第六章 人の心は暗号に似ている
嵐山周辺にある総合病院に担ぎ込まれた涼は、緊急救命室に運ばれていった。
彼方達は扉の前の待合に座って待つが、どうにも落ち着かない。
中の様子が気になって立ったり座ったりしていると、三十分ほどして医者が出てきた。保護者の有無を聞かれたので自分たちだけの旅行だと告げると、納得したのか医者はようやく涼の様子を教えてくれた。
「友達は大丈夫や。ただの睡眠不足やったから」
「……は? え?」
彼方と賀上は自分でも自覚するほどのマヌケ面で医者に聞き返した。
「え? なんて?」
「せやから、寝不足や」
医者の言葉を理解するのに時間がかかり、バカみたいに口が開く。
二人があまりにもキョトンとしているので、医者の唇がおかしそうに曲がった。
「心配することあらへん。寝不足と暑さのせいで疲れがたまったんやろ」
「寝不足って……で、でも頭は? あいつ、しこたま後頭部をコンクリートにぶつけてたんです。脳内出血かなにかしてたんじゃ……」
「もちろん、ちゃんと検査したで。頭に異常はあらへん。コブにはなっとったけどなぁ。いや~、ほんまに大きかったな、あのたんこぶ。そうとう痛みを我慢しとったんやないか」
「はぁ……」
安堵していいのか拍子抜けしていいのかわからず、彼方は椅子に座り込んでしまった。
「――ははは。よほど心配したんやなぁ。まぁ、あえて言えば軽い脱水症状を起こしとったから点滴しといたげたわ。点滴が終わったら帰ってええよ。今の時期は熱いから水分補給を忘れんようにせなあかんよ。それと、検査に異常はなかったとはいえ、頭打っとるからな。異常が出たら、すぐに病院へ行くんやで。時間が経って悪うなることもあるしな」
「はぁ……。ありがとうございました」
「おおきに」
二人して頭を下げると、医者は朗らかな笑顔で去って行った。
彼方は深いため息をついて額に手をやる。朗報とはいえ、あまりにも予想外で完全に気が抜けてしまった。
「睡眠不足って、なんだよあいつ。びっくりさせやがって」
「まぁまぁ。とりあえず、なにごともなくてよかったやないか」
複雑な心情を察したのか、賀上が肩を叩いて宥めてくれた。
「そうですね。でも……昨日、あいつ、しっかり寝てたんですよ?」
「そうなんか?」
「ええ。ベッドどころか、浴室でも寝こけてましたよ。起こしてちゃんと寝かせるの苦労したんですから」
「って、なんやねん、それ! 知れば知るほど不思議ちゃんやな! 迷惑なやっちゃ」
心配しすぎた反動なのか、賀上のツッコミがきつい。さすがの彼方も同意せざるを
えなかった。突然ぶっ倒れられたせいでずいぶん寿命が縮んだ。それなりに怒ってもいいだろう。
二人でぐったりしていると、年配の看護師が救命室の横の部屋から顔を出した。
「天羽さんのお連れの方ですか?」
「はい」
「今、別室で点滴を受けられてます。付き添います? よく寝てはるけど」
「あ、はい。ありがとうございます」
看護師に案内されて部屋に入ると、窓際のベッドで涼が眠っていた。腕には針が刺され、側には点滴バックがぶら下がっている。
部屋にはベッドが三つ置いてあるだけだ。ここは病室というより点滴専用の部屋なのだろう。
「やれやれやな」
「すみません、先輩。迷惑をかけて」
「なんで謝んねん。彼方のせいやないやろ」
「そうですけど」
「お前は涼ちゃんの保護者か」
窓際に椅子を持ってきて座り、賀上が涼を覗き込む。
スヤスヤと眠っているその顔は、普段の冷淡さに比べると嘘みたいにあどけない。
「人の気も知らんと、気持ちよさそうに寝とるな~。ほんま、殴ったろかい」
「殴らないでくださいよ」
気持ちはわかると思いつつ、彼方は近くから椅子を引っ張ってきて、賀上とベッド越しに向かい合った。なぜか、いつもより体が重い。心労のせいでこっちの具合が悪くなりそうだ。
「――彼方、お前は大丈夫か?」
