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第一章 月曜のまぼろし

    

 





「――あんたが席を譲る必要はないと思うが?」

 それは、東京駅から出発した港区方面行きのバスの中だった。

 後方の座席に腰を下ろしていた女性は、不意に少年から声を掛けられて面食らった。

 車内は微妙に込んでいる。座席が空いてないので、少年は女性の前の席に掴まって立っていた。

 感情の見えない瞳の色のせいか、少し冷たい印象を受ける。青みがかった白い肌。筆でスッと描かれたような二重の瞼に、高くすっきりとした鼻筋。日本人にしては珍しく東スラブ系を彷彿とさせる美貌だ。

 女性は少年の言葉に動揺しながら、真横に立つ中年の男を見やった。

 一つ前の停留所から乗ってきた男は右手に杖を持ち、足を悪くしているようだ。しばらく車内を見回していたが、空いている席がないのを確かめると、彼は女性の席の背もたれに掴まり、ブツブツと足が痛いだの席が空いてないだのとぼやきだした。さすがに無視するわけにはいかず、女性は席を譲ろうと腰を上げたところだった。

「とりあえず、あんたは座って。具合が悪いんだろ?」

「――っ」

 少年は表情を変えもせずに言った。呆気にとられてつい座ると、彼はじっと女性を見つめた。

「頭が痛いんだよな」

 断言されて女性は驚く。

 確かに先ほどから軽い目眩と頭痛がしていてしんどかった。

「どうして、それを……」

「……顔色が悪い。それにさっきから何度も額やこめかみをさすってるし。ハンカチも口元に当てたまま手放さない。できるなら、三つ先の停留所で降りて、すぐに病院に行った方がいい。あそこなら、すぐ近くに大きな病院がある」

 女性は知らぬうちに強く握りしめていた花柄のハンカチを見つめた。

「そ、そんな、大げさな。ちょっと頭痛がするだけだから、家に帰って寝てれば治るわ」

「自覚はないかもしれないが、動脈硬化を起こしている可能性がある」

「――えっ?」

 なんの躊躇もなく言われて、さすがに動揺した。動脈硬化なんて、予想外の言葉だ。

「なんでそんなことが……?」

「あんた、若いのに耳たぶに皺ができてる」

「そ、そう?」

 とっさに耳たぶを触る。言われてみれば、近頃ピアスをする度に耳たぶにハリがないと思っていた。

「耳たぶには毛細血管が多くあるから、動脈硬化になると細部に栄養が届きにくくなって、耳の脂肪分が縮んでしわになることがある。あと、目頭に黄色いしこりができてる」

「えっ、あ……」

 今度は目頭を触った。確かに鏡を見るたびに黄色いしこりがあって気になっていた。

「目頭のしこりは、動脈硬化の皮膚の病変として出ることがある。自分が気づかない内に動脈硬化になっている可能性がある。頭痛がひどいなら、なおのこと病院に行った方がいい。最近、記憶力が低下したり不眠が続いたりしてないか? 耳鳴りは?」

「し、してるけど……」

 少年の指摘は全て当たっていた。最近記憶力の低下で仕事に支障をきたして困っていたのだ。疲れているだけだろうと思っていたが、もしかして大きな病気なのだろうか?

 女性が戸惑っていると、隣に座っていた初老の男性が慌てたように言った。

「あ、あんた、それ。脳動脈硬化かもしれんぞ。わしもなったことがあるからわかるんだ。脳動脈硬化は、ぶっ倒れてから気づくことも多い。この子の言うとおり、行けるなら早く病院に行った方がいい」

