2.
同居三年目にしてグレン・レグルス(当時推定年齢九歳)は悩んでいた。
「ミカエル。今、少し良いか?」
とある午後の昼下がり。邸宅内で他の家人達の働きを見ていた家令に、グレンはとうとう声をかけた。
「グレン様。いかがなさいましたか?」
「折り入って相談がある。いつでも構わないんだが」
「今で大丈夫でございますよ」
公爵家の家政を司る立場ともなれば、実のところ空恐ろしいほどに多忙だ。そんなものを欠片も悟られず涼しい顔で、主人を最優先に動き、時に諫めて家の安泰を守れてこそ一流。
ジュパン公爵家に仕えて幾星霜。初老ながら腰をすらりと真っ直ぐに伸ばし、物腰柔らかく家令は真紅と金の幼いオッドアイを見つめ返しながら、はて、と内心で首を傾げていた。常に威風堂々たる少年が、今日は何故だか少し、ほんの少し弱っているような?
「唐突だが、お前は確か医師免許を持っていたな?」
「さようでございます」
ここではなんだからと案内されたのは、あの日、敬愛する主人とその愛娘が連れ帰ってきたグレンのために家令が直々に用意を整えた彼の自室であった。
無駄を嫌うグレンなので間違っても物が散らかっているということはなく、私物も少なめで、実に綺麗に使われている。その様相は当初、やはり並ならぬ警戒心から心許していない証拠そのものに目に映ったものだが、それも最近では随分と違う雰囲気になったと家令は感慨深く思っていた。
それはさておき、グレンが確認した通り、家令は医師免許を所持していた。もちろん公爵家を担う者としての当然の資格だが、ジュパン家においては少々事情が異なる。
包み隠さず白状すれば、シルビアとクロードのあの極悪顔は医者すらも敬遠する原因になっていた。ゆえに何かあれば自分が医師としてお二人の健康をも守って見せようと、家令は天より高い決意をし、立派に医者として独立出来るほどの腕を持つに至っている。
「グレン様、もしや、どこかお具合でも…?」
家令がそう尋ね返したのは自然の流れだ。そして、グレンはそれに神妙な面持ちで束の間黙り込む。
「…断定出来ない。俺も全く知識がないわけではないから、それらしい症状や、近い病名にいくつか心当たりがあって、既に調べた。が…どうにも腑に落ちないというか、所詮は素人だからな。書物だけでは判断材料が足りない」
「それで私に?」
「あぁ」
「それでは僭越ながらお尋ねしますが、どのようなことが気になるのですか?」
家令は変わらず冷静ではあったが、一方で、グレンに何かあっては困ると心臓が緊張するのを感じてもいた。
例の一件ーーそれまで頑なであったグレンがとうとうシルビアとクロードに陥落したあの日から、彼もまたグレンを得難い同志であると思っているし、可愛いお客人、同居人という以上に既に大切な守るべき身内として心を傾けていた。
しかしながら、そうして頼れる人物ではあっても、実際のグレンはまだ十歳ほどの子供であることも事実。成熟していない身体は不安定だ。どんなに大人びていようとが不調はあって当たり前で、病を患わない保障はない。
グレンのことも常々気にかけていたつもりで、何か兆候を見逃していたのだろうか。そんな己への叱責を内に秘めて、家令は努めて平静に尋ねたのである。
「部位で言えば、まずは心臓だな。激しい動きをしているわけでもないのに、ふいに鼓動が早くなる時がある。初めは些細ごとと思っていたんだが、日に日に頻度が増えているんだ」
「脈が不自然に早くなる、と?」
「あぁ…発熱でもしたように顔が熱くなるし、変に喉が乾くようになるし、そのせいでぎこちない動きになって心配されてしまう。時間が経てば収まるんだが……あぁあと、目もおかしい気がする」
「何か見え辛くなっているのですか?文字や、特定の色や、何か」
「いや、逆なんだ」
「逆?」
