たちに聞こえては申し訳ない。
「ちょっと俺試してくるから待っててや。お宝が見つかるかどうか、石に聞いてくるわ」
「行ってらっしゃい」
にこやかに彼方は送り出したが、涼は不満そうだ。
「非科学的だな」
「神社に来て、非科学的とか言うな」
「お前は行かないのか?」
「俺はいい。涼を野放しにしとくと、一人で勝手にどこかに行って、何するかわからないし」
「人を躾のなってない犬みたいに言うな」
「……」
それについては、彼方は否定しなかった。躾れば言うことを聞く犬の方が、まだマシかもしれない。
賀上の順番はしばらく先なので、途中の売店で買ったペットボトルのお茶を飲んで時間をやり過ごす。いい休憩になっているのか、涼も先を急ぎたいとは言わなかった。
賀上の姿が石灯籠に近づいてきた頃、ふと、妙な視線を感じて彼方は階段を見た。下からは黙々と登ってくる人ばかりで、特段彼方たちを見ている者はいない。
(気のせいか……)
実は、今朝ホテルを出た直後も何者かの視線を感じたのだが、怪しい人物はいなかった。涼の容姿がよすぎるので、変な輩に目を付けられたかもしれないと心配したが、どうやら思い過ごしみたいだ。
見ると、涼も階段の下をじっと見つめていた。
彼もなにか気になっているのだろうか。
一応単独行動を控えるように注意を促そうとすると、灯籠の近くが騒がしいのに気がついた。一組の若い男女が異様に焦った様子で、近くにいる人たちに声をかけている。
「――あの、すみません!この辺で五歳ぐらいの女の子を見ませんでしたか?」
どうやら、迷子のようだ。両親とはぐれてしまったのだろうか。
「アニメのマリーちゃんの赤いTシャツを着てピンク色のリュックを背負っているんですが……」
二人は必死に女の子を探している。これだけたくさんの人が溢れている場所で迷子とは大変だ。
「マリーちゃんって確か、子供向けアニメのヒロインだよな……」
日曜の朝早くにやっている、魔法少女ものだったはずだ。
「赤いTシャツを着た女の子か……。伏見稲荷は広いから、探すのも苦労するよな。子供の数も多いし……」
夏休みだけあって親子連れも多い。他人が女の子を目に止めていることはほぼないだろう。
「見つかるといいけどな」
「……」
なるべく行方不明の少女を気にしておこうと思いながら両親を見守っていると、二人は付近での捜索を諦めたのか下へと降りていった。そうこうしているうちに賀上が石灯籠から戻ってきた。
「どうでした?」
「うん……」
賀上はあからさまに肩を落とした。
「めっちゃ重かってん」
「……重かったんですか」
「あの石、鉛でも入っとんちゃうか!」
「でも、女性でもけっこう普通に持ち上げてましたけど」
「……」
賀上はガックリとして、トボトボと先へ歩き始めた。
「だから、くだらないと言うんだ。未来を石に託して一喜一憂するなんて時間が無駄だと思わないのか」
「涼!」
「……そやな。涼ちゃんの言うことは正論やな。……けど……重かってん」
石どころか心まで重くなってしまったのか、賀上はうっとうしいほどズシリと落ち込んでいる。それに苛立ったのか、涼は賀上の前をズカズカと歩き出した。
「宝が見つかるかはともかくとして、暗号は解ける。石じゃなくて俺を信じろ」
「――! りょ、涼ちゃん……」
きっぱりと言い切った涼に、賀上はほんのりと頬を染めた。不覚にも彼方も感動してしまった。なんだろう、とてつもなく心強い。涼のこういうところは本当に凄いと思う。
「涼ちゃん、惚れるわ~」
単純にも元気を取り戻した賀上の足取りが軽くなる。引き続き鳥居の階段を登っていくと、再び開けた場所に出た。
千本鳥居も途切れ、売店もいくつか並んでいる。緑と朱色ばかりだった頃は、太陽光が遮られていたせいで薄暗さを感じていたが、ここは日の光が存分に降り注いでいて気持ちがいい。たとえるなら母親の産道を通って生まれ出た赤ん坊のような気分だ。
「ここは四ツ辻っちゅうんや。お山の中腹にあたるから、京都市街が一望できるで」
