3.
同居四年目にしてグレン・レグルス(当時推定年齢十歳)は再び悩んでいた。窓から臨む清々しい青空に似つかわしくない重い溜息を朝っぱらから吐き出し、項垂れる羽目になっているその原因は。
さて、早いものでグレンが淡い初恋を自覚してからひとつふたつと季節は巡り、ジュパン家で迎える三回目の誕生日も恙無く終えていた。
それにしても、自覚したあの日は家人達を巻き込んで大騒ぎだった。グレンが何か騒いだわけではない。むしろ騒いだのはシルビアの方である。
額に小さなコブを作って微動しないグレンを心配するのはわかるし嬉しい限りだが、ぎゅぅと思いっきり胸元に抱き締めて「グレンが大変!!」と屋敷中を駆け回るのはいかがなものかと思う。本人はクロードや家令に知らせて具合の悪そうな弟を診てもらわないと!と必死だったのだろうけれど。
真っ赤になったまま、くらくらと窒息しそうになっているグレンを見て家人達は思ったものだ。お嬢様、あなたが原因ですよ、と。グレンの恋心はとうに筒抜けであった。背丈が同等なので駆け回ると言ってもずるずる引きずっているような感じだが、そこに救いの手を差し伸べるかどうか彼ら彼女らは盛大に悩んだ。
親愛か恋愛かはさておき、シルビアも大概グレンが好きである。事情を察した家令がやんわりと(身体的には)問題なしと太鼓判を押すまでの狼狽えっぷりは、不謹慎ながらこれまた事情を察している家人達から見れば大変微笑ましい。
その日はダンスのレッスンどころではなく、シルビアは一日中べったりとグレンのそばにいて世話を焼きたがった。
結論から言えば惨事だった。
食事の時などは椅子を移動させて隣に座った。つまり「あーん」をやった。椅子から転げ落ちた。誰が?もちろんグレンである。それでまた心配したシルビアが騒ぎぎゅぅと胸元に抱き締める。以下ループ。
だがそれはまだ可愛らしいほうだったと気づいたのは夜になってからだ。外出から帰ってきたクロードもなんとなくグレンの様子がおかしいことに気づき、無理やり聞き出さないまでも夕食後にお茶でもしようとまったりしていた時に部屋の扉が勢い良く開かれた。
「グレン、お風呂一緒にはいろうね!!」
やってしまいましたねお嬢様。
控えていた家人一同の心はひとつだった。衝撃でグレンは石のように固まっている。何を想像したのだろう。もう夜でこの後は何も予定がなくて良かったと思う。いや、そもそも夜だからこの爆弾発言が出るのだろうけれど。
とりあえず、何か予定があってもこの小さな赤き王様はロクに機能しないであろう。お嬢様、替えの下着や寝着を持ったままゼロ距離で心配するのをやめて差し上げてください、我々がお持ちしますから。
ちなみに、それから数日間は同じようなことが続いた。
その数日間を経て、グレンはなんとか平静を取り戻した。キャラ崩壊も甚だしい醜態を晒したが、元々優秀なので順応性も高い。自分の気持ちを自覚し、心が誰に向いているか認めてしまえば腹が据わるのも早かった。
「お前達が言おうとしていたことが、よくわかった」
家令や家人達は、それは恋だと明確なことを言ったわけではない。そうではなく、優しく諭すように自覚を促してくれたことをグレンは感謝した。
「ロキとハンナは言い方こそあれですが、ですが我々も同じ気持ちでございます。お嬢様を真に想って下さる方が現れるのを、我々はずっと待っておりました」
「………」
「グレン様。お嬢様が大切ですか?」
「あぁ。大切だ」
それは、ようございました。家令が恭しく頭を下げると、他も倣って見せた。おそらくは、この時のグレンよりもずっと先を予感して、それが叶うように願って頭を下げたのだろう。
不可解であった難問が解けたことの安心感以上に、誰かを好きになる、そんな清純たる感情を手にした例えようのない歓喜がグレンの心身を満たした。
かけがえのない、尊いものを手に入れた気分だ。それは両親が急逝してからずっと、どこかに空いていた虚無の穴を優しく癒した。
