2 だからこそ、決して俺らしくは無かった。
1
その日もまたいつも通りの朝だった。
始業時間の少し前、席について朝食を食べる同僚、
三十分前には出社して勤怠の確認をしていたのだろう課長。
その姿を横目に出社した俺もまたいつも通りの朝だった。
給茶機からコーヒーを入れて、メールを確認して、書類を印刷して。
ただいつもと違ったのは、いつもの様に席を立った俺が、これから
課長に伝えなければならないことがあると言うことだけだった。
「扶養手当の申請? どうした。とうとう結婚でもする気になったのかね?」
と、いつもの調子でたずねてきた。課長が、
俺の話を聞いて腰を抜かすのに、そう時間はかからなかった。
「なんだって_ ?!_ 子どもを引き取るだって_ ?!_
あの子って、まさかキミが助けたって言っていた*あの*子どものことか_ ?!_」
「課長、落ち着いてください。」
「いや、そりゃあいきなり退職願いを出されるよりはマシだが!
いや、それにしても、キミ! 気は確かか_ ?!_」
「*僕*はいつも通りですよ。自分でももうずいぶんと考えたんです。」
「いや、しかし、キミだっていずれは結婚するんだろ? 見ず知らずの子どもなんて引き取ってどうする。」
「言ったじゃないですか。*僕*が結婚する気はないし。そもそも、*僕*が結婚しそうに無いってはじめに言ったのは課長ですよ?」
「確かにそう言ったかもしれないが!っ」
俺と言う人間は一体何をしなければならないのか。
それははたして身寄りを亡くしたあの少女の面倒を見ることなのか?
決してそうではないはずだ。であるのなら、
そんなことをすることに、一体、なんの意味があると言うのか。
きっと、課長もそう思った人間の一人だったに違いない。そして子どもを助けて欠勤した話がまさかそんなことになっていたなんて夢にも思っていなかったことだろう。だから俺の話を聞いた時、力の入った課長がその拍子で腰をやってしまったのも、まぁ、無理もないことなのかもしれなかった。
俺も課長の気持ちは理解していたつもりだ。なぜなら、
身寄りを亡くしたあの少女の面倒を見ようと思ったこと。
他でもない俺自身が、馬鹿げたことをしようとしているとそう思っていたのだから。
2
それまでの俺にとって価値のある生活とは何だったのか。
それは間違いなく自分のために生きることだった。
平日、朝がきて目が覚めれば一人で落ち着いて仕事へ行く用意をする。それから何者にも急かされることなく俺のリズムでいつもの時間通りに出社する。そして仕事が終われば、後の時間は自分のために、自分を休めるためだけに使って。そして休日には、平日に起きたことを全部忘れるためにエネルギーの全てを遊ぶことに向けること。気の済むまで、時間の許すまで、そして給料の許す範囲で自分らしい時間を過ごすこと。
そんな生活にこそ俺は価値を感じていた。
だからこそ、他人である少女に他人以上に関わろうと思ったこと。身寄りを亡くした少女の面倒を俺が見ようと思ったこと。言い換えればそれは、これまで自分のために使っていた時間もお金もその少女のために使うと言うことだ。
そんなことをすることに、一体、なんの意味があると言うのか。
そう思ったのは別に俺だけじゃ無かった。
現実的に生きてきた人間なら誰もがそう思ったことだろう。
実際、誰もが俺に反対した。
そして、そんな俺に、誰よりも先に、そして誰よりも強く、反対したのが
他でもないあのユースケだった。
「まだなにか言いたいことがありそうだな。」
自宅を出た。
出迎えたユースケが口を開く前に真っ先に白い目を向けたのは俺の方だ。
そんな俺を見て朝からため息をつくのがユースケだった。
「別に。オレだってお前の性格を知らない訳じゃないんだぜ。
それにオレの性格を知らない訳じゃないだろ?」
「あぁもちろんだよ。」
「オレの言いたいことはもう十分すぎるくらい喋ったからな。
経済的なこと、それから生活環境のこと、将来的なことまでぜんぶ踏まえた上で、