「え……あ……」

 思わぬ成り行きに放心していると、初老の男性が松葉杖の男を見た。

「じゃあ、君にはわしが席を譲ろうか」

 男性が代わりに立ち上がろうとすると、少年はそれも止めた。

「別に無理に譲るなとは言わないが……。この男、足が悪いわけじゃないと思うけど」

「――えっ?」

 女性や初老の男性ばかりではなく、近くにいた乗客全ての目が杖をついた男に向いた。

「な、何を言ってるんだ。俺は三か月前に事故で右足を負傷したんだ。その証拠に杖だって……」

「その杖、本当に必要なのか?」

 あからさまにムッとした男を、少年はじっと見据える。

「あんた、杖に重心をかけて歩いてないだろ。今だって、杖をしっかりと握ってない。頼らずとも二本の足で立てるんだ。しかも、その杖、伸び縮みする携帯用だろ?」

「それがどうした」

 男の額からだんだんと脂汗がにじみ出てくる。

「……俺は窓の外をずっと見てたんだが、さっきあんたが乗ってきた一つ前の停留所……バスに乗り遅れそうになって軽く走ってたよな? しかも杖を取り出したのはバスに乗る直前だった」

 車内がザワザワとし始める。席を譲ろうとしていた初老の男性は、男を上から下まで睨めつけた。

「……つまり、杖があれば席を譲ってもらえると?」

「いや、そ、それは……」

 男は目を泳がせて、じりじりと出口へ向かい始める。

「あんた足が不自由なのに、たくさん座ってる人がいる中で、わざわざ出入り口から遠い後部座席のこの人のところまで来たよな? 一番席を譲ってくれそうな人間を物色してたんだろ」

 追い打ちをかける少年に、男の顔が青くなった。乗客たちの視線が突き刺さる中、男はわざと少年にぶつかり、逃げるように降車口に向かった。バスが止まるなりタラップを駆け下りて行く男の背中を、乗客たちが苦々しく睨みつける。

 男は負傷していたはずの右足でバスの車体を蹴った。一目散に逃げるかと思ったが、その後も停留所に留まったままだ。目的地がまだ先なのだろう。

 世の中はケガ人や病人に優しい人が多い。そこをついていろいろ徳を得ようとする健常者も少なくない。男はその典型だったようだ。きっと、次に乗るバスでも同じことを繰り返すに違いない。

「いやぁ、君はすごいな」

「……あ、あの。ありがとう」

 少年を称賛する初老の男性の横で、女性は心から礼を言った。

 正直、頭痛がひどくて席を立ったら倒れるかもしれないと思っていたのだ。かといって足を負傷している男を無視するわけにもいかなかった。この席を譲らずにすんだのは助け船を出してくれた少年のおかげだ。

「あなたのお名前は?」

 名を尋ねたが、少年は答えなかった。女性が戸惑っているうちに、彼は次のバス停で降りてしまった。

 なんとも素っ気ない態度だと思ったが、端正な顔立ちと自分の手柄を誇りもしないクールさに女性は既婚者であることも忘れてときめいてしまった。

「無愛想だが頭のいい子だったな。……いや、感心感心。世の中あんな子ばかりなら日本も安心だな」

 男性が褒めたので、女性も大きく頷く。

「この辺の子なら、もしかしたら白繚高校の子かもしれませんね」

「白繚高校か……。どおりで賢いはずだ」

 青山にある名門私立高校の名前を上げ、女性は窓の外を歩く少年の姿を名残惜しく目で追った。


     ◇


 東京都港区青山の住宅街に建つ私立白繚高校は、ちょっとした富裕層の子供が通う名門高だ。 

 校則は緩く、校風も自由。生徒の自立心を養うためと言えば聞こえはいいが、親から入る寄付金が多額なため、厳しい校則で縛りづらいというのが学校側の本音だ。

 だが、そんな甘い環境の中にあっても、生徒は比較的真面目な人間が多い。元々育ちが良いためか、はみ出す子供は皆無に等しく悪目立ちする生徒はあまりいない。偏差値も都内で上位を争うほど高く、卒業後に日本屈指の名門大学へ進む者も多数いる。

