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すみクロ!

作者: マグロ頭

 秋の細長い光が差し込む廊下をずんずん歩く。階段。踊り場。再び長い廊下。がらんと人気のない、しんと静まりかえった旧校舎内をどんどん進んで行く。古い建物特有のすんと鼻につく埃臭さが辺りには充満していた。

 やがて、目的の扉の前に辿り着く。ひとつ深呼吸をした。この教室に入る時、俺は自身を清め正す必要があるのだ。三度みたび、深い呼吸を繰り返して心を落ち着かせ、凛とした緊張を全身に行き渡らせる。制服の襟を正だし眼鏡の位置を整えると、一息に扉を開いた。

「お、新ちゃん」

 間の抜けた声を、間の抜けた馬鹿が出しやがった。瞬間俺は、今日この日この時間この瞬間に、この書道室へ来てしまったことを激しく後悔した。噛み締めた奥歯がぎりりと音を立てる。

「どうしてお前がいる」

 尋ねておきながらも、自分で声の刺々しさに少し驚く。相手が他の誰かならばこんな声にはならないのに。思うと、苛立ちが更にもう一段階大きくなったような気がした。

 そんな俺の心境など、先に教室に来ていた雨音あまねはミジンコの脳みそほども理解していないのだろう。ころころと楽しそうな笑みを浮かべ、とてもご機嫌なようだった。

 俺には何がそんなに愉快なのかまったく理解できない。したくもない。かねてから雨音と同じ感性だけは持ちたくないと思っているのだ。他にどんなことこの身に起ころうとも、大概は許容できるだろうとは思うが、雨音と同じく思考しなければならないようになることだけは勘弁願いたかった。

 んー、としばらくの間小さく唸っていた雨音は、ようやく合点のいく返事を考え付いたのか、元気よく俺の問い掛けに答えた。

「何だか今日は、急に筆を持ちたくなったのだ」

 雨音の声は妙に周囲に響き渡る。同時に、墨をたっぷり含んだ筆を目の前に突き出した。床に黒い雫が垂れて、ぽつりと小さな円が出来る。本来ならばやらなくてもよかった仕事が増えたことに、俺は深く澱みの底へと沈んでいくような頭痛を感じ、猛烈にこの場から帰りたくなった。

 書道は静かだから好きなのだ。白い半紙に向かい、凪いだ水面のような気持ちで筆を持つと、ぴんと空気が張り詰めて、落ち着いてきて。やがて清流の側で涼んでいるような清々しさに満たされて、嫌なことは全部吹き飛んでいく。そうして日々のストレスを発散させているのに。

 今日は雨音がいる。俺が一番苦手とする女がいやがる。こんな状況で筆を手にして、静寂に満たされることが出来るだろうか。

 出来るはずがない。

 木曜日の書道は習慣だったのだ。誰もいない書道室で黙々と筆を運ぶのが至福の時だった。でも、今日だけは無理だ。絶対にリラックスなんてできるわけがなかった。それどころか、むしろ逆にストレスを溜めてしまうことだろう。そうに違いなかった。

 結論に至り、俺は教室に一歩も踏み入らないままぐるりと回れ右をした。

「あれ。新ちゃん帰っちゃうの?」

 背後から席を立った雨音の声がした。誰のせいだと思っているんだろうか。少し腹が立つ。

「ああ。気分が悪くなった」

 つっけんどんに言い放ってやった。すぐにでも立ち去りたかったのだ。

「じゃあな」

「あ、ちょっち待って」

 なのに。声がして、俺はぐいっと後ろに引っ張られる。遅かった。いつの間にか服を掴まれてしまっていた。舌打ちを堪えて振り返る。満面の笑みを浮かべた雨音が、残った掌に硬貨を乗せていた。

「はい」

 流れるような動作で、さも当たり前のように手渡される。

「ミルクティー買ってきて。あったかいの。違うの買って来たら許さないかんね」

 廊下をずんずん歩きながら、俺は猛烈にむかついていた。雨音がいたから帰ろうと思ったのに。指示を受けてしまったことがどうしても癪に障っていた。帰ると言ったのに。どうしてあいつはお使いなど頼むことが出来るのだろう。そもそも頼んでおいて許さないとは何事なんだ。自分勝手にも程があるんじゃないだろうか。

「ほらよ」

 思いながらも、急いで教室に戻って、荒々しく机にミルクティーを置くことでしか苛立ちを表すことはできないのが歯がゆかった。きょとんとして顔を上げた雨音は、そんな俺の心中になど考えも及ばないように、ぱっと笑みを浮かべるとありがとうと嬉しそうに礼を言った。

 ますます腹の立つ!

