第三章 嵐はアルカイックと共に
窓を見ると、鮮やかにライティングされた京都タワーがよく見えた。
時刻は夜八時過ぎ。二人が宿泊先のシティホテルにチェックインしたのは、一時間ほど前になる。結局、宝泉院の帰りに三千院にも寄り、ホテルが近い京都駅周辺に戻ってからは、お約束通り京都タワーに登った。
もちろん、渋る涼を引きずってだ。実は最初から三千院に行くことは彼方の中では決定事項だった。出発前だけ涼の意向を聞いておけば、現地ではどうにでもなると思っていたので、遠慮無く強行させてもらった。
「おい、涼。寝るならシャワーを浴びてからにしろよ」
部屋に入るなりベッドに突っ伏した涼に、彼方は声を掛ける。
「――俺は疲れてるんだ」
基本的に人混みが嫌いな涼は、意図しない場所に連れていかれて機嫌が悪い。
彼方は聞かぬ振りを決め込んで、旅行鞄からレポート用紙を取り出した。ビジネス机に座って旅の記録を綴り始めると、涼が顔だけこちらに向けた。
「なにをやってるんだ?」
「京都旅行のレポート」
「――? なんで、そんな面倒くさいことを」
まともに聞き返されて、彼方はペンを止めた。
「いや、なにドン引きしてんだよ。お前、この旅が旅行部の活動の一環だってことを忘れてないか? 旅費だって部費から一部出してるんだぞ」
「……だから?」
「だから? じゃねぇよ! 学校だって俺たちを遊ばせるために創部させたんじゃないんだからな。一応、旅を通して見聞を広め、自立心や行動力を養い、その土地々の理解を深めるって言う大義名分を掲げてるんだよ。まぁ、とってつけてるだけだけど」
「……」
「俺は部長だからな。旅のレポートを書いて、顧問の北橋に渡さなきゃならないんだよ」
「……ありえない」
涼は蒼白になって上半身を起こした。
「ありえないってなんだよ。これでも思いっきり譲歩してもらった方だよ! 一時は記事をまとめて学校新聞にしろとまで言われてたんだからな。レポートだけですんでありがたいと思え」
言い捨てると、涼は唖然としたまま返事をしてこなかった。どうやら本気で虚脱感に襲われているようだ。部活ではなく個人旅行ならば、煩わしい課題に悩まされなくてもすむとでも思っているのだろうか。
「安心しろよ、お前に書けなんて言わないから……まぁ、言っても書かないだろうけど」
嫌味が通じているのかいないのか、涼は再びボスンッと枕に顔を埋めた。
微動だにしない後頭部は涼なりの無言の抗議なのだろう。彼方は嘆息してペンを走らせる。
なぜだろう。苦労しているのは彼方だというのに、涼の心労の方が増している気がする。
「なぁ、涼……あのさ。明日だけど……」
彼方は涼の反応を伺いながら声を掛けるが、背中からは拒絶のオーラが漂っていた。
(まずいな……)
実は、彼方はこの京都旅行に関して涼に秘密にしていることがある。それを伝えようと思ったが、今の彼では受け入れてもらえない気がする。
「明日、広隆寺に行くだろ? そのとき……ある人がさ……あの……」
それでも、勇気を振り絞って話を続けてみたが、涼はうんともすんとも言わなかった。
「涼?」
もしや寝ているのか?