 優秀な成績を誇る運動部も複数あり、一流と言われるスポーツ選手の出身校としても時々名が上がるほどだ。非の打ちどころのない同校の良さは世間でもよく知られており、白繚高校出身というだけで、世間の目はよい方向へと変わる。

 そんな文武両道を地で行く同校には、ほんの一月前に発足したばかりの新しい部があった。

『白繚高校旅行部』

 このいかにも有閑的な名を持つ部は、たった一人の生徒のためだけに創部された。

 部員は創部者であり部長でもある一年生、こしろかなた古城彼方と、副部長である天羽涼(あもうりよう)の二名だけ。

 原則として、部活動は部員が五人集まらなければ認められないが、旅行部は異例中の異例として創部を許されている。その経緯についてはいろいろとあるのだが、学校側が折れた一番の理由は、副部長である天羽涼の悪癖にあると言っても過言ではないだろう。

「――彼方ー。月曜の亡霊がいたぞー」

 昼休みも半ばに入った頃、一年A組の教室に声が響いた。

 ほとんどの生徒たちは昼食を済ませていて、今はそれぞれの休息時間を満喫している。大声で名を呼ばれたこしろかなた古城彼方も例外ではなかった。

「涼が?」

 彼方は机の上に広げていた古典文学を閉じて立ち上がった。 

 同じ制服に包まれた生徒たちの中にあっても、彼方の姿は人一倍目を引いた。身長はクラスの中で一番高く、体躯もアスリート並に引き締まっている。窓から差し込む陽光にさらされた髪の毛はうっすらと茶色みを帯び、すっと切れ上がった眦は活発な色を宿していて明るさが顕著だ。形のいい唇は常に口角が上がっているので、あまり人に警戒心を与えない。

 自他共に認めるクラスの中心人物は、教室後方の入り口でニヤニヤと笑っているクラスメイトに近づいた。購買で買ってきたのか、彼は両手にたくさんパンを抱えている。

「――ったく。涼の奴、今頃登校してきたのかよ。……悪いな木内。あいつどこにいた?」

 月曜の亡霊とは、二人のクラスメイトである天羽涼のことだ。涼は入学当初から学校をサボる癖があった。元々放浪癖がある彼は土日を使ってよく旅に出るのだが、旅をその場で延長するせいで月曜はほとんど学校に来ない。たまに登校すると皆が驚くため、『月曜の亡霊』などと不名誉な渾名で呼ばれる始末だ。

「一階だよ」

 木内は紙パックの牛乳にストローを挿しながら人差し指を下方に向けた。

「図書準備室に入って行くところを見た……っつーか、旅行部の部室か?」

「わかった、サンキュ」

 木内に礼を言い、彼方は教室を出る。先ほどまで読んでいた本も一緒に持って来てしまったが、今さら教室に戻って置いてくるのもめんどくさい。

 背後で木内が「お前も大変だよなー」と言っていたが、振り返らなかった。

 クラスの誰かが欠席や遅刻をしたからといって、一生徒である彼方に責任があるわけではないが、天羽涼だけは別だ。涼が学校に来なければ、総じて古城彼方のせいになる。

 なんとも理不尽ではあるが、これは彼方とクラス担任の北橋の間で交わされた約束なのだからしかたがない。

 階段を降りている途中でも、すれ違ったクラスメイトたちから涼を見かけたと声がかかった。それほど月曜日に彼を見かけるのは珍しいことなのだ。

 校舎の一階廊下の突き当りには、豊富な冊数を誇る図書室がある。その中にある小さな小部屋が司書が蔵書を管理する図書準備室だ。そう、こここそが、創部したばかりの旅行部に与えられた部室だった。