腹が据われば怖いものなどない。相変わらず高鳴る心臓の鼓動も、数週間も経てばそれを楽しめるほどには逞しくなった。きちんと目を合わせて話すのもお手の物で、いつも通りを装いながら密かに愛でる日々。
グレンにとって恋とは御伽噺の産物でしかなかった。架空の夢物語。くだらない、とさえ思ったこともある。所詮は自分も、愚かにも偉そうに机上の空論を述べていただけだと思い知った。
恋心が降り積もっていくたびに、自分自身が豊かな人間として形になってゆくような感覚がした。グレンはそうしてほの甘い淡い恋に身をやつしていた。
これが、恋。
なんて綺麗で、甘美なことか。
ーーと、思っていた時期も確かにあった。
酷く苦々しい気持ちでグレンは両目を押さえ、もう何度目かわからない溜息をベッドの上で重苦しく吐き出した。
しかしずっとこうしているわけにもいかない。なにせここには心配性がいるのだ。いつまで経っても起きてこないことを心配して突撃でもされたら、それこそ惨事だ。出来る男は同じ轍は踏まない。まぁつまり、惨事は一度起こったわけであるが詳細は割愛する。
そんなわけで、グレンは今日も今日とても手早くトイレへ向かった。勿論、朝っぱらから元気な下半身を処理するためだ。情けない理由に足取りは必然的に重くなる。一度目の惨事だが、決定的にこの有り様を見られたわけではないことは救いだった。また具合が悪いのかと泣き縋られた時は後ろを向くのに必死だったが。
そもそもの始まりは夢を見たことからだった。グレンはそれを悪夢と称した。
最初はなんてことはない、夢にシルビアが出てきただけだった。まぁ、それだけなら悪夢とは絶対に言わなかっただろう。むしろ幸せで良い夢だし、夢に見ることはそれまでにもあった。だから初めは深刻に考えていなかったのだ。
だがしかし、である。その夢が、ほんの少しーーそう、少しだけ、桃色であったことがグレンに違和感を抱かせた。悪夢と称するに至る所以であった。
具体的に言ってしまうと、グレンが部屋の扉を開けると、中で着替えをしていたシルビアがキャミソール姿だったというシチュエーションだ。何故グレンの部屋で着替えているのかという疑問は置いておく。夢とはえてして謎の理論を堂々と正論に持ち込む世界だ。
弁明しておくと下はしっかりとスカートに覆われていて、露出していたのは肩や腕、頸くらいなものである。貞操観念は人それぞれ、関係性や立場によりけりだろうが、まぁ、許容範囲と言えなくもない。それくらいなら暑い真夏の薄いワンピース姿と大差はなかった。
だがその夢を見た朝、グレンは絶望することになる。下半身の違和感。湿った感触。ーーいわゆる夢精だった。
グレンはとても落ち込んだ。沈んだ。シルビアに対する酷い罪悪感に、生まれて初めて本気で泣きたくなった。大切だと言ったのに、まるで自ら穢してしまったようで居た堪れなかった。
何より、清純で淡く綺麗なはずだった恋心を裏切ったような、逆に裏切られたような、とにかくどうしようもなく最悪な気分に陥った。
その日一日はまたしてもシルビアをまともに見られないことが続き、避けてしまった。だが視線はしっかりとシルビアの蒼氷色を探しているのでグレンも大概恋する男である。
様子がおかしいことを察した家令がやんわりとフォローしてくれたお陰で、なんとかシルビアに避けていることを悟らせずに済んだが。どうしたのですかと尋ねられても、今度ばかりは話すわけにはいかなかった。
事態はその日を乗り切れば落ち着くほど甘くはなかった。その日から悪夢に悩まされる日々が残酷にも幕を開けたのだ。
毎日毎晩、桃色だかなんだか知らないが、手を変え品を替え豊富なバリエーションで夢がグレンを苦しめだした。更に悪いことに、夢の内容はどんどんとレベルアップしてエスカレートしてゆくのである。