そっと近づいてみると、うっすらと寝息が聞こえた。
「お前~」
ビキッとこめかみに筋が入った。これから必死にレポートと格闘しようとしている友の前で、さっさと眠るとはいい度胸だ。
「涼、寝るなら、シャワーを浴びろって!」
「んー」
「んーじゃない!」
ゴロリと寝返りを打った涼を無理やり起こし、シャツを引っぺがす。酔っ払いのごとくグニャグニャしている相手を浴室に放り込むと、彼方はドアを叩き締めて怒鳴った。
「風呂で寝るなよ!」
しばらく浴室の前に仁王立ちして見張っていたが、涼は出てこなかった。やがてシャワーの音が聞こえてきたので彼方は安堵した。
「まったく、手がかかる」
まるで、幼い子供を抱えた母親の気分でデスクに戻るが、レポートはちっとも進まなかった。正直、彼方も京都巡りで疲れているのだ。こんな無駄なやりとりで眠る時間を削られたくはない。
それでも、どうにか真面目に義務と向き合おうとペンを握る手に力を入れたとき、聞き慣れた着信音が響いた。手近にあった鞄を探りスマホを取り出すと、液晶に知らない番号が出ていた。少し警戒したが、彼方は通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
「――あっ、彼方君か? 僕や。笹木や」
電話の向こうから、ふんわりとした低い声が聞こえた。
「さ、笹木さん?」
今朝、宝泉院で出会った仏顔が浮かび、彼方は驚く。
「――ごめんなぁ、ずうずうしゅう電話してもうて」
「あ、いえいえ」
ずうずうしいとは思わないが、まさか、今日の今日かけてくるとは思っていなかったので少々戸惑った。
「どうしたんですか?」
「いやな、宝泉院の女性の件やけど、あの後の顛末を伝えとこう思うて」
「ああ! どうでした?」
実はずっと気になっていたのだ。受付に戻った笹木は真実を突き止められたのだろうか。
「結論からいうと、涼君の推理は大当たりや」
「そうでしょうね」
涼の読みが外れることはほとんどない。少し得意になり浴室に目をやると、中からはまだシャワーの音が聞こえていた。
「せやけど、僕ふられてしもたわ」
「そうで……」
しょうね。と言い掛けて、彼方は慌てて口をつぐんだ。しつこいが涼の読みが外れることはほとんどない。
「受付の彼女に、僕の知ってる看護師さんやないかって、声をかけたんやけどな。最初、えらい怯えられた。なんでやろうな?」
「……なんででしょうね」
心当たりはあるが、言わない。
「彼女……既婚者の上にお子さんもおるんやって。いや~、僕もアホやな」
「そんなことないですよ。知らなかったんだから」
「せやけど、彼女の本音が聞けてスッキリしたわ。彼女もなんや僕を誤解しとったって謝ってくれてな。これからは友達としてつきおうてくれるって約束してくれはった。……『まだ見ぬ君』の顔もはっきりわかったし。悔いはあらへん」
「涼の言うとおりだ」
「なんやて?」
「あ、いえ……」
笹木は事情がわかればきちんと身を引ける人だと言っていた。本当にその通りだった。
「せやけど、涼君は凄い子やな……」
独り言のようにしみじみと呟き、笹木は涼と電話を変わってほしいと言い出した。今はシャワーを浴びているので無理だと伝えると、笹木はがっかりした声を出した。
「残念やな。僕、あの子をすっかり気に入ってしもてん。もう一度会いたいわ」
「……まぁ、それは涼に伝えときますけど」
涼が了承するかどうかは別だが。
曖昧さを読み取られたのか、笹木は電話の向こうで朗らかな笑い声を立てた。
「涼君はほんまに不思議な子や。頭はええけど、どこか危なっかしいな。君も苦労するやろ」
「……いや、それは別に」
そうですね! と声を大にして言いたかったが、彼方は大人の返事で笹木をかわす。
「君ら、ええコンビやと思うで。これからも涼君の手綱を引いたげてや」
「……はぁ」