 急遽設立された部に用意できる部屋はなかったらしく、学校がとりあえずの措置として準備室にスペースを作ってくれたのだ。

 彼方は意識的に目を吊り上げて準備室のドアを開いた。部屋の中は十二、三畳ぐらいの広さだ。入口正面の壁際に図書を管理するパソコンが2台並んでいた。これは司書用のもので、けっしていじるなと釘を刺されている。部屋の中央には陣取るように大きな長方形の机が置かれていて、パイプ椅子には一人の少年が座って本を読んでいた。グランドを見渡せる窓から入る光が、彼の青白い横顔を照らしている。その人間離れした美貌は、さながら図書準備室にだけ現れる雪女のようだった。

「涼!」

 荒い声で呼びかけるが、人影はピクリとも動かなかった。彼方は小学校低学年のときに聞いた学校の七不思議をなんとなく思い出した。

(図書準備室の主……ってのがあったら、あいつみたいなのを言うんだな)

 バカなことを考えながら、彼方は持っていた本を机に置き、近くのパイプ椅子を涼の横に引き寄せた。

「涼、お前こんなところで何やってるんだ!」

 わざわざ反対にした椅子に跨いで座り、腕を背もたれにかける。ここで、ようやく彼の目がこちらへ向いた。

「教室に行くとお前が怒るから」

 表情一つ崩さず言ってのける亡霊の態度に苛立つ。

「ここに隠れてる方が怒るに決まってんだろ! いつから学校に来てたんだよ」

「登校してきたのは、ついさっきだ」

「ついさっきねぇ……」 

 彼方は腹から湧き上がる怒りのまま、涼の右頬を引っ張った。

「今日は月曜日! 朝からきちんと登校して授業を受ける! でなきゃ、学校に来た意味がないだろ!」

「バスで困ってた女性を助けてたんだ」

「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつけ」

「嘘じゃない」

 つっけんどんに言い返され、手を払われる。

「そうやって怒るから、ここに隠れてたんだ。今日、広島から帰ってきたばかりで疲れてるのに、わざわざ東京駅から直行して登校してやったんだぞ。午後から授業を受ければ文句はないだろ」

「わざわざ来てやった……?」

 こめかみの血管が浮いた気がした。冷静になりたいが、どうも無理そうだ。

「偉そうにどの口が言ってるのかな~? ん~? 制服はどうしたんだよ」

「ここで着替えた」

「用意周到なことで」

「そうしないとお前うるさいだろ」

 今度は両頬を引っ張って、無駄に整った顔を崩してやる。

「うるさくない! 俺が誰のために苦労してると思ってるんだ、この放浪癖が。四六時中見張ってるわけにはいかないんだから、黙っていなくなるのはやめろ!」

「俺がどうしようとお前には関係ないだろう。いいかげん放っておいてくれ」

「関係ない? もう一回言ってみろ。今度はその鼻つまむぞ」

 ギリギリと睨みあい、彼方は頬をつまむ指に力を入れた。

 天羽涼の放浪癖は深刻だ。旅をするためなら学校をサボっても平気だと思っている。

 天羽家から入ってくる寄付金が多額なため、教師たちが強く注意できないのをいいことに、やりたい放題だ。そんな彼をどうにか登校させるための策として、学校側は涼のクラスメートであり幼なじみでもある古城彼方に白羽の矢を立てた。

 天羽家の隣に住む彼方なら、容易に涼を学校に引っ張ってこられると踏んだのだろう。学校はこの面倒を彼方に押しつけるために、あらゆる交換条件を出してきた。彼方の偏差値の譲歩と生徒会役員への指名、三年になった際の希望大学への推薦などだ。しかし、彼方はそれら全てを蹴った。学生にとってはもちろん魅力的な条件ではあったが、それ以上にどうしても学校に叶えてほしいことがあったからだ。

 それこそが『旅行部』の創部だ。

 涼の月曜不登校の原因が旅なら、学校公認で旅行をさせてやれば、登校する日数が増えるのではないかと彼方は考えたのだ。

 学校側は最初難色を示していたが、ものは試しと旅行部の発足を許した。おかげでここ最近、涼のサボり癖は改善しつつある。――が、それも本人比というところだろうか。改善というより少しマシになったと言った方が正しいのかもしれない。

