2.
「………………………”だった“って?」
奥庭と呼ばれている場所で、古代ギリシャ風の東屋を中心に多彩な薔薇が咲き乱れている様は、まるで御伽噺の一枚絵のようである。
ここには学園内で限られた人間しか足を踏み入ることはない。その許された人間というのがRainbow knightと称される有名有能な極彩色の生徒六人であり、茶会と称されるそこに最近ではもう一人淡色の生徒が加わっている。
その彼の手作りのクッキーと芳しい紅茶の香りが漂い、小鳥や梢の音が穏やかに聞こえる長閑な静寂は楽園と呼ぶに相応しいビジュアルの筈だ。ーー筈、なのだが、現実は何故か通夜のような空気に満ちていた。
「あぁ、だった、だ。当たり前だろう、自覚してからもう何年経ってると思ってる。過去形にもなるさ。淡い初恋、とは言い得て妙だな。はじまりのささやかな純情なんて本当にはじまりだけで、そんなものあっという間に藻屑になるんだから」
「せめて泡沫の儚い夢のようにと言ったらどうなんだ貴様は」
「情緒なんて求めてどうする?綺麗事は御伽噺にでも任せておけ」
「…っくりしたー」
本気で驚いて本気で安堵した、という気持ちを胸に手を当てることで惜しみなく表現した一人の深い深い溜息によって、ようやく少しだけ空気が和らいだ。
「だった、なんて言うから、てっきりグレンはもうそのコのこと好きじゃないのかと思っちゃったじゃないっすか」
「そんなわけあるか。殺すぞ」
「理不尽!」
「まぁ確かにな、こんだけ散々ヨメ語りされたのに今はちげぇとか、んなことじゃなくて良かったぜ。……こっちのメンタルは全然良くねぇけど」
最初はいつも通りのお茶会だった。それがどうしてこんなことになっているのかと言えば、時は小一時間ほど遡る。
「オマエなんなの?なに目指してんの?人間やめんの?魔王どころか全宇宙の覇者にでもなんの?それか異世界でも乗っ取んの?」
「何の話だ?さっきから煩いぞ」
モノトーンのチェス盤と駒を見つめていたオッドアイが漸く視線を上げると、打って変わって極彩色がその視界に映り込んだ。どれこれも人の子の形をしているが、但し彩りの良い外見に反して、それぞれの瞳は死んだ魚のようだったが。
「僕、グレンさんとはぜひ、人間の領域でお付き合いさせて頂きたいです…」
「…ノアまで何を言っているんだ」
その中で唯一の淡色にまで切実に願われて、いよいよグレンは本格的に眉を顰めた。
緑と、桃と、黄と、青と、白。主に五対の瞳がいつもの輝きの褪せさせて、ジト目で非難するように、あるいはいっそ悲壮感すら漂わせて見つめてくるものだから、小さな溜息ひとつでグレンはやむなくチェスを中断したのだった。
ーねぇ月曜日のニュースを聞いた?コハクさまがアカデミー賞に決定したのですって
ーモデルだけでなくて、俳優業は始めたばかりなのに素晴らしいわ
ーあぁ、こっちを見てくれないかしら
ー俺は来月の隣国との親善試合が気になるな
ーセイジ様だろう?剣のセンスだけで言ったら騎士団の将にも引けを取らないって
ー同い年なのに、あそこまでハイレベルだと嫉妬通り越して憧れちまうよなぁ
ーそういえば、ロク様の研究がまた魔術学府の学会で表彰されたって
ーうっわ流石。どんな頭の構造してんの?ていうかどこに研究する暇あんの?
ー私たちなんて、ここの勉強だけで精一杯なのにね
ーそれでまた、ロク様のために研究施設増設するとかなんとか
ートキ様、今日も麗しい…寡黙なところがたまらない……
ー同じ女性なのに、彼女になら抱かれたいっていう子もいるんですって
ーこの間、怪我をした時に凄く優しくしてくれて…
ーシオン様だけど、今度はバイオリンで優勝ですって
ーコンクール総なめって、プロも形無しで少し気の毒ね
ーでも、シオン様のセンスは本物よ
ーピアノ、フルート、歌唱…どれをとっても一流の腕前ですもの
ー見て、グレン様よ
ー国の代表として、世界の学生会議で議長を務められたらしいわ
ー有意義な議論が出来たって、各国の王宮からも絶賛だったそうね
ーやっぱり、Rainbow knightの方々は別格だわ
奥庭では穏やかな風の音や小さな虫の羽音が静かに聞こえるだけだが、人気の多い校舎の内外では日々、Rainbow knightのメンバーに対する噂話が細波のように流れている。
世界最大規模を誇るこの魔法学園は完全全寮制で例外は認められない。
この学園のシンボルマークは、将来の王者となる人物を育てる学び舎という意味を込めて、花の王である薔薇が使われている。生徒が入る寮にもよくある薔薇の色として赤・黄・緑・青・紫・桃が目印に用いられている。
政界や弁護士などを目指す文系の天才や秀才は「レッド・ローズ」
役者・ダンサーの類の芸能に精通する者は「イエロー・ローズ」
医者やITに秀でた理系の天才や秀才は「グリーン・ローズ」
スポーツや武道の成績優秀者は「ブルー・ローズ」
音楽・絵画など芸術のセンスを持つ者は「バイオレット・ローズ」
そして数少ない女子生徒は才能の種類に関わらず皆「ピンク・ローズ」
そして、これはいつの頃からの風習か定かではないが、学内でも稀有な功績を上げた生徒について各寮から一名ずつ、文字通り特待生として認められる。