最初の頃はギリギリセーフのキャミソール姿だったが、そこからへそチラだったり、パンチラだったり、まずはいわゆるチラリズムがタップダンスを踏むようにグレンを蹂躙した。それが一通り終わると、何故か丈が異常に短いメイド服だったり濡れ髪でガウン姿だったり、何故か東洋の書物で見たことのある浴衣姿で上手く着られていないのか、はだけた隙間から見える艶かしい脚がグレンの視覚を攻撃した。
それも終わると今度は着ている布の枚数が減っていき、一枚脱げば次の日は二枚脱ぐ。下着の種類が簡素なものから可愛いものへと変わり、形も種類豊富になってゆく。そして扉を開けたところにいたはずのグレンは、日に日にシルビアに一歩二歩と近づいていった。
グレンは頭を抱えて悩んだ。悩み抜いた。この恋心は綺麗なものであったはずだ。それがどこで何を間違えてしまったのかと。本当に真剣に悩んだ。
あくまで一般論を述べれば、健康的な男子が恋する好きな相手で妄想することは常識の範疇だ。だがそこはグレンである。ありとあらゆる帝王学を我がモノにしていても、唯一、恋愛に関してはド素人であった。
両親が急逝しなければ教養の一環、戦略のひとつでもあると閨事についても叩き込まれたのだろうが、それは叶わなかった。身も蓋もないが、つまり恋愛に関してだけは超弩級にポンコツだった。初恋に浮かれ始めたばかりの恋愛初心者に、生々しい生理現象を受け入れるのはまだ早かったのだ。
そんなわけで、とにかくグレンはシルビアのエロい夢を見ては毎朝罪悪感を募らせていた。夢を見始めて半月も経てばシルビアを見ても動揺しなくなり避けるようなこともなくなったが、辛うじて取り繕っているだけで内心では土下座を続けていた。
それでも毎日毎晩飽くことなく夢を見るのだから、男子とは辛い生き物である。
『グレン、あのね……好き』
正直滾った。
『グレン…キス、して?』
抗えなかった。
『……優しくシてね、グレン』
うん、頑張る。
『っぁ、グレンっ好き…!』
あぁ俺/僕も好きだ!
泥沼だった。
二重人格でキャパが二倍どころか二乗なんじゃないのかと言われそうだが、恋愛においてそれは例外であるようだった。むしろひとつの身体で二人分の感情を受け止めなければならない分、事態は普通より重かったかもしれない。夢の中のグレン自身がノリノリで欲望に正直なのが余計に情けない。
とは言え、いいかげん半年も夢を見続けていれば耐性もつくし、ポンコツであってもやはり順応性は高かった。
そしてとうとう悟った。自分は綺麗事のままごとではなく、本当に、男として、女のシルビアを、劣情も含めて好きなのだと。
とっとと認めてしまえば楽だったのだろうが、ひとの感情というものはままならない。グレン自身、一種の矜恃というものもあってそれが邪魔をしたのもある。俗っぽい自分が許せなかったのだ。
気持ちの折り合いをつけて、グレンは恋心を自覚した時より更に逞しくなった。
そうして歯止めがなくなったお陰で、夢はアンストッパブルに進化し続けた。シチュエーションもバリエーションも千差万別でより豊富になった。際限などもはやないに等しい。
悩める日々が終わったグレンはそれはそれは強くなった。どう具体的に強くなったかと言えば、夢ではなく自ら妄想して抜けるようになった。輝かしい成長である。何より今回は誰に相談するでもなく自力で解決したことが自信を底上げした。
物理的な身体も日々成長しており、同居四年目も折り返し地点を過ぎる頃にはシルビアの身長を追い抜かし、鍛錬の賜物かしなやかで美しい筋肉が男らしい身体を形成し始めていた。なのでシルビアは自然と上目遣いになることが多くなったのだが、それだとてもう狼狽ない。現実の無垢な姿に夢のいやらしい姿が重なっても、もう罪悪感に苛まれることはない。許せシルビア、男に好かれたらどうしようもない運命なんだ。
開き直れば、自ら距離を詰める日々が幕開けた。またの名を煩悩との闘いである。
