1 俺という人間 #2
1
あの少女に一体、何があったのか。
そして、あの場に居合わせた俺は、一体、何に巻き込まれたのか。
そんな事情が分かったのは、ずいぶんと後になってからだった。
2
「それにしても、まぁ、お前も、ずいぶんと貴重な経験をしたもんだな?
まさか三ノ宮の駅前で子どもが行き倒れるなんてな?」
今、この場所には俺たち以外にはスタッフの姿があるだけである。
街の中心にありながら周囲の喧騒を離れて街を遠くまで見渡せる場所。
そんな市庁舎の_ 24_階に喫茶店があって俺たちは窓際の席に腰を下ろしていた。
「どうした? ぶすっとして。まだ不貞腐れてるのか?」
そう言いながらティーカップにミルクと砂糖を入れてぐるぐるしている。
相変わらず人を馬鹿にした笑顔が腹の立つ男だ。ユースケと、
その向かいでそれまでの物思いを止めてため息をつくのが俺だった。
「まったく、人事だと思って笑いやがって。
そりゃあの時は納得いかないことばっかりだったからな。」
悪態をくつ俺にユースケが目を細める。
「いいじゃねぇか。今となっては笑い話だろ?」
「当事者だった俺はとてもそんな気分にはなれないんだけどな。」
「それにしても、お前もついてなかったな。まさか子どもを助けようとして、通報された挙句、取り押さえられて、元町の警察本部で事情聴取まで受けたんだろ?」
「もう二度と人助けなんてするものかと思ったよ。」
「そう言うなって。お前をはじめに通報した女子高生たちだって、子どもを助けようとした気持ちに変わりは無いんだし。お前を押さえてた陸上部の男子学生にしたって、サラリーマンのお父さんにしたって、正義感からそうしたんだぜ? 関わった人間全員が目の前で起きたことをなんとかしようとした結果の不幸な事故だったんだよ。」
「どうして世の中ってのはもっと上手く回ってくれないのかね。」
「お前が子どもを助けようと思ったことも、そのためにお前がしたことも、決して間違いなんかじゃないんだから、それでいいだろ?」
綺麗にまとめたがるユースケに顔をしかめる俺を見て、またユースケはくつくつと笑い始めるのだった。
カレンダーを遡ればもう一ヶ月も前になる。
あの日――、
3月_ 12_日、午前5時_ 45_分頃、
この現代の日本にあって、都市の真ん中で、
子どもが行き倒れると言う現場に居合わせた。
俺にとって見れば、それこそが今日までずっと続いている、
おかしな毎日の始まりだった。
3
そこは一日におよそ100万に近い人が行き交う場所であり、休日の昼間ともなれば若者や家族連れ・観光客・ビジネス姿の営業マンと言ったあらゆる人の姿が途切れることなく交錯している駅前と言う場所である。
にもかかわらず、俺という人間だけがその瞬間を目撃したのは、きっと平日の朝の人通りが最も少ない時間だったからで。車通りもほとんどなく、ただでさえ数えるほども居なかった歩行者ががすれ違って行った後の歩道にできてしまった空白みたいなところで、その少女だけが一人で取り残されていたからだ。そしてあの時、俺だけが少女の倒れる瞬間を見ていたのは、きっと立ち止まった俺だけが振り返って、その少女の様子を確かめようとしたからなのかもしれなかった。だからあの時、俺の目には少女の姿だけが映って見えた。
そしてその直後、少女はふっと地面に倒れた。
少女はそのまま動かなくなった。
俺が居た場所からそこまでは距離にすれば数百メートル離れていたかどうかで、俺が少女に駆け寄るまでを時間にすれば数分と掛からなかったはずだった。けれど、俺が駆け寄った時にはもう既に少女の意識は無くて。そばで声を掛けても起き上がってくる気配が無く、揺さぶってみてもいつまで経っても反応が返ってくることは無かった。ただ目を閉じた少女が浅く息をしていることが分かっただけで、その瞬間を見ていなければ、あるいは誰かに彼女は眠っているのだと、そう言われればそうなのだと思ってしまうような。そんな風にさえ見えた安らかな少女の姿はかえって俺の不安を煽るのだった。けれどもうその時にはその場で俺にできることは何もなくて。だからこそ、今は一秒でも早く救急車を呼ばなければならないのだと。俺はポケットから携帯電話を探り出して、そしてしゃがみこんだまま電話を119番に繋いだのだった。
4
とにかくあの時の俺は目の前の少女を助けようと必死だった。
一瞬も無駄には出来ないと思った。
だから俺はいつに無く慌てていて気持ちばかりが焦るものだからスマホをポケットに引っ掛けるわ、落としそうになるわで、その上、普段はなんてことないはずの119と数字をダイヤルするのだってままならない手に苛立ちを覚えながらディスプレイを操作したのを覚えている。たった数コールだった呼び出しさえも長くもどかしく感じられて、けれどまずは俺自身が落ち着かなければならないのだと、電話を繋いで救急車を呼んだ後は、努めて冷静にそして丁寧に、それでも救急オペレーターの声は聞き逃してはならないとスマホは耳に押し当てながら、目の前の少女の状態を順番に確認していたのだった。
その時のことを思い出すと本当に自分でも良くやれたと思う。けれど、
