プロローグ
それは、大きくて分厚い掌だった。
幼い右手をすっぽりと掴み込んだ手は、どんなに振り払おうとしても離れない。
言いしれぬ不安に襲われながら男を見上げると、左目の下にナイフで切ったような傷跡が見えた。薄い唇、吊り上がった眉、高い鷲鼻。顔つきはおののくほど厳つい。
「おじちゃん、どこに行くの? 僕、知らない人について行っちゃいけないって、お母さんに言われてるんだ」
必死に足を踏ん張って抵抗するが、小さな身体は簡単に白い乗用車の元へと引きずられていく。
「離してよ、おじちゃん!」
とうとう、男が後部座席のドアを開けた。
「い、いやだ! ――っ」
無理やり押し込まれそうになった刹那、何者かが彼方の制服を後ろから掴んだ。
「――!」
とっさに振り向くと、なぜかそこにクラスメイトの天羽涼がいた。涼は小さな両手で彼方の制服の裾を懸命に引っ張っている。
「涼!」
「な、なんや、お前!」
「――おじさん、京都の人?」
「!」
怒鳴った男は、涼の言葉にギョッとして目を見開いた。
「なんで、それを」
「だって、車のナンバープレートに京都って書いてあるから」
「……!」
男は小さく舌を打った。
「どこに行くの? 今、お母さんに電話したら『車のナンバープレートを教えなさい』って言われたから、ちゃんと教えといた」
その瞬間、男が顔色を変えた。彼方の手をパッと離すと、慌てて運転席に乗り込み車を急発進させる。高いタイヤの音を響かせて、白い乗用車はあっという間に消えてしまった。
恐怖から解放され、彼方はへなへなとその場に座り込む。
「大丈夫か?」
少しだけ青ざめた顔で、涼が彼方を覗き込んだ。
「もう平気だよ。悪い奴はいなくなったから」
「うん……」
「行こう。家まで送ってあげる」
そう言って差し出された手が微かに震えているのを見て、彼方は初めて涙を盛り上がらせた。
涼も怖かったに違いない。なのに、必死に自分を助けようとしてくれた。感謝と安堵、恐怖と不安。あらゆる感情が入り混じり、涙を止めることができない。
「ありがとう……涼」
彼方は嗚咽を漏らしながら、涼の手を強く握り返した。
◇
ジリリリリリリリ!
けたたましい目覚ましの音に叩き起こされ、古城彼方はハッと目を開いた。
見慣れた自室の天井が視界いっぱいに広がる。とっさに見た右手は、大きくて力強い手へと成長していた。ただ幼く、か弱かった頃の自分ではないと自覚してホッと息を漏らす。
また、あのときの夢を見てしまった。
普段は忘れていても、自我がなくなるとダメだ。あれから七年以上も経つというのに、トラウマは潜在意識の中でずっと心を蝕んでいる。
「そろそろ、完璧に忘れたいんだけどな」
彼方は欠伸をしながら、ベッドから起き上がった。どんなに夢が最悪だろうと、日常は始まる。いつまでも夢に翻弄されてグズグズしているわけにはいかない。
二階にある自室から階下に下りていくと、おいしそうな匂いがただよってきた。リビングの食卓には、見事な朝食が並んでいる。今朝のメニューは彼方の好きな肉じゃがだ。
「父さん、朝から肉じゃが?」
キッチンに声をかけると、Yシャツの上に黄色いエプロンをつけた彼方の父親・古城洋二が振り返って笑った。
「今日は早く目が覚めたからな。晩飯にもなるし、いいだろ」
ということは朝も夜も肉じゃがかと思いつつ、彼方は食卓の椅子を引いた。目の前には彼方と洋二の弁当箱が並んでいる。
母が死んで約一年。父一人子一人なので、家事のほとんどは彼方がこなしているが、朝食の支度と弁当作りだけは父が毎朝欠かさず続けてくれている。
最初の頃は見た目も味も褒められたものではなかったが、最近ではちょっとした小料理屋並に腕が上がってきている。元々、洋二は凝り性な上に器用なので、はまるとなんでも上達が早いのだ。
「あっ、彼方。飯を食う前に顔を洗ってこいよ。ついでに新聞を取ってきてくれ」
「わかった」
彼方は素直に洗面所で顔を洗い、家の外に出た。
ポストから顔を出している新聞を抜けば、ふと分厚くて大きな封筒が入っているのに気がついた。宛名は『古城彼方様』となっている。
「なんだ?」
家に入りながら裏返してみて驚いた。封筒の送り主は『賀上雪枝』だった。
「雪枝って……たしか……」
亡くなった母の祖母、つまり彼方の曾祖母にあたる人だ。
「京都の曾ばあさんが、なんで……」
リビングに入ると、父はもう食卓の椅子に座っていた。
「父さん、珍しい人から郵便が来てた」
「誰からだ?」
「京都の曾ばあさんから、俺にみたいだけど」
「京都の?」
わずかに含まれた疑念の声が洋二から漏れる。それもそのはずだ。実は古城家と母方の実家は、ほとんど没交渉なのだ。賀上家から郵便物が届くのは彼方が知る限り初めてのことだった。
父親に新聞を渡して、テレビ台の引き出しからハサミを取り出す。食卓の椅子に座って封を切ると、中に入っていたのはハードカバー本だった。タイトルは『源氏物語現代語訳』しかも、なぜか第七巻が一冊だけだった。
「なんだ、こりゃ」
中途半端な郵便物に思わず呟くと、洋二も困惑したように首を傾げた。