その生徒は学内において様々な権利を獲得し、学校中から特別扱いされることになる。しかも他の一般生徒との区別(いっそ差別化と言って良い)のため、寮の色に合わせた薔薇の名を授与される。
これは寮内から必ず一人選ばれるわけではない。むしろ選ばれるのはよっぽどのことがない限り有り得ない。五年、十年にどこかの寮から一人現れれば良い方と言われていた。
ところが今は、そんな特別な生徒が全寮通して選ばれるという異例の状況になっている。
「だから、オマエが魔法騎士団のトップ負かしたって試合のハナシだっつーの」
「あぁ」
「あぁ、じゃねーからな!?オマエまじでなに目指してんの?実は魔神か何かか?もう精霊王の生まれ変わりとか言われても驚かねーから白状しろ、ア?」
紺色の髪に青藍の瞳。天性の恵まれた身体能力と卓越した剣術のセンスを併せ持つ、水の特上級魔法の使い手。既に魔法騎士団から卒業後のオファーが届いている百年に一度の逸材【ブルー・ローズ】セイジ。
「アレは、試合とは言わない。道場破り」
「事前に王宮の許可は取ったが?」
「根回し済み、が、腹立つ。仮にもトップが、子供に負ける。世間体以前に、騎士団全体の士気に関わる。わかった上で、内密に事を進めた。性悪」
透けるような桃色の髪と瞳。絶滅したとされる魔女の血を受け継ぎ、既に魔導士の最高ランク者。精神的には男であることはここにいるメンバーしか知らない【ピンク・ローズ】トキ。
「俺もそれ聞いた時はドン引きしたっす。撮影中なのに真顔になりすぎて叱られるし、グレンのせいっすよ」
「とんだ責任転嫁だな」
「だってなんかもうセイジの立つ瀬もないっていうか…翼とか生やしたり、別次元行ったらダメっすからね?」
金糸のような髪に黄金色の瞳。孤児院にいたところを容姿を見込まれ、スカウトを受けて今も芸能界で活躍しする一方で土の上級魔法の使い手でもあり、学園のイメージアップに重宝されている【イエロー・ローズ】コハク。
「ふん…世界だけは牛耳ってくれるなよグレン」
「お前までこのバカ達に付き合って頭の悪い発言をしなくても良いだろうに」
「おい今オレのこと言ったか」
「酷いっす」
「研究施設増大の話は、あれは俺ではなく貴様の影響だ。噂話などこれだからアテにならん…実際、俺が論文一本書いている間に貴様は三本は仕上げているのだからな」
「いやロクのレベルも十分おかしいっすからね?」
若葉色の髪に深緑の瞳。現宰相の息子であり、五歳で王宮書庫の書物を読破した逸話を持つ。各国の著名な科学者をも唸らせる理系の才覚と風の精霊に愛された【グリーン・ローズ】ロク。
「ふふふ…まぁ、魔王か魔神かはさておき、グレンが何を目指しているのかは俺も気になるな」
中断してしまったチェス盤の向かい側で、唯一死んだ魚の目をしていない【バイオレット・ローズ】シオン。常に読みにくい微笑みを浮かべ、ミステリアスな風来坊の空気を纏いながらその実、世界を俯瞰して何かを見定めようとしている油断ならない紫水晶の瞳は、片側は菫色の前髪に隠れている。
この人物が数少ない光と闇魔法の使い手の一人で、実は生徒に扮した王太子シオン・アースガルス・ガラクシアであることは今のところ、【グリーン・ローズ】ロクと【レッド・ローズ】グレンしか与り知らぬことである。
話を戻すと、同年に、全ての色の寮にこのような逸材が集まったことから、まとめてRainbow knightと呼ばれ持て囃されている。
だが、そうかと言ってこれまで、最初から全員が行動を共にしたり仲間意識を持っていたわけではない。その通称はあくまで周囲が勝手に名付けたものであり、むしろ本人達は騒がれるほど冷めていた。天才とは、えてして群れない一匹狼のようである。
それが、それぞれの感じ方やお互いに対する意識はどうあれ、こうして集まり雑談に興じるような関係性を築くに至った経緯は、一晩では語り尽くせない。
「グレンさん、どんどんそつなく格好良くなっていますし。僕もとても気になります」
なんの因果だろうか、と、グレンはことに最近、密かに考えている。
この淡色の少年は、名をノア・ユグドラシルと言う。昨年に珍しい編入生として学園に名を連ね、本人にその気はないだろうがそこそこ有名だ。
白真珠の髪に黒真珠の瞳。年上同年代年下問わずの丁寧な物腰や気弱そうな見た目に反して、これが案外、思ったことを臆面もなく言ってのけるし行動力もある。こういうところが、この癖のある連中に気に入られるのだろう、というのが、グレンの率直な感想だった。
男にしては線が細く、全体的な雰囲気も纏う色彩も儚げで、異例の編入からもう暫く経つが周囲の第一印象はあまり変わらない。
だが、紆余曲折の末に一歩踏み込んだ関係性を築いているRainbow knightのメンバーにとってはそれだけではないのが、このノアという少年だった。グレンも一応、その範疇に入っている自覚はあった。
それはさておき、グレンはこの少年の正体ーーと言うより、本人ですら気づいていない(もしくは意図的に隠されて伝えられていない)出生に、大方見当がついている。森の神殿で神獣らしきモノに育てられたことからして曰く付きなのは間違いなかった。
ひと学年上の、目の前の紫の男もそうだろう。この紫水晶の瞳が、この少年に並ならぬ興味を抱き、惹かれていることも知っている。それが吉と出るか凶と出るか、慎重に見極めなければならない。
