1.
グレン・レグルス(推定年齢十七歳)といえば完璧無比な美青年である。
世界に名だたる名門『レグルス公爵家』の嫡男にして、急逝した父親に代わり当主の座に就いて既に久しい。
文武両道。八面六臂。博識多才。蓋世之材。知勇兼備。鶏群一鶴。眉目秀麗。才色兼備。秀外恵中。才貌両全。威風堂々。余裕綽々。彼を形容する言葉は枚挙にいとまがなく、本来は女性に用いる表現でも違和感が積極的にサボっている。
「貴様のような十七歳がいてたまるか」
目に鮮やかな緋色の髪は赤薔薇よりも濃く、真紅と金の蠱惑的なオッドアイ。例え何もない荒野だろうと、枯れた花々しかなかろうと、どんな背景であっても一層彼を引き立て周囲を魅了してやまない。
一方で、歯向かう者には一片の容赦もなく叩き潰す苛烈さも併せ持つ。どこまでも見透かすような双眸に見つめられれば下手を打つ気概を半ば強制的に削がれるため、グレン・レグルスそのものが魔除けのようだった。
「異議、あり」
「魔除けっていうか、むしろグレンが魔王っす」
実際に彼の砂漠よりも広い視野の中で悪事を働いた者が、明日を真っ当に生きていられた試しはない。地獄の業火、終焉の夕焼けのようだとも畏怖を込めて密やかに評されてもいた。
それゆえ孤高。
あらゆる方面で突飛したセンスを発揮し、絶対的な統制力を持つ超ド級のオールラウンダー。ただでさえそのようなのに、更にこの上、二重人格者であることがハイスペックを二倍どころか二乗にしているのだから「魔王」の渾名も間違いではない。
もはや人間の枠を超えたのではないかと思うほどの才能を、これでもかというほど貰い受けた神に愛された男。魔法学園に主席で入学したその瞬間から常勝生命体として君臨している。
「オマエなんなの?なに目指してんの?人間やめんの?魔王どころか全宇宙の覇者にでもなんの?それか異世界でも乗っ取んの?」
ちなみに年齢が推定なのは、確かに誕生日から計算すれば順当に十七歳のはずなのだが、周囲が素直にそうは思えないからこその注釈である。
そんな青年も人並みに恋をしていた。
それは淡い初恋だった。
生まれながらのエリート、勝ち組、王者の烙印を押されたグレンの心臓を射止めたのは、月夜に映えるプラチナブロンドが凛々しいシルビア・ジュパンという少女である。両親が急逝したグレンの後見人となった『ジュパン公爵家』の一人娘で、数年共に暮らしていた。
グレンが彼女に恋したきっかけなど、数え上げればキリがない。どこが、なにが、そういったものを特定し、部分だけ切り離して考察するなど、そもそも愚かなことだとグレンは思っている。
正負問わず多くの感情があり、共に過ごした時間があった。
恋とはおそらく、季節の移り変わりのようなものなのだろう。
種が播かれたからといって、すぐに花が咲くわけではない。然るべき時が来なければ咲かない。あるいは、例え意識してどんなに大切に育てようとしても、咲かない花もあるだろう。簡単なことのようで、本当は奇跡だと理解している者はどれだけいるだろうか。
(会いたい)
(名を呼びたい)
(抱きしめたい)
超然とした佇まいや超人級のスペックから「何を考えているかわからない」とよく評されるグレンの頭脳がいつ如何なる時でも進行形で考えているのは「シルビアをどうやって愛でるか」という一点に尽きたし、脳髄のド真ん中にはいつ如何なる時でも「シルビア」の文字が刻印されている。
並の男ならいざ知らず、腑抜けたようにボンヤリとしていても麗しいと男女問わず惚れさせる横顔の時でも、もちろん考えているのは「シルビアを抱きしめながら昼寝したい」ことである。
もはや恒例でしかない表彰の壇上でもグレンの意識はまったく別方向で、今のところ挨拶と心の声「シルビア愛してる」がうっかり逆になる事故は免れているが未来の保障はない。
