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第五章 龍の見据える光 

  


 

    

  

  

 京福電鉄嵐山線に乗って約十分。

 広隆寺から天龍寺のある嵐山までが近かったのは幸いだった。おまけに嵐山なら渡月橋や竹林の道など見所はたくさんある。暗号解読の結果が残念なことになっても、しっかりと観光が楽しめる場所だ。

「ええ天気やなぁ」

 太陽光が反射する桂川を眺めながら、賀上が大きく伸びをした。目の前にはかの有名な渡月橋がある。

 三人が降り立った駅からだと、渡月橋は天龍寺方面とは真反対に当たるが、せっかく嵐山に来たのだからと賀上が寄り道してくれたのだ。

 嵐山は旅行日程に入れてなかったが、訪れてよかったかもしれない。

 水面に映る嵐山と、柔らかい三日月型の橋。清涼な川の流れ、周囲の濃い緑葉。それらすべてが調和する絶景だ。春は桜、秋は紅葉で彩られ、それは見事な色彩の共演が見られるという。

 ぜひ渡月橋を渡りたかったが、時間もないというので橋から離れて竹林の道方面へと向かった。天龍寺はその途中にあるという。

 渡月橋周辺も凄い人だと思ったが、竹林方面の人口の密集率は比ではなかった。日本人以外の観光客が比較的多いのは、世界的に有名なスポットだからだろう。

「さすがに、すごい人やな。この暑さの中、人混みはちょっとした罪やわ」

「……」

 照りつける太陽と人々の熱気にやられたのか、賀上が額の汗を拭いながら愚痴る。すると、ピタリと涼の足が急に動かなくなった。ただでさえ白い顔がますます白くなっている。

「どうした、大丈夫か?」

「平気だ。少し人酔いしただけだ」

 すかさず背中を支えたが、涼はスッと離れてしまった。不自然に距離を置かれ、彼方は当惑する。

 広隆寺の一件以来、涼はよそよそしいままだ。

 喫茶店を出て以降は無視されるわけでもないし、怒気を放っているわけでもない。だが、どことなく距離感がいつもと違う。

 例えるなら涼の周りを薄い膜のようなものが覆っていて、触れようとするものを拒んでいる、そんな感じだ。

 涼と他者の間にそれを感じることはあっても、彼方との間にはなかった膜だ。少なくとも数時間前までは……。

 行き場のなくなった右手を見つめて、彼方は拳を握った。涼を引っぱたいた感触はまだ掌に残っている。

「――人酔いって、涼ちゃんは繊細やな。そんなんで放浪家を気取っとたらあかんで」

「気取ってない」

 賀上のツッコミにカチンときたのか、涼は黙々と足を動かし始める。負けず嫌いなところはわかりやすい。

「がんばれ。もう少しで天龍寺や」

 賀上の言葉通り、百メートルほど先に寺の門が見えてきた。

 人の流れから抜け出すように門を潜ったが、寺の敷地内にもそこそこ人がいた。

「ここには、曹源池庭園っちゅう名園があってな。そこに行くためには受付を通って別途参拝料を払わなあかんのや。雲龍図のある法堂も参拝料が別にかかるんやけど……どうする? せっかくやから庭園も行きたいやろ?」

「まぁ、行ってはみたいですね。――どうする、涼?」

「庭は後でいい。先に雲龍図だ」

「そうだな」

 あくまで目的は暗号の解読なのだから、観光は後回しでもいいだろう。

 受付で雲龍図のパンフレットをもらい、法堂へと向かう。説明書の類いを読むのは嫌いではないので目を通すと、天龍寺の由来や雲龍図について詳しい説明がなされていた。

 なんでも、この寺は後醍醐天皇の菩提を弔うため、一三三九年に時の将軍足利尊氏によって建立された臨済宗の本山の一つらしい。雲龍図は法堂内に描かれていて、直径九メートルの円相内で来る者を威圧している。

「あれ、これ……」

 彼方はパンフレットの中に気になる文言を見つけた。涼と賀上が先に法堂の中に入っていたので後れて足を踏み入れる。中には二、三組の拝観者しかいないので、人酔いしている涼のリフレッシュにはちょうどいいかもしれない。

