第二章 旅先で謎は抱えない方がいい
夏の京都は盆地だけあって暑い。
京都駅からバスに乗り換えて約六十分。左京区に位置する大原停留所に降り立った彼方は、のどかな里山の空気にホッと息を吐き出した。近年、他国からの観光客が急増したせいもあって、京都駅の人口の多さと多国籍ぶりは顕著だったが、市街を離れるとさすがに人も少ない。
最初の目的地を大原方面にしたのは正解だったかもしれない。世界的に有名な伏見稲荷などと比べて、このあたりは国外からの観光客の足も鈍く思える。
呂川に沿って伸びている三千院参道を上がると、日差しを遮る木々の涼しさに救われた。参道に並ぶ店をいくつか覗いて棒にさしたアイスキュウリを購入すると、「観光客丸出しだな」と涼に呆れられた。
丸出しもなにも観光客だろうと思うが、旅の玄人である涼の目には、いろんなものにいちいち反応する彼方の姿は滑稽に映るのかもしれない。
彼方にしてみれば、旅先で口にするものはすべて旅の醍醐味だ。普段からグルメを自称している自分にとって、旅と食事は切っても切り離せないものだった。
涼の嫌味を気にしていては旅を楽しめないので、あえて無視をし、彼方はアイスキュウリを齧る。
程よい塩加減と昆布の出汁がよくきいている。キュウリは水分が多いので、これほど熱中症予防に最適な食べ物はないだろう。
キュウリの漬け物をまるごと棒に串刺しにするという、なんともシンプルな売り方が新鮮でつい買ってしまったが、旅というフィルターを差し引いても正解だったかもしれない。
「ん、食ってみ?」
棒を持ったままキュウリを差し出すと、涼は無言で囓った。こういうところはなぜか素直なので、笑えてしまう。
「うまいだろ?」
「普通」
難しい顔で咀嚼する涼に、彼方も同じく難しい顔になった。
涼の言う普通とはうまいということだ。涼は正直だが、あまり人やものを誉めない。ゆえに普通とは、誉め言葉にあたる。彼の言葉を額面通りに受けとる人には通じないので、ちゃんと誉め言葉を使ってほしいが、注意すると無口になるので今は諦めている。
呂川沿いから北へ別れた道を上がっていくと、途中で三千院の山門を目にした。
「なぁ、本当に行かなくていいのか?」
「興味ない」
「あっ、そうですか……」
アイスキュウリを囓りながら、彼方は名残惜しい気分で山門を見る。
三千院は天台宗五箇室問跡の一つで、京都でも指折りの名所だ。四季折々を感じられる名勝庭園が有名で、一面に生える青苔が目を見張る美しさだという。国宝の阿弥陀三尊が安置されている往生極楽院には、極楽浄土を表す天井画が描かれていて一見の価値がある。
「やっぱり行かないか? せっかく大原まで来たのに三千院に行かないなんてもったいないだろ?」
「行きたきゃお前一人でいけばいいだろ。俺は止めない」
山門を一瞥して涼が歩きだしたので、彼方は慌てて後を追った。旅のプランを立てるときも三千院に行くかどうかで揉めた。せっかく大原まで足を運ぶのだから三千院は外せないと主張したが、涼はどうしても首を縦にふらなかった。
涼が足を運ぶ場所にはちゃんとした意味がある。物見遊山が目的ではないので、少しでも自分の感性から外れると、どんな名所でも涼の興味からは外れてしまうのだ。かの三千院といえどもそれは例外ではなかった。
けたたましい蝉の鳴き声を聞きながら、彼方は涼の後ろ姿を眺める。わざわざ目的地から遠回りをしてまで山門の前を通ってくれたのは、彼の温情か。
そんな意味のない思いやりを見せるくらいなら、門の中に入ってくれればいいのに、そんな気はさらさらないらしい。涼らしいといえばらしいのだが。
(まったく、なんていうか……)
天羽涼は本当に変わっている。
誰もが羨む美貌を誇りながら、表情が乏しくてあまり笑わない。厄介な放浪癖がある上に、周りの空気はまったく読まない。思えば、カナダから帰ってきた彼方と久々に再会したときも、涼はにこりともしなかった。
喜んで話しかける彼方に対し、涼の態度は邪険そのものだった。あまりにもツンケンされるので、本当に自分の知っている天羽涼なのかと疑ったくらいだ。