 もちろん、マシになったレベルではダメだ。旅行部の発足は学校と取引をして、ようやく実現したものだ。部を存続させるために、涼には真面目に登校してもらわなければ困る。

「――いいか、涼。月曜日はちゃんと登校する! 何度も言ってるだろ? 今度また同じことをしたら、こんなもんじゃすまないからな」

 いつもより厳しめに説教するが、涼はうんともすんとも言わない。そのうち伸ばした頬が赤くなりだしたので、彼方はいたたまれなくなった。

 さすがにやり過ぎたかと手を離すと、涼はいきなり持っていた本を彼方の顔面に叩きつけた。

「――たっ!」

 鼻を強く打って顔を抑える彼方を、涼は不機嫌そうにまっすぐに見据える。

「俺をコントロールしたかったら、さっさと旅行の計画を立てろ! そのための部なんだろ、ここは」

「……コントロールって」

 床に落ちている本を見て、彼方は初めて涼が読んでいた本のタイトルに気がついた。

「『美しき京都 国宝・文化財に秘められた謎』――? なに、お前京都に興味があったのか?」

「別に」

 あっさりと否定されたが、彼方は構わず本を拾った。

かの有名な広隆寺の弥勒菩薩が神々しい笑みを湛えて表紙を飾っている。タイトルからして、京都にある文化財の特集本みたいだ。

 彼方は本をパラパラとめくった。仏像や寺院、美しい庭園などの写真が目につく。古都京都はまさしく古き良き日本を感じるにはベストな場所だろう。

 わざわざ本まで読みこんでいるのは、この地に涼の気になるものがあるからだ。この遠回しなメッセージに気がつかないでいると、涼はまた一人で消えてしまうだろう。

「じゃあ、次は旅行部で京都に行こうか」

「俺は一人で行く」

「……旅行の計画を立てろって行ったのはお前だろ」

「……」

「俺も京都で行きたいところがあってさ。ちょうどいいだろ」

 素直じゃない放浪家の前に、彼方は自分の本を滑らせた。こんなつもりではなかったが、この展開的に持ってきて正解だったかもしれない。

「これは?」

「『源氏物語』」

「お前、古典が好きだったか?」

「全然」

「じゃあ、源氏物語が好きなのか?」

「まったく」

 至極当然のように首を横に振ると、涼の眉間がきつく寄った。

 だったら、なんでこんなものを持ち歩いてるんだと言わんばかりだ。

 この本は有名な作家が現代語訳をしている比較的新しいものだ。装丁も至って普通。十二単を着た女性が華々しく描かれているわけでもなく、デザインが凝っているわけでもない。ただ濃紺の無地に達筆な筆文字で『源氏物語』と綴られているだけだ。

「これがなんなんだ」

 問われて、彼方は沈黙した。発しようとしている答えに自分自身が納得してないのだ。

「なんだ、はっきり言え」

「……二ヶ月ほど前に家のポストに入ってた」

「ポストに? 誰かから送られてきたのか?」

「差出人は、ちょうどその頃に死んだ母方の曾ばあさん。たぶん、亡くなる直前に送ってきたんだと思う」

「……母方って、京都の? 病気で亡くなったのか?」

「ああ」

「じゃあ、形見ってわけか」

 涼の言葉に、彼方は首を傾げた。

「形見……なのか?」

「俺に聞いてどうする」

 要領を得ない彼方に涼が苛立っていたが、はっきりとした答えを求められても困る。彼方自身もこの本がどうして自分の元にあるのかわからないのだ。

「いや、実はさ。俺は母方の曾ばあさんに一度も会ったことがないんだよ……」

「一度も?」

「ああ」

 母の出身は京都だが、彼方は母と一緒に里帰りした記憶が全然ない。加えて古城家は彼方が小学校三年生のときに、父の仕事の都合でカナダに移住している。京都どころか日本にさえいなかったため、父方も含めて親戚づきあいなど、この数年あってないようなものだった。