その敏腕を遺憾なく発揮し、事案や事件を解決すべく最高権力者ばりに周囲を動かしている時も、一瞬も忘れることなく考えているのは「シルビアとキスしたい」ことである。
(愛でたい)
(キスしたい)
(抱き潰したい)
雪のようにしんしんと、静かに降り積もった感情や思い出の下で知らぬ間に芽吹いていたモノが、陽の目を見るのをずっと待っている
ーーなんて、実際の恋愛沙汰がそんな綺麗なハナシであるわけもなく。さながら獲物を捕らえようとする野生の獣のように、今は大人しくしているだけのことだ。
彼女は可愛い人だ。
まず毎朝おっかなびっくり鏡を見ては「ぴゃ…!」と小動物のように怯えるのが可愛い。嫌いというより、生きた心地がしないそうだ。自分の顔なのに。
なんだそれは、と最初は思ったものだが、真剣に思い悩んでいる姿を見れば言うのは憚られ…いや、正直に言おう、朝から滾るほど可愛かったのでそんな些細な疑問など吹っ飛んだ。
『優しい笑顔になるための十のレッスン』という本をわざわざ取り寄せて、ムニムニと頬をマッサージしたり口角を上げる練習をしたり。大変微笑ましい健気な努力だったが、曰くの生きた心地がしない顔面効果を逆に底上げしていたように思う。
そんなことをしなくても今のままで十分優しい笑顔だ、自分は好きだ、と気休めではなく本音を言っても「天使に言われたくない…!」と涙目でキッと睨まれる。だからそんな顔をしても可愛いだけだと思ったが、火に油だと黙っておいた。
「目に優しく生まれたかった…」とシュンと落ち込む姿も可愛い。目に優しい生まれってなんぞ?とはグレンだけではなく彼女に仕える家人全員の疑問だったが、俗に言う目の保養とは別の意味だろうことは理解した。要するに地味になりたかったのだろう。
残念ながら無理だろうな、と思いつつも可愛いのでこれまた黙っておいた。整形でもない限り生来の顔面偏差値は変えられないという意味でもそうだが、彼女を慕う家人達、特に侍女、メイド達がこぞって彼女の願望とは真逆のベクトルに丹精込めて着飾るので。ちなみに便乗した犯人はここにいる。
彼女は可愛い人だ。
そして、とても不遇な人だった。
『ジュパン公爵家』を“世間一般的に”改めて紹介しよう。
レグルス公爵家と同等、その名を貴族界で知らぬ者はいない。但し、その印象は真逆で、レグルス家が光であるならジュパン家は闇、正と悪、陽と陰、夏と冬ほどに雲泥の差があった。
『暴虐非道な魔族の末裔で、今も虎視眈々と国家転覆の機会を伺っている裏社会の支配者』ーーこれが社交界で囁かれている冠名である。
一族の歴史の長さもレグルス家に匹敵し、代々に渡り北の領地を掌握、着実に勢力を広げながら、王家の守護神として正義を守るレグルス家と常に敵対し続けてきた。いつの時代も巧妙な悪行によって名を馳せ、財を築き、裏社会を暗躍して度々王家を苦しめている。
王家やレグルス家をもってしても成敗することは難しく、ジュパン家によって搾取され絶望に陥った者は数知れず。弱き者、小さきものをかえりみることはなく、血も涙もない残虐な極悪非道っぷり。
中でも当代の一人娘の美しさは、さながら温かみのない幾何学的な雪の結晶の如く。清楚な乙女とは名ばかりで、その髪は猛毒の水銀、白い肌は陽なたを知らず、母親の精気を吸い取った『冥界生まれの氷の冷嬢』。人の心や感情に欠け、病的なまでの潔癖性で不格好なものや不細工なものを嫌悪する。その瞳は悪魔の鏡の如く、美しくないと彼女に認識されたモノの末路は死。一方でそんな彼女に魅入られた者は心変わりををしてしまうーー
笑い話である。
こんな根も葉もない噂話、道化以下のとんだ作り話の根拠が、顔、そのただ一点のみであることを信じたくはないが、ひとの第一印象とはおそろしい。その極悪顔の遺伝子は少なくとも先々代からのものだそうだ。とばっちりにもほどがある。