なにせ当初から、瞳が甘そうだとか手がマシュマロみたいだとか思っていたのだ。ただシルビアが隣でふわりと小さく欠伸をして、小さな赤い舌が覗くだけでかなり滾る。夏に汗で前髪が額に張り付いているのを甲斐甲斐しく拭ってやりながら、いつも以上に熱を孕んだ匂いに酔いそうだった。庭の木陰で一緒に寝そべりながら、茹だる暑さに少しぼんやりとするままにワンピースの下の裸体を想像した。
男の欲を消化するために利用しているだけではないかと悩んだこともある。けれど、他の誰にも同じような欲望は抱かなかった。そしてシルビアから幸せを願われながら懐中時計を贈られた時、家令の妻の言葉を思い出した。
この人とずっと一緒にいたいーー
他の誰にも譲りたくないーー
恋が愛に移り変わろうとしていた。
赤い石のついたロザリオを贈ったのは、それから数ヶ月後のシルビアの誕生日だった。
「義父さん、話があるんだ」
魔法学園への入学を決め、宣言した日の夜。グレンは書斎でクロードと向き合っていた。
「必ず幸せにするから。全てをかけて守ってみせるから。だから、学園を卒業したら、シルビアの生涯の伴侶に認めて頂けませんか」
いつもの砕けた雰囲気ではなく、腰を深く折ったグレンは流石に硬い緊張感を漂わせていた。それを、ゆるりと撫でるように息を吐いたのはクロードで、ピクリとグレンが肩を揺らすと、ふっと苦笑するような空気を感じた。
「僕はね、ずっと昔から、ちょっと言ってみたい台詞があったんだ。お前なんかに娘はやらん、ってね」
「………」
「ただの、おじさんのしょうもない憧れだよ。過去形だ。それに、そんなしょうもない憧れなんかより、ずっと昔から、もっと夢見ていたことがある。あの子の、幸せな花嫁姿だ」
ずっと昔から、ね。その言葉を繰り返す声音は、ひどく穏やかだった。
「グレン。君はとても強いけれど、とても臆病だね。でもね、そんな一方通行ではダメだよ。それでは安心出来ない。誰かを頼って守られることもきちんと覚えて、君も幸せになるんじゃなきゃダメだ。認めて頂けませんかじゃなくて、僕なんか張り倒すくらいの気概じゃないと」
こんな世界一優しい挑発もあったものだ。グレンも思わず笑ってしまった。
「一緒に幸せになるから、シルビアをください」
だからそれまで、その先も、クロードも無事で元気でいて欲しい。続けてそう願えば、顔に似合わず(褒め言葉)キョトンとして、クロードはひどく嬉しそうに微笑んだ。
§ § §
「………終わり良ければ全て良しみたいにしてっけど大間違いだかんな」
「なんの話だ」
「澄ました顔でいきなりエロトークぶっ込んでくんじゃねーよ!ノアが茹で上がってんじゃねーか!!」
ビシリと指差された方を見ると、淡色のはずが見事に染め上がり撃沈している。ぐるぐると目を回しているのを見て、あぁ自分にもああいう時があったなとグレンは当時を懐かしく思い出した。
「グレンにも可愛い時あったんだーってときめいた心を返して欲しいっす…」
「お前たちが『うっわグレンが照れてるとか激レアじゃん。そんなにイイ女なんか?なぁなぁ』『グレンの恋バナ聞きたいっす!初恋なんでしょ?どんなのどんなの?』としつこく聞いてきたんだろう。しかもエロトークとはなんだ。エロい夢の話はしたがこれでも悩んでいたという話だろう」
「貴様は…はっきりと卑猥な言葉を遣っていない分、逆に聞き手の想像力を誘って厄介だ。後半のたった一割ほどなのに、それまでの可愛らしい話を粉砕しているぞ」
「やっぱり、お前、嫌い」
別に全員がエロい恋愛話に耐性がないわけではないし、なんなら特に青と黄は下ネタで盛り上がれる自信はあるが、それはそれである。
ひとの嗜好はそれぞれだろうが、時に、いかにもソレ目的のエロ本より、意図していないだろうにそこはかとなく漂う色香の方がクるものだ。あんまり綺麗な顔で綺麗に流れるように少しずつ話に色付けされて、その気もなく構える暇もなく桃色トークを語られた方の身にもなって欲しい。
「じゃあまだセックスしてないんだ?」
「おい貴様は…!?」
だがやはり紫だけは動じなかった。こちらも綺麗な顔でそんなこと言わないで欲しい。
「確認は大事だよ」