こうして自分達が一同に集まったのは、はたしてただの偶然だろうか。出会い方や関わりの動機こそバラバラで些細なことだったが、特に近頃は何かと行動を共にすることが多いような気がする。
それは自分達が意図的にそうしているというより、まるで仕組まれているのではと疑うほど、予定調和のように偶然が重なり必然性が生まれているような感覚だ。言葉では言い表し辛い。
そのきっかけーー自分達が見えない糸で繋がり、世間一般で言うところの仲間と呼ぶべきような関係性の発端となり、なんだかんだと中心になっているのが、この、一見何の変哲もない影の薄そうなノアという少年だ。今だから振り返ってそう感じている。
ノアが編入してきたことにより、何かの歯車が動き出したような、そんな裏の空気を感じる。表からでは見えない。そう、胸ポケットの懐中時計のように、中の歯車は見えない。
だが、確実に何か動いている。気づいた時には既に動いていたと言った方が正しい。それを、おそらくこれもまた同様に、この紫の男も勘付いているだろう。
最初は一人で密かに嗅ぎ回っていた。だが気づけば、小さな不穏の芽から連鎖的に生じている事件の解決のために自分達Rainbow knightが揃って動くようになり、今、誰も予想していないだろうとんでもないパンドラの箱をこじ開けようとしている。
これは、嵐の前の静けさだ。
ノアは、それなりに親しくなり情も湧いた自分達の何か手助けになればと健気にそばにいるだけのつもりなのだろう。
だが、グレンの直感が間違っていなければ、この少年こそがキーパーソンである気がしてならない。ノア自身の善悪ではなく、その存在、生い立ちゆえの、何か。そこは悔しいことに、まだ全容が掴めていない。
『学園の七不思議って、聞いたことがあるでしょう?お願いだから気をつけてね。ただの噂話ならそれで良いけれど、火のないところに煙は立たないって言うし…昔話や伝承って、オブラートに何かを隠すために作られる場合もあるんだから。グレンはそんなくだらないことはしないだろうけど、万が一、他の人が面白半分で手を出そうとしたら注意してあげてね。きっとよ。お願いだから、何事もなく無事にいて』
恋しい少女の声を思い出した。
当初から何かと心配性すぎるきらいがあった。知恵熱を出すほど心配してくれたのはむしろ嬉しいくらいだったが、だからこそ、彼女のいつにない必死にな様子はずっと引っかかっていた。
他にも彼女は多くを心配してくれた。
一人きりで頑張りすぎないこと。無理をして馴れ合う必要はないけれど、最初から何もかも排他的にならないこと。
何故か同性同士の恋愛についても言及され、「もしグレンが本当にその人が良いと思ったら、異性でも同性でも大丈夫だから!誰が何と言おうと!好きになった人が男の子だったならそれが自然なんだから、偏見に萎縮しないで良いんだからね!」とまるで応援するかのように語られたのは今でも謎だ。
出会いが出会いだったから、世間の目を過剰に意識せず心を自由に持って良いのだと、きっとそういうことを言いたかったのだろうと思うけれど。他でもない彼女に、自分の隣に別の誰かを見て欲しくはない。ドス黒い感情を吐露して傷つけないようになんとか頑張ったが。
「ふぅ…別に、何をって言われてもね。何をどう想像しようと勝手だけど、俺は人並みのものしか望んでないよ」
「どの口が人並みとか言ってんだテメー」
「気障」
「喧嘩売ってるなら買うっすよ。……いや嘘です買いませんまだ死にたくないです」
「ふん、白々しい」
「人並み、と言うと、ここは素直に考えて、幸せな結婚かい?」
「結婚…そういえば、グレンさんはやっぱり婚約者がいるんですか?僕は貴族社会にあまり詳しくないですけど、レグルス公爵家と言えば五大公爵家のひとつですよね。もう決まった方がいるんですか?」
極彩色が赤に向かって自然と身を乗り出す。やはり、なんだかんだと言って気になるものは気になるのだ。
「あー、そういやオマエのそういうハナシって聞いたことねーわ。グレンのヨメ…あれか、異星人か」
「セイジ、黙る」
「気持ちはわかるけど流石にないっすって。トキも足グセ直さないとダメっすよー。それにしても、グレンのパートナーになるんだったら、すっげぇ才女って感じっすよね。むしろ身分だけで言うなら王女様レベルじゃないと釣り合わないっていうか?」
しつこいようだが、グレン・レグルス(推定年齢十七歳)といえば完璧無比な男である。
正しくチートの権化。全校生徒はもちろん学園の理事長、全教職員に至るまで彼に少しでも関わった全人類が彼の才能の前に平伏し、畏敬の念を抱いていた。
果たして大袈裟か。否、ただの事実である。それほどにその存在感は大きく、その影響は留まるところを知らず、全てを統べるに相応しい器と言えよう。
より砕けた俗っぽい言い方にすれば。
彼氏にしたい結婚したい抱かれたい男ナンバーワンに君臨し続け、その才能はと言えば地獄の閻魔も真っ青、悪魔が裸足で逃げ出すレベルだ。
ベタベタの少女漫画もかくやというヒーローっぷりはもはや分野を超えて青少年、TL、BLにまで応用可能、むしろ諸手を挙げて各分野が絶賛大歓迎、スタンディングオーベーション状態である。
こんな男の花嫁ポジションに誰が立つのか?立てるのか?