お前がちゃんと考えてるって言うのなら、いまさらオレが言うこともねぇよ。」
「結局、ぜんぶ言うんじゃねーか。」
「いいから乗れよ。」
本当に。幾つになっても頑固な男だ。
自分では他人のことにこだわるなと言ったくせに、
よくもまぁそこまで他人のことで真剣になれるものだと呆れてしまう。
そんなユースケに促されて俺は車に乗り込んだ。
「で? その後、お前の課長はなんて?」
ハンドルを握ったユースケがたずねてくる。
「別に。扶養手当が受けられる様にちゃんと取り計らってくれたよ。まぁ、腰痛を悪くしたせいで職場にはしばらく杖をついて来てたけどな。」
「やれやれだな。だから*探り*を入れてから話せって言ったろ? 第三者の子どもを引き取りたいだなんて、初めて聞く人間なら誰だって面食らうし、ましてやそんなこととは無縁な生活をする人間には刺激が強すぎるんだよ。」
「どうせ最後に話す内容は変わらないんだ。なら単刀直入に話すだけだよ。飾らないのが俺のモットーなのさ。」
「ったく、抜き身の刀かよお前は。」
「いいんだよ。最終的にはちゃんと扶養手当の申請が通ったんだからさ。」
「まぁ、話が下手に拗れなかったのなら、良かったんじゃないか?」
「もちろん反対はされたぜ? 申請書類の受け取りを拒否されなかったってだけで、子どもの面倒を見ることについては何回もありがたい話を聞かれたさ。その話をするためにわざわざ杖をついてまで出社してきたって話を部長から聞かされた時には流石に申し訳なく思ったね。」
「で、お前は自分の意見を押し通したのか。」
「あぁ。今更なにかを言われて変わるもんじゃないよ。もうずいぶんと、お前から似たような話を聞かされていた訳だからな?」
「まったく。お前の課長もとんでもない部下を持ったもんだな。」
「課長も今頃は納得してるさ。なんてったって優秀な部下に仕事を辞めない理由が一つ出来た訳だからな?」
「その課長には同情するね。」
「お前が言うなよ。真っ先に公務員に転職を決めて関西に戻ってきただろ?」
「そうだったな。」
俺たちを乗せた車は走り始めた。
行き先は少女の預かり先になっていたあの病院だった。
3
少女の面倒を見ようと思ったこと。
その理由について最初にくだらない話をするのなら。その決意を後押ししたのは、
確かに、ユースケや課長を含めた周りの人間の反対だった。
俺自身、ずいぶんとひねくれた人間だった訳で。意見がぶつかった時、他人の忠告に素直に従えるような出来た性格ではなかったし、どんなに筋道の通ったことを言われても、それを自分の目で確かめるまでは納得の出来ない性格でもあった。だから周囲の人間から反対された時、逆にそれを見返してやろうと、そんな気持ちになったことは紛れもない事実だ。そして何より、俺を止めようとする人間にとって不都合だったのは、俺という人間には省みなければならないモノなんてほとんどなくて、逆に、大人になった俺という人間がその気になれば、それが出来るだけのモノはもう十分手に入れていたと言うことだ。
経済的に自立した生活をしていたこと。
誰に遠慮をする必要も無い自由気ままな一人暮らしであったこと。
そして別に、そうすることで誰かに迷惑がかかる訳でもない。
であるなら、一体なにが俺の決意を鈍らせると言うのか。
だから俺の決意は変わらなくて、
だから俺は少女の未成年後見人なんてものになったのだ。
ビルの合間を走る景色は少女が倒れたあの場所を通り過ぎて網の目の様な立体交差を抜けて海を横切る景色へと変わっていく。
その景色を眺めながら今度口を開いたのは俺だった。
「だからって、何もお前まで関わってくる必要はなかったんだぜ?」
すると俺がそう言うのが分かっていたようでユースケは笑みを浮かべるのだ。
「なんだ? 未成年後見監督者の話か?」
「あぁ。どういうつもりなんだよ。成り行きをただ見守ろうって訳じゃないんだろ?」
「まぁ、こっちにはこっちの事情ってやつがあるからな?