「――はぁ~。やっぱり実物は迫力があるなぁ」

 天井を見上げて、賀上が感嘆の声をもらす。大迫力の龍に彼方も目が釘付けになった。

 円相の中で大きな体を丸めた龍が、八方に凄まじい睨みをきかせている。大きな口から覗く牙。鋭く尖った爪。力強い眼力。それら全てが強烈だ。まるで、今にも龍が天井から飛び出してきそうだった。

「ほんまに、どこにおっても睨まれとるわ」

 賀上はしきりに左右に動いている。八方睨みとは、どこから見ても、八方を睨んでいるみたいに見えることだ。この雲龍図は、円相に沿って堂内を歩くと、ずっと龍と目が合うように描かれている。

「――違う」

 不意に、涼が龍を見上げたまま呟いた。賀上が足を止めて、涼が広げている暗号文を覗き込む。

「どないした涼ちゃん。違うってこの雲龍図がか?」

「……」 

 涼が何も言わないので、彼方は遠慮がちに賀上にパンフレットを見せた。

「先輩、違うんです。今天井に描かれているこの雲龍図、平成十二年の法堂が修復された際に描かれたものらしいんです」

「――はっ 平成十二年? そんなに新しいんか?」

「はい」

 パンフレットには丁寧に経緯が記されている。老朽化が進んだ法堂を平成十二年秋に開山夢窓国師六百五十年の記念事業として修復されたとある。雲龍図もその際に描きなおされたものらしい。よく見ると天井の隅にも描かれた年代が記されている。

「なんやんねん。そんなに新しい絵なら暗号と関係あらへんやん!」

「暗号文が書かれた時期と合いませんよね」

 京都の寺社は古いという固定概念に捕らわれていたが、当然、改築や再建などで新しい建物もある。そんな当たり前のことを失念していたとはマヌケだ。

「じゃあ、なんやねんな。この結界破りし暴れ龍って」

 涼はスマホを取り出して何かを調べ始めたが、少しして眉間に皺を寄せた。

「これも違う」

 涼に押し付けられたスマホを見てみると、画面の中に天井の龍とは別の雲龍図があった。とても薄い絵で目を懲らさなければよくわからなかったが、小さな画面越しでもその迫力は伝わってきた。ギョロリとした目が特徴的で、天井の絵と比べて良い意味で泥臭い。

 この雲龍図は、今の雲龍図の前に天井に貼られていたもののようだ。

 ネットの説明によると、明治期に活躍していた画家によるもので、絵は和紙に描かれていた。和紙の損傷が激しかったため、平成十二年の修復の際に新しいものが描かれたと記載されている。

「でも、涼。この雲龍図なら、ちょうど時期的にも合うんじゃないか?」

 なにが違うのかわからない彼方に、涼は冷静に首を振った。

「俺も最初はそう思っていた。今の雲龍図が新しいなら、暗号に記された龍は、一つ前の雲龍図だろうと。しかも、今の龍は円相の中に入っているが、明治の龍に円相はない。円相とは結界のことだ。つまり明治期の雲龍図には結界がないんだ」