「見えやすくなったというか、妙に色鮮やかに見えるようになった、と言うべきか?特に今まで何でもなく素通りしていたものが、目について仕方がない。至るところでだ。これは異常だろう」
不自然な動悸。不整脈。眼球の異常。急な体温上昇や飢餓感など自律神経失調の疑惑。十歳の子供にしては堅苦しい言葉で、グレンは指折り上げていった。
「僕も不思議で、なんという症状なのか判断に困っている。ミカエルが言った通り、目が見え辛いならまだわかるんだが…だが、身体に異常がある時は感覚が普段と変化すると言うだろう」
「例えば、具体的にどのような?」
「ねぇさんの瞳はあんなに綺麗な色だっただろうか」
真剣に、真顔で、大真面目に深刻な声音で尋ね返された家令は、音が聞こえそうなほどゆっくりしっかり瞬きをした。
「いや、すまない、これでは語弊があるな。元々綺麗な蒼氷色なのは知ってるし、なんならずっと見ていても絶対に飽きない自信があるくらいなんだが」
「………」
「最近はずっと見ていたいと思うのに見ていられないことが多くて、ロクに目を合わせられなくてな…視力は確かに良い方だが、見えすぎるのも困りものだ。なんであんなに綺麗なんだ?あれに自分が映ってると思うとだいぶ居た堪れないんだが…しかも舐めたら甘い気がするというのは、感覚としてどうなんだ?共感覚というものか?いや、おかしいだろう?」
「……ふむ」
「そう、そういう時に、心臓が変に跳ねるんだ。そういえば、心臓がおかしくなるのはいつもあの人がいる時のような気がするな…何故だ?あの瞳を取り出したら宝石みたいなんだろうかとか、そんなわけがないしそもそも取り出したらねぇさんが困る。俺も嫌だ。あんまり見つめられるのは対処に困るが、でも自分をもう見ることはないなんて事態は耐えられない」
「ほぅ…」
「まだ彼女に悪感情を持っていて、だから傷つけたいなどと考えるのかと思ったがそれは絶対に違う。サディストの気でもあったのかとも考えたが、だったら髪の毛の一本すらなくなるのが惜しいとは感じないはずだ。このあいだ散髪したいと言って自分で髪にハサミを当てていたのを見つけた時は本当に吃驚した。切って欲しくないが、もし切るんだったら僕が切りたい。切り落としたものは絶対に捨てない。もったいないだろう」
「そうですね、お嬢様の御髪はそのまま反物でも織れそうなほどお美しいですね」
「それは言い得て妙だな。さすがミカエルだ。っと、すまない、話が若干脱線してしまったな。あぁそうだ、その時も身体がおかしくなった。慌ててハサミを取り上げたまでは良いが、まぁ当たり前なんだが、手が触れるだろう?触れると言っても少し肌と肌が掠めたくらいなんだが、それだけで何故ああも脈が早くなる?しかも異常に緊張して、危うく指を切りそうになった」
「その後はどうされたのです?」
「咄嗟に一歩離れて心臓の動きを注意深く観察していたんだが、変に見えたんだろう。案の定どうしたのってまた心配されて、凄い近い距離で顔を覗き込まれるし手を握られるしで、なんとか平静を取り繕ったが散々だった。今度は手に変な汗が滲むし、やっぱり目は合わせられないし、でもそこで振り払ったら誤解されるだろうからと、踏ん張った。凄い疲れた。なんだかこう…マシュマロみたいなんだ。あの手。瞳のことといい、いやおかしいだろう?僕はどうしたんだ?そんなに甘党だったか?いや嫌いではないが。それに彼女は自分から水仕事もやりたがるし、決して針も持てない令嬢みたいな手ではなくて、冬場は特に肌が荒れるのは知っている。でも、あの手に握られただけでまるで心臓に触られたみたいな気がする。嫌悪感はないんだが、あんなにホイホイ気軽に手を繋ごうとしないで欲しい。心臓に悪い」
なんともまぁ湯水の如く。家令は感心…否、正しく感動していた。
とりあえず、確かにグレンが心底悩んで困り果てているのは理解した家令は、承知いたしましたと頷きつつ同名の大天使のように微笑んで見せる。