急逝した両親に代わり、予定より大幅に早くグレンはその双肩にレグルスの名を背負うことになった。
安易な信用は命取りだ。ゆえに自分と家を守るため、同居一年目こそ完全に彼女を穿って見ていた。常に防御力極振り状態、後ろ手に刃を隠し持って、いつでも攻撃力にギアチェンジ出来るように構えていた。
ところが、思うところあって色眼鏡を外して観察した二年目。改めて冷静に探れば探るほど、思わず額に手を当て天を仰ぎたくなるような彼女の不遇さがフルスロットルで浮き彫りになったのである。
見た目の第一印象はともかく(想像するだけなら自由だ。想像するだけなら)そもそも魔族なんてモノはこの世界には存在しないし(厨二病も甚だしい)北の領地を治めているのはただの事実で(むしろ誰も領主やりたがらない難しい土地を国王から直々に任されている)勢力拡大も真っ当な功績による真っ当な領地拡大や財の底上げだし(つまり低能のやっかみだ)裏社会のことはむしろ虱潰しで叩き潰しているし(ある意味で支配)むしろそれだって誰もやりたがらないから王宮のSOSを快く引き受けているのだし(つまり低能の尻拭いだ)搾取とは言うが実際は横領賄賂その他諸々の不正を行った貴族の懐から正当に没収しているだけで(つまり国家転覆どころか低能の以下略)弱き者には砂糖水をマーライオンするほどゲロ甘い(詳細は後に語る)。
何故か引き合いに出されているレグルス家だが、本家の人間がジュパン家をこのように悪く言っているのを、グレンは生まれてことかた聞いたことがないわけで。そう、ジュパン公爵家がーーシルビアと彼女の父親のクロードが『極悪非道な(中略)裏社会の支配者』などというのは十割嘘っぱちなのである。
ところが、グレンが思っていた以上に世間の目は節穴だった。
そもそも、葬儀の場で血の繋がった親類一同を差し置いて、たったひと言と一瞥でグレンの処遇を決定出来たことがそれを裏付けている。普通、あんなことはあり得ない。一族の会議やら弁護士やら、そういうものをすっ飛ばすなど無理な話だ。普通は。
クロードの「私がこの子の後見人となろう」発言に至っては「私がこの子の後見人となろう(この子供は王家に一矢報いる生贄にしよう。邪魔をするなら…命はないと思え)」とでも盛大に勘違いされたに違いなかった。グレンの肩に手を添えたシルビアは、さながらいたいけな美少年を誘惑する雪の女王か。
他にあの場にいたのは他人の不幸に付け入ることでしか地位を得られない低能ばかりで、そんな人間が絶世の極悪顔に堂々と反発する気骨を持っていたはずもない。つまりグレンは確かに生贄()に捧げられたのだろう。笑うところである。
『ジュパン公爵家』の父娘の笑い話()は枚挙にいとまがない。
ごくたまに社交パーティーに顔を出したかと思えば、会場に一歩足を踏み入れただけで悪名が尾ひれ背びれをつけて蔓延する。まだひと言も言葉を発していないにも関わらずだ。
『亡くなった公爵夫人を忘れて若い女を夜ごとベッドに連れ込み、用がなくなれば容赦なく捨てる冷血漢』
「とんでもないことです。旦那様は今でも奥様ただお一人をだけを愛されております。後妻など作る気はございませんし、そもそも妾の概念すらないお方です。あれほどの愛妻家をわたくしは見たことはありません」
『少女とは思えない毒花の微笑みで男を誑かして弄ぶ社交界随一の氷の悪女』
「お嬢様の本当のお姿を見抜ける殿方はいらっしゃらないのでしょうか…あれほど心優しく、純朴で、小さなものこそ大切にする澄んだ瞳をお持ちの方が、悪女などであろうはずがありませんのに」
ジュパン家に長年使える家令の、海溝よりも深い嘆きである。
