65話 ヨハンの祈り
〜ヨハン元司教〜
ヨシュア様がまた旅立たれる。
そのお姿を見て、私は堪えようのない滂沱をそのままにただ祈った。
私はあの聖者を二度、裏切った。
そしてその度に温かく赦された。
一度目は、そう、あの邂逅の時だ。
聖者は、明らかに世捨て人のようなボロボロの格好をして、この教会を訪れられた。
しかし私には分かった。
その双眸は、この教会を、いや旧教そのものの腐敗を看破している。
ハリボテのようなメッキに包まれた“教会”の腐敗を。
私は恐れた。
偽善者を装うこの私、咎人を見つめるその哀れみの目を。
そうなのだ。私は、最初から分かっていたのだ。
あの方が、只者ではないことを。
しかしそれなのに私は、いやだからこそ最も過酷で汚れた仕事を押し付けたのだろう。
それは最底辺の民草への免罪符の押し売りだ。
私は、汚れきっている。
祈りなど全く無意味であることを誰よりも知っていた。
私はただの集金マシーンと成り下がり、金持ちにある種の融通と脅迫めいた世迷言を投げかけ、大金をせしめていた。
そしてそのことに満足感と達成感すら覚えていたのだ。
寝食を忘れ、身を削らんと祈るあの聖者の堕落が見たかった。
そうでなければ、私自身が否定されてしまう。
綺麗事のメッキが剥がされてしまう。
聖者は、毎日のように、貧しい人々から寄せられた免罪への少なくない金額の特赦金を、私に無造作に預けた。
ピンハネやネコババが当たり前のこの世界で、そんなものは汚れた、邪な上納金に過ぎないという、その態度。
私は、その態度に怒りすら覚えたものだ。
そうくるならと、最終的にはこのナザロにおける全ての免罪符の販売を、彼に押し付けた。
そして弱音を吐き、本音をさらけ出すその瞬間を待った。
そしてその時に、私こそが温かく赦そうと・・・・
浅はかで汚れきった私の思惑は、完全に打ち破られた。
あの教会の広場で行われた奇跡の降臨と悪霊退散の奮闘。
このナザロにおける最高の伝説のひとつである。
ははは
笑うしかない。
最初に感じた私の直感は紛れもなく正しかった。
私は、ヨシュア様を、そして自分すらも嘘偽りで誤魔化し、裏切ったのだ。
そして私は彼を追放した。
使徒? 呆れた職階である。
聖ペテロといった伝説上の地位。
そんなものを押し付け、彼の居場所を奪ったのだ。
そもそもそんなものを、私なぞが授けることなどできるわけもない。
ただの自暴自棄ともいえる暴挙。
何故そんな行為をしたのか?
後悔と自責の念により、私の旧教に対する、いやカネ集めに対する熱意が綺麗さっぱりと消えてしまったからだ。
“教会”よ、私を罰するなら、糾弾するならして欲しい。そんな思いだ。
後日、マルコが、新教の教えを伝聞ながら教えてくれた時、私は、新教徒の後押しをすることを決断した。
これが二度目の裏切りである。
この動機は、身勝手な汚れたものなのだ。
自己嫌悪に苦しんでいた私は、誰かに罰せられることを望んでいたのだ。
“教会”に反旗を翻せば、あの勇者が攻めてくるだろう。
いやその前に領主様が許すはずもない。
私は、同胞のみならず、ナザロの市民すらも巻き添えにした自死を選んだのだ。
そして心のどこかで、ヨシュア様に責任を全て押し付け、私は潔白のままナザロを滅亡させたかったのだろう。
そしてその目論見は、紆余曲折しながらも達成されんとしていた。
領主様が逃亡するなどの予想外の展開はあったが・・・・
戒めとはこのことだろう。
血に飢えた敵軍が目前に迫った時、聖者はまたも我々をお救いになった。
浅慮な私の思惑を置き去りにして・・・・
そして、改めて奇跡を興された。
今度は、心を抉るような恐怖をもって。
優しさでも、哀れみでもない。
恐怖と厳しいまでの強さをもって、我々を救われた・・・。
そして、明言された。
お前の祈り自体は否定しない。
だが、今はその時ではないと。
やるべきことなど、どうでもいい。
お前のできることを、ただやりなさいと。
私の、それまでの信仰は、平時の、平和な時代の娯楽に過ぎなかったのだ。
しかし、その聖者は乱世における、生きるための道標としての信仰を迫った。
ああ、私はこの方に処罰されて殺されてもいい、と心から思った。
そして自虐を込めて言ったのだ。
まさに滅亡せんとするナザロの復興計画でも立てますか、と。
なぜか?
ははは、私には金の算段しかできないから。
敵を倒すことも、傷ついた人を癒すこともできない。
医療に覚えのあるマルコ司祭の方が、数段優れている。
教会に集う、決死の覚悟をした民衆に血祭りに上げられる覚悟だった。
しかし、ヨシュア様は微笑みを投げかけてくれた。
戦時下にはありえないほど、優しく、自然な笑顔を。
私は赦された。
私の存在の全てを。
私の過去の全てを。
その時、私は一度死に、新たに生まれ変わったと思っている。
そう思いたいのだ。
それほど、すべてを受け止められた、すべてを委ねた心地良さがあった。
そうだ、それは祈りだった。
私の過去の全てを赦すしるしであり、
私の今とこれからの全てを受け入れてくれる証だったのだ。
私は、この歳になって、初めて祈りの意味とその力を知った。
ヨシュア様の奇跡に触れた全ての民は、文字通り力を合わせ、このナザロを復興させた。
そればかりか、さらに驚異的なスピードで発展させようとしている。
それとは対照的に、この神聖帝国には深い闇が覆い被さろうとしている。
魔女狩りという言葉で、民の虐殺が繰り広げられ、それに派生した略奪、侵略、強奪が頻出しているのだ。
このナザロは、完璧なまでに守られている。
聖者ヨシュアは、そんなナザロを立ち、この闇に立ち向かわんとしている。
その姿は、この薄汚れた老いぼれにすら、言い様のない勇気を与えてくれるのだ。