「え? 俺ですか?」
「お前もいろいろ無理しとるやろ」
「俺は大丈夫ですよ。涼みたいに繊細じゃないですし」
「嘘言いなや。――今日一日しかお前らを見てへんけど……なんや不自然やで」
「……不自然?」
「一言でいうと、お前は涼ちゃんを甘やかしすぎや! なんで、仲がええんかわからんコンビやわ。彼方はコミュニケーション能力にたけとるし、友達も多そうや。反対に涼ちゃんは他人を拒絶するところがあるやろ? ――まぁ、俺は涼ちゃんを嫌いやないけど、普通こんな愛想のない自己中心的な奴とは距離をとったほうが無難やないか?」
「――そう言われても……。俺は旅行部の部長ですから。部員には責任が……」
「ごまかすなや。おまえの献身ぶりはそれだけやないように見えるんやけどな。世話焼きの域を越えとるわ。あんまりかまいすぎるのは涼ちゃんにとってもようないで」
本気で疑問を投げかけられ、彼方は黙る。
言い過ぎたと思ったのか、賀上はいったん飲み物を買ってくると部屋を出て行ってしまった。何もすることがなくなった彼方は改めて涼の顔を見つめる。
幼い頃からよく眠る奴だったが、あの頃と寝顔は一つも変わってない気がする。
「涼、お前さ。本当は寝不足なんかじゃなくて、気が張って疲れたんじゃないのか?」
だとしたら全て自分のせいだ。涼をだまして賀上を同行させた。ただでさえ人嫌いなのに、慣れない人間が一緒では気が休まらなかったに違いない。しかも暗号解読で必要以上に頭を使っていたのだから疲労も激しかっただろう。
「悪かったな、涼」
「――せやから、お前が謝る必要はないっちゅうねん」
振り向くと、賀上が部屋の入口に立っていた。両手に持っていた缶コーヒーの一本を彼方に渡し、賀上は椅子に腰掛けた。
「涼ちゃんの体調不良はお前のせいやないやろ」
「……いや、俺のせいですよ」
「だから、なんでお前がそこまで涼ちゃんの世話をやかなあかんねん」
「こいつ、俺の命の恩人なんです」
賀上の言葉を遮りたくなり、彼方は早口で告げた。
ぎょっとしたのか、プルタブを空けようとしていた賀上の手が止まる。
「命の恩人? なんや、また大げさな言葉が出てきよったな」
「大げさでもなんでもないんですよ」
彼方は自嘲して缶コーヒーに口をつける。体内を通る水分が心地よすぎて、一気に飲み干してしまった。自分でも気がつかなかったが、そうとう喉が渇いていたようだ。
「――俺と、涼が幼なじみなのは知ってますか?」
「ああ、おまえら二人は学校で有名やしな、噂では聞いたことがあるわ」
「こいつ、小さい頃はコロコロとよく笑うかわいい子だったんですよ。……幼稚園も小学校も同じで、俺たち仲がいい親友でした」
「この涼ちゃんが、よく笑う? かわいい? ないわ~。笑うたとしてもニヤリぐらいやろ。こう、なんか企んでそうな、悪い感じの」
「ははは。先輩ひどいな。――でも、ほんとに今のこいつからは想像できない話ですよね」
涼から笑顔を奪った家庭の事情は今ここで言わなくてもいい。話さなければならないのは、涼と自分の関係だ。
「俺、小学校三年生のときにカナダに引っ越したんです。……海外に移ったのは親の仕事の都合でもありましたけど、本当は家族全員が日本を離れたがっていたからなんです」
「なんでや」
「三年生に上がったばかりの頃、俺が誘拐されかけまして……」
「……――は、はぁ 誘拐?」
「うっかりですよね」
「う、うっかりって……そんな、ドジ踏んじゃいました的なノリで軽く言うなや! びっくりしたわ!」
さっきから賀上は缶のプルタブを開ける機会を失している。彼方は気を利かせて、とりあえずコーヒーを飲んで落ち着くように勧めた。
「お、おう。すまんな」
素直に缶コーヒーを開け、賀上も彼方と同じくガブ飲みした。空になった缶を口から離し、賀上はぷはっと息を吐く。
「それで、その誘拐って……」