昔の彼はこうじゃなかった。少なくとも、彼方が日本を離れるまでは、ある程度の表情はあったと思う。一緒に遊んでいるときは笑顔を見せていたし、性格も比較的優しかった。もちろん、放浪癖なんかもなかった。
「……あの愛らしかった、涼ちゃんはどこへ行ったんだか」
なんとも、残念なような悲しいような不思議な気分で愚痴ると、涼が面倒くさそうに振り向いた。
「なんだ?」
「別に~」
「……何度も言うが、どうしても三千院に行きたかったら、お前だけで……」
「いや、それはもういいから」
名跡に立ち寄りもせずひたすら目指した場所は、三千院から北に上がった宝泉院という寺だった。
ここは大原問答で有名な天台声名の根本道場『勝林院』の僧坊として平安末期に建立された寺だ。呂川から外れ、深い緑に守られるようにひっそりと建つ姿が美しい。
柱と柱の空間を額縁に見立てて鑑賞する額縁庭園や、関ケ原合戦前に豊臣の大軍と戦い、伏見城で自刃した徳川方の忠臣たちの血が染みついた血天井が有名だ。
美しく形成された庭を通り、受付で拝観料を七百円払う。寺の中に入ると、着物に身を包んだきれいな女性がチケットの半券を切って差し出してくれた。
歳は三十後半くらいだろうか。印象的な大きな右目の下には目立つほくろがある。スッと高い鼻筋に桜の形をしたキレイな唇。化粧は薄付きだが、それが逆に彼女の美しさを際立たせていた。
「おこしやす」
鈴の音みたいな心地いい声に、癒された。
うっかり年上美人に見惚れていると、なぜか女性の方もじっと彼方の腕を見つめていた。
「あ、えっと……なにか?」
なかなか半券を離してもらえないので思わず声をかけると、女性は自分で自分に驚いたように半券を手放した。
「す、すんまへん。……針が――やのうて、あんまりキレイな腕やったから、つい……」
言いながら顔を上げた女性は、彼方の顔を見るなりわずかに目を見開いた。
「――? キレイな腕ですか?」
思いもかけない言葉に、彼方はしげしげと自分の腕を見つめた。
女性はキレイな腕だと言ったが、どう見ても健康的な高校生男子の普通の腕だ。身体を動かすのが好きなのでスポーツで負ったケガの跡もそこそこ残っている。
しきりに首をかしげていると、涼が「彼方、早くしろ」と急かしてきた。行こうとすると、女性が声をかけてきた。
「お、お客さんら、東京の方どすか?」
「あ、はい。わかります?」
「へ、へぇ……喋り方とか……。なんとのう」
「――彼方!」
「わかってるよ」
うるさい涼に返事をすると、女性が深々と頭を下げた。
「引き止めてしもうてすんまへん。ごゆっくり」
「ありがとうございます」
苛立っている涼の元に駆け寄り、彼方は腕を見せた。「俺の腕、キレイらしいぞ」と自慢しながら客殿に向かうと、朝早かったせいか先客が一人しかいなかった。
二十歳くらいの若い青年が背筋を伸ばして正座し、じっと庭園を見つめている。その目があまりにも真摯なので、近寄りがたささえ感じた。
そっと部屋に足を踏み入れると、彼方は一瞬で壮麗な自然に飲み込まれてしまった。
畳敷きの部屋を囲む広い縁側。そこから一望できる庭との境は窓一つない。隔てるものは柱と鴨井だけだが、無粋さはまったく感じなかった。逆に、それらが額縁の役割を担い、庭が絵画みたいに見える。
客殿の西方には天に向かって伸びた竹林があり、その間からは大原の里の風情が満喫できる。北方には一本の古松が威風堂々と額縁庭園の主役を張っていた。古松の根元には『五葉松』と記された立板がある。京都市指定の天然記念物になっている樹齢七百年を超える松だ。
山門から見ると、富士の形に剪定された美しい雄姿が望めるが、部屋の中から見ると八方に伸びる枝葉が目立つ。まるで力強く何かを語り掛けているようだ。
「……すごいな」
言葉にならなくて、ただ一言そう呟くと、先ほど受付をしてくれた女性がお茶とお菓子を持ってやってきた。まさか、茶菓子が出てくるとは思わなかったので、やけにありがたく感じた。参拝客がゆっくりと拝観できるようにしてくれているのだろうか。
「おあがりやす」
喉でも痛いのか、女性はしきりに喉元を抑えながら、そっとお菓子を置いてくれた。
「どうも、ありがとうございます」
嬉しい心遣いに頭を下げると、女性はじっと彼方を見つめた。