見ると、鳥居越しに京都の街が見渡せた。もし、夜に来たらキレイな夜景が見られるだろう。
「これはいい展望ですね。ホッとしますよ」
「せやろ。まだまだ先があるけど、ここから引き返す人も多いんや」
「へぇ、もったいない」
「――京都市街か……」
涼は暗号を広げて、京都市街を見つめている。
「どうや、なにかわかりそうか? もしかして、守りなき日本国って、この京都の景色のことやったりして」
「いや……そうは思わない。広い意味で日本国を見渡せる場所ではあるが『守りなき』という文言には当てはまらないだろ。わざわざ書かれている以上、この一文が大切な意味を持ってるに違いないんだ。街を見渡せるならどこでもいいというわけじゃない」
「そうか」
賀上は残念そうだ。
「ほな、どうすんねん。この先へ行くか? それとも引き返してみるか? ここから戻れば別ルートでいろんな社や塚が見れるで」
「別ルートがあるんですか?」
「ほら、あそこから下って行くんや」
賀上が指さした場所は、今まで登ってきた千本鳥居とは別の階段だった。
「先には八島ヶ池っちゅう大きな池もあるで」
「八島ヶ池?」
涼が微かに目を見開いて賀上を凝視した。
「お? おう?」
「八島ヶ池……」
涼は階段の下に視線を移す。また微動だにしなくなったので、彼方は邪魔をしないで見守ることにした。
「ちょっと待ちましょう」
「せやな」
賀上も心得ているのか、彼方の横でおとなしくしてくれている。
「社……塚……?」
涼はブツブツと何か言っているが、よく聞こえない。なにか助けられないかと彼方も頭をひねっていると、子供の甲高い声が響き渡った。
「ママー!」
野球帽を被り青いリュックサックを手に持った小さな少年が、母親を呼びながら三人の前を通る。なんとなく見ていると、少年は石に躓いて盛大に転んでしまった。
「おっと、大丈夫?」
彼方は慌てて少年を抱き起こす。少年は膝をすり剥いていた。短パンだったので傷がむき出しで痛々しい。それでも少年は泣いたりはしなかった。関係ないが、この暑いのにジャケットを羽織っているのが気になる。最近は子供の日焼けを気にする親も多いと聞くが、その類いなのだろうか。
「ちょっと待って。お兄ちゃん絆創膏をもってるから」
そう言ってポケットに入ってた絆創膏を傷口に貼ってやると、少年はもじもじして俯いた。どうやら恥ずかしかったらしい。
少年が落としたリュックを探すと、涼が拾っていた。微妙に不思議そうな顔をしてリュックを見ているので、早く渡すように促すと、涼はリュックを少年に背負わせた。
「ありがとう」
相変わらずもじもじしながら少年は消え入りそうな声で礼を言う。
「服が汚れてるぞ」
おもむろに涼が少年の服や靴下の砂を払った。その手がふと止まり、少年の足元に釘付けになる。
「ママとはぐれたのか?」
「ううん、あそこのお店でジュースを買ってくれてる」
少年が売店を指さすと、ちょうど若い女性が中から出てきた。キョロキョロと周囲を見回している女性に少年が嬉しそうに駆け寄る。
「ママー!」
「りょう、離れちゃダメって言ったでしょ。――転んだの?」
「うん、あのお兄ちゃんが絆創膏を貼ってくれた」
少年が彼方を見る。女性が申し訳なさそうにお辞儀をしてきたので、彼方も笑顔で会釈を返した。
「りょうだって。お前と同じ名前だ」
「……」
「同じ『りょう』でも、あっちのりょう君はかわいいなぁ」
少し嫌味を込めて言うが、涼は反応しなかった。
女性は子供の手を取り、鞄から取り出したハンカチで少年の額の汗を拭った。仲良く手を繋いで、別ルートの階段を降りていく母子を何気なく見ていると、突然、涼が駆け出して女性の腕を掴んだ。
「お、おい!」
彼方は慌てて賀上と共に母子の元に走る。涼は女性を怖い顔で凝視したまま一言も声を発さない。
「……な、なんですか?」