いっそ世界征服より難解かもしれない問いは、しかしあっさりと解を得ることになった。
「そうだね…出来れば教えたくはないが、万が一にもお前達が変な気を起こさないように、良い機会だから釘を刺しておこうか。彼女は魅力的だからね。俺は名前にもうるさくてね。シルビア・ジュパンっていう女の子でなければまず生理的に受け付けない」
「へ?」
なんか語り始めた。
それぞれが呆気に取られる中、紫水晶の瞳だけが「おや」と器用に片眉を跳ね上げて、面白そうに話に聞き入った。
ここで少し訂正しよう。
推定年齢十七歳のこの男は、正しくはグレン・シルビア・レグルスと言う。
「髪は絹の銀糸のようで、月夜によく映える。そのお陰で夜会なんかではフラフラと低レベルの男ほど羽虫みたいに近寄ってくるから、いっそ腹ただしいくらいだ。尤も僕がそばにいるからには指一本たりとも触らせなかったけど、本当に、彼女を映した目を潰してやりたいよね…あぁすまない、カップの取手が外れてしまった、これはもう使えないな」
「…え?カップ?」
「猫も犬も好きで、意外とアマガエルなんかもへっちゃらで、家を守ってくれるからなんて言ってヤモリや小さな蜘蛛も可愛がる。馬は少し苦手なようだな。乗り方とか教えてあげると、こわごわとしながら一生懸命で、これでいい?なんて何度も聞いてくるんだ。上目遣いで。その場で押し倒したいのを我慢した俺は偉いと思わないか?そんな風に優しい彼女だから馬もよく懐いていたけど、毎度毎度嫉妬でどうにかなりそうだった。あれは辛かった。厩だろうが気にせず犯したくなって」
「え………ゑ?」
「彼女から離れたくないから、学園に来るかは本当に迷ったんだけどね。でも、あらゆる意味で彼女のためでもあるからやむを得ない。せっかく義父さんからも信頼を得たのに、みすみす失う愚行をするわけがない。…いつからだったかな、夜な夜な彼女が出てくる夢が透明から少しずつ色がついていくようになったのは。まぁでもしょうがないな、男の性だ。もちろん他の男が同じことやってるなら抹殺するが」
「……シオン、敢えて聞くが、何故ノアの耳を塞いでいる?」
「ん?これ以上はこの子にはまだ早いだろう?」
「人畜無害そうな顔でその貞操と処女を爛々と狙っている貴様が何を言っている」
「まぁ最終的に桃色どころか僕色に染まる彼女の夢を延々と見続けるようになって、罪悪感なんて遥か昔の彼方に置いてこられるくらいには自分でも逞しくなったと思うよ。逞しいっていうか、忍耐?据え膳食わぬは男の恥って東洋の書物に書いてあったのを偶々彼女と見つけた時はチャンスかな?って魔が差したこともあったけど、おでこにチューで済ませた僕は本当に偉かった」
ここで挙手があった。非常に控え目であったが、恐る恐ると言った風に手を上げた黄金色に、オッドアイが無言で質問を許可する。
「えっと…もしかして、グレンのミドルネームって、そのコのだったりするっすか…?」
「あぁ、入学試験の合格祝いに貰ったんだ」
お守りにね。
それはとても朗らかな笑みだったが、しかし騙されてはいけない。この男はたった今、いかにもそんな下世話な色事に興味ありませんと言いそうな綺麗な顔で、淀みない旋律を口ずさむように赤裸々と下半身事情を垂れ流しやがったことを。つまり、言葉ほどそんな可愛い理由であるはずがなかった。
「性悪。変態。色情狂」
「独占欲ハンパねー…つか引いた」
「そのうち自分の名前も姓もあげちゃう気満々じゃないっすかヤダー(棒)」
これでもかなり希釈して評価したつもりだ。
まるでミイラ取りがミイラになった気分である。藪を突いたら毒蛇が出てきた。唯一、やはり紫だけが動じなかったが。
「ジュパン家か…なかなか良い趣味をしているね、グレン。あの家は我が家(王家)としても、今後とも良いお付き合いをお願いしたいところだ。本来なら五大公爵家だったところを当代が謹んで蹴ってしまったが、その働きは先代先々代よりも誇らしい。是非とも射止めておいてくれ」
「言われずとも」
「なるほど、昔、シルビア嬢の縁談がなくなったのは僥倖と言うべきだったかな?流石に君との一騎討ちはいかな王太子と言えど分が悪い」
ほんの一瞬、吹雪を感じたのは錯覚だろう。そうだと思いたい。
『王道の王子様キャラに見せかけた魔王属性の俺様キャラでヤンデレ色が濃い孤高の帝王』とは、グレンを称して異世界の誰かがそのように評した言葉だが、それを知らずとも彼らは嫌というほど実態の生身を知っているのである。
ーー時は戻り、小一時間後の現在。
藪を気軽に突いたら毒蛇どころの話ではなく、全員の目からハイライトが消えた。御伽噺の一枚絵のような奥庭は、この時ばかりは軽くホラーであった。
てっきり魔王による魔王のための魔王の嫁自慢、つまり惚気一択だと思っていたのに、とんだ奇襲をかけられた彼らの受けた大打撃は凄まじかった。胃の話である。
うち数名は『ジュパン公爵家』と面識などないにも関わらず、あまりにグレンが語り上手なのでいつの間にやら身内気分だ。不憫エピソードを聞くごとに自分達の何かがゴリゴリ削られていく気がしてならない。たぶんHP値とかSAN値とか、そういうものだ。優秀なはずの彼らの心の防御力は紙だったようだ。
グレンが怒るととても怖い。きっと顔面般若の素晴らしく黒い笑顔で説教したのだろう。同情はしなかった。むしろホッとした。いいぞもっとやれ。もちろん、自分達の精神衛生のためであるからにして。
「あぁ、あの人達はある意味で本当に容姿に恵まれなかったね…。もう感激するほどに」