社交パーティーは、まだ良い。シルビアもクロードも特権階級にありがちなおべっかや権謀術数は好まないから、そこに執着などない。但し、被る悪評を「慣れてるから」「しょうがないよね」で済ませる本人達の代わりに家人達の胃がヤバイが。
きちんと招待状を持って出席したはずの結婚式場では花婿を寝盗られると勘違いした花嫁に泣かれ、花婿に花嫁を略奪されると威嚇される。猫や犬からじゃれついているのに飼い主が真っ青になりながら命乞いをしてくる。本をこよなく愛する二人が町の図書館に行けば緊急内線が即座に回り専属司書(※ジュパン父娘に限る)以外半径十メートル圏外に退避。目の前で落ちた財布や品物を拾って声をかければ全力で献上され、「喉渇いたねー」と何気なく会話しただけで「気づかなくて申し訳ありません…!!」とガクブルされ、飲み物ついでに高級菓子を貢がれ、横を行き違いに転んだのが子供なら心配したはずがガチ泣きされ、もう少し大人なら「愚図でごめんなさい!!」と逃げられ絆創膏を持った手は宙を彷徨う。
屋敷や領地を一歩出た瞬間から、それこそ摩訶不思議な魔法の鏡のように真実は面白いほど歪む。
猫や犬が好きで屋敷では服を毛まみれにするくらい遊んでいるし、アマガエルなんかもへっちゃらで、ヤモリや小さな蜘蛛は家の守りびと。世界で一番尊敬しているのはタダでたくさんの本をたくさんの人達が読める公立図書館を発明した人。献上されてしまったものは善良顔の友人宅に頼んで速かにクーリングオフ。粛々と高価なお茶やお菓子を嗜むより見習いメイドのちょっと失敗したお茶や領民が差し入れてくれる素朴な茶色いおやつが好きで、なんならパーティーの美食よりも寒い時期に皆んなで囲う芋煮が大好物。絆創膏をいつも持っているのは「治癒魔法は使えるけど、これはもう怪我をしないようにっておまじない」。結婚式場で一番賛辞された飾り付けの七色の千羽鶴を、誰が睡眠時間を削って作ったか誰も知らない。
こんな有様でよくぞ公爵家として存続し得ている、とは至極当然の疑問だろう。
だが、グレンは既に気づいていた。そんな『ジュパン公爵家』を必死に繋ぎとめようとしているのは、悪評を被る本人達よりも、むしろ王家を筆頭とした数少ない周囲の理解者の方であると。
国益の利害という意味でも勿論だが、同時に、本当の姿を知る者達にとっては、何が何でも二人を没落させるわけにはいかないのだ。同居生活の中で、彼らがこの父娘を非常に大切に思っていることは短い時間でも感じ取ることができた。彼らにとっては純粋に『良き友人』と呼べる貴重な存在なのだろうと。
しかし、繰り返すが現実は世知辛い。綺麗な御伽噺の中でならさぞ美談に聞こえるだろうが、世界は実に理不尽かつ不条理に満ちている。
理解者がいないこともないが、あまりに少な過ぎた。やっていることは至極真っ当にも関わらず、何かといえば明後日の方向へ解釈され、果ては裏社会を牛耳っているのではと大真面目に勘違いされるなど本当にシャレになっていない。
こいつらの目をくり抜いてやろうか…
いいよ、僕もやぶさかじゃない
同居二年目にしてだんだんと絆されている自覚はあった。
いや、絆されるとは語弊があるかもしれない。
『ジュパン公爵家』もその爵位の重さはわざわざ述べるまでもなく、ただでさえそのようなのに更にこの上、外見ひとつだけでこれだけの悪感情を向けられている。
それにも関わらず、卑屈になることなく真っ直ぐあることを選ぶ二人を見てるだけと言うのは、グレンにとって有り余る優秀な能力の生殺しにも等しかった。自分がその場にいない不憫な話を聞くたびに、自分がそこにいたならこうフォロー出来るのにと何度思ったことか。
自分以外は全て敵だと認識し、必要以上に踏み込まない踏み込ませないと己に課した。それなのに、どんどん手出し口出ししたくなってくる。ウズウズして、手持ち無沙汰に手を開いたり閉じたりが癖になっていた。こんな日常風景を延々と見せつけられるとは、とんだ精神的拷問もあったものである。