「ああ。全然、心配してもらわなくてもいいんです。過去のことだし、結果的に未遂でしたし」
「そうかもしれんけど……」
彼方は下校途中に無理やり男に腕を掴まれ連れ去られかけた。それを救ってくれたのが涼だ。
「こいつ、俺が車に押し込められる直前に機転を利かせて助けてくれたんです……。子供のくせに、車のナンバープレートの番号を母親に教えたとか言い出して……」
あの時、涼は母親に連絡したと言っていたが、本当は誰にもナンバープレートの件など教えていなかった。あの頃は携帯電話も持っていなかったし、そんな暇もなかったらしい。つまり、涼ははったりをかけて誘拐犯を撃退させたのだ。
ほんの十数分の出来事だったが、その時は本当に恐ろしかった。あのまま連れ去られていたら、命もどうなっていたかわからない。涼が現れたときは本物の救世主かと見まがうほどだった。
「本音を言えば、こいつも怖かったんだと思います。だけど、懸命に俺を守ろうとしてくれた」
「……それも驚きやな。……まぁ、でも涼ちゃんのことやから、昔から頭がえかったんやろうな」
「犯人が京都の人間だって言い当ててましたからね。結局、相手は怯んで俺を置いて車で走り去っていきましたから、凄い奴ですよ。……俺、今はこうやって普通に話せてますが、救出されてからは、しばらくPTSDに悩まされてたんです」
「今はそう見えへんな」
「ええ。克服しましたから」
とはいえ、未だに時々夢は見るが。
「当時は、家庭の中の空気がずっと重かったな……」
特に母親の憂鬱が酷く、彼方の登下校には必ず車で付き添うようになった。学校が終わっても外でろくに遊ばせてもらえず、友人たちから不満を言われたこともある。
「ようは家族でカナダに逃げ出したんですよ。環境が変われば気持ちも変わるだろうって……」
結果、それは正解だった。自分たちを知る者がいない開放感は、恐怖に支配されていた家族を自由にしてくれた。異国で生きるのは予想以上に大変だったが、過去にとらわれる暇がないのが逆にありがたかった。おかげで、古城家は以前の笑顔と活力を取り戻すことができたのだ。
「ほんで、犯人は?」
「さぁ? 捕まったって話は聞いてません。そもそも誘拐事件になったのかどうか……。親には話しましたけど。警察とか来てないんで」
「え? それ、おかしない? 無事に帰ってきたとはいえ子供が誘拐されかかったんやし、親御さんも警察に電話しとるやろ」
「だと思いますけど……俺、子供だったんで、その当たりのことはよくわからなくて。トラウマだから親にも詳しく聞いてないんですよ。……少なくとも俺のところに警察は来なかったですね」
改めて指摘されてみれば、おかしな話かもしれない。親が警察に通報していれば、少なくとも彼方に事情ぐらいは聞きにくるだろう。それもないとすると、親はあの事件を大事にしなかったことになる。
「ふ~ん……。よう、わからんけど……。なるほどなぁ。それで、お前は涼ちゃんに恩義を感じとんやな……。そりゃ、つい甘やかしてしまうんもわかるわ」
「まぁ、それだけじゃないですけどね」
当時、カナダ行きに異論はなかったが、涼と離ればなれになるのは辛かった。たぶん、涼も同じだったのではないだろうか。
もし、天羽の家が大変だった時期に自分が側にいたなら、少しでも彼の孤独は違っていたかもしれない。そう考えると、どうしても涼を放っておけないのだ。
命の恩人だからだけではない。友人としても幼なじみとしても、彼方は涼の心の枯渇を見過ごすことができない。満足するなら、どうにかして満足させてやりたいと思っている。わざわざ旅行部を立ち上げたのも、ただそれだけのためだ。
甘やかしすぎだ、面倒見がよすぎだと、よくからかわれもするが、言いたい奴には言わせておけばいい。何も知らない他人の言葉で態度を変えるつもりはなかった。