今日、会ったばかりの笹木が自分よりもちゃんと涼を理解している気がして、彼方は複雑な気分になった。言われなくても、一生懸命あの変わり者の面倒をみている。出会って数時間の人間に言われたくはない。
「まぁ、余計な話をしてしもうたけど、僕は二人に礼が言いたかっただけなんや」
「あ、いえ。お礼なんて……」
声音で感情を読まれてしまっただろうか。目が見えなかった分、笹木は人の感情には敏感なはずだ。
「――ほなな。涼君によろしゅう言うといて。気をつけて旅行するんやで」
笹木は言いたいことだけを言って電話を切った。
通話が切れたスマホを見つめて、彼方は苛ついてしまった自分を反省する。
笹木は本当に良い人だ。あの明るさと温和な人柄。むしろ好きな部類の人間だと思う。なのに、なぜ自分は妙な不快感を抱いてしまったのだろうか。
(涼のことをちゃんとわかってるのは、俺だけだと思ってたからさ)
そういえば、あの二人は感性もよく似ていた。醸し出す空気は正反対だか、どこか通じ合うところがあるのだろう。
涼の世話に苦労しているから、子供っぽい感情がわくのだろうか。
「……俺も、なんだかな」
浴室から涼が出てきたら、笹木の伝言を素直に話そう。表情は変わらないだろうが、きっと喜ぶはずだ。涼も笹木を気に入っていたのだから。
微かに自嘲した彼方は、再び鳴りだしたスマホに顔を向けた。今度は電話ではなくメールだ。
送信者は父となっている。液晶を叩いて開くと、京都旅行の様子はどうだ、とか、無事なのか、困ったことがあったらすぐに連絡しろ。など、過保護な内容がびっしりと書き込まれていた。
「珍しい……」
基本、父は過保護な方ではない。いつもつかず離れず彼方を見守ってくれていて、過剰な心配もあまりしない。親から離れて旅行したのも一度や二度ではないが、こんな長文を送ってきて様子伺いをしてくるなど、今までなかった。
(どうしたんだろう……)
思えば、京都に旅行に行くと言ったとき、父はあまりいい顔はしなかった。やれ学校の部活だ、やれ部長だから行かないわけにはいかないなどと言い訳を並べ立てて、ようやく納得してくれたが、それでも家を出る直前まで、やめた方がいいだのなんだの言っていた。
(京都……だからか?)
京都の親戚と古城家が没交渉になった理由を、彼方は知らない。ひょっとしたら、そこに父が渋っていた理由があるのかもしれない。
(それとも……)
幼い頃に押し込まれそうになった京都ナンバーの白い乗用車を思い出し、彼方はブルッと頭を振った。
なんにせよ、東京に帰ったら一度、父ときちんと話をした方がよさそうだ。
とりあえず、今日一日回った場所と感想だけをメールして、スマホを鞄の中にしまう。
(あれ? そういえば)
さっきから浴室のシャワー音がずっと変わらないのに気がついた。
いくらなんでも長すぎる。水の流れる音以外なにも聞こえないのもおかしい。
「――涼!」
彼方は慌てて浴室の扉を開いた。
案の定、涼は熱いシャワーを流したまま浴槽の中で眠っていた。浴槽に湯はたまっていない。シャワーの熱だけが体を温めている状態だ。
「涼ーっ! このバカッ! こんなところで寝るな、起きろ!」
シャワーを止めて抱き起こすと、涼は寝ぼけ眼で彼方の顔を瞳に映す。
「……眠い」
「起きろーっ! 本気で浴槽に沈めるぞ!」
整った顔に軽く往復ビンタを食らわせ、彼方は文字通り涼を叩き起こした。
◇
翌朝、二人は予定通り太秦の広隆寺へと向かった。
広隆寺行きは涼のたっての希望だ。ここは真言宗の単立寺院で、聖徳太子建立七大寺の一つとされる。六〇三年に建設された京都最古の寺院は、太秦の太子堂として一般に親しまれていた。
現在の本尊は聖徳太子像だが、創建当時に本尊として祀られていた弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第一号に認定されている。涼は、どうしてもこの仏像を生で見てみたいらしいが、はたして国宝第一号は彼の強固な心に響くのだろうか。