「えっと……」
受付の時といい、先ほどから尋常ではない視線を感じるが、なんなのだろうか。
「……俺の顔に何かついてますか?」
「あ……。す、すんまへん。えらい垢抜けたお顔やから見とれてもうて……」
予想外の言葉に、彼方は頬を赤らめた。
「俺が垢抜けてる? こいつじゃなくて?」
彼方は涼を指さした。
自慢ではないが、涼と一緒に歩いていて自分が先に容姿を褒められることはめったにない。女性の視線が必ず涼に釘付けになるからだ。しばらくたってから横のお兄さんも素敵ね。などと言われたりもするが、それも稀だった。
「いややわ。子供相手に……すんまへん」
「あ、いえ。そんな。ありがとうございます」
反省している女性に、彼方は頭を下げた。歳上美人に褒められて悪い気はしない。
「ご旅行どすか?」
「はい」
「そうどすか。……これからどこを回らはるんどす?」
「……そうですねぇ。明日は広隆寺あたりにでも行こうかと思ってるんですけど」
「広隆寺。そらええですね。あそこの菩薩さんはべっぴんやから……」
「ははは……。そうなんですかね?」
写真でしか見たことがないので、擬人化されて言われてもあまりぴんとこない。
空笑いで返すと、女性は客相手に話しすぎたと思ったのか微妙に眉を下げた。
「変におしゃべりしてもうたな。堪忍しとくれやす。ほな、ごゆっくり」
「あっ、ちょっといいですか?」
女性が立ち上がろうとしたので、彼方はついでとばかりに源氏物語の本に挟んであったポストカードを取り出した。
「あの。これ、親戚からもらったものなんですけど。ここで売ってるんですか?」
「……ポストカード?」
「あんまりきれいだから、どこで売ってるのか知りたくて」
女性はしげしげとポストカードを見て答えてくれた。
「これ、うちで売っとるものやけど……」
「いつから売られてるんですか?」
「ええっと……」
女性が首を傾げると、ちょうど受付にいた別の年配女性が客を伴って入ってきた。女性がポストカードのことを同僚に問うと、彼女は一目見るなりすぐに答えてくれた。
「つい半年ほど前にうちで発売されたものやな。ここでしか売ってへんものやないやろか」
「半年前?」
そんなに最近なのか。曾祖母が亡くなったのは今から三ヶ月前だ。もし本人が購入したとしたら、病床の身をおしてわざわざここまで買いに来たということになる。
「じゃあ、この裏に書かれてる絵に心当たりはありませんか?」
「花?」
「――カンパニュラって花です」
「カンパニュラ……」
女性二人は顔を見合わせて首を傾げた。心当たりはなさそうだ。
「そうですか……。――涼、聞いてるか? これ。ここにしか売ってないんだって」
「……」
「なんだよ、その目は」
涼は返事どころかこちらを見もしなかった。はりきって探偵まがいなことをしていた彼方は、その温度差に不満を抱いた。そもそも、ここに来たのはこのポストカードが気になったからではないのか。
涼を軽く睨みながら二人の女性に礼を言うと、年配の女性が彼方たちの座っている場所は例の血天井の下だと教えてくれた。背中が泡立つの感じながら天井を見上げると、うっすらと茶色いシミが見えた。
彼方には霊感などないが、さすがに血痕の下でお茶を飲むのは気がすすまない。女性たちが立ち去ったのを見計らい、場所を移動するか問うと、涼は信じられないものでも見るような顔で言った。
「なんのために寺に血天井があると思ってるんだ。何百年も供養されてるんだから、いいかげん武将たちも成仏してるだろ。むしろ、してなきゃ寺の意義を疑う」
「……」
あまりの正論で切り捨てられて、ぐうの音も出ない。
「そりゃそうだ」
そうだが、それとこれとは違う気もする。
彼方は軽く首をひねりながら、結局、涼の言う通りそのまま腰を落ち着かせた。
黙って正座していると、自分の中心に一本芯が生えた気がした。彼方は竹林や、血天井などに目を移しつつ、額縁庭園を大いに堪能するが、涼は五葉松だけをじっと見つめて、微動だにしない。
写真で見ても立派だと思っていたが、やはり本物の迫力は桁違いだ。
「涼、お前さ……ポストカード云々は口実で、実はこの五葉松が見たかっただけじゃないのか?」