決定打は、同居生活もいよいよ三年目に突入しようかという、ある日のことだ。
ジュパン家の屋敷の中を一人で歩いていた時、一枚の絵画がなくなっていることに気づいた。単に装飾を交換したのかと思ったが、それにしては壁がそのまま空白になっている。
不審に思ったグレンは、ちょうどおやつの時間だと誘ってきた二人に報告した。
実は不審に思っていることはもうひとつあった。半年ほど前にクロードが雇った使用人の一人が見当たらないのだ。休みではなかったはずだ。もしや、と関連づけて考えたのはごく自然なことだった。
「はっはっは、グレンは間違い探しが得意そうだなぁ」
「は?」
「ね。そっか、あの絵にしたのね。そこそこ高く売れると思うから、暫くはお母さんと一緒に暮らせるのじゃないかしら。どれを持っていったのかなって私も探してたんだけど、全然わからなかったわ」
のほほん、とお茶を飲みお菓子をつまむ二人を見た瞬間、辛うじて脆い生命線を保っていた不審感や猜疑心という名の鉄壁に、とうとうピシリと亀裂が入る音を聞いた。
優秀なグレンの脳はひとつの可能性を弾き出した。二人にではなく家令に問い詰めたのは正しい判断だったと言えるだろう。
はたして予想は当たった。二人の救いようのないお人好しゆえの所業だった。もちろん全くこれっぽっちも褒めてはいない。
よくぞ気づいてくれました、と家令は本気で涙ぐみながら語った。いつの間にか集まっていた他の家人達までもがうんうんと凄い勢いで同意してきて語ることには。
曰く、かねてよりシルビアとクロードは福祉の分野に家業として力を入れたいと考えていると。その足がかりとして、まず自分達の領地で格差社会に苦しむ貧しい人々を雇い個々の能力を見定めた後、保証人となってどこでも働ける人材を育てようと試みたらしい。
ところが、ここでも悪役顔の弊害が猛威を振るった。何を企んでいるのかわからないと、正式な紹介状を持たせても勘違いされてどこにも良い顔をされないのである。これには二人とも、ほとほと困り果ててしまった。生まれつきの顔はどうにも出来ない。そのせいで、せっかく頑張ろうとしている者まで勘違いされるとは。
二人は何故だか、貴族の婦人の暇潰しのようなボランティア精神とは違い、真剣に本気で貧乏な人々を放っておけない理由があるらしかった。
しかし、どれもこれも裏目に出てしまう。永遠に領地で雇うわけにもいかない。受け入れられる余地には限界があるのだ。そもそも北の領地は一般的に住み難いという欠点もある。
苦肉の策が、屋敷に直接雇って働いて貰うことだった。当然給料を支払うのだが、中には今回のように屋敷にあるものを持ち出し夜逃げする者もいる。それをシルビアもクロードも黙認していると言うのだ。
『家族は一緒にいるのが一番だから』
たったそのひと言で。
「そう言って、旦那様もお嬢様もっ和やかに笑うんですうぅ……っ!!」
瞬間、グレンのどこかで何かがキレた。
「捨て身になるにも限度があるぞ!?」
「ですよね、ですよね…!!」
シルビアもクロードも決して考えなしのバカでも愚か者でもない。本人達の責任ではない極悪顔を勝手に誤解した周囲の悪評のせいで、そんなバカみたいな行動しか出来ないのだ。
家人達は両手で顔を覆いさめざめと泣いた。家令はと言えば理解してくれたのがよど嬉しかったのか、それまで一歩引いて見守っていた態度から一転、言葉すらなくグレンの両手を固く握りしめて涙した。
「そっそれに…!」
「まだ何かあるのか!?」
「顔は悪評ばかりだけど中身(臓器や魔力)はピンピン元気で良い評価(健康診断結果)だからイケるんじゃないかって、毎年いつも喜んでるんですうぅっ!!」
臓器や魔力売ったお金で福祉する気満々じゃないですかやだああぁぁっ!!