近鉄『京都駅』から市バスに乗って約三十分。『太秦広隆寺前』で降りると、すぐに仁王門が見えた。威風堂々とした仁王像の迫力に目を奪われながら門を潜ると、寺院特有の涼しさが肌を包んだ。緑が多いからだろうか。こういう神聖な場所はマイナスイオンが強く出ていて気持ちがいい。
しばらく石畳を進むと、本尊が安置されている本堂が見えてきた。正面に向拝のついた貴族住宅風の建物だ。参拝をすませて先へ進むと、受付所があった。本堂の裏には国宝や重要文化財などを拝観できる新霊宝殿がある。
拝観料を払って建物内に入ったとたん、彼方は心を奪われた。
凜々しくも気高い十二神将立像。数本の腕が欠けているにもかかわらず、穏やかさが伝わる面持ちの千住観音像。まろやかなフォルムに慈愛に満ちた半目の瞳の日光・月光菩薩像。その他諸々の貴重な仏像たち。その全てに生命が宿っているようだ。
本物の名工が作った仏像には魂が宿ると言われているが、本当に仏像や彫刻の瞳が強く輝いて見えるから不思議だ。このままふと動き出すのではないかと錯覚してしまう。
普段、彼方は無神論者だと豪語しているが、さすがにこの場では神仏の息吹を感じざるをえない。
こんな経験は滅多にできないので、一つ一つの像を丁寧に見て回る。しばらくたって気がつくと、涼の姿が隣になかった。
「――涼?」
新霊宝殿の中にいる人は多くない。夫婦らしき年配のカップルと若い女性の二人組。そして、サングラスをかけた中年の男性だけだ。彼方はこの男性が気になった。せっかく国宝や重要文化財を拝観するのに、暗いレンズ越しではもったいないではないか。
涼の姿を探して館内を半周すると、彼は例の弥勒菩薩半跏思惟像の前に座っていた。
国宝第一号に指定された弥勒菩薩は霊宝殿のメインだ。入口から一番奥に祀られていて、コンクリートの床には畳が二、三畳敷かれている。像の前に拝観者が座り、心ゆくまで弥勒菩薩と語り合えるようになっているのだ。
涼は、じっと弥勒菩薩を見つめていて微動だにしない。彼方も涼に倣って畳に座ることにした。
弥勒菩薩は他の仏像とは違う趣があった。下ろした左足の上に右足を組んで坐し、右手をソッと頬に当てている。その指の一本一本が柔らかな動きを伴っていて優美だ。全体的に女性的な滑らかさがあり、ご尊顔もたとえようもなく秀美で神々しい。
彫刻とはここまで繊細に表現できるもなのか。制作者のこだわりには脱帽するばかりだ。
ふと隣に誰かが座る気配を感じたが、彼方は弥勒菩薩からまったく目を離さなかった。
「……本当にキレイだな。国法第一号になるのもわかるよ」
「飛鳥時代の仏像は妙に面長だな。時代が下ればまた変わってくるんだろうが……」
「……なんて言うか、すごく柔らかいフォルムだよな。それに楚々としてる」
「ずいぶんと撫で肩だな。肩こりがひどそうだ」
「心奪われる人が多いのもわかる気がするよ」
「昔、この仏像に惚れ込んだあげく、抱きついた弾みで仏像の指を折った奴がいるらしいが。理解できないな……無機物愛好者だろうか」
「――涼! お前の口に猿ぐつわをはめてもいいか」
「――? なんだ、いきなり脈絡がないことを言うな」
大まじめに返され、彼方は畳の上に突っ伏したくなった。脈絡が無いと思っているところが信じられない。
「お前、なんでもかんでも正直に言いすぎなんだよ! 人の感動をことごとく豪腕で打ち返しやがって! ホームランだよホームラン! むしろ、場外!」
「……?」
罰当たりにもほどがある。
見る者の感想なんてそれぞれだが、この弥勒菩薩に関しては、なぜか許せなかった。たぶん、自分は今まで見た仏像の中でもこの弥勒菩薩が一番好きだ。抱きついて指を折ってしまった馬鹿者の気持ちがわかるほどには心を奪われている。
それを横からいちいちけなされては、秀麗な仏像の空気にひたれないではないか。
「……数多の人が惚れ込む弥勒菩薩なら、俺も何か感じられるかと思ったんだがな」