「……」
真剣な横顔にそっと問うと、涼はふと口を開いた。
「ヤマタの大蛇みたいだ」
意味不明な言葉が返ってきて、彼方は自分の耳を疑った。
「――はっ?」
ようやく聞き返すと、涼は無駄な沈黙の後、きっぱりと言った。
「庭の凄さはさっぱりわからないが、あの松はヤマタの大蛇みたいで面白いと思った」
「――っ!」
とっさに彼方は音が出るほどの勢いで涼の口を手で覆った。力を入れ過ぎたせいで涼の体が後ろに倒れかける。
「ヤマタの大蛇ってなんでだよ! って、裏拳でツッコミたいところだが……。そうだな、うん。感想なんて人それぞれだもんな。だけど、庭の凄さがさっぱりわからないとか、ここでは言うな。寺の人に悪いだろ」
真剣に諭すと、涼はしぶしぶ頷いた。口から手を離し、彼方は冷や汗をかく。
そうだった。これを忘れていた。
涼は「美しいもの」を見ても、「美しい」という感覚を持たない人間なのだ。幼い頃から美的感覚を持ち合わせておらず、「美」がもたらす感情がどういうものなのかもわからない。たまに見たものに対してどう見えるか素直に漏らすことはあるが、感性が一般とずれているので、突拍子もないことを言い出すこともしばしばだ。
彼方は涼の感性をユニークだと感じているので、美しさなどわからなくてもいいと思っているが、当の涼は違うらしい。美的感覚が人とずれているのは、自分に欠陥があるからだと感じているようだ。あまり幸せとは言えなかった生育環境と、もともと持ち合わせた人格が、涼から「美」というものを奪ってしまったのだと思い込んでいる。
だから、涼は旅をしながら探しているのだ。自分に「美しい」ということを教えてくれる何かを。五感を震わせ、感情を揺さぶってくれる大きな大きな何かを。
彼方が白繚高校に旅行部を立ち上げたのもこれを知っているからだった。月曜の不登校を直したかったのももちろんあるが、それ以上に涼の探しものを手伝ってやりたかった。旅行部があれば学校に咎められず、堂々とそれを叶えられるかもしれない。我ながら、これ以上の名案はないと思ったのだ。――が、それとこれとは別だ。言いたいことは時と場所を選んでもらわなくては困る。
「それで、ヤマタの大蛇はお前のおめがねにかなったのかよ」
彼方には五葉松のどこがヤマタの大蛇に見えるのかわからないが、一応そう訊ねてみると、涼は緩く首を横に振った。
「本物を見れば、『美しい』と感じると思ったが……」
残念そうな涼が急に気の毒になり、彼方は表情を和らげた。
「俺はヤマタの大蛇に見えても、問題ないと思うけどな……。でも、まぁ、探しものはゆっくり探せばいいさ」
涼から「美しい」という感性を奪ったのは、彼の両親かもしれない。
大病院の医院長である父親は厳格な人で、子供のことよりも天羽の名前を大事にする人だった。とくに跡継ぎである涼にはとても厳しかったらしい。小学校高学年から中学にかけては学校と家の往復以外許されず、家にいる間は勉強のためにほとんど机に座らされていた。さぼると暴力もふるわれていたというから躾にしては度をこえている。おかげで涼は同学年の子と比べてとても頭がよいが、そのぶん少し感情表現が苦手になってしまっている。
そんな彼が、ここまで自由にやれているのは、両親が中二の春に離婚したからだ。父親は他に女をつくって家を出て行った。母親も涼が高校に入学する直前に病気で亡くなり、彼は現在、残された家に一人で暮らしている。学費や生活費は父親から出ているらしいが、それだけだ。再婚相手に子供ができてからはあまり会ってもいないらしい。
金より愛情だろうと彼方は思うが、涼は自由を満喫できる今が一番幸せだと言う。
それが悪い方向に出ているのが『月曜の亡霊』だったりするのだが、涼自身は、なおす気がないようだ。
複雑な心境で温くなった茶をすすると、不意に背後から小さな笑い声が聞こえた。振り向けば、竹林側に座っていた先客の青年が肩を揺らして口元を手で押さえている。
「――いや、えろうすんまへん。二人のやりとりがあまりにも面白うて……」
「はぁ……」
ヤマタの大蛇だ、武将の成仏がなんだとバカなやりとりばかりしていたので、彼方は恥ずかしくなった。冷静に考えたら中二病全開のやりとりだ。