 去年の春、母が病気で亡くなったのをきっかけに古城家は日本に帰ってきたのだが、はっきり言って母の葬儀がなければ京都のことなど思い出しもしなかっただろう。東京で行った葬儀に参列してくれた京都の親戚は、祖母と母の兄夫婦とその息子である従兄だけだった。曾祖母は高齢で病の床にいたため東京には来ていない。

 二ヶ月前の曾祖母の葬儀にも古城家から参列したのは父だけだ。結果的に、彼方は曾祖母との対面を一度も果たすことができなかった。そんな縁の薄い曾孫に、曾祖母はなぜ死の間際になってこんなものを送ってきたのか。まったく理由がわからない。

 そのせいか、彼方はなんとなくずっと本を手放せずにいた。

「まぁ縁が薄くとも血が繋がってるなら、形見を送っても不思議じゃないだろ。――だが、本はこれだけなのか?」

「あ、ああ」

 涼に問われて、彼方はさすがだなと本音を漏らした。

「送られてきたのは、この巻だけなんだよ」

「それはおかしいな」

「だろ?」

 源氏物語は、かの紫式部が平安時代に執筆し、千年もの間読み継がれてきた古典だ。全部で五十四帖からなる物語で、本にもよるが現代語訳だけでも全十巻は有にあるはずだ。しかし、彼方に送られてきたのは第七巻一冊だけだった。

 形見のつもりなら全巻揃っていても不思議ではないのに、曾祖母が送ってきたのはなぜかこの巻のみ。そこも大いに疑問だった。

「なんでこの巻なんだろうな。……まぁ、読んでみても曾ばあさんの意図はまったくわからないんだけど」

 涼は彼方の話にじっと耳を傾けている。まっすぐ見つめてくる眼差しに促され、気が付けば本の謎について真剣に相談していた。

「――それと、もう一つ。わからないことがあるんだよな」

 彼方は本をめくって、一枚のポストカードを取り出した。

「これが本に挟まれてた」

 カードには、古寺と立派な松の木の写真が印刷されていた。

「五葉松?」

「そう。京都の大原にある宝泉院っていう寺だ。その松は近江富士を型どった樹齢七百年になる五葉松で京都の天然記念物になってる」

「……」

 涼は相づちを打たないが、五葉松には興味を持ったようだった。

「ポストカードを栞代わりにでもしてたのか?」

「やっぱりそうだよな。最初は、なんで源氏物語に宝泉院のポストカードなんだって思ったけど、やっぱり意味はないよな」

「……」

 涼は黙ってカードを裏返した。メッセージや宛名を綴るはずの面には、水彩画で花が描かれていた。お世辞にも上手とはいえないが個性を感じられる絵柄だ。

「曾ばあさんの絵か?」

「たぶんな」

 しばらくカードを眺めていた涼はわずかに目を細めた。

「――カンパニュラに源氏物語……一貫性がないな」

 裏面いっぱいに描かれているのは、紫一色の小さな花だ。シャープで尖った花びらが特徴的で、横に向いて咲いていたり、上や下を向いたりしていているものもある。パッと華やかな印象は持たないが愛らしさは感じられた。

「カンパニュラ……?」

「多年草の花だ。この絵はリンドウザキカンパニュラだが、中には風鈴の形をしたものもあって、それはフウリンソウとも呼ばれている。カンパニュラの種類は五十種類はくだらないが、日本で栽培されてるのは数種類だけだ」