「そうだな…」
「え?シオン先輩もロクも知り合いなんすか?」
王家と宰相の家の出なのだから知っていて当然なのだが、それはさておき、ゆっくりと神妙に頷く二人の、実に悩ましいと言わんばかりの遠い目に事情を知らぬメンバーは素直に首を傾げるわけで。
「(俺は王家だから)もちろん」
「知っているも何も、昔から懇意だ。だから父も常々頭を悩ませているのだ。どうすればクロード殿とシルビア嬢が真っ当に評価されるようになるのかと。グレンが介入したことで確かに好転はしたかもしれん、が、完全ではない」
「あの二人があの二人である限り、ね。そろそろ父上の髪が禿げてなければ良いけど」
当たり前の挨拶を述べただけで勘違いされるとは、普通はちょっと色々と想像に限界がある話だ。ところが、今度はグレンではなく紫と緑が語ることには。
「とりあえず、陛下にちょっと話があると父娘共々呼ばれて登城しただけで、今度こそ禁忌の魔法か何か使って逮捕されたのかと真っ先に思われるよね。実際は勲章の授与なのに」
「マジか」
「例えば数年前に国庫の魔法石が尽きかけたことがあっただろう。平和条約を無視した隣国の内通者による犯行だが、直ぐに補填出来たのはジュパン家が領民分以外全ての魔法石を提供してくれたからだ。ところが、逆にジュパン家の犯行ではないかと疑った者が多かったのだ」
「迅速な対応だったからね。お陰で本来なら油断した王家が失態を糾弾されるべきところを、いつものようにジュパン家に対する噂話が先行して、結果的に王家の威厳は守られたわけだけど…」
「犯人が見つかって真相がわかった後も、今度はその犯人をジュパン家が手引きしたのではと言う始末だ。陛下自らジュパン家の潔白を説明しても、印象というのはなかなか覆らん」
「うわぁ…」
「せめて陛下が謝ったんだけどね。あの人達なんて言ったと思う?この顔がお役に立てて何よりです、だよ?好きになれない自分の顔についてあんなこと言わせたことを、陛下は今でも気に病んでいるよ」
ちょっとあの人達おかしくない?そう言う紫水晶の瞳は虚ろだった。
…いや、訂正しよう。全員漏れなく目から生気がゴッソリ抜け落ちた。一部が頭を抱えたのはついでに髪の毛も抜けそうだったからではないことを名誉のために断っておく。気分的には似たようなものだったが。
「五大公爵家への格上げの話だって、打診したのは王家なのに、とうとう中央を掌握するために動き出したのかとか。もう白紙になってるけど、昔あった王太子との婚約話だって、娘を使って王宮を制圧しようとしてるとか」
「そもそも、その二つの話とて陛下と宰相の父が、どうにかジュパン家を真っ当な家だと世間に知らしめたいと考えた結果の策だ。実際そうして然るべき功績があるからな。…だが、案の定と言うべきか、更に悪評が広がって断念したのだ」
「いくら陛下が二人を庇っても、むしろそんな悪名高い家にも慈悲を与える素晴らしい国王だ、とかね。本当に、あれはなかったと思うよ… 違うんだよ、滅多に社交パーティーに出ないのは禁術や呪いの研究をしているからじゃなくて美食に胸焼けする貧乏性を何故か患っているだけで、職のない身体障害者を積極的に領地に引き入れているのは臓器売買しているからでも嗜虐趣味があるからでもないし、王宮からの五大公爵家への格上げの話を蹴ったのは裏社会を牛耳るためじゃなくて単純に目立つことが泣くほど嫌いなだけなんだってば……」
「あぁ、陛下の嘆きは凄まじかったな…俺は下戸の父がヤケ酒するのを初めて見た」
なにそれ怖い。残りの色彩は意図的に真紅と金のオッドアイを見るのを避けた。本能である。そもそも見るまでもなく体感温度は既に氷点下を這っている。カップがもうひとつ犠牲になった。
「あのー、グレンが離れて大丈夫なんすか…?」
グレンがストッパーになっていて、それなら、今は大丈夫なのか。尤もな疑問、否、心配である。
グレンは自分自身をよく理解している。己の容姿から性格、才能、家柄をどこでどのように使えば最も有効であるかを熟知していた。
だからグレンが本気でやろうとして出来ないことはない。ジュパン家に纏わる悪評や汚名を雪ぐことだって朝飯前だったろうーーと、思うのだが、そのグレンですら未だ頭痛胃痛が予備軍だと言うのだから敵()は相当だ。ぶっちゃけ怖い。超怖い。屋敷の家人達に同情しすぎて涙が出そうだった。胃壁は溶けていないだろうか。
「一応、蛇と鴉と狐がいるからな。何かあれば逐一報告させているし、ある程度はいちいち指示しなくても期待以上に動いて立ち回ってくれる優秀な手足だ」
「この学園のセキュリティをスルー、だと…?」
「…それのことだが、本当に信用出来る奴らなのか?元盗賊なのだろう、しかもあの三獣士とは……」
自分の父親があの父娘を心配するあまり胃痛と闘っていることを、物心ついた頃から見ていた深緑の瞳もまた数少ない理解者の一人であり、こちらは主に頭痛が悩みの種であり続けてきた。眉間の渓谷を更に深めて問うたのも当然のことだろう。
「こればかりは言葉で説明して納得して貰うのは難しいだろうな。なんだ、俺の目が信じられないか?まぁ尤も、俺も最初から信用していたわけじゃないけれど…良いだろう、そんなに頭を痛めつけたいのなら所望通り説明してやる」
「は?」
「ちょ、まさかまだ続くんすか…!?」
「コハク君…たぶん、一蓮托生ってやつです。諦めましょう…」
「連帯責任の間違いじゃね…?」
「ロクはMっ気があるようだからな。…あぁ、頭痛の話だぞ?」