青年はひとしきり笑ったあと、ようやく一息ついて彼方たちに微笑を向けた。
初めて見たときは近寄りがたいと思ったが、口を開くと柔和な面持ちの青年だ。やけに白い肌と細い瞳が特徴的だった。
「――急に笑うたりして、かんにんな。なるほど、よう見ると五葉さんもヤマタの大蛇に見えるわ」
「え? どこがですか」
彼方がつい正直な問いを投げると、青年は五葉松の太い枝を指で形取った。
「ほら、太い幹からあっちこっち首が出てはる。見れば見るほどヤマタの大蛇や」
「……そ、そうですか?」
単に話を合わせてくれているだけかと思ったが、男性は本当にヤマタの大蛇に見えている様子だ。こんなところで涼の理解者に出会えるとは思っていなかった。
「君ら、京都の人やないな。観光か?」
「はい、東京から来ました」
「遠いところからご苦労さんやな。せやけど、 そっちの子は、えらいおもろい子やな。なんや気に入ってしもうたわ」
「いや、まぁ。こいつはちょっと変わってまして」
男性は涼に関心を持ったようで、親しげに話しかけてくる。黙っている涼の代わりに彼方が答えていると、男性はニコニコと頷いた。
「せやけど、この庭の美しさがわからんとは、残念やな。僕なんか何度も通っとるけど来るたびに新たな発見があるから、いちいち感動しまくりやで」
「何度も? そんなに来られてるんですか」
「五ヶ月間で、十数回は来とるかな」
「えっ?」
思いがけない青年の告白に、彼方はつい彼の目を凝視してしまった。
「あ、すみません」
ぶしつけな態度に気付いて謝ると、青年は軽く片手を振った。
「ええねん、ええねん。僕は子供の頃病気で目が見えんようになってしもてな。五か月前に、手術してもろたおかげで目が見えるようになったんや。せやから、もう見るもの触れるもの全てが新鮮で新鮮で……」
「……そうだったんですか」
そんな人がこの額縁庭園を見れば、自分たちの数十倍は感動するだろう。
「なんか、俺たち邪魔をしてしまったみたいで」
「邪魔なんかしてへんよ」
はんなりと笑う青年に、彼方もつられて笑顔になる。青年の柔らかい声は不思議と人を和ませる力があった。
「――でも、五ヶ月で十数回は来すぎだろう」
真横から穏やかな空気をぶち壊す低い声がした。余計なことを言うなと注意しかけたが、それは彼方も引っかかっていた。
目が見えるようになってまだ五か月だ。方言から京都の人みたいだが、それにしても足を運びすぎだ。他にも行きたい所はたくさんあるだろうに。
「ははは、常連さんや」
青年は軽く笑い飛ばしたあと、「実はな」と神妙な面持ちで二人の側に膝を進めてきた。
「ここには人を探しに来とるんや」
「人探し?」
「そうや」
青年はいたずらっ子の顔で唇を曲げた。
「目が見えんかったころから、ずっと好きな人がおってな。せやけど、彼女はパッと僕の前から消えてしもたんや」
「消えた?」
「消えたは大げさやな。手術する前に告白したんやけど、返事もせずに彼女は僕の前からいなくなってしもたんや。聞いたら職場を辞めたっちゅう話や。このあたりに彼女の転職先があるって聞いて、探しに来とるんやけど全然見つけられへん。そもそも顔もわからん人やしな」
涼はしばらく青年を見つめていたが、やがてふっと目をそらした。
「手術は、京都の病院で?」
「そうや、市内の病院や。ちっさい頃からお世話になっとったんや」
「……」
彼方は涼の横顔を盗み見た。涼はじっと五葉松を見据えている。表情は何一つ変わらないが、青年の想い人についてなにか考えているのかもしれない。彼方自身も彼女がどこにいるのか気になって仕方がなかった。
しばらくして、涼が満足したように顔を上げた。
「そろそろ出るか」
「――えっ?」
唐突に寺を後にする意思を示されて、彼方は戸惑う。
「も、もういいのか?」
「ああ。特にポストカードのこともわからないし、次に行きたい」
「そ、そうか」
長居したからといって、ポストカードの謎が解けるわけではないのは確かだが、それにしてもあっさりとしすぎだろう。もう少し聞き込みなりなんなりしてみたい。
彼方たちにつられたのか、青年も「ほな、僕もそろそろお暇するわ」と言って立ち上がった。