「グレン様。それでしたら、僭越ながら、ご相談相手を間違えております」
ーーそう言った家令にグレンが連れてこられたのは、家人達の休憩場所となっている部屋であった。
裏戸は中庭に続いており、仮眠出来るベッドも置かれている。ちょっとした団欒スペースの雰囲気はいかに主人が家人達を大事に思っているかがよくわかり、清潔感のある場所だ。
「ミカエル様?一体どうしたんですか?」
「グレン様が我々に相談があると聞きましたが…」
グレンを案内すると同時に、家令は主に若手を中心に数名の家人を呼び寄せていた。もちろん、組んでいるスケジュールに支障のない範囲で、である。長年この屋敷の家政を取り仕切ってきた彼にとって、急遽シフトを組み直すことなど造作もないことであった。
「その通りです。まず私がお話をお伺いしたところ、あなた方がより適任だと判断しました。これは我がジュパン家の未来を左右する重要な案件です。真摯に、心して最後まで静聴すること。意見などはその後です。良いですね?」
各々が首を傾げながらも、神妙な表情で承知と頷いた。見た目詐欺なのはある意味で家令も同様のことで、垂れ目の柔和そうな顔を見て侮ったが最後、恐ろしいお仕置きが待っているのだ。
そもそも、つい先日から感動の固い握手(前述を参照)のもとに戦友(敵は言わずもがな)となったグレンは、彼ら彼女らの先陣を切る敬愛してやまない我らが将。いいかげんな態度など元よりあり得ない。相談とはやはり手強すぎる敵()のことだろうかと、内心では密かに臨戦モードだ。
「まさか、この屋敷の者達は皆、医師免許かそれに近い知識なり技術を持っているのか?医者ですら節穴ばかりとは、世間はやっぱりくだらないな……」
「いいえ、ご期待に添えず申し訳ありませんが、彼らは医学に関してはグレン様よりも素人でございます」
「なら何故ここに?」
「グレン様のご相談内容につきましては、私一人より、彼らこそが良き導となるだろうと判断致しました。さぁ、どうぞお話し下さいませ」
「…お前がそう言うなら」
首を傾げているのはグレンも同じだったが、この屋敷、ひいてはシルビアやクロードに関わることで家令以上に信頼出来る者はいないと既に知っている。
グレンは自分が戦地を共にする彼らの将であり、その自分に何かあれば確実に負け戦になることを理解しているため、自身の問題は二人の問題であると自覚していた。だからこそ相談した。他人を信じてなるものかと思っていた過去には想像出来ない心境の変化だが、なにせ敵が敵だ。変わりもする。
そんなわけで促されるまま、家令に話した内容を粗筋に、より詳細を付け加えて集められた家人達にグレンは己の体調状況を説明した。診療というものは、まずは自覚症状をなるべく事細かく挙げた方が望ましい。そんな、ごく一般的な常識に則って、グレンは報告書を読み上げるように語ったのだが。
「………お前たち、顔面崩壊寸前だが大丈夫か?」
ついに説明を途中で打ち止め、眉を潜めた。見る者が見れば子供とは思えない威圧感は恐怖を覚えそうなものだったが、今、グレンの目の前には恐れ慄く者はいなかった。
それどころか、頰は紅潮し、目はキラキラと音が聞こえそうなほどで、いっそ涙を流しそうな者までいる。実に由々しき事態だが、何が原因なのかグレンにはさっぱりわからない。
特に顔面崩壊寸前なのはシルビアと同年代の少年少女だ。貴族の夜会の余興でデスゲームに強制参加させられ、シルビアとクロードに救われた例の二人である。プルプルと身体を震わせ、口元を手で覆っているが興奮の赤みは隠し切れておらず、そうしてとうとう感極まって叫ぶことには。
「「 恋バナktkr…!! 」」
「は?」
叫ぶというか、雄叫びだった。