真面目な話、いざお前が子どもと暮らし始めたとして、お前が何か問題でも起こしてみろ? その時に問題を回されてくるのは間違いなくウチの課で、仕事を増やされるのは間違いなくこのオレなんだ。なら、はじめから状況を確認しておいて、問題が起こらない様に目をつけて置こうってことだよ。言ってしまえば、安全確認のための通常業務って訳だな。」
「俺が何をしでかすって?」
「最近のニュースが面白おかしく取り上げてるだろ? 一番最悪なのはそれだな。」
「まったく、俺も信用されてるね。」
「オレはともかく、そう言うことを訝る人間もいるんだよ。得てしてそう言う人間は体裁をきちんと整えてやれば納得して引き下がってくれるんだ。オレの名前を添えてやることで、得てしてそう言う人間に対する予防線まで張ってやったんだから、監督者がいることを窮屈に感じるのだとしても、この件については素直にオレに譲るんだな。」
「それでわざわざ監督者になってくれた訳ね? 後で後悔しても知らないぞ?」
「どうかな? お前が『俺なら大丈夫』って言うんだろ? じゃぁオレが何を心配する必要がある?」
「まったく。俺も信用されてるね。」
「まぁでも、よっぽど事件でも起こさない限りは、多少ヘマしたぐらいじゃ責任問題にはならないから安心しとけ。普通、後見人にしたって監督者にしたって今回みたいな場合には専門の弁護士から任命されるもんなんだよ。それがオレやお前の名前でも簡単に通ったってことは、それで食ってるような人間からすれば、今回の件であの子どもに関わることなんて一銭の金にもならないって分かってるからだよ。」
「だから多少ヘマしたくらいじゃ誰も見向きもしない訳ね。」
「世の中そんなもんさ。そんな腐った人間にはなりたくなかったからあの子どもの面倒をみることにしたんだろ?」
「確かに、そんなことも言った気がするね。」
「ったく。」
4
少女の面倒を見ようと思ったこと。
その理由について改めて真面目な話をしておくのなら。
きっかけは間違いなく、何もなくした少女に「大丈夫だ」と声を掛けた、
俺自身の呵責だった。
俺ももうずいぶんと自分に嘘をついて生きてきた。それが今では当たり前でいつの頃からか人に無責任なことを言うのもまた上手くなってしまった。けれど、それこそがこの世界の中で無難に生きるための賢いやり方なのだといつの頃からか思うようになっていた。
だからあの時も俺は少女にさえなんの気なしに嘘をついてしまったのだ。
けれど俺だって初めからそんな人間になりたかった訳じゃない。
嘘をついて平気な顔をしていられるようなそんな生き方に疑問を感じること。この先また人と同じように生きていけばやがてはそんな疑問を感じることさえきっとなくなっていくのだろう。
だからこそ、そんなことに疑問を感じることがこれがその最後なのだとしたら、俺は最後に自分でついた嘘を本当にしてやるのも、そのために俺に出来る限りのことをやってやるのも、見納めとしては悪くはないと思ったんだ。
病院の駐車場に車を留めて、俺たちは車を降りた。
「で、新生活を前にした感想は?」
ユースケがたずねてくる。
俺は肩をすくめた。
「これまでと変らないさ。俺は自分に出来るだけのことをするだけだよ。」
「果たしてそれで上手くいくもんかね?
要は行き当たりばったりってことだろ?」
ユースケはまた人を馬鹿にしたように鼻で笑うのだ。
それを見た俺もまた肩をすくめて見せるのだった。
「まぁ見てろよ。あの時の俺とは違うのさ。」
きっと、それは間違いなく俺自身の自惚れだった。もとより俺と言う人間には自分にはできないことはないと思っていた。だから俺がその気になれば、あの少女のことも他でもない俺こそが一番良くしてやれる人間なのだろうと思ったのだ。だからこの日を迎える頃にはそんななんの根拠も無い自信まで持っていたのかもしれなかった。
本当に無茶苦茶だった。
本当にそれが正しい選択だったのか。
本当に俺らしくなくて、そしてそんな風に生きるのはきっと間違っていた。
けれど俺はそれでいいと思った。
あの日からもうずいぶんと暖かくなった。
桜は散って木々には若葉が芽吹いていた。
茫洋とした空にはうっすらと霞がかって、
時折、合間には澄んだ青空が見えるのだ。
もう4月も終わろうとしている。
代わり映えのしないいつもどおりの春の終わりだった。
その中を俺たちは歩いていた。
5
都市の真ん中にいた。
俺は一人で歩いていた。
ずっと周りの人間と同じように生きてきた。
どこにでもいるようなサラリーマンだった。
少女も一人で歩いていた。
小さなどこにでもいるような子どもだった。
もしも変わらない景色の中で出会っていたのなら
気にも留めることさえしなかったに違いない。
だから俺たちはこの世界の中ですれ違ったほんの他人同士でしかなくて。
だからそんな少女の面倒を見ようと思ったこと。決して俺らしくは無かった。
けれどもし、この世界の中で、俺にだけ出来ることがあるとするのなら、
俺は偶然出会った少女のために、それを確かめてみるのも悪くないと思ったんだ。
だからこそ、
わざわざ変えなくてもいいような日常を変えようと思ったのかもしれなかった。
6
だからだろうか。
俺たちの生活を思い返す時、真っ先に思い浮かぶのは、
俺らしくなかった当時の俺自身の不細工な姿なのかもしれなかった。
―― Introduction END.
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2019.04.22 Twitter 発信内容に合わせて修正・再編集
2019.05.05 COMITIA128 出版物の内容に合わせて修正・再編集