「へへ。新ちゃんって本当いつも優しいよね」

 言われて、俺の中で何かが切れた。

 残る。残ってやる。今日は絶対に書いていく。

 空いた机に鞄を投げ出し、道具の準備を始めた。

「あれ、帰るんじゃなかったの?」

「気が変わった!」

 吐き捨てるように返事をして硯に墨汁を注いだ。

 こんな奴に負けてたまるか!

 最後に出てきた真っ黒な泡は音もなく弾けて消えてしまった。


 俺の学校の書道部は基本的に自堕落だ。週に一度しか部の活動はないし、入部する奴もそういったところに魅力を感じている奴らばかりだからほとんどサボる。加えて部の顧問も放任主義者であったために、唯一の活動日であるはずの月曜日に書道教室へ来ていたのは、俺と雨音くらいしかいなかった。

 そんなんだから、俺と雨音は自然と話をするようになった。他に雨音が話しかける相手がいなかったから仕方がないといえば仕方がなかったわけなのだが、俺にとっては不本意極まりない厄災の始まりに他ならなかった。

 と言うのも、この雨音という女は、基本的に書道部に書道をしに来ていない。専らおしゃべりしかしないのである。それだけではない。菓子や飲み物、ゲームやDVDなんかを持ち込んで、公然とくつろいでいくのだ。隣で俺が書道に精を出しているにも関わらず。

 正直、たまったものではない。何よりもまずうるさい。そしてうるさい。どれほど時間が経ってもうるさい。俺は生返事しかしないのに、雨音は嬉々として話し掛けてくるのだ。集中もへったくれもあったもんじゃない。折角の書道を、俺はいつも邪魔される羽目になっている。

 だから木曜日に一人で書道室に行くようにしたのだ。いや木曜日だけではない。ちょっとイライラした日や落ち着かなかった時など、一週間、ほとんど毎日書道室には足を運んでいた。書道だけが俺の心を安らかにしてくれるのだ、当然のことだった。

 なのに、今は雨音がいる。木曜日なのに雨音がいやがる。月曜日と同じく姦しく喋っている。

 全く、本当に心底たまったもんじゃない。どうしてこいつがここにいるんだ。雨音の声を何とか無視して筆を動かしていたら、もう何度となく浮んでは沈んでいた思いが再び顔を持ち上げてきた。

「でね、あたしその猫を抱きしめようと思ったんだけどさ」

 雨音は至極どうでもいい話を喋り続けている。ちらりと覗き見た半紙には、得意のお絵かきが描かれていた。

「こんな猫でね。もうほんっとうに可愛くさ。ね、聞いてる新ちゃん?」

「ああ、聞いてるよ」

 聞いてるわけねえじゃねえか。

 口と頭の中とで正反対の返事をしてから、俺はもう一度半紙に意識を戻す。邪魔されている場合ではないのだ。俺は心を落ち着かせるためにここへ来ているのだから。ならば何をすべきか。決まっている。書を書くのだ。半紙とまっすぐに向き合う。

 未だに要領を得ない猫との話を続ける雨音の声を意識の外に完全にシャットアウトして、俺は筆にじっとりと墨を蓄えた。

 書というものはとてもシンプルに完成された芸術だ。脈絡と受け継げられてきた文字を、ただ書き取るだけの芸術。それ自体には意味などない文字を素直に書き表すだけのものだ。だが、それを墨と筆で表すことによって、単なる記号は評価され得る美へとその姿を変える。