しかし、今回は少し焦りすぎたかもしれない。当の涼の気持ちを無視して強引に事を進めても反発心を招くだけだ。今さら気づいても遅いのだが……。
「……俺、こいつの性格をちゃんと理解してるつもりだったのに、なんであんなことをしちゃったのかなぁ」
彼方は右手を見つめる。悪いのは涼をだました自分なのに、叩くなんてどうかしていた。
「なんや、喧嘩したのをまだ気にしとったんか。アホやなぁ」
「アホって……」
「――涼ちゃん、謝ってたやないか」
思いやりがない言葉にムッとしていると、賀上がサラッと耳を疑う言葉を吐いた。
「はっ?」
何度も瞬きをする彼方に、賀上の方が驚いて目を丸くした。
「え? 謝っとったやろ? おまえ気ぃついてへんかったんか!」
「気がつくもなにも、涼から謝ってもらったことなんて今まで一度もありませんよ。それに、喧嘩をした後から、こいつは微妙に俺を避けてるんですよ? 謝ってたって、先輩の勘違いでしょ」
あのバリアーのような薄い膜が見えるなら、賀上に見せてやりたいくらいだ。
「……はぁ、マジか。お前、涼ちゃんの理解者みたいな顔しとるけどまだまだやな」
「どういうことですか」
賀上はどこか面白そうに顔をほころばせて、両手を頭の後ろに回した。
「涼ちゃんは謎解きが結構好きやろ?」
「え? ええ、まぁ」
嫌いじゃないのは確かだ。暗号文を解くときも、人の話が耳に入らないほど熱中している。好きでなければできない。
「俺が暗号解読の依頼をしたとき、涼ちゃんはお前にお伺いを立てとったやないか」
「え?」
そういえば、そうだったかもしれない。
あの時は、なぜ宝探しを了承する権利が自分に回ってきたのか、わからなかった。
「ええ~、それでもわからんの? お前もたいがい鈍いな! 涼ちゃんは、宝探しがしたかってん。俺みたいな異分子の同行を許可できるほどには興味があってん!」
「はい……」
でなければ、涼がここまで付き合っているはずがない。
「お前らは、旅行で京都まできたんやろ。せやなのに、観光をほっぽらかして、宝探しを優先するなんて、さすがの涼ちゃんもお前に遠慮したんちゃうか?」
「遠慮……はぁ? 涼が遠慮ー?」
「どんだけ驚いとんねん。普段の涼ちゃんなら自分の好きにしたかもしれんけど、お前ら大喧嘩した後やし、お前が邪魔だなんだと辛辣な言葉を吐いたあとやったから、聞かずにおれんかったんやろ。『宝探ししてもいいか?』ってな。まぁ、こんな素直なセリフは言わんやろうけど。お前の了解を得ようとしたってことは、涼ちゃんはお前が同行してくれるかどうか確かめたかったんや。それって、一緒に宝探ししようって謝っとるのも同じやんか。ひねくれもんのこいつにしては上出来な謝罪やで」
「え、えええ そんなわかりにくい! っていうか、わかるわけないじゃないですか!」
「せやから、まだまだやって言うんや。こういう特殊な奴の言動は察してやらなあかんねん。お前、普段はうっとうしいくらい涼ちゃんの行動や言葉を理解するくせに、自分が絡むと、とたんに鈍くなんねんな。お前が避けられとるって感じとったのも、ほんまは自分が避けとったんやないか?」
「俺が?」
「叩いた罪悪感で、必要以上に気をつかっとったっちゅうことや!」
「え? じゃ、じゃあ……」
二人を遮っている薄い膜を作っていたのは、涼ではなく彼方だったというのか。
「……」
彼方は穴があくほど涼を見つめた。
正直、嘘だろうと思う。涼が自分の行動を気にして、しかも謝罪もどきな言動までとっていたとは。
楽観的な賀上らしい解釈だが、あのとき涼が自分に伺いを立てた理由がそうなのだとすれば、謝罪だったと気付かなかった自分の鈍さが本当に悔やまれる。
彼方が唖然としていると、賀上が得意げに顎を上げた。
「人の心は暗号文と同じなんやで。言葉通りの意味に受け取ったらあかんときもあるんや」
その態度があまりにも偉そうで、彼方は不覚にも笑ってしまった。