「それなら、まさしくそうじゃないか。結界破りし暴れ龍って、この明治期の雲龍図になるんじゃないか」

「説明をよく見てみろ。その雲龍図が天龍寺に奉納された時期は明治三十二年だ」

「……」

 彼方は言葉に詰まる。涼が違うと言った意味がようやくわかった。

 暗号の封筒に記された年は明治三十年正月だ。この年に暗号が作られたと仮定するなら、明治期の雲龍図も宝の在処を示すヒントにはならない。

「じゃあ、無駄足だったってことか?」

 嵐山に来たのは後悔してないが、どうしてもガッカリしてしまう。

「な~んや。雄風睨むの意味は、八方睨みの雲龍図を見ればわかると思うたんやけどなぁ」

「先輩……どうでもいいですけど、さっきからひねりがない……いや、素直な推理ですね」

「言い直しても無駄や。今はっきりとひねりがない言うたな」

「すみません」

 彼方は悪びれない。

 つい口が滑ったが、本当にひねりがない。まぁ、この暗号自体がひねりがあるものなのかどうか今のところわからないのだが。

「やっぱり天に龍で天龍寺は安易やったかなぁ。これは、一から考え直しやな」

 賀上は法堂の入口を目で示した。

「少し体を動かせば頭も回るやろ」

 賀上に誘われるまま、彼方は法堂の入口に向かう。後に拝観することにしていた庭園へ足を運ぼうとしたが、涼は考え込んだままその場を動こうとしなかった。

「涼、行くぞ」

 彼方はため息をついて涼の腕を取る。

 転ばないように気をつけながら外へ連れ出しても、涼はほとんど自分から足を動かそうとしなかった。

「どうしたんや、涼ちゃん」

「あっ、気にしないでください。思考のゾーンに入ると、こいつ微動だにしなくなるんで」

「ふ~ん……。お前もお守り大変やな」

 心底気の毒そうに言われ、彼方は苦笑した。

「大変なんですかね?」

 少なくとも、昨日までは大変だという思いはあった。だが、今の彼方には胸を張って大変だと言い切れる自信がない。

 この言葉は、その人に必要とされて初めて発していい言葉だと思うから。



「お~い、涼。いい加減に前を見て歩けよ。転ぶぞ」

 彼方の忠告などどこ吹く風で、涼は雲龍図のパンフレットと睨めっこしながら歩いている。拝観客の数が多いというのに、器用に避けていく様には感心するばかりだ。額に第三の目でもあるのではないだろうか。

 とりあえず客の迷惑にならないように涼の腕に自らの腕を絡ませて歩いているが、すれ違う人々の視線があからさまに痛い。

 賀上を先頭にして三人は天龍寺の参拝コースを回っていく。北門に向かったあと大きく迂回し、ちょっとした丘を登って下れば曹源池だ。

 目の前にパッと開けた曹源池庭園は、旅行ガイドにも勧められているだけあって素晴らしい景観だ。新緑が映る湖面はガラスのごとく透明で、池中央正面にある二枚の巨岩からなる龍門の滝は本当に優美だ。

 庭なのに大自然の雄大さを感じるのは、背後に嵐山と亀山が広がっているからだろうか。

「涼、ほら見ろよ。見とかなきゃもったいないぞ。お前の探しものかもしれないだろ」

 彼方は涼の後ろに回り、両手で顔を挟んで強引に上へ向けた。

 いつの間にか現れた立派な庭園に涼は目を瞬いていたが、しばらく景色を眺めて満足したのか、再びパンフレットに目を落としてしまった。

「……やっぱりダメか」

 これほどの借景も涼の心を掴むには至らなかったらしい。

 もう、涼は放っておいて、彼方と賀上はお互いに写真を撮りあうことにした。どこもかしこも絶好のポイントばかりだ。しばらくスマホのシャッター押しに夢中になっていると

「――あの~、すみません。写真を撮ってもらってもいいですか?」

 二人組の若い女性が涼に声をかけてきた。

 彼方は焦った。あの涼が、見知らぬ人間の頼み事を聞くはずがない。辛辣な言葉を吐いて断る前に、彼女達を引き離さなくては。

「俺が撮りますよ」

 さりげなく間に入ると、彼女達は少し微妙な表情で頷いた。美形の涼に話しかけたかっただけだと一瞬で理解したが、彼方はめげずにデジカメを受け取った。可愛らしいピンク色のデジカメで、小さな赤いお守りがストラップ代わりにつけられている。白と黒の勾玉が一つになった丸い模様の刺繍が印象的だ。どこかの神社のお守りだろうか。

「……陰陽対極図」

 涼がぼそりと言った。彼女達のデジカメを凝視したまま再び石になっているので、つい裏返すと、一緒にストラップも裏返った。晴明神社の名前が入っていたので、すぐに彼女達が晴明神社へも参拝してきたのだと知る。

 安倍晴明は平安時代のスーパー陰陽師だ。現代でも晴明神社には女性客が絶えないと聞く。彼女たちが足を運んでいても不思議ではないが、それと暗号がどう関係するのか。

「――ええっと、シャッターを押すだけでいいんですよね?」

 池の前でポーズを撮っている彼女達を待たせても悪いので、シャッターを押そうとすると、横から涼にデジカメを奪われた。

「お、おい。涼」

 なぜか、しげしげとストラップを眺めた後、涼は彼女達に向かって何度かャッターを切った。

 涼にしてはありえない親切さだ。

「ありがとうございました~」

 二人は軽く頭を下げて、女性特有の甲高い笑い声を上げて去って行った。

 あの様子を見ると、やはり写真よりも涼に興味があったようだが、それ以上のコンタクトはとってこなかった。彼方は安堵して二人の背中を見送る。涼の連絡先を聞かれでもしたら、彼女たちの旅の思い出が嫌なものになるのは目に見えていた。