怯えている少年を背中に隠して母親が睨む。無礼を謝りもせず、涼は少年の目線にしゃがみこんだ。微かに和らいだ表情に彼方は不覚にも見惚れる。涼は顔立ちが異様に整っているので、口角を上げただけでもかなりの破壊力なのだ。
それを自覚してやったのかどうかはわからないが、少年は自然と笑顔になっている。心を開かせるのには成功したらしい。
(まるで伝家の宝刀だな)
「君、お兄ちゃんのことを覚えてる?」
涼が話しかけると、少年は戸惑って首を横に振った。
「忘れちゃったかな? パパのお友達なんだけど。このまえ一緒に遊んだよね?」
「……」
少年は思い出そうとしているのか、何度も目を瞬いた。
「あの時は楽しかったよね。――そう言えば、ジャケット暑くないかい?」
少年は汗で額を光らせて、小さく頷いた。
「脱いだらいい」
「……でも、ママが怒る」
「大丈夫、赤いTシャツもかわいいかったよ」
「……ほ、ほんと?」
少年は嬉しそうに母親を見上げた。
「マリーちゃんのお洋服、かわいいって。ママ、脱いでもいい?」
「だ、ダメよ。――なんなの、あなた」
涼の思い通りに少年は導かれている。本当は、涼はこの少年を知らないはずだ。知っていたとしても、涼が子供の遊び相手になるはずがない。
彼方はなんとなく、涼の行動の意味を悟った。
「でも、暑いよ。ママ……」
「本当に暑そうだ。――汗が……」
涼は、そっと人差し指を伸ばし、少年の汗を拭う仕草を見せた。――と、いきなり涼の指が、少年の野球帽を弾き飛ばした。
「ごめん、手が滑った」
しれっとしでかした暴挙にギョッとしたが、彼方たちは違う意味でもまた仰天してしまった。
少年の帽子の中から、長い髪が流れ落ちたのだ。背中まである髪が、サラサラと風にそよいでいる。
「女の子……?」
女の子は男の子に変装していた。いや、変装させられていたのだ。
「りょう君やのうて、りょうちゃんやったんか」
「もしかして、あの迷子?」
おもかる石の側で、懸命に子供を探していた男女の姿が脳裏に浮かぶ。
「なにするんですか!」
当然、女は怒り出した。
これが、普通の親子だったなら、涼のしたことは非常識以外の何ものでもない。だが……。
「あなたのお子さんなんですか?」
彼方は厳しい目で女を睨んだ。明らかに女の顔色が変わる。どこか怯えたように少女を抱きしめると、少女も女の胸に顔を埋めた。
「なんや、ようわからんけど警察沙汰か? ……電話しようか?」
「ま、待って――!」
賀上がスマホを取り出すと、女は泣きそうな顔で叫んだ。
「警察はやめて。私はこの子と一緒にいたいだけなの!」
「……」
涼は静かに少女を見つめて「平気か?」と尋ねた。すると、少女は目に涙を溜めて大きく頷いた。
「ママと離れたくない」
「……わかった。――賀上、警察はいい」
「そ、そうなんか?」
拍子抜けしたように、賀上はスマホをしまった。涼は鋭い眼差しを女に向ける。
「どんな理由があるにせよ、こんなやり方はよくない。……この子の家族が探している。警察沙汰になる前に返してやれ。あんたと二度と会えなくなったら、この子がかわいそうだ」
「……」
諫めつつもどこか優しい声音だった。女は涼を睨んでいたが、やがて静かに頷いた。
「母親なら分別を持った方がいい」
「……あなたみたいな子供に何がわかるのよ」
女は唇を噛んでいたが、しばらくして一度だけ頭を下げた。
「警察には言わないで」
再びそう言うと、少女の手を引いて階段を降りていく。女は途中で立ち止まり、少女のジャケットを脱がした。帽子もかぶせようとしないところを見ると、もう変装させるのはやめたらしい。露わになった赤いTシャツの左下には、金髪の少女の絵が描かれている。あれはマリーちゃんだ。
ようやく暑さから解放された少女は、不安そうに女を見上げた。
「おうちに帰るの?」
「パパとおばちゃんがいるおうちにね」
「ママはおうちに帰らないの?」
「ママは帰れないの。あの家はもうママのおうちじゃなくなったから」
「なんで?」