「大丈夫ですよグレン様!そのまま悪化しちゃって下さい!治す必要なんかないです!むしろ全然オーケーです!ウェルカムです!まさか夢が実現するなんて…!ずっと待ってました!グレン様、安心して下さい!それはシルビアちゃんの幸せな未来のため!アタシ達の萌えに満ちた未来のため!必要不可欠な病気ですから!そう!まさしくそれは不治の病!その名も」
「ストォーーーーーーップ!!」
このグレン・レグルスともあろう者が、なんと気づけば壁際に追い詰められていた。無意識に下がった一歩が続いた結果である。有り体に言えば、ドン引きした。この少女強ぃ。
そんな鼻息荒い少女の口を塞いだのは少年の方で、しかしそれはグレンを助けるためではないようだった。
「お前マジでなにやってんの?なにやってんの?なんでさっさと教えちゃおうとしてるんだよ、違うだろ、ここはまだもどかしくニヤニヤ見守る段階だろ…!頭よし、顔よし、そんなチートで勝ち組のヒーローが実はソッチはウブで見当違いなことで悩んでもだもだしてるのが良いんだろぉぉおお…!!」
「はぁ!?それロキの趣味じゃない!いやよアタシは早くイチャラブ溺愛ワールドを見たいの!無自覚もだもだなんてまどろっこしい!早く目覚めてもらってキュンキュンしたいの!!今ならまだ子供特有の背徳感たっぷりのビジュアル集が作れる…!」
「それはハンナの趣味だろ!」
「うるさいこの偏食!」
とても、うるさい。
グレンが向こうに目配せすると、意味を正しく受け取ったジュパン家の家令は非常に良い笑顔で二人に背後から近づいた。
間。
さて、ようやく静かになったところでグレンは気になった発言を冷静に反芻していた。言語は理解できるのにさっぱり意味のわからない言葉が殆どだったが、唯一、聞き捨てならない台詞があった。
「…ねぇさんの幸せな未来のため、とは、どういう意味だ……?」
これは身体の不調についての診療だったはずで、それは今の二人も承知していたはずなのに、どういうことだろうか。症状の悪化を促されるとは予想外も甚だしかった。
自分の不調がシルビアの縁起でもない未来に繋がるというならまだしも(なにせストッパーがいないとヤバいお人好し)、その逆とは?自分達はシルビアの健全な未来を望んでいるが、それは将であり司令塔のグレン・レグルスの絶好調が大前提のはずではないのか?
そうだ、こんなところでしょうもない不調をきたしたり病を患ったりしてなるものか。グレンは決意を新たにする。
仁王立ち説教をしたあの日から、グレンとシルビアの関係性は物理的にも精神的にも大きく変わった。
懇々と説教はしたが、一方でグレンもまた一年前にケーキを台無しにしたことを謝った。とはいえ、まさか呼び方を変えただけでジュースを口から溢すとは思わなかったが。
白状すれば、グレンがシルビアをいわゆる「姉」と思ったことは一度もない。血が繋がっていないのだから当然と言えば当然なのだが。
ただ、わかりやすいケジメは必要だと思ったのだ。そのために、呼び方は一番簡単に示せる重要な変化である。それに、そう呼ぶと思いっきりデレるので、これは使えると目論んだのもある。日常的に飴をあげておけば調教の効果…もとい、ストッパーとしての自分の顔面効果を底上げ出来るので。
時が移ろい、気持ちが変わり、関係性が改まった。
ところが、それで落ち着くどころか、今度は身体に不可思議な変化が起きている。それは由々しきことだ。理解出来ないものが存在すること、それは弱点と同等である。
だからグレンは己の変化を知らねばならなかった。良からぬことならば即刻、排除しなければならない。
自分に何かあればそれこそ、今度こそ両親が守ってきた『レグルス公爵家』を狙う連中に隙を見せることになる。『ジュパン公爵家』だってそうだ。