「珍しいな。お前が親切にシャッターを切ってあげるなんて」

 気を回しすぎて疲れていると、いきなり涼に胸ぐらを掴まれた。

「は? ど、どうした? 俺、なにか悪いこと言ったか?」

「わかった……」

「はっ?」

 整い過ぎた顔が妙な迫力で近づいてくる。

「暗号の意味がようやくわかった。地図を出せ!」

「ち、地図?」

「――なんやてぇ! 暗号が解けたやてー!」

 少し離れた場所で写真を撮りまくっていた賀上が、涼の声を聞きつけて猛スピードで飛んできた。

 どうでもいいが、耳ざとすぎるだろう。

「なんで急に解読できたんだよ」

 言われるまま彼方が京都地図を取り出すと、涼は天龍寺からすっと指を北東へ動かした。

「やっぱり……。間違いない。陰陽道だったんだ」

「陰陽道?」

 説明しろと促すと、涼は先ほどの女性二人組に目を向けた。

「彼女達が持っていたデジカメのストラップは陰陽太極図だった。それを見て、ようやくこの一文目が陰陽道をなぞった暗号だとわかった」

「陰陽太極図?」

 白黒の勾玉が一つになった丸いストラップ。あれを陰陽太極図というのか。

「ほんでほんで? なにがどうわかったんや」

「まず陰陽道を前提として考えてみる。この『鬼が来て』の鬼とは鬼門のことだ。つまり、北西。北西から何かがやってきて決壊が敗れる」

「北西?」

 彼方が賀上と一緒に地図を覗き込むと、涼の指がわずかに北西に動き、一点を指した。

「京都御所?」

 賀上がきょとんとする。彼方もしばらく地図と睨めっこをしていたが、ふと気付いて声を上げた。

「あっ! 蛤御門の変!」

「――?」

 賀上が情けない顔をしているので、彼方はしかたなく雲竜図のパンフレットを開いて見せた。

「ほら、先輩。ここを見てください」

 そこには、短く天龍寺の災難が綴られていた。

 一三三九年の創建以降、天龍寺は八度もの大火に見舞われている。最後に寺が災禍に見舞われたのは、明治維新の最中だ。

 討幕派だった長州藩が会津藩主・京都守護職松平容保の排除を目指して挙兵した際、戦火の中心になったのが御所周辺を中心とした京都市中だ。これを蛤御門の変という。別名、禁門の変。

 戦火はここ天龍寺にも及び、砲火によって堂塔伽羅のほとんどを失ってしまった。唯一残ったのが講堂だけだったという。

「円相に封じられた龍が法堂に描かれたのも、寺がこれ以上の災禍に見舞われないようにとの願いも込められているらしい。暴れ龍が戦火に見舞われた寺だとすると……」

「――そ、そうか。決壊が破られた暴れ龍は蛤御門の変で焼失した天龍寺そのものってことなんだな!」

「な、なるほどな……」

 頷きつつも、賀上はいまいちよくわかってない様子だ。どうやら歴史が苦手らしい。小難しい言葉の羅列で混乱しているのだろう。

「ほんなら『天に昇りて雄風睨む』は?」

「そこだ。陰陽道で考えてみて、ようやく風の意味が解けた。鬼が鬼門なら、風は風門……南東のことだ」

「風門?」

 鬼門はよく聞くが、風門は初めて聞いた。やはり、涼は博識だ。

「この暗号が書かれた明治三十年に、まだ天龍寺は再建の途中だったのかもしれない。そこはわからないが、一度この場所にあるはずのものがなくなってるのは間違いないんだ。天に昇るとはそういう意味だろ」

「じゃあ、直訳すると鬼門から起こった蛤御門の変で天龍寺が焼け、天に昇って風門……南東を睨んでるっていってるんだよな……ってつまり、この暗号の答えは、天龍寺から南東を見ろってことか?」