――と、予想外の事態が起きたのはその時だった。
青年と涼が、同時にその場に倒れ込んだのだ。
「はっ? えっ!」
彼方が慌てて涼の背中に触れる。
「触るな!」
「って、急にどうしたんだよ!」
手をはたかれてあたふたしていると、涼が強く彼方の腕を掴んだ。
「……びれた……」
「はっ?」
あまりにもか細い声だったので涼の口に耳を近づける。涼は苛立ったように怒鳴った。
「足がしびれた!」
「なんだそりゃ!」
盛大にすっころぶかと思った。
彼方は脱力して、その場に座り込む。
「まったく。驚かすなよ! 急病にでもなったのかと思っただろ!」
「――かんにん、僕もや」
青年は涼以上に派手に畳の上で悶え苦しんでいる。
「二人してバカか!」
「……バカって君な。苦手な正座してがんばっとったんやで。こんな立派なお寺さんで胡坐なんかかけへんわ」
「……寺は別としても、畳は正座だろう」
「そういうもんか?」
彼方は妙なこだわりを持つ二人にため息をつき、しばらく放置しておくことに決めた。しびれなんか放っておけばすぐに治る。
それしても、五葉松をヤマタの大蛇だと言ったり、かたくなに苦手な正座を貫いたり、持っている空気は違うが、涼と青年は似た者同士かもしれない。
「――あら、まぁ。足がしびれはったん?」
間が悪いところに、先ほどお茶を持ってきてくれた女性が新たな客を連れて部屋に入ってきた。背後で気の毒そうに苦笑している若い女性客二人を案内したあと、女性は涼に近づく。
「正座で血行が悪うなっとるからや。アキレス腱や膝裏、肘をマッサージすると早う治るで。リンパ管や血管が流れ込む組織があるんや」
言いながら、女性は涼の膝裏や肘をマッサージし始めた。
「お兄ちゃんも、そちらのお客さんをやったげて」
促されて、彼方は青年の膝裏を揉む。揉んでいるうちにしびれがなくなったのか、青年は穏やかな顔で大の字に寝転んだ。
「あー、たすかった」
「大げさな」
放っておけば治るものをと思いつつ涼に目をやると、なぜか涼は女性の手をしっかりと握りしめていた。
「って、何をやってんだ」
「礼」
「嘘をつけ。お前がそんな玉じゃないのは俺がよく知ってる」
冷めた目で言い切り、彼方は涼の腕を掴んで立たせた。
「ありがとうございました」
無口な友に変わって礼を言うと、女性は白い歯を見せた。
「ほら、行くぞ」
落ち着いた涼をつれて彼方は客殿を出る。後をついてきた青年と三人で受付の前を通ったとき、不意に涼が足を止めた。
「あんた、名刺かなにか持ってるか?」
問われた青年は、目を瞬きながらも名刺を取り出した。
「なんや。僕に興味持ってくれはったん?」
嬉しそうに手渡されたそれに記されていたのは、京都市内にある視覚障害支援センターの名と、笹木一弘という名だった。
「目が治ってから勤めだしたんや。そこで点字本を作らせてもろうとる。京都にしばらくおるなら、もう一度ぐらい会うてくれたらうれしいわ」
「……」
涼はじっと名刺を見ていたが、ちょうど通りがかった先ほどの女性に声をかけた。
「何か書くものを……」
「あっ、はい」
言われた女性は、なぜか胸と腹部に手を当てたが、すぐに受付内に入ってボールペンを持ってきた。
「これ、使ってください」
「ありがとう」
涼は珍しく礼を言いながら受け取り、名刺の裏にサラサラと何やら書き始めた。覗き込んだ彼方はギョッとする。涼がしれっと書いていたのは彼方のスマホの番号だった。
「って、なんで俺の番号だよ!」
ツッコむ彼方を無視して、涼は名刺を笹木に返した。
「はっ? え?」
唖然としたのは涼を除いた全員だ。
「笹木さん、あんたの連絡先は覚えた。これはこいつの電話番号だ」
「は、はぁ? そうなん……?」
笹木はポカンとしたまま返された名刺を受け取る。
「お前、覚えたからって名刺を突き返すのは失礼だろ!」
「書くものが欲しかっただけだ」
「名刺をメモ代わりにするな!」
「――ま、まぁまぁ。僕はかまへんで。連絡先を教えてくれただけでもうれしいわ」
笹木が優しい人でよかった。若いのにとてもできた人だ。
「いいんですか?」
「ええよ。なにかあったら、君に連絡してもええか?」