鍛え抜かれたという黒い微笑みを直視した彼らは悟った。あ、これ逃げられないやつ。
§ § §
「ひーっひっひっひ、あーおっかしー!とうとうオチたか坊ちゃん、思ったより粘ったなぁ〜」
「うるさい」
とうとう観念したあの日、仁王立ち説教の後、一人になったところでグレンは懐に滑り込ませた指先からタガーナイフを天井へ鋭く放った。
そんなところで隠れて笑ってないで出て来いという意思をナイフに乗せたコンマ数秒後、盛大に笑い転げて文字通り屋根裏から落ちてきたのが笑い上戸(蛇)である。残り二人の無口(鴉)と慢性欠伸症(狐)からもうるさいと足蹴にされ叩かれてもなんのその。
「それで、お前達はなんなんだ。元暗殺者と言ったところか?」
「やっぱ居たの気づいてたんだ?しかも最初から」
「随分とわかりやすい隠れんぼだったが」
「いやいやいや、フッツーのお坊ちゃんは気づかないって。しかも元とか言ってくるあたり、ちょっと頭良すぎて引くわ〜。ーー三獣士。これでも有名なんだけど、レグルスの坊ちゃんなら聞いたことあるっしょ?」
別に友好的であったわけではない。それまで水面下の空気だけで攻防していたのが水面上に顔を出しただけで、お互いにまだまだ探り合っていた。それでも、いっそ肩を組まれる勢いで同じ結論に至ったことを同情されたのは、まことに腹ただしいことだが事実は否定できなかった。
「いやー、参った参った。あの人らマジでヤッバイ。どんだけ悪人なのか一度ツラ拝んでみて財宝ふんだくろうって思ってたのにさ〜、中身アレだもん。特権階級の奴らなんて、大抵は自分を守ることしか考えてないってのに、とんだ誤算だってーの」
貴族の家には大体、家柄やプライドを誇示するかのようにひとつやふたつ、箔つきの宝があるものだ。貴石を使った豪華絢爛な首飾り。古代遺跡に眠っていた宝剣。世界にひとつだけの名匠の人形。国宝級のティアラ。鳴らない沈黙の美しきハープーー
そして、悪名高い『ジュパン公爵家』にしてその代名詞でもある『オーロラの指輪』『天使の涙』『悪魔の心臓』は、他国の王家すら興味津々の財宝であると専らの噂であった。
そんなわけで三人とも、いつも以上に慎重に潜入してシルビアとクロード、屋敷、領地全域をくまなく下調べすることにしたのがグレンが来る四年ほど前のことだというが。
「ま、なかったんだけどなそんなモノ。指輪はおひぃさんの死んじゃったお袋さんの形見で、なんの変哲もないシルバーリングだし?よく磨けば綺麗に光るけど石すらハマってない。親父さん目立つの恥ずかしくて宝石店入れなかったんだってさ、ウブ〜。あと天使とか悪魔とか、ちょっと抽象的すぎじゃね?って違和感あったけど、そりゃそうだよな〜。我が家の宝はご先祖様や領民の人達の血と汗と涙の結晶ですキリッて素で言うんだもんよ。それが妙な方向に拡大湾曲解釈されただけだったっつーオチ。物欲なさすぎギャップありすぎ領民好きすぎ。いや〜笑ったわ〜」
王家を凌駕する地下の財宝庫ーーなどあるはずもないことはグレンもよくよく知っている。地下にあるのは災害時に備えた領民のための食糧物資だし、領地の森の湖の底に財宝が隠されているなんて噂も事実無根。キラキラと眩しい笑顔の子供達がよく潜って遊んでいるだけだ。
元は貧民の孤児で、生きるために始めた盗賊業は意外と軌道に乗っていたとはいえ、命の危険と隣り合わせであることに変わりはない。だからこそ常に敵陣を正確に把握することに注力していた三人は、その結果としてシルビアとクロードの真の姿を知ることになった。
ヤバイ、危なっかしい。
決して家人達の頭痛胃痛に感化されたわけではない。但し同化してゆくような感覚は否めなかったという。盗賊の胃壁すら華麗にブチ抜く二人のゴーイングマイウェイが恐ろしい。
例えばこんなことがあった。
貴族の家ではありがちなことだが、宝石商が訪ねてきたことがある。装飾品にあまり関心のないシルビアとクロードだが、そんな二人なので家令がむしろ勧めてみたのだ。たまにはおひとつくらい如何ですかと。
しかしながら、そんな誠実な家令はうっかり失念していたのだろう。自分の主人が他人にどう思われるかを。長年の付き合いである家令がそこまで言うなら、と二人とも珍しく品々を眺め始めたまでは良いが、現れた二人に宝石商の男はといえばガクブルであった。
違う、その二人は本当に久しぶりに沢山の装飾品を見たから物珍しく見ているだけで、コレ全部貢がせようとか、どんな無理難題を押し付けて痛ぶってやろうだとか、ましてやアンタが逆らった場合の拷問方法だとか、そんなものは一切合切考えていないー!
「おいくらですか?」という純粋な質問は「当然我が家に見合ったサービスをして下さるのよね?」という副音声に聞こえたに違いなく、「これは何を意匠にしているのですか?」という純然たる疑問は「まぁ見たことのないおかしな形ですこと。こんな不細工なものを買わせるおつもり?」とでも解釈されたのだろう。これ以上は省略する。
他の家人達と共に様子を窺いつつ三人の獣は湯水の如く溢れる弁明を心の中で並べ立てたが、言ったところで易々と信じられるわけがないことを既に知っていたのであえなく黙したという。
結局、その宝石商は「お命だけは…!」と言いながら身ひとつで逃げていった。十中八九、地下に拷問部屋があるとでも思ったのだろう。実は精巧に作られたただの硝子細工を高値で売り飛ばす悪徳商人で、盗賊というだけあって本物の宝石ではないことを三人はすぐ見抜いていた。