 墨の黒と半紙の白。そこに表されるのは声にならない想いを伝えるための造形だ。線の太さ、筆の運び、墨の潤渇。その三点が全てを表現する。

 息を殺して、始まりの一画に筆を下ろす。この一筆が作品の良し悪しを占うのだ。ゆっくりと慎重に、かつ鮮やかで大胆に。一画一画、筆を運んでいく。紙面に文字が生まれていく。どっしりと腰を据えた太いため。勢いと軽さを表す鋭いかすれ。繋いでいく内に、心は次第に真空になっていく。

 全てが透明な凪いだ空気の中に浸り、また自らの中にも同じ空気の存在を感じるようになる。そのどこまでも純粋な雰囲気が好きなのだ。または意識とか領域と呼んでもいいのかもしれない。その境地に踏み入ることができるからこそ俺は書を続けている。かけがえのない至高の空間に浸るためには、避けては通れない道なのだ。

 だが、俺は忘れてしまっていた。いつもどおりの心地よさで胸がいっぱいになるあまりに、今ここにはその空間をぶち破る奴がいるってことを。完全に失念してしまっていた。

 最後の文字を書こうと筆を運んでいた時だった。

「ねえ、新ちゃん。これ食べる?」

 声と共に視界の上からぬうっと掌が現れた。

 予想だにしていなかった突然の変化に、思わず運んでいた筆が止まる。凪いでいた真空が、がさりと音を立てて壊れていく。状況が掴めないまま見上げた先には、すっとぼけたように感情のない表情を浮かべた雨音が小さく首を傾げていた。本当に突然のことすぎて何がなんだか分からなかった俺は、そのまま少しの間、雨音と見詰め合うことになった。

「ほれ。食べない? このグミね、かなり美味しいんだよ」

 言って、雨音は俺の左手を広げさせるとグミを置いた。呆然としたままの俺は、手の上のグミを見て、そのまま口の中に放り込んだ。グレープ味。想像以上に噛み応えがある。結構おいしいグミだった。

「って、違うだろうが!」

「ほえ?」

「ほえ、じゃねえよこの馬鹿!」

 ようやく意識が状況に追いついて、俺は声を荒げた。

「ど、どったの新ちゃん。いきなり怒り出したりして」

「どうしたもこうしたもねえよ。もうちょっとで書けてたのに。見ろよ。最後の一文字だったんだぞ。それを横から邪魔しやがって」

「ご、ごめん。新ちゃん、あんまりに真剣にやってるから何か食べたいかと思って」

 どうしてそういう考えが浮ぶんだ!

 瞬間に沸点まで達した感情のお陰で、とうとう声すら出なくなった。

 本当にこのど阿呆は!

 わなわなと震える怒りで両手が意味もなく宙をかく。煮えたぎる怒りをどこに向かわせたらいいのか、よく分からなかった。結局、選べる選択肢がまったく見つからない俺には、勢いよく椅子に座ることしかできなかった。どうしようもない気持ちでいっぱいだった。

 目の前にあと一文字で完成だった半紙がある。ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた。

「あ。新ちゃん、もったいないよ。すごくうまかったのに」

 だから、誰のせいだと思ってるんだ!

 心の中で叫んで、俺は本当に何も書けなくなってしまった。


 突然だが、雨音は面白い奴だ。性格とか外見がどうこうという問題ではない。人間として、もっと言えば生物として面白い奴なのだ。なんとなく目を奪われてしまう。人ごみの中にいてもすぐに見つけることが出来る。とりわけ美人で目立ってるわけでも、体型に目がいくわけでもないのに。何と言うのだろう、オーラが違うと言えばいいのだろうか。雨音は他の人とは何かが違う。

 例えば、雨音が書道部に入った理由だってなかなかに変わったものだった。

「美術部ではごてごての洋画しか描けなさそうだったから」

 ある時、だらだらとだべっているばかりだった雨音にイライラしながら尋ねると、そんな答えが返ってきた。つまり雨音は書道部に絵を描きにやってきていたわけだったのだ。事実、時折思い出したように筆を手に取った雨音は、持ち込んだ特別な半紙にすらすらと水墨画を描いた。見かけたのは、ほんの数回しかなかったのだが。

「水墨画にはどこかに運んでくれるような深みがある」

 いつだったか、珍しく筆を手にしていた雨音はそんなことを言った。いわく、「絵画は前面に押し出す迫力があるが、水墨画には吸い込まれるような深みがある」のだそうだ。俺には未だに何のことだかよく分からない発言である。