「せめてもっとオブラートに言って欲しいっす!!」
「じゃあまだまぐわってないんだ?」
「そうそう…って全然オブラートじゃねーし卑猥さ増してんぞ!!」
「じゃあまだ手は出していないんだ?」
「今度は逆に犯罪臭が凄いっす!!」
「注文多いなぁ」
「うるさいぞお前達。まだ何もしていないが、それがどうした」
「いや、話を聞き始めた時は、もしかしたらもうマーキング済みなのかなって可能性は考えてたから。すると、シルビア嬢はグレンの気持ちまだ知らないんだ?」
「意外か」
「まぁね。ぬかりなく公爵の許可を取ったのは予想の範疇だけど、肝心の彼女にはっきりとアプローチしていないっていうのは意外だったかな」
どうして?と問うように首を傾げる紫に、グレンは束の間、顎に曲げた指を添えて黙り込んだ。それは理由を言いあぐねているというより、計算された仕草だった。
「ーー例えば、それまで可愛い弟としか思っていなかった人から、生涯の契りを心に誓って離れたのだと知らされて、劣情込みで愛を乞われたら、相手の存在はどれくらい心に深く刻まれると思う?」
「…なぁ、グレンのやつ何言ってんだ?」
「…頭の良い人の言葉って、ちょっとよくわかんないっすよね……」
青と黄はさておき。それだけで、紫は大方察したようだった。ふふふ、と綺麗に笑いながら優雅にゲンドウポーズを取るのもやはり計算し尽くされている。
「つまり、より絶対的に、効果的に勝ちを得るための策略ってことか。やっぱりグレンはグレンだね」
「まったく厄介な男に好かれたものだな、彼女も。しかも二人分だ」
「貴様がそれを言うか」
「なにコイツら怖い」
「さすが二大腹黒魔王っすね…」
「…要するに、仮に当時告白してもお互いまだまだ未熟で、しかもシルビア嬢は貴様に好意を抱いていても大半が弟に対する親愛で成り立っていたから、楔を打ち込むには時期尚早だった、というわけか」
「物理的に離れることで寂しさや恋しさを募らせることが出来れば、反動もひとしおってわけだね。先入観と現実の落差が大きければ大きいほど心の動きはより顕著だし。しかもロザリオなんて渡しちゃって。意識への刷り込みもバッチリじゃないか」
「あのままそばにいても、いつまで経っても弟枠からは抜け出せなかっただろう。そのうち彼女も気持ちが変化して仮に受け入れてくれたとしても、あまり強い印象として俺の存在は残せないだろうしな」
語るグレンに納得を見せながら、一方で紫はまだ少し疑問が残っていた。
グレンのシルビアに向ける感情は、ただ恋情や愛情というより、愛執と言った方が正しいだろう。そもそも二重人格という状態からして普通ではないし、誰にでも二面性はあるとはいえ、グレンのそれはもっと深く、激しいものではないか。
そんな男が世界でたった一人の女の子にだけ向ける特別な感情。それは天の光よりも気高く、闇よりも深い、こんな風に話を聞いた印象よりもずっと激情に染まっているはずだ。
一体なにがきっかけで。
開けるな危険の張り紙があっても開けたくなるのは、なるほど、よくよく人の愚かな性分である。
「グレンッ!!」
声を張り上げられた方向を見ると、珍しく焦ったような表情の紫が脇目もふらずに足早に近づいてくる。珍しく、とは言ったが、平素と比べてであり平素でなかった数日前には見慣れたものだったが。
「まずいことになった」
「どうした」
「ちょっとこっち来て」
学園は今、王宮や国の機関に属する者達が忙しなく出入りし動き回っていた。グレン達が激闘の末に復活した悪魔を滅し、同時に学園がひた隠しにしていた最大の秘密を暴いたことで現在は学び舎としての機能は停止している。
当事者ということで後始末に追われるグレン達も負けず劣らずの多忙だったが、いっそ乱暴に腕を掴まれ近くの空き部屋に入るとザワザワとした喧騒が少し遠退く。
紫のいつにない焦燥に、近くにいた他のメンバーもついてきて、どうしたんだという眼差しを向けた。
「ジュパン公爵家が家名と領地を返上した」