この人は本物の暗号に対する推理力はほとんどないが、人の心の機微を読み取ることには長けているのかもしれない。彼方は少しだけ賀上を尊敬した。やはり、先輩は先輩なだけはある。
「ありがとうございます。なんだか、心が晴れた気がします」
「ええねん、ええねん! 俺の凄さがわかってくれれば! 俺のせいでお前らがケンカしたままなのは嫌やしな! はははは!」
「先輩、静かに!」
病院で賀上が高らかに笑うので、彼方はとっさにたしなめた。目の前には眠っている人間もいるのだ。少し声を抑えてほしい。
人の心の機微は読めるくせに、空気が読めないとは。なんて矛盾した男だ。
「――う……」
案の定、ベッドの上の涼の瞼がピクリと動いた。
「涼?」
むずがるように顔をゆがめていた涼は、やがてゆっくりと瞼を開いた。
「うるさい……」
まっすぐ天井を見つめて、涼が開口一番文句を吐き出す。
らしすぎて、彼方は賀上と一緒にふき出してしまった。
「おはよう涼」
「よう眠れたか?」
「お前たちが横でベラベラとうるさいから妙な夢を見て目が覚めた。病人を労れ」
「なにが病人や。ただ単に寝不足なだけやろ。大げさに倒れよって、俺らがどれだけ焦ったと思うてんねん」
賀上もなかなか容赦がない。
「先輩、そのくらいにしてやってください。――涼、大丈夫か?」
「よく寝たから頭がスッキリした。天龍寺では、ほとんど脳が動いてなかったからな」
「嘘だろ、おい」
あんなに華麗に暗号を解いていたではないか。あれで思考回路が動いてなかったとは思えない。
涼は上半身を起こして点滴を見つめた。まだ三分の一は残っている。身体を自由にできないのでうっとうしそうだ。
「……外すなよ」
釘を刺すと、涼は不服そうに動きを止めた。
「お前、本当に点滴を外そうとしてたのか。むちゃくちゃだな」
小さく舌を打つ涼の額を彼方は軽く叩く。
「舌打ちするな。お前が非常識なんだから」
「まぁ、いい……。ちょうど腰を落ち着ける場所がほしかったんだ。続きをやるぞ」
「続き? なんの」
「暗号だよ」
「はぁ?」
「なに言うとんねん!」
彼方と賀上は同時にツッコんだ。ただの寝不足とはいえ、救急車で運ばれたくせに、まだあちこち動き回る気か。
「ダメだ。今日はおとなしくしてろ。点滴が終わったら帰っていいって言われてるから。すぐホテルに戻るぞ」
「それに、この時間はもうどこも開いてへん。寺社仏閣は閉まるのが早いんや」
賀上に言われて気がついたが、時計の針はもう夕方五時を回っていた。夏の空は明るいから動けるには動けるが、観光地に行くには厳しい時間だ。
二人して説得に力を入れていると、涼は面倒そうに点滴のチューブを潰した。
「潰すな! 点滴にあたるな!」
「お前達が的外れなことばかり言うから、イライラしてるんだ」
「的外れ?」
「天龍寺で暗号の示すものが方角だとわかったろ。だったら、二文目はいちいち現場に行かなくてもわかるだろう」
「――えっ?」
彼方はキョトンとして賀上と顔を見合わせた。
「まさか……俺が倒れている間、なにもしてなかったんじゃないだろうな」
「倒れとる間っちゅうより、寝こけとる間な」
「暗号なんて解いてる余裕あるわけないだろ。こっちは心配してそれどころじゃなかったんだから」
嫌味に嫌味で返すと、涼がふてくされた顔で掌を突き出した。
「暗号と地図!」
気まずさと裏返しの乱暴な物言いに肩をすくめて、彼方は暗号と地図を取り出す。
「はいはい。これでいいですか」
「……」
彼方を一睨みして、涼は暗号と地図を布団の上に広げた。
「文をよく読めば、どの場所を示しているのか、すぐにわかるだろ」
涼の指が『三尊の阿弥陀が見つめし大日如来 仁王を越える』をなぞる。
「三尊の阿弥陀とは言葉の通り三尊の阿弥陀如来だ。阿弥陀三尊像と大日如来が絡んでくるのが、まずおかしいだろ。阿弥陀仏は浄土教、大日如来は密教系の本尊だ。宗派が違う」