シルビアとクロードは自惚れではなく大真面目に、周囲は守りつつ己の何を投げ打ってでもグレンを救おうとするだろう。そうして隙を作れば、普段は顔でしか善悪を判断出来ない脳ナシどもが掌を返して何をしてくるか。
何と言っても、ここまで散々ヤキモキさせられてやっと腹を決めて、守りたいと思うようになったのだ。
とりわけシルビアの人生はこれからが花盛りになる。つまらない誹謗中傷に、慣れていると表向きは笑って受け流しているが、傷ついていないなんてことはないだろう。
世の中の汚い部分を知らないはずはないのに濁ることなく、お花畑のバカではないのにどうしようもなくお人好しで、そんな女の子がこの先、本物のバカやクズに潰されて歪まないなんて保障はない。
幸せになるべきだ。幸せでない未来など、そんなバカげたことがあってたまるかと思う。誤解が完全になくなることはないだろう。それでもいつか、本当の彼女を知って、理解して、真の意味で隣に永劫寄り添う誰かが現れて、何を憂いることなく笑っているのを、最低限そこまでは見届けなければーー
「っ…?」
また。
刹那にまた心臓が不自然に跳ね上がり、グレンは咄嗟に薄いシャツの上から心臓を鷲掴むようにした。
しかし、また、とは言ったが、感じ方はそれまでと大きく異なった。言葉では表し難い、嫌な感じだ。それはちょうど、留守番をしていた実家で両親の訃報を聞いた時と似ていた。ずぐりと、鋭い刃で抉られるような、そんなタチの悪い感覚。
「グレン様、どうぞ」
ふわりとほの甘い香りが目の前で揺蕩い、グレンはハッと我に返った。条件反射的に受け取った手の中のカップには、少し熱めのマシュマロココア。
お嬢様が作ったものでなくて申し訳ないですが、と言ったのは、亡き夫人の侍女であった女性で、家令の妻でもあった。
ゆっくりとひと口、喉を滑り落ちたところで、グレンは自分が大層冷えていたことに気づいた。それは物理的な身体が、というよりも、心のことだ。冷えていたものが、ゆるゆると溶けてゆく、そんな不思議な感覚。
思い出す。両親の葬儀の日、この屋敷に連れてこられて、気づけば暖炉の前にいて、手の中にコレがあった。あの時も大層冷えていた。自分一人ではわからなかった。後ろで濡れた髪を一生懸命拭う誰かがいて、寒かったことに気づいた。
なぜ自分は今、冷えて、寒かったのだろう?
「実は、わたしも昔、グレン様と同じような症状に見舞われたことがございます。おそらく、ここにいる全員が近しい経験者でしょう」
「そうなのか?」
「はい。私とミカエルは随分と昔のことでございますが、あとの者は比較的最近…今も体感している者もいます。ですから、自身の実感としてグレン様のお悩みを多少なりとも理解出来るかと」
全員がとても優しい眼差しでグレンを見つめていた。
「ねぇさん?ここにいるの?」
数日後のある日、グレンはシルビアを探して目ぼしい場所を回っていた。ダンスのレッスンの時間なのだが、待てど一向に顔を出さないので自分が探してくると一旦席を外したのだ。数人の家庭教師においても覚えめでたきグレンなので、よろしくと快く送り出された。
シルビアは読書が好きだ。日向ぼっこが好きだ。本の世界に没頭し、あるいは転寝で遅刻することはままあった。以前はそういう時、大抵は家令が探し出してやんわりと叱りながら連れてきたらしいが、最近の探索者は専らグレンになっていた。
行き交う家人達に、どうしたのですかと尋ねられても、いや、と曖昧に誤魔化す。早く見つけ出すには聞いて回ったほうが良いだろう。だが、グレンは何故だかそれをしたくないと思っていた。自分だけで見つけたいと。
静かな書物部屋。中庭の隅っこ。風の心地良いテラス。そのまま寝落ち出来るフカフカのマットが敷かれた自室。グレンが最後に戸を開けたのは、今は亡き夫人、シルビアの母の部屋だった。
「…ねぇさん?」