「さぁ、なんでだろうね。大丈夫……ママがいなくても、パパとおうちがミホを守ってくれるから」
「……」
少女はそっと女に寄り添った。小さくなっていく二人の姿から涼は目を離さない。
「――おうち……」
小さく呟いた涼に、彼方は問いかけた。
「あの人、あの子の本当の母親なのかな。だとしたら、母親が子供を誘拐したってことか?」
「いろんな家庭があるさ」
涼の言葉には重みがあった。自分の家の事情と重ね合わせているのかもしれない。
「――でも、涼ちゃんは、なんであの子が迷子の子供やってわかったんや」
「そうだよな。見た目は男の子だったろ」
「あの子の靴下が、女の子のものだった。Tシャツと同じアニメキャラのヒロインだ。野球帽を被った男の子なのにおかしいと思うだろ。それに、背負ってたリュック。青色で男の子用のものだったが、ぺたんこだ。ほとんどものが入ってない。加えてこの暑い中、ジャケットを着てたら、変装させられてると気づくだろ」
気づくだろといわれても、そこまであの子を観察していたわけではない。迷子の情報が女の子だったこともあり、少女しか気をつけて見ていなかった。
「あの二人が親子だって気づいたのは?」
「あの子がママと呼んでたのもあるが、決め手はハンカチだな」
「ハンカチ?」
「あの人が自分の鞄から取り出したハンカチは、同じアニメのヒロインのハンカチだった。大人が持つものじゃないし、母親なら女の子の好きなものを自ら持って行ってもおかしくないだろ」
「……なるほど」
「――たぶん、離婚かなにかで引き離されたんやろうなぁ」
「ですね」
母親がおばちゃんと呼んでいたのは、父親と一緒にいた女性のことなのかもしれない。もしかしたら、あの子の新しい母親なのだろうか。
「なんにせよ、これ以上俺たちが口を出すわけにはいかないだろ」
警察に通報して、もし母親に親権がなかったら、彼女は捕まってしまうだろう。女の子にとっての最善の道を両親が選んでくれるのを願うばかりだ。
「行くぞ」
涼は親子と同じ下山ルートを下り始めた。
「上にいかんのか?」
「ああ。これ以上、体力を削りたくない。それに、なんとなくわかったことがあるんだ」
「わかったこと?」
「この先にある社や塚を見てみたい……おうちだ」
「……おうち?」
彼方たちにはわからない何かが、涼の頭の中では符合しているのだろう。推理力に欠けている二人はおとなしく従うしかない。
千本鳥居から大きく迂回して本殿に帰るルートは、賑やかな拝殿付近とは別世界だった。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、稲荷山に無数に溢れる小さな朱の鳥居や塚は、見れば見るほど異質で不気味だ。
伏見稲荷の『お塚』は人々の信仰の証ともいえる。塚の建立が始まったのは明治以降といわれ、その数は一万基を超えているという。山の峰は塚や鳥居で埋め尽くされ、一種の畏怖さえ感じる偉観だ。
涼は時々立ち止まりながら塚や社に見入っている。その真剣な表情は何かを探しているように見えた。
いよいよ拝殿に近付いてきた頃、大きな池が見えてきた。
「ここが八島ヶ池か?」
「えっと、さっき見た大社マップによると……、そうやないかな」
「なるほどな」
涼はわずかに目を見張った。
池の畔には大八嶋大神という御祭神がある。周囲は鳥居で囲まれているが、社殿は見当たらなかった。
「そうか。ようやく見つけた。ここだ……」
涼の視線の先にあるのは『摂社 大八嶋社』と記された掲示版だった。
「『この社は古来社殿がなく 社を朱の玉垣で囲い 禁足地としている』」
声に出して読み上げた涼の顔は明るい。
「涼、ひょっとしてここが?」
「ああ。『守りなき』の部分が、どうしても気になってたんだ。この無数の塚や社の中に、ひょっとして社殿がないものがあるんじゃないかと思っていたが……どうやら当たりのようだな」
「どういうこっちゃ?」
「守ってくれるおうちがここにないってことさ」
涼は池に視線を投げた。