「……」
彼方も賀上もうんともすんとも言えなかった。
そんなスラスラと宗教の話をされても、「そうだね!」とは答えられない。なにせ、そっち系は無知にも等しいのだ。しかし、涼はお構いなしだ。まるで、水を得た魚のようにいきいきとしている。寝不足が解消されて頭がフル回転しているのかもしれない。
「阿弥陀三尊と大日如来。そして『仁王』が絡んでくるとすれば、寺は限られてくる。たぶん、これは仁和寺のことだろう。あそこは本来、密教系だが、阿弥陀三尊が本尊なんだ。ちなみに、仁和寺には五重塔があって、そこには大日如来を象徴する梵字の額がかけられてる」
「ちょ、ちょっと待て!」
彼方は慌てて、スマホで検索をかけた。無理やりにでもストップさせなければ、こちらが理解する前に涼は結論を導き出してしまう。
液晶に仁和寺の特集が出る。目的のものを探してみると、涼が言った通り仁和寺の本尊は阿弥陀三尊だった。密教寺院で阿弥陀を本尊としているのは、当時の天皇による指示と、浄土教を胚胎させつつあった天台宗の僧が初代別当にあったことが背景にあると記載されている。ちなみに大日如来の梵字は五重塔の西側正面に書かれていて、内部にも像があるようだ。
「お前、よくこんなの知ってたな……」
「『美しき京都』に書いてあった」
「あの本か……」
涼が部室で読んでいた京都の本を思い出す。それにしても、よくこんなマニアックな内容まで覚えていたものだ。
ついていくのが精いっぱいで、救いを求めて賀上に目をやると、なぜか彼は瞳をきつく閉じて下を向いていた。極力、涼と目を合わせないようにしているのがありありとわかる。彼は難しい話を聞く気はないのだ。
「……――」
涼のマシンガントークを受け止めてやれるのは、もう自分しかいない。彼方は覚悟を決めて先を促した。
「それで?」
「スマホを貸せ」
言われて素直に渡すと、涼はなにやら検索をかけてこちらに画面を向けた。探していたのは、どうやら仁和寺の敷地案内図らしい。
「阿弥陀三尊は金堂とやらに祀られている。『三尊の阿弥陀が見つめし大日如来』この文が示しているのは、金堂から五重塔を見ろということ。五重塔は金堂から見て南東にある。――そして、『仁王を越える』は仁和寺の仁王門にあたるだろう」
「って、ことは……」
「仁王門を越えるというのは仁和寺そのものから出ること。つまり……」
「――仁和寺から見て南東かいな!」
突然、賀上がカッと目を見開いた。
「あんた、ずるいな!」
彼方は鋭くツッコんだ。
とっさに、先輩をあんた呼ばわりしてしまったが、後悔はない。今まで話に入ってこなかったくせに、わかった所だけ調子よく叫ばないでほしい。
「なるほどな! 俺も薄々そうやないかと思っとったんや!」
賀上は何度も頷きながら、メモを取っている。『天龍寺から南西、仁和寺から南東』それだけの短いものだ。
さすがの涼も呆れていたが、賀上は構わず眩しい笑顔を向ける。
「――ほんで、涼ちゃん。三文目は?」
「……」
涼の眼差しがどんどん冷えていくが、賀上は意に介さない。本当に強い男だ。
抗議するのも無駄だと感じたのか、涼は三文目を指でなぞった。
「『極楽舞いし四羽の神鳥 水天下りて二羽の使いを阿弥陀に放つ』も基本的には方角と考えて間違いないだろうが、この文の解読はちょっと待ってほしい」
「なんでや」
「少し気になる所がある。……それは、四文目を解いてから考えたい」
「ほんなら、四文目を先に解くんか?」
「四文目は現場に行ってみなければわからない」
「……知識だけじゃ解けんいうことか」
賀上は神妙に暗号へ目を落とす。
「でも、四文目の場所はすぐにわかるで。『朱の回廊登りし狐 守りなき日本国臨み 龍の来訪を待つ』やろ、朱の回廊にお狐さん言うたら、伏見稲荷やろうな」
「確かに、そうですね」