わっと泣き崩れた彼ら彼女らの一方、グレンの表情筋は最早完全に死滅した。中身(臓器や魔力)は良い評価だからイケるってなんだ。
ちなみに魔力を売るとは、一昔前に画期的と持て囃された魔力献血のことだ。魔力を人から人へ分け与える科学技術が発表されたが、しかし採血によるリスクがまだ不明瞭と危険視されている。
放っておけば、やる。絶対に、やる。やりかねないとかじゃなくて、やる。こんな調子では例え殺されそうになっても笑いながら受け入れそうだ。想像余裕だった。想像だけで軽く死ねた。目が。
叩けば出る埃のように、聞けば聞いただけ悪の所業(主に二人を慕う者達にとっての精神的負荷という意味で)が発覚するのだろうことは想像に難くなかった。
ーーあぁ、これはダメだ。やっぱりダメだ。本当にダメだ。
湿度が増したその場で、グレンはとうとう観念した。観念せざるを得なかった。
この時のグレンの表情は饒舌に尽くし難く恐ろしかった、と後に家令は語った。完全にハイライトが消えた死んだ目で真顔になったかと思えば、次の瞬間には謎の闘志の炎がオッドアイに揺らめいたと言うのだから察してあまりある。
あの人達、俺/僕がしっかりしないといつかマジでヤられるーー!!
既にグラグラと揺れていた不審感や猜疑心が、Max庇護欲に完敗した瞬間だった。
「お前たち、これまでよく、二人を見捨てることなく仕えてくれたね…もう安心して良い、これからは俺/僕がいる」
「グレンさま……!!」
これまでの笑い話()と悪業()を洗いざらい吐かせた直後の、グレンの心からの労りに彼らはいたく感動した。
彼らはクロードとシルビアの外見に騙されることなく、二人の無謀っぷりに挫けることなく、屋敷を支えてきた歴戦の猛者であった。彼らの半数が真実悪事を働いた貴族の被害者、あるいは社会的弱者で、父娘の真の姿や心根を知り、惚れ込んだ者達で構成されていた。
「私は身体の弱い母と共に、奴隷同然に働かされていることを救われました…!」
「僕は夜会の余興に催されていたデスゲームで、友達と殺し合いをさせられそうになった時にです」
「はい、アタシです!旦那様のお陰で絶望しないで済んだんです!」
『わたしは耳が聞こえません。まともな働き口など見つからず…行き倒れていたところを、お嬢様にお救い頂きました。わたしのために手話まで…』
「俺は目が見えません。だから、顔がどうとか、世の中の人達が言っていることなんて関係ないです。むしろ今は見えなくて良かったとすら思います。お二人のおいたわしいお話を聞くたびに、全人類盲目になってしまえとすら思いますね…!」
「救われた身で言えたことではありませんが、危険なこと、しないで欲しいです…『犬も歩けば棒に当たる…歩けば悪人に当たってホイホイな私達のこの顔、せめてこういうところで役立てないと』って、いつもそんなこと言って…!」
「ここに来てやっと平穏を手に入れたと喜んでいたのも最初の頃だけでした…(白目)」
「なんででしょう…お嬢様の可愛らしさに癒されるのに、そのお嬢様によって胃に穴が空きそうになるんです…なんででしょう……」
「胃薬がオトモダチです(真顔)」
「わたし、前はデブだったんです。なのにここに来て一ヶ月で体重が十五キロ落ちて、今は痩せ気味と診断されるんです(震え声)」
「あっちから寄って来るんですよ…!本当の悪人が…!お二人のせいじゃないですけど、だからってとっ捕まえるために進んで危険地帯に行かなくても良いじゃありませんかあぁぁ…!!」