「もちろんです」
涼は彼のはんなり笑顔に免じて、涼のワガママを許すことにした。
人の電話番号とはいえ、涼が自ら自分のコンタクト先を教えるのは稀有だ。彼方という壁を一枚隔てなければならなかったのかと思えば、あまり強く怒れない。
とはいうものの、やっぱり自分は涼に甘いかもしれない。
受付を後にし、揃って山門までの石畳を歩く。名残惜しくて振り向くと、涼も立ち止まって五葉松を眺めていた。
「――笹木さん。あんた、バイトをしたことがあるか?」
「バイト?」
だしぬけに言われた意味がわからず、笹木は彼方と顔を見合わせる。
「見たところ、あんたの歳は二十歳そこそこだろ? 今の職場の前にどこか別のところに勤めたことがあるかと聞いてるんだ」
「い、いや。ないな。……名刺の職場が初めてや」
「――じゃあ、あんたの探し人は医療関係者だな」
「はっ?」
驚く笹木に、涼は五葉松から目を離さずに滔々と語りだした。
「あんたは好きな人が転職して消えたと言っていた。転職して会えなくなる相手と言ったら同じ職場の人間か、あんたが世話になっていたという病院の関係者だ。まぁ、それ以外に通っている店とかあるかもしれないが、あんたはずっと好きだったと言ってたからな。長い間頻繁に通うのは職場か病院くらいだろ。――この二つのうち職場の人間はありえない。あんたは目が見えるようになる前に告白したと言っていたからな。就職が手術後なら、告白相手は職場の人間じゃない。となると、残るはずっと通っていた病院の関係者だ」
「――そ、そうか。それで他に仕事経験がないのか聞いたのか!」
ようやく意味を理解し、彼方は感心した。
「そ、そうや。僕の好きな人は病院の看護師さんやったんや!」
「ちなみに、俺にボールペンを貸してくれた宝泉院の受付の女性は元看護師……少なくとも医療関係者だ」
「――ええ?」
断言した涼に笹木は素直に驚いている。
彼方はようやく始まったかと弾む心を抑えられなかった。涼は人の数倍観察眼が鋭い。しかも、勉強漬けを強要していた父のおかげもあってか、同年代の子と比べても破格の知識を持っている。
聡すぎる上に空気を読まないので、よく物事を正直に言いすぎてトラブルに巻き込まれたりもするが、そのスイッチが良い方向に入ると、まるで探偵みたいに見えるときがある。彼方はそんな涼の謎解きが面白くてたまらなかった。
実は、笹木の探し人の話を聞いた時も、涼が答えを導き出してくれるのではないかと密かに期待していたのだ。
「彼女が元看護士って、どうしてわかるんや?」
「まだ職業病が抜けてない。最初、彼女は彼方の腕をキレイだと言ったが、こいつの腕がキレイなわけがない。針が刺しやすそうな腕だと思ったんだ」
「――あ、注射? そういえば彼女、『針が』とか口走ってたな」
「看護師は人の腕を見ると、つい注射しやすそうかどうか見てしまうらしい。それと、さっき書くものを貸してくれと頼んだ時も、とっさに胸や腹を探ってたしな。まるでそこにポケットがあるようだった。着物なのに」
「……ナース服だ」
「いつも、ナース服のポケットにペンを挿してたんだろ。習慣になっているととっさの行動で癖が出る。しかも、真夏なのに彼女の手は荒れていた。アルコール消毒のし過ぎかもな」
もしかして、涼はそれを知りたくて、わざとペンを借りたり彼女の手を握ったりしていたのだろうか。
「確かに、彼女は僕らの足のしびれを手際よう治してくれはったけど、癖やそれだけで僕を知ってる看護師って決めつけるのはどうやろ」
「ま、まぁ……そうですよね」
笹木の指摘はもっともだ。もろもろの癖がナースの職業病だとしても、だからと言って笹木を知る元ナースだと決めつけるのは強引な気がする。
「確かに、それは些細なことだが、彼女があんたの前では声色を使ってたとしたら?」
「声色やて?」
「声色?」
笹木と同時に声を上げた彼方を、涼は呆れた目で一瞥した。
「気づかなかったのか? 俺たちが初めて彼女と受付で会ったとき、彼女の声は高かっただろ」
「ああ!」
歳のわりには鈴の音みたいな声だと思った記憶が蘇り、彼方は大げさに声を上げる。
「彼女は客殿に入るときは常に喉を指で押さえていた」