シルビアは、よく絵本を読み聞かせしてもらっていたという、二人がけのソファで眠っていた。それも、腰掛けているのではなく、自身は床にぺたりと膝を折って、両手と頭をソファに預ける格好で目を閉じていた。
二度目、そっと呼び掛けても起きる気配はない。なんとなくーーそう、なんとなく、他に誰もいないとわかっている周りを意味もなく見回して、そうしてからグレンはそろそろと足を一歩踏み出した。
この部屋は、主人がいなくなった後も片付けられることなく、ほぼそのままにしてあるらしい。この部屋へ出入りし、掃除や手入れするのはクロードとシルビア、夫人の侍女であった家令の妻だけというのが長年の暗黙の了解であったという。
グレンが初めてこの部屋に足を踏み入れたのは割と早かった。というか、かなり早かった。なにせシルビア自ら手を引いて招き入れたからだ。引き取られて半年も経っていなかった。
当初はお涙頂戴で懐柔しようとでもしているのかと、そういうことばかり考えていた。実際は、自主的に遠慮しているのは周囲の個人的な図らいであって、シルビア自身は他の誰かが出入りすることを嫌がっているわけではなかった。本当にただ単純に、ここお母さんの部屋なんだよーと嬉々として案内していただけで。
まるで自分だけの小さな宝物を見つけたように、とくとくといじらしく鳴く心臓を抑えながら、グレンはゆっくりとソファに近づいた。
あと一歩のところで立ち止まり、すぅ、と意識して息を深く吸い込む。その間も、真紅と金のオッドアイは眠り姫から視線を外さない。
『姿を見つけると、それだけで嬉しくなって。でも、すぐにもっと欲張りになるんです。自分を見てくれないかな、と。それで、姿が見えないと、ずっと気になるんです。どこにいるのかな、今は何をしているのかな……ずっと無意識に、その人のことを目が探してしまうんですよ』
ダンスのレッスンだ。早く起こさなければ、と思うのに、起こしたくないと思ってしまう。この光景も時間も全部、自分だけのものであって欲しい。
けれど、目を開けてくれないかと矛盾したことも思う。その綺麗な瞳を見たい。見えないのは物足りない。こっちを見て欲しい。自分はまた逸らしてしまうのだろうけど。
そう、そもそもこのダンスのレッスンも厄介なのだ。
グレンは当初より身長が伸び、今はシルビアと同じくらいの背丈になっている。追い越すのも時間の問題だ。ダンスの練習相手にと誘われて、家庭教師もそれは良いと賛同した。身長的にもちょうど良いからということだが、グレンも早く背を伸ばしたいと思っている。
『声をかけられると舞い上がって。なんでも一緒にやりたいなんて思ったり』
『男としては、単純なことですがやっぱり彼女より背が高くなりたいんですよね。その方がカッコイイからって、バカみたいに躍起になったりしたもんです』
言ってしまえば、グレン自身にダンスの練習は必要ない。頭脳だけでなく身体能力も優れているので、一度やれば大抵のことは完璧にこなせる。両親が存命で実家にいた頃は、あまりに簡単に一通りのことが出来てしまうので、勉学でも剣術でも楽器でもなんでも普通のレッスンでは退屈なほどだった。
だが、シルビアとのダンスは退屈ではない。シルビアは全てにおいて可もなく不可もない成績で、以前のグレンからすれば最もつまらない部類になるだろうに不思議とそうは思わなかった。
『それまで、どうでも良いと思っていたことが、急に楽しく思えたり』
案外負けん気が強くて、グレンがなんでもそつなくこなすのを見ては悔しがって拗ねて、それは辟易し続けていたグレン・レグルスに対する周囲の感情とは違っていた。
自尊心を守るために無駄に褒めそやすのでもなく、くだらないプライドによる僻みでもなく、ただただ真っ直ぐに年相応で、馴れ合いを嫌うグレンだがシルビアから向けられる感情は心地良いと感じた。