どこか気落ちして涼が呟いた。彼方は部室で涼が読んでいた本を思い出す。表紙には二人を招くように、この弥勒菩薩が微笑を湛えていた。
涼もいつもより多大な期待を抱いていたに違いない。でなければ、わざわざ京都まで来ていないだろう。
「……いや、悪かったよ。ちょっとムキになりすぎた。確かに撫で肩すぎて肩こりが心配だ」
自分でも意味のわからないフォローを入れると、涼は目を伏せた。
「俺はもういい。気に入ったなら、お前はまだ見てろ」
見切りをつけて涼が立ち上がる。――が、突前、ぐらりと大きくその身体が傾いた。
「涼!」
そのまま畳に両手をついて震えだしたので、彼方は仰天した。
「ど、どうしたんだ!」
「……足がしびれた」
「……」
彼方の体からどっと力が抜けた。
「だから、なんで苦手なのに正座してんだよ!」
「畳は正座だろう」
「なんだよ。その無駄なこだわり!」
必死にしびれに耐えている涼の姿に、だんだん妙なおかしさが込み上げてきた。いつもツンっと取り澄ましているくせに、足のしびれに襲われている時だけは人間的に見える。もう、いっそずっとしびれてろと言いたくなるのを堪えて、彼方は喉の奥で笑った。
「宝泉院の受付さんに教えてもらったマッサージをしてやろうか?」
「いい。しばらくじっとしてれば治る」
覗き込んで問うが、涼は強がるばかりだ。
「涼、お前さ。いつもクールぶってるけど、かなりのド天然だよな」
「……」
ムッとする涼の顔がますますおかしくて、彼方は手を差し伸べた。
「ほら、手を貸してやるから」
自らも立って涼を引き上げようとしたその時だった。突然、ドンッとした衝撃が背中を襲った。
誰かにぶつかられ、彼方は涼もろともその場に倒れ込む。運が悪いことに身体の半分が畳からはみ出し、涼の後頭部がもの凄い音を立ててコンクリートに打ち付けられた。
「涼!」
上に覆い被さっていた彼方は蒼白になって叫んだ。涼は激痛に身体を丸めたまま小さく唸っている。
打ち所が悪かったらどうしようと焦り、彼方は無理やり涼の後頭部に触れた。
「おい、コブになってるぞ!」
異様に大きなタンコブだ。
「やばいな。頭の良さだけが取り柄なのに! 病院行くか?」
「……だけとはどういう意味だ」
不服そうな声がして、彼方はホッとした。文句を言う元気はあるらしい。
「痛いか?」
どうにか身体を起こした涼を労り、打った場所を優しくさすってやると痛いから触るなと怒られた。
「いったい、なにが起こったんだ」
「いや、俺もなにがなんだか……」
そう言って初めて背後を振り返った彼方は、ギョッとして目をむいた。
「――か、賀上先輩!」
畳の上で身もだえていたのは、彼方たちと同年代の少年だった。少年は最小限の動きを維持しながら彼方に向かって手を上げる。
「か、かんにんや。お前らが弥勒菩薩に夢中やったから、つい声をかけそびれてもうて……。横でこっそり菩薩はん見とったら、足がしびれてもうて……」
「……だから、ぶつかってきたんですか?」
どいつもこいつも正座できないのなら無理にするな! と怒鳴りたくなる。
彼方はカナダにいる間、母親によく日本人の心を忘れるなと正座をさせられていたので比較的得意な方だ。椅子に座りたくなるときも多々あったが、母の思いを受けて我慢していた。なのに、日本育ちの日本人が自分より正座慣れしてない様を見ると、あの苦労はなんだったのかと虚しくなる。
「――彼方」
やれやれとこれ見よがしに呆れていると右肩を強く掴まれた。ゆっくりと振り返れば、涼が怖い顔でこちらを睨んでいた。足のしびれから解放されたのか、苦悶している様子は一切ない。
「誰だ? それ」
ドスがきいていると言ってもいいくらい低い声で問われ、彼方は冷や汗をかいた。
「ええっと……」
足を揉みながら愛想笑いをしている少年を掌で示し、彼方はモゴモゴと口を動かした。
「か、賀上先輩――」
「だから、誰だそれ」
声音は落ち着いているのに、ひしひしと怒気が伝わってくる。