端的な説明は真紅と金のオッドアイと、次いで深緑色の瞳を驚愕に陥れるには十分な威力を発揮した。
「っーー!!」
頭より先に身体が動いたグレンだが、しかし扉はガタリと激しく軋んだだけで終わる。魔法がかけられていた。その犯人であろう男を射殺す勢いで睨みあげるが、紫水晶の瞳も剣呑に眉をしかめながらグレンを見返した。声音から、自分も出来るだけ冷静であろうと努めているのがわかるがどうでもいい。
「開けろッ!!」
「ダメだよまだ、話を聞いて。今行かせたらグレン、取り返しのつかないことするよね。あのね、公爵とシルビア嬢は無事だよ。ウチのお庭番衆に近辺を守らせているし、安全な田舎に移り住めるように父上が図らった」
「だからどうしたッ!!」
「だから、グレンは落ち着いて正しい情報を知って、愚か者に正当な制裁を与えて憂いをなくしてから、堂々と彼女を迎えに行ってよって話」
その時、背中にそっと掌が当てられ、そこから癒しの気がグレンにゆっくりと流れ込んだ。それと共に少しずつ気が落ち着いてくる。振り返らずともわかる。森の神殿で白き神獣に育てられ、実は世界樹に選ばれし神子であった同い年の少年。仲間を思う純粋な気持ちからあわや身を犠牲にしようとしたことは全員まだ怒っている。
「ーーー俺がさっき、父上から話されたのはこれが全部。どう、少しは落ち着いた?」
事は、グレン達が復活した悪魔に対峙し、異空間に閉じ込められていた間に起きたことだった。時間の流れが違ったようで、グレン達は二日三日のことと思っていたのに、現世ではひと月以上の時間が流れていたのである。
「かなりのっぴきならない状況だったみたいだね。…あのね、言っても無駄なんだろうけど、間に合わなかったのはグレンのせいじゃないよ。むしろ王宮側の」
「そんなことは関係ない……!」
「…そう言うだろうね」
はなから慰めるつもりはなかった。グレンからすれば全て言い訳でしかない。ずっと守るために動いてきたのに、肝心なところで何も出来なかった屈辱はどれほどのものだろう。
悪魔と正面切って戦っていた時ですら余裕の笑みを浮かべることさえあったというのに、打ち拉がれる姿はこちらも不安に駆られる。どれだけその威風堂々とした佇まいに勇気を貰ったか。普段はなんと言っていても、他のメンバーとてグレンが精神的な支柱になっていたことは間違いなかった。
「グレンさん」
その時。とん、とグレンの背中が優しく押された。
「どうか行って下さい」
「ノア…?」
「このあとのことは、僕たちに任せてください。僕は語れるようなことは何もありませんが、ずっと大切に想ってきた人なのでしょう?それなら行くべきです。あ、でも暴走しちゃダメですからね?僕たちもグレンさんが傷ついたらとても悲しいです」
力が覚醒しても、本人はとことん変わらない。それは他も同じだった。
「ほら、落ち着いたなら行って。もうこの場は俺達だけで事足りるから」
「ふん…さっさと最も大切にしているもののところへ行って来い。優先順位をたがえるほど、貴様は愚かではないだろう」
「お姫様を救うのは王子様って相場が決まってるっすもんね!よくわかんないけどいってらっしゃいっす!あ、世界の破滅だけは勘弁っす!」
「つか、こいつ王子ってガラじゃなくね?まーいいや。とりあえず、オマエなら何とでも出来んだろ?ちゃっちゃと求婚してヨメ紹介しろ。あんだけ語りやがったんだからお披露目くれぇしてくれんだろ?」
「ノロマ。…お前の、ためじゃ、ない」
押されて蹴られて引っ張られて。
扉は今度こそ開けられた。
ーまったく、あの人達は
いっそ獰猛な笑みを浮かべて、グレンはこれからの算段を素早く組み上げながら疾走した。余計な野次を交えた援護に、この時ばかりはうるさいという気も起きなかった。
ー頼むから、少しはその顔を自分を守るために使ってくれ
ーさぁ、説教だ
赤き疾風を見たという噂は、学園を超えて暫く人々を賑わせた。
次の「結」で本編は終わります。