伏見稲荷には有名な千本鳥居がある。朱色の鳥居が何本も連なる様は神秘的で、朱の回廊と呼ぶ人もいる。しかも稲荷神社の御祭神は狐だ。この暗号が伏見稲荷を指しているのは間違いがないだろう。
「お前たちの言う通り、この暗号は伏見稲荷を指しているが、問題は続く文言だ。『守りなき日本国』の意味がわからない」
「……」
守りなき日本国。なんだか穏やかでない文言だ。
涼がわからないのに、自分たちがわかるはずはない。彼方も賀上も口をつぐんでしまった。
「明日、伏見稲荷に足を運んでみようと思う」
「そうか」
今日行くと言い出さなくてよかった。さすがに夜に神社に行くのは避けたい。
「よっしゃ、ほんなら明日の予定は決まりやな」
「ですね。――じゃあ、先輩とは京都駅で待ち合わせでいいですか?」
「そうやなぁ」
賀上は何事か思案しながら、意外な言葉を口にした。
「それやけどな。お前ら、うちに泊らんか?」
「え?」
「俺も今は実家に帰っとるんやけどな。彼方、お前うちには一度も来たことあらへんやろ? 母親の実家なんやし遠慮せずに来たらええ。お前らもホテル代が浮くし。ええやろ」
「でも……」
「ずっと考えとったんや。暗号解読の礼も兼ねて、どうや?」
申し出はありがたかったが、気は進まなかった。ただでさえ縁遠かった京都の親戚の家だ。世話になるのは敷居が高い。それに人嫌いの涼が了承するはずがない。
断る口実を探していると、涼がこちらに目を向けた。
「わかってる、ダメだよな」
強い使命感にかられて、彼方は任せとけとばかりに涼へ片手を突き出す。
「先輩、やっぱりお世話になるのは遠慮します。うちの人にも迷惑だろうし、それに俺たちホテルをとってるんで、今からキャンセルはできませんよ」
部費で活動させてもらっているとはいえ、足りない部分は自費でおぎなっているのだ。キャンセル料を発生させるのは避けたい。
「そうかぁ、ま、そらそうやな」
もっと早く言っておけばよかったと賀上は残念がった。我ながらうまい言い訳だったと満足していると、涼が予想外なことを言い出した。
「だが、賀上家に行く価値はある」
「えっ」
声を上げる彼方に、涼は小首を傾げた。
「ダメか? ちょっと確かめたいものがあるんだ。もし、それが賀上本家にあるのなら、ぜひ見せてもらいたい」
「そ、そうなのか?」
それならそうと早く言ってほしい。一人で気を回してビシッと断ってしまったではないか。今さらお世話になりますとは言いにくいだろう。
「――でも、お前は行きたくないんだよな? だったら……」
「い、いや。そうじゃなくて!」
行きたくないわけではないが、行きにくいのだ。それを賀上の前ではっきりと言うわけにはいかない。
「どのみち、今日は急すぎるだろ……。明日、伏見稲荷に行った後ならどうだ? 俺たち、明日で東京に帰る予定だったろ? もし、京都滞在が長引くようなら、泊めてもらってもいいし」
そうすれば、彼方の心の準備もできる。
「じゃあ、お前の言うとおりにしよう」
素直に涼は頷いた。
先ほど賀上が言った言葉は本当だった。涼は彼方が宝探しを拒絶するのを恐れている。そして、もし嫌だと言えばそれに従うつもりなのだ。らしくないにも程がある。
「大丈夫、お前が賀上家に行きたいなら俺は付き合うから。暗号を解くためだもんな」
優しく言うと涼は安堵した表情を見せた。気づけば涼の周囲にあった膜は消えていた。やはり、あれは涼ではなく彼方自身が作っていたのかもしれない。
「ほんなら、話は決まりやな。一応、明日お前らが来るって家族にも伝えとくわ」
「あ、先輩。家族の人がNGだったら気にしないでくださいね」
「大丈夫やって。うちの人間はみんな俺に似て大らかやから」
電話をするため部屋を出て行く賀上を見送りながら、彼方は手土産について本気で考えた。初めて訪れる母の実家だ。なるべく、そつがないようにしなければならない。