 しかしながら、言うだけあって雨音の絵は、なるほど素晴らしいものに見えた。さらりと描いた動物をとっても、すらりと立つ植物の姿を見ても、素直にうまいなあと思えるのである。

 遠くどこまでも続いているかのような遠近感を生み出す薄墨と、深くそこに存在があることを際立たせる濃墨。

 それらは等しくひとつの黒から作り出されているはずなのに、そこには何色もの色が乗せてあるように見えた。確かに絵はうまい。絵だけはうまい。俺は雨音のそこだけは認めてやらざるを得なかった。

 しかしながら、ここは書道室なのだ。断じて水墨画を描く場所ではないのである。ましてや菓子を食う所でも、ジュースを飲む所でも、ゲームをする所でも、DVDを見る場所でもない。俺は雨音のことが嫌いなのである。うるさいから。

「ねえ、新ちゃん。悪かったよぅ。ごめんって」

 先ほどから雨音は俺に謝り続けているが、そんなのはもちろん無視だ。今までも腹を据えかねていたのだ。今回のでもう限界を超えた。絶対に許さん。机に頬杖を付いて、俺は雨音の謝罪を聞き流していた。

「うう、ごめんってー。知らなかったんだよぅ。新ちゃんがグミ嫌いだなんて」

「誰も嫌いなんて言ってねえだろう!」

 思わず突っ込んでから、しまったと思った。無視するつもりだったのに。あまりにも的を外れた言動についつい口を開いてしまった。

「じゃあ、どうしてそんなに怒ってるの?」

 机の下から眉を下げた雨音が覗き込むように見上げていた。そんなの決まってる。お前だ。お前の存在が、俺をこんなにも怒らせているのだ。

 少しは自覚してくれ!

 そんな喉まで昇ってきた叫び声は、しかし結局声にはならなかった。声にして出すことはできなかった。

「あーーーーっ、もういいよ、悪かった。俺が悪かった! これでいいんだろ」

 頭を掻き毟って、荒々しく言い放つ。いつもそうなのだ。最終的に俺が折れるしかない。じゃないと、とんちんかんな雨音はいつまでたってもとんちんかんなことであれこれを心配してしまうのだ。

 見上げる雨音はきょとんと目を瞬かせてから、ふにゃあと猫っぽい笑顔を浮かべた。

「ありがと、新ちゃん」

 何が、「ありがと」なのか。ふざけやがって。心の中で愚痴りながら、俺は深いため息をつく。ため息を吐くたびに幸福がひとつずつ逃げるなどと言うけれど、もしそれが本当だとするならば俺の幸福は相当逃げていってしまっているに違いなかった。

 でも、それも仕方がないことだった。今の俺にはそうするしかないのだ。ため息以外にどうやってこの虚脱感を消化したらいいのか、皆目見当が付かなかった。

「ねえ見て、この猫。結構可愛いでしょ。新ちゃんが頑張ってたから、あたしも頑張ったんだよ」

 言って、急に元気になった雨音から手渡された半紙には、丸まったまま健やかに瞳を閉じる仔猫の姿が描かれていた。「可愛いでしょ?」なんて言いながらにこにこ微笑む雨音の表情は、どこまでも単純で幸せそうに見えた。

「…………」

 本当に、こいつは嫌な奴だ。

 思いっきり頭をぐしゃぐしゃしてやってから、一言、「うまいよ」と言ってやった。俺にはそうするしかないのだ。きっと、これからもずっと。

 教室には光が伸びやかに差し込んでいて、ほんのりあったかかった。


どうしてこの時期なのかに深い意味はありません。読み直して誤字脱字の多さに頭が痛くなりました。こんなんで企画に提出していたとは……。当時は大丈夫だと思っていたんですが、やはり時間を置くことで見えてくるものがあるようです。推敲は大切。改めて思いました。

そういえば、企画あとがきでも書きましたが、キャラ色を念頭に書いた作品でもあったように記憶しています。本当はあまり好きではないんですけどね。人物を描いていく上で成り立つ特徴という形で性格は表していきたいなあと思っていたりします。

それではこの辺で。お読みいただきありがとうございました。

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