「たぶんな」

「――は~」

 賀上は感心しきりで、涼に向かって拍手した。

「話の半分はわからんかったけど、天龍寺の南東が答えってのはわかったわ!」

「先輩、それ半分じゃなくて、ほとんどわかってないってないじゃないですか」

「細かいことはええねん! いや、一時はどうなるかと思うたけど……暗号が解けてほんまによかった。天龍寺の中になにかあると思い込んどったからな……まさか寺そのものが龍やったなんてな!」

「あれ? じゃあ、先輩の最初の推理、あながち間違ってませんでしたね」

「ん?」

「ほら、天に龍って書いてるから天龍寺だって」

「おお、そうやな! 俺の適当な推理もたまには当たるもんやな」

 彼方は賀上の言い草にふき出してしまった。

 適当だという自覚があったのか。

 豪快に笑う賀上の横で、涼はどこかすっきりした表情で曹源池に視線を預けた。 

「――この庭の写真は撮ったか?」

「あ? ああ。お前が石像になってたときにな」

 推理中に動かなくなる涼は、本当に石像のごとくだ。時々、わざと口にしてからかってやるのだが、彼は特段気にした素振りを見せたことはない。

「庭園の写真がどうかしたのか?」

「別に……」

 涼はいつも多くは語らない。何か思うところがあるなら、もっと自己主張してもいいと思うが、それは彼の美学に反するのか単に面倒くさいのか。

 コミュニケーション下手な友人の性格はよくわかっているので、彼方もあえて追及はしない。短い言葉でも、涼が曹源池庭園を意外と気に入っていたのは理解できた。

 探しものではなかったのだろうが、それでも彼の心の芯を掠める何かはあったのだろう。

 念のため彼方は庭園の写真を何枚か撮りなおす。もちろん、とっておきのベストショットを探してだ。

「よ~し、ほんなら涼ちゃん。お次は二文目やな。期待しとるで」

 すっかり解読を丸投げし、賀上は涼の背中を叩く。このいいかげんな態度を許せてしまうのは、彼の気取らないキャラクターのせいだろう。得な性格だ。

「で、これからどうする?」

 期待満々で肩を抱き寄せる賀上の身体を涼は乱暴に押しのける。賀上のパーソナルスペースの狭さが苦手のようだ。

「……二文目は……――っ」

 ――それは突然だった。

 いきなり、涼の体がグラリと傾いた。

「涼!」

 彼方がとっさに手を伸ばすと、涼は自分の体を支えられないのか、彼方の肩に顔をうずめて全身で寄りかかってきた。気のせいか体が熱い。

 いったい、どうしてしまったのか。

 彼方が動転していると、涼の体から完璧に力が抜けた。

「涼!」

 とうとう涼は意識を失ってしまった。

「しっかりしろ、涼……涼!」

 涼の顔は赤く上気している。足のしびれで倒れた時とは深刻度が全然違う。

「な、なんや。やっぱり具合が悪かったんか?」

 人酔いだなんだとごまかしていたが、本気の体調不良だったとは。

 拝観者たちの視線を避けるため、彼方は涼を横抱きにして庭園を出る。法堂の側にある木陰に移動すると、静かに涼を下した。

「先輩、救急車を」

「お、おう」

 賀上は急いで救急に電話してくれた。

 電話の相手に説明している賀上の声を聞いている内に、彼方は広隆寺での一件を思い出した。

「先輩、こいつ数時間前にコンクリートで頭を強く打ち付けたんです! ひょっとして、打ち所が悪かったのかも!」

 必死に訴えると、賀上はそれも伝えてくれた。

 なるべく涼を動かなさないようにと指示を受け、彼方はパンフレットで体を仰ぐ。しばらくしてようやく救急車のサイレンが聞こえた。

「ここをお願いします。賀上先輩!」

「ま、任せとけ!」

「――涼、待ってろよ! すぐに救急隊を呼んでくるからな」

 賀上に涼を託し、彼方は木陰から飛び出す。途中で幾人かとぶつかってしまったが、いちいち立ち止まってはいられない。――しかし、

「――っ」

 その中に、なぜか見たことのある顔があった気がした。

(サングラス?)

 一瞬、広隆寺で見かけたサングラスの男が脳裏をよぎったが、同一人物かどうか確かめる暇はなかった。今は救急隊員を誘導するのが最優先だ。

彼方は男を振り返らず、全速力で門へと走った。


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