手を取り合い、リードして、ステップを踏み、ターンをして。前より上手く出来ると素直に喜ぶ様は純粋に微笑ましく、グレンも嬉しくなった。両手を握ってきてぴょんぴょん跳ねるのだ。淑女教育どうしたとツッコミたいところだが、可愛いのでまぁ良いかと思っている。他の誰かなら冷めた目で見たことだろう。
『近づくと嬉しいのに、落ち着かなくて逆に離れたくなって、でも実際に離れると凄く寂しいんですよね。まぁそんなこと、堂々と相手に言えたものじゃないんですけど』
『なんとか平常心でいようとするんですけどねぇ。でも、そう意識すればするほど逆効果と言いますか、その時点で色々と手遅れというか、えぇ、良い匂いがするなぁとか思った日には死にそうになりましたよ』
ところが、そんなダンスのレッスンも最近では大問題だった。むしろ比較して他より厄介かもしれない。ダンスとはつまり社交ダンスのことだ。当然、二人はゼロ距離になる。
社交界で男を誑かす悪女と囁かれているが、実物はまだまだ未熟な身体つきだ。そんな噂が蔓延する要素などどこにもないし、男全員がまさか幼女趣味だとは思いたくない。要するに、やはり勝手極まる思い込みの産物でしかなく。
『あと、間違いなく挙動不審になります。気がそぞろになって、しょうもないことをしでかしたりしては落ち込みますし』
ところがここにきて、グレンは強気でいられなくなってきた。なんなんだこの距離は、と理不尽にも家庭教師に八つ当たりをしたくなる。
繋ぐ手はぎこちなく、動くたびにふんわりほの甘い匂いがしてくらくらする。果てはグレンがステップを踏み間違えて盛大に心配される始末だ。
『この人が好きなものなら自分も好きになってみたい。自分の好きなものを相手にも好きになってもらいたい』
猫も犬もいなくても自分は生きていかれる。けれど、猫と遊ぶシルビアと一緒にいるうちに自分も猫が好きになった。犬はどちらかと言えば少々苦手だが、嫌いとは思えない。
同居するにあたってグレンが実家から持ち込んだものは、唯一、亡き母が大切に世話をしていたアクアリウムの水槽だ。一年目こそ誰にも触らせてなるものかと思っていた。今ではグレンとシルビアの部屋ちょうど中間あたりの廊下に飾っている。揺蕩う水草や小さな金魚達を一心に眺める横顔に、思い出を大切にされているようでこそばゆい。
『ありきたりな言い方になってしまいますが、こう、世界が広がるんです。目から鱗が剥がれ落ちて、鮮やかに色づいて、まるでもう一度生まれたような』
シルビアは小さな幸せを見つけることが得意だ。身が震えるほど寒くても、一緒に囲む火が暖かいと笑う。
本人は無意識だろう。例えきっかけは、その顔のせいで後ろ向きになりがちな心を忘れるためという明るくない理由だとしても、グレンが見る限りそれは根本的にシルビアの個性のような気がする。
ひとは負の部分についつい目が移ろう。あるいは、自己防衛の理由から常に最悪を想定して行動しているということもあるだろう。グレンはそのクチだ。そんな自身の性分を悪いとは思っていない。
同じ名家の生まれで美しい容姿を生まれ持ったにも関わらず、グレンとシルビアはまるで反対だ。自己防衛のために、グレンは他人を疑い負の部分を注視する。逆にシルビアは他人を信じ正の部分を見出そうとする。
そんなシルビアが好む遊びは一風変わっている。例えば朝起きて身支度を整えると、廊下側のドアノブに巾着袋が下がっている。中には、日によって花びらだったり葉っぱだったりする。その花が咲いている場所や元の木を探すと、またそこにも巾着袋が忍ばせてあって、メモには『赤いレンガの化石』などとナゾナゾが書かれている。ジュパン家の屋敷は職人の遊び心がささやかに散りばめられていて、探すのはいかなグレンでもなかなかに難解だ。