そのあと「またこの顔…」とそれは見事にげんなりとし、顔をムニムニする父娘に「うわぁ」と微妙な心境になりながら、本物の宝石ではないようですよ、買わないで済んで良かったですねと使用人らしくフォローを入れたまでは、まだ良かった。
なんと二人は、それが庶民でも買える硝子細工だということに気づいていた。気づいていながらその上で、提示された価格で普通に買うつもりだったと聞いて三人の獣は目を剥いた。
「え?だってあの方は、これをルビー、それをサファイア、あれをエメラルドと思って売っているのでしょう?鉱石だって、きっと初めは名もなきただの石だったと思うし、硝子だって劣らずこんなに綺麗だもの。ルビーやサファイアと思ってもおかしくないわ。それに、宝石技師でなくても、どれもどこかの職人さんが丁寧に加工して作った良いモノだろうし…」
「でも、ウチでは良いけど、ヨソで商売やるんじゃこのままだとちょっと不便だろうし、僭越ながら硝子と鉱石の違いをお茶でも飲みながら教えてあげようと思ったんだけどね。また逃げられてしまったなぁ…」
戦慄した。家人達がゾッと顔色を落とす中、三人の獣は生まれて初めて恐怖を味わったような心地さえしたという。どこをどうしたらそんな解釈になるのか。
なんだそれ。なんだそのゆるっゆるな貞操観念。確かに装飾品に加工した誰かは無実かもしれない、だが宝石商、あれだけはアウトだろうが!?教えてあげないとじゃねぇよ知ってて詐欺ろうとしたんだよ!!ーー怒濤のツッコミを荒ぶる感情のままに捲し立てそうになったのを全力で押さえ込んだ結果、呼吸も止めたことであわや窒息しそうになったらしい。
「いやマジで、アホか、救いようのないバカかって思ったね。悪人じゃねーのは良いけど、逆に興醒めっつーか、何か盗ってやる価値すらねぇ、別の意味でロクでもないお貴族サマかよって。ま、すぐにそうじゃないってわかっちまったから今もここにいんだけど」
この話にはまだ続きがある。
なんとか窒息死を免れた後、引き攣る頬を誤魔化しつつ主に蛇が説明を試みた。あれは悪徳商人で、やろうとしていたのは立派な詐欺であると。装いからして明らかな流れ者、『ジュパン公爵家』の噂を知らないから堂々と門を叩いただけのモグリで商人の端くれ以下だろうと。
なるべく穏やかな言葉と口調を心がけて懇切丁寧に。なにせ父親の方はともかく、娘の方は七歳。どれだけ苛つこうが自分達より年下、手加減するだけの理性はあった。この時はまだまだ、敵がどれだけ手強いか知らなかったのだ。
「そうですか…」と声を落として彼女は呟いた。少しは花畑脳に喝を入れられたかと安堵した。「そうでしたか」ではない小さな違和感に気付けるほど、三人の獣こそまだ理解していなかった。次に「ごめんなさい」と謝られ、わけがわからず首を傾げた。シルビアは笑った。
「信じる者は救われる、って言うでしょう?…こんな顔だから、あまり良いことはなくて、最初はとても堪えたんですけど…疑心暗鬼になってしまったら、もっと辛くなるから、せめて良いところとか、良い可能性とか、明るいところを見ようって思うようにしたんです。きっと違うんだろうな、って思っても、ワザと見ないフリをするんです。良い方に想像して、そうすれば、自分の汚い気持ちも見ないで済むから。昔からの習慣というか、クセですかね?例えばすごく貧乏でも、毎日食べられるケーキより、本当に時々お父さんと食べるケーキの方が何倍も美味しいって思ったら、辛くなくなるでしょう?」
たった七歳の少女がするような笑みではなく、三人の獣にとって割と今でもトラウマらしい。「そうですか…」は「やっぱりそうですか…」だった。
全部わかっていたのだ。わかっていて、一縷の望み、小さな優しい可能性を口にすることでそうあるように願った。愚かなことだと理解した上で、それでも。これほど皮肉な話があるだろうか。皮肉だと、それもわかっていて例えた。自虐ではなく淡々と。愚かでごめんなさいと、そう言ったのだ。
見た目詐欺にもほどがある。
本当に盗るべきようなものはなにもないとわかり、用がなくなったならさっさとトンズラすれば良いと思うだろう。
しかし、起こったことをありのまま話すと、出来なかった。ハマったら抜け出せない蟻地獄のように、いやいやいやいやと思いながら謎の吸引力から抜け出せなかった。そう、それは俗に言う、後にグレンもハマってしまった庇護欲というやつである。
無理やりトンズラしてそのあと稼業をしていても、また危なっかしいことをしてないか気になって気が疎かになって失敗してお縄になる、そんな未来が簡単に想像出来てしまった。運のツキ、という言葉をこの時ほど痛感したことはない。
潜入して半年足らずのうちに「やめて、わたしのライフはもうゼロよ!!」というべき出来事が続き、更にそのたびに新人使用人などになりすましていた三人の獣は泣く家人達に過去の悪業()を語り聞かされたらしい。ジュパン家における新人のいつもの儀式だ。こうして被害は広がってゆくのである。
これからどうする、という密談を屋根裏でしていた時に、抜かれた度肝がまともに戻らぬまま色んなものが何周も回った挙句ついに爆笑に転じた笑い上戸(蛇)が、転げ落ちた先の目の前にいた二人に腹筋の限界に挑戦しながら正体を明かしたのは別に謝罪のためではない。
自分達は本当は盗賊で、忍び込んでいたけど盗むようなものはなにもないし、二人とも全然悪人じゃないし、サヨナラしようかと思うけどまた危ないことしたり不憫なことになったりしてないか気になって気になって気になって全然寝れなそうなんだけどどうしたら良い?