涼は、もうすでに答えを導き出しているのだ。でなければこんなに憤ってはいない。いつもは尊敬に値する彼の聡明さが今は疎ましい。
「――なんや、彼方。まだ天羽に言うてへんかったんか? 俺は白繚高校二年B組の賀上大和。お前らの先輩や。ちなみに彼方の従兄やで」
「従兄?」
目を見張る涼に、彼方はゆっくりと頷いた。さすがにそこまでは予想していなかったらしい。
「今回、旅行部の京都巡りに付き合わせてもらおう思うとるんや。よろしゅうな」
ようやくしびれから復活した賀上が、空気を読まずにニコニコと涼と彼方の間に割り込んで右手を差し出した。当然、涼は手を握るどころか一瞥さえしない。
賀上の同行については、広隆寺に来る前に涼に伝えていなければならない事だった。つい言いそびれているうちに時が過ぎてしまったのだが、これはついですまされない失態だ。
あまりの気まずさに何も言えず、彼方は涼から目を逸らす。
「――これが、お前のやり方なのか?」
「えっ?」
涼は彼方を射貫いたまま視線を外さない。
「付き合ってられない!」
言うなり、涼は靴を履いて新霊宝殿から出て行ってしまった。
「涼!」
慌てて後を追うと、涼はまっすぐ仁王門へ向かっていた。その背中に駆け寄り、彼方は腕を掴んで引き留める。
「待ってくれ! どこに行くんだよ」
「俺は一人で京都を回る」
「なに言ってんだ。これは部活だろ」
「部活?」
「そうだ。このまま二人だけじゃ旅行部は存続できないんだよ。今回は賀上先輩が興味を持ってくれたから、仮入部のつもりで誘ったんだ。少しでも部員を増やさなきゃ、いつか廃部に……」
「だから、欺し討ちをしたのか?」
「……それは悪かったよ。お前、最初から賀上先輩がいたら嫌がるだろ? 現地で合流すれば、さすがに受け入れてくれるかと思って……」
「受け入れるわけがないだろう! 俺は元々一人がいいんだ。――部活? だいたい、それ自体が間違ってる! 俺は旅行部を作ってくれなんて一言もいってない。なのに、お前は俺を強引に入部させて、行くところ行くところつきまとって……あげくの果てには同行者を増やせ? 冗談じゃない、俺は自由でいたいんだ。邪魔をするな!」
「邪魔?」
「ああ、邪魔だ。そいつも、お前も!」
「涼!」
パンッ!
もの凄くいやな音がした。
振り上げた右手がじんじんと痛い。
涼の頬を見ると、痛々しいほど赤く染まっていた。ひどい罪悪感が湧き上がってきて彼方は激しく動揺する。自分が本気で涼に手を上げるなんて思ってもいなかった。
「あ……わ、悪い」
ひっぱたくつもりなんかなかったのに、邪魔だと言われてカッとなってしまった。涼にとって自分はそんなに疎い存在なのか。そう思うと、どうしても耐えられなかった。
「ごめん、大丈夫か?」
叩かれたことに驚いているのか、涼は目を見開いたまま動かない。彼方が腫れた頬に触れようとしたとき
「――おいおいおい。はるばる京都まで来たのに、えらい言われようやなぁ。……せやけど、ケンカはあきまへん。あきまへんで~」
漂う緊迫感をぶち壊すような声が割り込んできた。賀上は彼方を横へ押しやり、近かった二人の距離を物理的に引き離す。
「俺が旅行部に入る入らんは、ひとまず置いといてや」
先ほどまでのやりとりなど、まるでなかったみたいに賀上は明るい口調で涼の前に立った。
「――白繚高校の『月曜の亡霊』はんは、めっちゃ頭がええんやろ?」
鋭く睨み据える涼の眼差しなど意に介した風もなく、賀上は口元を曲げた。
「どうや、亡霊はん。ちょっとした謎に挑んでみる気はないか?」
「……謎?」
涼の表情が怪訝なものに変わる。
賀上はボディバックから一通の封筒を取り出した。それは薄茶色に変色していて、ところどころシミまでできている。見るからに古いもののようだ。
「京都に隠された巨大な謎や! な、おもろそうやろ?」
まるで、遊びに誘う子供のような顔で、賀上は封筒をプラプラと揺らした。