やがて朝食を終えてもゲームはまだ続き、短くても半日、長いと深夜まで及ぶ。最終的にはいつも亡き夫人の部屋でワクワクと待つシルビアの元へ辿り着き、どうだった?と隠せていない期待に綻ばせる瞳に意地悪を言う気も起きず、素直に面白かったと言えばそれはそれは喜んで見せるのだ。
このゲームに付き合っていると、ただ普通に過ごしているだけでは気づかないものに気づく。例えば花の色や葉っぱの形、指定されたものを探そうとすれば自ずと普段は見ない角度から物や空間を見ようと意識するし、意識が少し切り替われば五感も研ぎ澄まされて素通りしていた音や香りを拾うようになる。
知らないままでも生きていくのに支障はない。けれど、単調であった世界に息吹が生まれる感覚は手放し難いものだった。こんな風にシルビアは、押し付けがましくなくグレンに小さな幸せを教えてくれる。
『楽しいことだけではないです。苦しいと思うこともあります。でも、それ全部、その人と出会ったから覚えた感情で、尊いものだ、と今だから振り返って思うこともあります』
シルビアが笑うと、胸の奥が温かくなる。甘い疼きは慣れこそしないものの、クセになりそうだとさえ思う。
だが、その笑顔が自分ではない他の誰かに向けられている時はモヤモヤと面白くない心地を抱く。近頃ではモヤモヤどころか酷くイライラとすることの方が多いし、それは相手が老いていようが若かろうが男だろうが女だろうが関係ない。
心臓がぎゅうと握られたようで、それを解消するために乱入して荒らしたい衝動に駆られる。自制するのが苦しいし、そんな自分自身を嫌悪することもある。いつかシルビアに酷いことをして悲しませるのではないかと鬱々とする。
以前までなら、こんな感情の乱高下など有り得ないことだった。白状すればどうしても疲れる。捨ててしまいたいと思うこともないわけではない。しつこいようだが、不可解なものを抱えるというのはリスクがあるのだ。
それでも、どうしても手放せない。仮にここで手放せたとして、また同じように抱え直すのだろうことは容易く想像出来た。
『この人とずっと一緒にいて、他の誰にも譲りたくないとーー一緒に幸せになりたいと、そう思ってしまったんです』
この感情の、名は。
「…ぐれん……?」
ハッと我に返ると、蒼氷色の瞳がぼんやりとグレンを見ていた。グレンはいつの間にかすぐそばに膝をついていて、思ったより近い距離に息を飲む。
知ってか知らずか、シルビアは身体を起こして目を擦る。そうして改めてグレンを認めれば、凍てついた氷のようと評される瞳を甘く甘く蕩けさせて。
グ レ ン
そうして無防備に全てを晒して、蕾が綻ぶように笑うから。
「………………」
ーーあぁ、ダメだ。
やめてくれないか
シャツの裾を摘むな
可愛い笑顔を全力で向けるな
甘い声で俺/僕の名を呼ぶな
俺/僕を喜ばせるようなことをするな
……こんなに心臓が早く鳴っては死んでしまう。
グレンはソファの肘掛に額をゴン、とぶつけた。
一応クッションで覆われてはいるのだが、肘掛の更に端っこで、年代物ゆえか少々薄くなっていることもあり、一切制御せず頭を落としたため結構痛そうな音がした。
「グレン?大丈夫?ど、どうしたの?」
「…あぁ」
全くもって意味を成していない返答であるが構っちゃいられなかった。
きっと今、自分の顔は真っ赤だ。おそらくは耳も首も、どこもかしこも絶望的に。グレンは自ら顔を上げることを早々に放棄した。
『グレン様。思い当たることはございますか?』
たった今、自覚した。
家令に呼び集められた彼ら彼女らには、殆どが伴侶というべき相手がいた。ここでは一人でも、外に相手がいたり、あるいは想う相手がいた。婚約者であったり、夫婦であったり、言い方はそれぞれで様々だがーー恋慕う相手、恋人、がいた。
そうか。
あぁ、そうか。
グレン・レグルスはシルビア・ジュパンが好きだ。
数日前にはまだふわふわと掴みきれなかった恋心を、決定的に認めた瞬間だった。