赤の他人からすればどういう質問だとツッコまれそうだが、爆笑しながらも大真面目な質問だったし、シルビアもクロードも三人を糾弾するどころか笑わなかったしツッコミもしなかった。
顔を見合わせ、寛いでいたソファの上でこてりと小首を傾げる様子は悪いことを考えていると誤解されるような顔つきで、しかしそうでないことは既にいやというほど思い知っていた。
当時七歳であったシルビアは、グレンほどではないが、彼女もまた幼女にしては時折、不思議な大人っぽさを感じさせる子供だった。
「眠れないのですか?」
「まず言うのがそこなの」(※大量の草を生やしながらお送りしております)
「睡眠は大事でしょう?」
「まーね。寝不足でポカして捕まったらシスターとガキんちょ養えないし、ちょっと困るかなー」
「シスターと、子供?」
「そー。別に俺ら三人だけなら、こんな有名になるまで盗賊やんないよ。めんどいし。でも、まぁ一応?家族みたいなモンだからさ、なんとかしないといけないわけ」
殺しを積極的にやらないのはギリギリの妥協点だった。貧富の差はいつの時代も相変わらずで、ロクなものではないと恨む貴族を狙い、憂さ晴らしも兼ねて奪った宝は足がつかないように注意しながら換金して、育て親と年下の子供達を食べさせていた。
「…ウチは、南の土地に比べて何もないと言われるようなところです。でも、雪解けの豊富な水は美味しいし、森や湖もありますし、芋煮も美味しいんです。あ、猫も犬もアマガエルもヤモリも蜘蛛もいますよ」
「うん?ヤモリ?蜘蛛?」
「家を守ってくれるのです!」
「そっかそっかそんなこと言うお嬢サマ初めて見たけど!」
「だから、もし良ければ、皆さんウチに来ませんか?お父さま、良いですか?」
「………ぅえ?」
何が、だから、なのかよくわからなかったが。無駄にプライド高く優越感満載のボランティア精神ではなく、つまり、一緒に暮らさないかと小さな手を控え目に差し伸べられたことは、よくわかった。わかってしまった。
「家族は一緒にいるのが一番だから」
のちに家令曰く、この台詞はこの時初めて聞いたという。
「いやいやいやいや、俺ら盗賊よ?と・う・ぞ・く。わかる?」
「でも、もうウチにとっては違うのですよね?これから一緒に暮らすのですし」
「あれ決定?思ったより強引?って違うそうじゃなくてね。いやまぁ確かにシスターとガキんちょどうにかなるなら盗賊する必要ないけどそういうハナシじゃなくてね」
「芋煮おいしいですよ?」
「どんだけ芋煮好きなの!?」
「蛇さんはよく馬に懐かれてますし、鴉さんはいつも小鳥にモテモテですし、狐さんは猫や犬とお昼寝してました。あのコ達は悪い人には近づきません。ひとよりずっと、そういうことには敏感なんですよ?」
「いやいやいやいやいやいや」(※大量の草を生やしながらお送りしております)
盗賊すら懐柔…否、陥落(無自覚)しようとするお人好しに、残る二匹の獣は更に戦慄した。笑い上戸(蛇)の呼吸と腹筋はもっと瀕死になった。
それなりに非情に徹することに長けているはずなのに、どうしてこうも放っておけない。言いたいことはわからなくもないが、あまりに感覚に頼りすぎやしないだろうか。あやふやで危なっかしい。
世間知らずのバカか?とそれまでも何度も脳裏に浮かんだ考えがやはり一瞬過ぎったが、むしろそうだと言えた方がどれだけ良かったかもしれない。というか、うっすら気づいてしまった。これは性善説を盲信したお花畑脳どころか、むしろ人間の感覚は時にアテにならないことを知っているからこそ動物の感覚を信用するに至ったのだと。苦虫を百匹は噛み潰した顔になっていたと思う、とは無口な口を開けて語った鴉の言葉である。
気づけば三人の特権階級に対する常識という壁が、ガラガラと音を立てて無残にも崩れ落ちていた。
「まーでもさ、言っておくけど別に、恩返しとかそんな理由じゃないから。確かに恩あるし、気になるし、ヤバいムリ放っておけねーって思ったのは事実だけど、そんだけで頼まれてもねーのに命張ってまで護衛もどきやんないって。坊ちゃんもそうなんでしょ?だから俺らとサシで話してる。違う?」
「噂に名高い盗賊と言うだけあって、頭もバカではないようだな」
「いやぁ坊ちゃんほどじゃないってー。実際問題、俺ら盗みと詐欺にかけちゃプロだけど、セージとかケーザイとか、お貴族サマの駆け引きとか、そういうの根本的にわっかんないわけね?それこそコウモリ一派が仕掛けてきた暗殺者とか、そういう火の粉払うことは出来るけど、それじゃキリないわけよ。まぁとどのつまり、坊ちゃんがオチてくれて良かったわっつーハナシでーー使いたいんだろ?俺らを手足として」
「へぇ?そう容易く他人の足を舐めて服従するような獣には見えないが?」
「トーゼン。だから使わせてやるって言ってんじゃん。代わりに俺らは坊ちゃんを頭として使わせて貰う。悪くない等価交換っしょ?」
ーー結論から言うと、こうして未来の魔王と三人の野生の獣は同盟を組んだ。
§ § §
ついでに彼らの膝も崩れ落ちそうだったが、そうならなかったのは、ひとえに椅子に座っていたからである。
だが、頭の高さは変わっていた。一番高いはずの若葉色の髪は今や一番低い位置にあり、テーブルに両肘をつき指を組んだ手の甲に顔を伏していた。頭痛の元であろう頭の上の重石に、ご臨終という張り紙が見えそうだ。もちろん幻覚である。
それ以外も、椅子の背もたれにグッタリと身を預けたり(青)椅子の上で三角座りをしたり(黄)両手で顔を覆ったり(白)死んだ目で守の呪文を延々と札に書き連ねたり(桃)、カラフルなはずがまるで屍のようだ。一方、遠い目をした紫は真顔でただ一言。
「父上が聞いたら発狂しそう」
ふふふ、と口元だけ綺麗に微笑む様は、軽くどころか普通にホラーだった。
まぁでも、よく理解した。理解する過程は心臓に大変よろしくはないが、わかった。これまでちょくちょくグレンの近くに感じながらも見えなかった気配の正体。腑に落ちた、と紫水晶の瞳は納得の色を滲ませた。
要するに、三人の獣も個人差はあれど、恩や庇護欲以上にあの父娘の存在自体が大切になってしまったのだろう。理解出来たのは同じところにオチているからだ。
「とはいえ、グレンもなかなか、壮絶な境遇という点に関しては負けていないと思うんだけどね。グレンがシルビア嬢のそばにいてくれて良かったと言うべきか、シルビア嬢がグレンのそばにいてくれて良かったと言うべきか…どっちもかな?」
意味深な苦笑を交えた小さな呟きは、屍になっているメンバーにはもちろん、いつの間にやら取り出した懐中時計を眺めている赤にも大して届きはしなかった。