貴重な同志が増えたこともそうだが、あの噂に名高いレグルス本家の、それも将来有望なグレンが全面的に二人の味方に回ったのだ。これほど心強いことがあるだろうか。
一生ついていきます…!!涙ながらにそう誓う彼らに、レグルス公爵家当主(当時推定年齢九歳)は鷹揚に頷いた。まるでグレンが屋敷の主人のようだったが、そこにツッコミを入れる者は誰もいなかった。
そこからのグレンの猛攻は凄かった。
防御力に極振りしていたのを一気に攻撃力へギアチェンジ、測定不可能領域まで振り切った。但しそれは一年目に想定していたベクトルとは天地ほどに意味が異なり、言うなれば「周囲の心の安寧のためにお人好し根性を叩き直す」ための全面戦争、その布陣が瞬く間に敷かれたのである。
何はともあれ真っ先にやったことはと言えば、二人に正座をさせた上での仁王立ち説教である。
家令を筆頭に家人達を味方に得たグレンは二人の悪業(もはや悪グセ)を「次にやったら嫌いになるから」の一言で当面の間は大人しくさせることに成功した。泣き落としではない。正しく脅しである。なにせこの男、顔面で語らせたらその効果の右に出る者はいない(当社比)。黒く微笑みながら怒るというスキルを身につけたのもこの時だ。断じて望んだわけではない(本人談)。
グレンは自分が二人にどう思われているかを熟知していた。
そして、開き直ったと同時に、自分もまた二人に好意を抱いていることを自覚して認めていた。
あんなに感情を露わに怒ったのは初めての経験だった。どんな時でも感情をコントロールし理性的でいる訓練はされていたから冷静さを失ってはいなかったが、論理的に理屈を並び立てつつも言葉の裏には明らかに二人の身を案じる響きが潜んでいた。
それまでなら決して有り得ないことだった。他人は駒だ。有益か無益か。使えるか使えないか。グレンの世界は単純明快で、どれだけ複雑怪奇な事象であっても冷徹なまでに淡々と王手を制する。ある意味で単調な、退屈なゲームのようだ。
それがどうだ。
全力で意識改革をさせた。二人がやりたかったことを自分が介入する形で実現して見せることで、もう今後は危ない橋を渡る必要はないと物理的証拠を突きつけてやった。ちなみに必殺技はゴリ押し(顔面)である。
知略高い頭脳を持ちながら信じられないことだが、なにせ敵は手強かった。自分自身への防御力は紙のくせにハイリスクローリターンを地で邁進し、事あるごとに周囲の心の安寧をゴッソリ削ってゆくのだ。
ゆえに力技だろうがなんだろうが、使えるものは使った。天使天使と可愛がられる自分の存在全てをかけたイイ笑顔の効果は見事に功を奏し家人達を感動の渦に巻き込んだことをここに記す〈完〉ーーなどと簡単なハナシであるわけもなく、推定年齢十七歳になった現在ですらグレンと家人達の頭痛胃痛は予備軍から抜けられないほど敵は油断ならない。
同時に家人達が証言した「ジュパン公爵家の同志・取り巻きだと勘違いしているクソ豚野郎ども」を牽制し、あるいは密かに叩き潰し、一掃することにも余念がなかった。
その際に結託し、現在に至るまで文字通りグレンの手足となって暗躍しているのは自称護衛で元盗賊の青年三人組である。それぞれ鴉・蛇・狐と名乗っている。窃盗・詐欺にかけて天下一流の“三獣士”という通り名で貴族界でも有名で、グレンがジュパン家に来た当初から自称護衛として屋根裏にいた気配の正体だ。つまり水面下で見張られ、あるいは警戒、あるいは吟味されているのにはとうに気づいていたわけだが。
さて、元盗賊がなぜ、自発的に貴族の護衛役などしているのか。ーー諸々の経緯を端折って要約すれば、グレンと同じ結論に至ったからである。