「大八島とは、日本神話に出てくる伊邪那岐と伊邪那美が生み出した日本列島そのものだ。八つの島、つまり淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島そして本州を指す……」
「え? じゃあ、ここは日本列島がご神体ってことなんか?」
「そうだろうな。社殿がないのは、日本列島そのものが社殿だから、わざわざ建てる必要がないという理屈だろう」
「なんちゅうスケールのでかさや」
賀上は感嘆していたが、ハッとして涼と彼方に顔を向けた。
「ちゅ、ちゅうことは……!」
「社殿がない大八嶋大神が『守りなき日本国』だ」
「うおおおおー。せ、せやったら、四文目の暗号は解けるんか?」
「解ける。『朱の回廊登りし狐 守りなき日本国臨み 龍の来訪を待つ』つまりこれは、千本鳥居から大八嶋社を見ろと言う意味だ。……方角は」
「北西だな」
彼方はすかさず口を開いた。
先ほど目にした案内板で、池の場所は把握している。位置は北西に間違いない。
「北西……か。たぶん四文目は伏見稲荷から北西に間違いないだろう。『龍の来訪を待つ』に関しては少し待ってほしい。これについては確かめたいことがあるんだ」
「確かめたいこと?」
「……とりあえず、早くここを出よう。俺はもう限界だ」
よく見ると、もともと白い涼の顔色がますます白くなっている。やはり人混みとプチ登山がきつかったか。
暗号が解けて安堵したのもあるのだろう。張りつめていた糸が切れてしまったらしい。 絢爛な朱の社殿を後にして裏門通りに出ると、通りに面して飲食店や土産物屋が並んでいた。彼方は急いで近くの店に駆け込み、三人分のお茶を購入する。ふと、珍しい食べ物が目についたのでついでに買い、二人の元に戻ると涼の目が彼方の右手に釘付けになった。
「なんだ、それ」
「雀の丸焼き」
「す、雀?」
珍しくギョッとしているので、彼方は得意になって串刺しにされた雀を突きつけた。頭から嘴、足まで全てしっかりとついていて、こんがりと焼かれている。ぎょろりとした目玉がリアルなので人によってはグロく感じるかもしれない。
人生で雀を食べる機会などそうそうないので、つい買ってしまったが、涼にはきつかったようだ。
「昼過ぎてるし腹が減ってるだろ? いるか?」
「い、いらない……」
予想通りの拒絶だ。あえて涼の分を購入しないで正解だった。二本のうち一本を賀上に渡すと、賀上は喜んで頭からかじり付いた。
「頭から食べるな!」
悲鳴に近い声を上げる涼を無視して、賀上は味わうようにじっくりと租借する。
「せやから涼ちゃんは繊細なんやって。こんなもんかぶりついてなんぼやで」
「ですよねぇ。うまいぞ涼。頭は鶏のレバーみたいだし。甘辛いタレの味も抜群だ。あんまり肉がついてないのか、パリパリしてるな」
「……」
涼は彼方たちから目をそらしてお茶を飲む。
「お前も腹が減ってるだろ? 何か別のものを……」
「俺はいい。なんだか食欲が失せた。それより……」
涼は腕時計に目をやった。
「今からなら宇治にも行けるな」
「宇治? あ、平等院やな?」
「ああ」
暗号文を開いた涼の手元を賀上が覗き込む。
「やっぱり三文目は平等院やってんな」
「『極楽舞いし四羽の神鳥 水天下りて二羽の使いを阿弥陀に放つ』京都で極楽といえば、まず平等院を思い出すだろ」
「せやな。あそこは極楽浄土をモチーフに創建されとるしな。俺も平等院で間違いない思うわ、平等院言うたら鳳凰堂やし。神鳥の文言に合うとるわ」
賀上は雀の串焼きを完食して、串を近くのゴミ箱に捨てる。
「こっからやったら、四十分ほどでいけるで」
「なら、日の暮れない内に行こう」
二人の会話を横で聞いていた彼方は、特に異を唱えることもなく後方に見える朱の鳥居を振り返った。
伏見稲荷には、またいつか時間の余裕があるときにもう一度来たい。今度は四ツ辻から先にも登って稲荷山の山頂から京都の街を見下ろしてみたかった。