涼は掌で喉を覆い、さりげなく二本の指で喉元を抑えた。
「こうして、声をわざと枯らしてたんだ」
「……なんでそないなことを」
「元々目が見えなかったあんたは、五感がすぐれてるだろ。声を聞けばだいたい誰かわかるんじゃないか? 彼女はそれを逆手にとった。わざと声を枯らせば、自分が何者か見破られないと思ったんだ」
「……っ」
笹木は愕然としている。
「ちなみに、俺とあんたは同時に足のしびれで動けなかったが、彼女は位置的に近かった常連のあんたを無視して、俺の元へ真っ先に駆けつけた。それは、あんたに触れたくなかったからだ。……声と一緒だ。目が見えなかったあんたは、何度か触れたことのある人物の手なら、だいたい誰のものかわかってしまうんじゃないのか」
「……」
笹木の顔がみるみると輝いていく。
「わかる。わかるで! 病院でお世話になってた看護師さんの手なら、なおさらや」
「彼女はそれを避けたかったんだ」
「す、すごいな。君!」
笹木は感嘆しきりで涼の手を握りしめた。
「あんたの想い人は五か月前に姿を消したんだろ? 彼女はこいつが持ってるポストカードが半年前に発売されたのを知らなかった。それ以前に勤めていた人間ならわかるはずだ」
「ちゅうことは……」
「彼女が宝泉院で働き始めたのは半年前より後になるな。あんたの想い人が職場を辞めた時期とも重なる」
「……はぁ、驚きや。この短時間でそこまで」
笹木は涼の推理に感嘆の声を漏らした。
「正直、顔もわからん人やから、半分諦めとったんや……。 なんや大きなヒントを得た気分やけど、なんで彼女は僕のことを避けとったんやろ」
「気になることがあるなら、彼女に直接訊いてみるといい。あんたにその勇気と覚悟があるならだが」
「……」
笹木はしばらく涼を見つめていたが、やがて何かを決意したように大きく頷いた。
「どっちにしても、このままやったら俺は生殺しや。彼女に会うてくるわ」
「……」
「ほなな、涼君。ありがとう。君らも、京都旅行めいっぱい楽しんでや」
大きく息を吐いて、笹木は緊張した面持ちで宝泉院へと戻っていく。
涼は相変わらずむっつりとしたままだ。
「どうした、涼?」
「いや」
「それにしても凄いな、お前。笹木さんの探し人をこうも簡単に見つけるなんて」
まさに立て板に水のような推理だったと賞賛すると、涼はどこか不完全燃焼を抱えた表情で彼方を一瞥した。
「別に凄くもなんともないさ。どうせ、笹木さんはふられるからな」
「え?」
「気付いてなかったか? 彼女の左手薬指」
「ああ! そういえば結婚指輪が!」
あった。しっかりとあった。プラチナに輝く結婚指輪が。
「看護師の仕事中は外していたんだろ。だから、笹木さんが恋をしたときは彼女が既婚者だと気付かなかった」
「そ、そういえば……あの人、キレイだったけど年齢が三十後半くらいだったよな」
ひょっとしたら、四十すぎているかもしれない。反対に笹木は二十代の青年。恋愛に歳は関係ないとはいえ笹木は気にならなかったのだろうか。
「彼女が告白の返事をしなかったのは、本気にしてなかったからだ。彼女からしてみれば子供が冗談を言っているとでも思ったんだろ。なのに、新しい職場に度々来られたらどう思う?」
「冗談だと思ってた告白が本気で……。つ、付きまとわれてると感じて怖いかも……。だから、声色を変えて知らないふりを?」
「まぁ、そこまでは言わないが近い感情は持ってただろうな」
言い捨てて涼は山門から出ていく。彼方は笹木の分までがっかりして肩を落とした。
「そうか~そうなのか~」
そうなると、彼の探し人をあばいてやったのはいいことなのか悪いことなのか。
「ずっと引きずっているより、現実をしっかりと直視した方がいいんだ。笹木さんは悪い人間じゃない。ただ、知らなかっただけだ。ちゃんと事情を理解したら身を引ける」
「それが笹木さんのためか」
元来、人とかかわるのを嫌う涼は、これ以上この件に首を突っ込む気はないらしい。。
「……なんか、こう……喉に刺さった小骨が抜けない気分だ。旅先で謎は抱えない方がいいな。俺もポストカードの件はほどほどに考えとくよ」
旅は、なるべく無心で楽しむ。それに限るようだ。