新人使用人などに扮して念入りに屋敷を下調べしてから本番に移るのがいつもの手口なのだが、そうしている間に「この人らヤッバイwww」と放っておけなくなったらしい。さもありなん。冷酷な一面も確かに持っているが、一方で元々は人情気質なのだろう。ちなみに一言一句違わず笑い転げて屋根裏から落ちて正体がバレたというのだから酷いハナシである。
あの極悪顔による弊害の猛威は非常に厄介なことに、人種を大きく二分する。徹底的にジュパン家を避け隊(それなら口も閉じてもらいたい)か、徹底的に媚び隊(滅びろ)だ。グレンが何よりも優先したのが後者の殲滅である。
更に面倒くさいことに、それらは金魚の糞とコウモリに分かれる。『悪の権化ジュパン公爵家』に心酔し盲信する一派と、普段は心酔しているように見せかけて隙あらば命を狙いすげ替わろうと腹の底で目論んでいる一派だ。いずれにしろ、口惜しいことだがグレン一人では手が回りきらない。
殺しはやらない、本当に生ゴミ以下の貴族だけを狙うことをモットーにしていた三人組だが、身を守るため諜報・暗殺の腕前も当時十五歳未満にして天下一流だった。教科書破りの魔法のスキルもグレンをもってして唸らせた。なるほど、そんな自称護衛がいたのなら二人がそれまである程度の危険を回避出来ていたことにも納得出来る。
そこに更に将来の魔王が加わり結託すればどうなるか、結果は火を見るよりも明らかなのはわかってもらえるだろう。
レグルス本家の嫡男ならばこれくらい出来て当然だった。当時は名ばかりでもゆくゆくは実質的に正式な当主となるのだから、将来のための予行練習だとすら思った。
ただ、自分が動いて成果を出したことを、こんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。二人に喜ばれて、自分を誇らしく感じた。これまでなら出来て当たり前だと機械的に思うだけだった。
両親を除いて、他人を駒としてではなく、対等な人間として意識したのは初めてのことで、まさか自分にそんな日が来るとは予想外も甚だしかった。
グレンの審美眼は本物である。
審美眼とは、言い方を変えれば真実を見抜く能力のことだ。だからこそ、まず多くの他人が誤解する二人の容姿に騙されることはなかった。
確かに見た目は大事だ。特に人の顔に関して、人相とは内面が滲み出て形成されるものである。だから外見は関係ないなど言うつもりはないし、そんなことは考えていない。
そう、グレンは正しく二人の容姿を理解していた。真の姿を理解した者からすれば、蔓延る噂話など片腹痛い以外の何物でもない。俗に悪者扱いされ易い二人は、実のところ世間一般的な評価からは酷くかけ離れた人間だった。
理不尽だと思った。確かに同情もした。有り余る才能ゆえか、使命感や義務感のようなものを抱いたのも事実だ。不審感や猜疑心が消滅し、庇護欲に極振りしたことも間違いなく一因だ。
だが、それだけなら、自分の存在全てをかけてまで動こうとはしない。
確かにはじめは純粋な好意のみだったはずだ。現に義父と慕うクロードに対する気持ちは今も変わっていない。実父のことはもちろん嫌いではなかったが、父親というより指導者に対する敬意という感じであったので。
だが、いつからだろうか。彼女に対する心が、穏やかなものから激情へと変わったのは。
グレン・レグルス(推定年齢十七歳)といえば完璧無比な美青年である。
世界に名だたる名門『レグルス公爵家』の嫡男にして、急逝した父親に代わり当主の座に就いて既に久しい。
そんな青年も人並みに恋をしていた。
それは淡い初恋“だった”。