「へ、へぇ……よく知ってるな」

 彼方はあまり植物には詳しくない。涼に言われて初めてこれがカンパニュラだと知ったほどだ。

「源氏物語にカンパニュラは関係ないよな」

「……この絵と、その本に繋がる意味はなさそうだが――」

 涼はきゅっと唇を引き結んだ。

 どうやら彼はポストカードに引っかかりを感じているようだ。

 実は、天羽涼の癖はもう一つある。それは、異常なまでの探究心だ。何か一つ気になったらそれをとことん追求しなければ気が済まないのだ。

 彼の放浪癖も、この探究心の延長線上にあるものだと言っても過言ではないかもしれない。

「……彼方。やはり旅行部で京都に行ってみるか?」

「?」

 サラッと涼が口にしたので、彼方は虚を衝かれてしまった。

「い、いいけど。なんだ急に」

「……曾ばあさんはお前になにか言いたいことがあったんじゃないのか? この寺に行けばなにかわかるかもしれない」

「な、なんか話が大げさになってきたな。俺は単に曾ばあさんの気まぐれじゃないかと思ってるんだけど。ポストカードだってそこまでの意味はないんじゃないか?」

「そうかもな。ただ、京都に行くのは損じゃない。元々お前はこの寺に行きたかったんだろ?」

「そうだけど、いいのか?」

「……ああ。一人の方が気は楽だが、どうも今回はお前を連れて行った方がおもしろそうだ」

「その言い方はどうだよ」

 彼方は偉そうな幼馴染にため息をつく。涼の不遜さには慣れているので別に気にしていないが、他の人間にも同じ態度だから心配なのだ。

 世間をうまく渡っていくためには、敵はあまり作らない方がいい。

「まぁ、いいか……。京都は観光の宝庫だし、形見の謎が解けなくても宝泉院に行った後は、純粋に京都旅行を楽しめばいいよな。プランは俺が立てるよ。一応部活なんだから学校側の許可もとらないといけないし。それまで、どこにも一人で行くなよ。それから、ちゃんと月曜日には学校に来ること」

「……」

 涼はうんともすんとも言わなかった。

 京都行きの条件が気に入らないのが丸わかりだが、彼方は気にせずに涼の腕を掴んだ。

「そうと決まったら、やることをやらないとな」

「やること?」

「お前、忘れてないだろうな? これから授業だからな。――あっ、飯食ってないなら購買に寄るか?」

「……」

 引っ張られるまま、涼は迷惑そうに首を横に振った。昼食はいらないと言われたが、彼方は購買で惣菜パンを買って渡す。

 どうせ、なにも食べていないはずだ。涼にはこれくらいのお節介がちょうどいい。

「俺は京都自体初めてだけど。涼、お前は?」

「初めてだ」

「ふ~ん、しょっちゅう旅してるくせに京都に行ったことないのか。小学校や中学校の修学旅行でも行かなかったのか?」

「ああ。そもそも修学旅行に行ったことがない。大勢でつるんで旅行なんて絶対にごめんだからな」

「そのころから、一匹狼の片鱗が……」

 幼なじみと言っても、彼方は小学校三年から約七年間もカナダにいた。涼とは高校に入ってから再会したので、離れている間の事情はほとんど知らない。

「――はい、これは驕りだ」

 野菜ジュースを渡しながら、彼方はわずかに目尻を下げた。

「宝泉院以外に行きたい場所があったら言ってくれ。……まぁ源氏物語やポストカードの謎はともかくとして……見つかるといいな、お前の探しもの」

「……」

 涼は野菜ジュースをムッツリと睨んでいる。

「嫌いでも飲めよ」

 人と比べて表情が乏しい涼だが、好き嫌いは意外とわかりやすい。無理やりストローを挿してやると、涼は観念したように口をつけた。まずそうに飲むのがおかしくて、彼方は苦笑した。

「……楽しみだな。京都」

「俺は別に……」

「また、そういうことを言う」

 旅行部は自分の放浪癖をコントロールするための部だと涼は言ったが、彼方にはそんなつもりはまったくなかった。あえて公にそう言っているのは、学校側を納得させるための方便だ。

 彼方の本音は一つしかない。

 天羽涼と共に旅をする。

 白繚高校旅行部は、ただそれだけのために作ったのだから。  

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