その後に俺を待っていたのは、そんな俺に対する理不尽な取り扱いの連続なのだった。
直後、
オペレーターの指示に従って呼吸・体温と確認して、ちょうど心拍数を確認しようとしていた時だった。不意に後ろから掴まれた俺はそのまま後ろへ引き倒されて、一瞬記憶が飛んで、気が付いた時には地面の上に這いつくばるように押さえつけられた。なぜ俺がそうなったのか、なぜ俺は地面に横になっているのか。十分な身動きも取れないまま、その訳も分からないまま、俺は朦朧とする中で警察車両に乗せられて警察署へ連れて行かれたのだ。そして取調べ室で俺ははじめて俺が不審者として通報されて取調べを受けているのだと聞かされた。
「道の真ん中で少女に不審なことをしている男性がいる」と。
もちろん、俺にしてみれば寝耳に水の話で、あの時、俺は目の前で倒れた少女を助けようとした、それこそが紛れも無い事実なのだと弁明した。そして俺のことなんかよりも俺の目の前で倒れたあの少女が一体あの後どうなったのか、それこそが重要なのだと詰問した。けれど、刑事たちは第一報を基に話を進めるばかりで、俺の話にはほとんど耳を傾けられることがなく、話はどこまでも食い違うばかりなのだった。
結局、その日の昼になって俺は嫌疑不十分みたいな形で解放された。俺はあらぬ疑いをかけられただけなのだから当然といえば当然の解放だった訳で。刑事たちは最後まで怪訝な顔を俺に向けていて、そのことには当然ムカついたが、そんなことは警察署を後にしてしまえば最早どうでもいいことだった。
結局、あの少女があの後どうなったのか。それも俺には分からずじまいで。
そして、そんなことよりも俺はこの足で会社へ向かわなければならないのだ。
そのことを思い出すと俺の気分は解放されたばかりで一層憂鬱になるのだった。
5
サラリーマンというのは時として非常にやっかいなもので、会社という組織に所属している限り、勤務時間中に社内規則を逸脱してしまえばその説明が求められるのはごく自然で当然の流れと言える。だから休暇でもないのに時間通りに出社できなかった俺は、一体どういう事情があって出社できなかったのか。その報告をしなければなからなかったのも当然といえば当然の流れな訳で。そして、その申し開きの場で、俺の報告が上司に素直に受け入れられなかったのも、また、ごく自然で当然の流れだった。
「*僕*は目の前の子どもを助けようとしただけですよ!
課長の言うことも尤もですが、事実を事実と認めて貰えないのは納得できません!」
「まぁまぁ、そんなにムキにならなくても。
今回の欠勤についても、総務や部長へは「急な体調不良」ってことで
処理してもらえることになったんだから、それでいいじゃないか。」
「課長は、*僕*の話を信じてないんですか。」
「いや、個人的にはそりゃ信じたいけど、子どもを助けたって証明も難しいんだろう?
それに事情聴取を受けたって話も、その事実だけじゃぁキミが有利にならない。
だから課長として言えるのは、経歴に疵が付かなかったことを善としなさいってこと。
キミが今まで通りに働けるのなら*私*はそれで良いんだから。」
常識的な人間にとって、と言うか、普段の社会生活の中にいる人間にしてみれば、子どもが夜明けの街を一人で歩いていた話も、その子どもが突然目の前で倒れた話も、それを助けようとした俺が何故か警察署で事情聴取を受けることになった話も、そんなことはにわかには信じられない話でしかない訳で。ましてやそこに何か確証がある訳でもなく、あるのはただその日の俺が会社を欠勤したという事実だけ。それで俺の話だけを信じろと言うのが無理があるのか。確かに、それは別に俺の上司に限った話じゃなくて、分別のある人間なら誰でもそうだ。立場が違えば俺だってそう思うだろう。けれどそれが分かっていても、今回のように会社と言う組織の中で事情を説明しなければならないのであれば、俺だって自分に何か非があった訳ではないのだから、例えそれが下手なやり方なのだと分かっていても、有ったことを無かったことにはしたくはなかった。
俺は事実を主張した。
けれど俺のその話を確実に証明できるものが何も無かったのもまた事実だった。
じゃぁその場合、組織的にはどうやってケリをつけるのか。結局、俺はその日、急な体調不良に見舞われたために病欠した。と言う扱いで処理されることになった。「もちろん俺の話はにわかには信じられないものではあるが、確かにその日の出勤時間前にはそのような内容で上司が連絡を受けている。だから今回は重く扱わず、体調不良による有給休暇の消化と言う扱いでいいだろう」と。「それなら俺の経歴にも瑕疵は残らないし、周りの人間も疑問を持たず納得できるだろう」と。要するにうやむやになったのだ。結局のところ会社と言う組織は、それ自体が回りさえすれば、後は個人の理由なんてさほど重要ではないのだ。そう言う意味で、大袈裟にならなかったと言う意味で、それは俺にとってもありがたいことなのかも知れなかった。けれどそれは最終的には俺の主張は受け入れられなかったと言うことでもあって、別な言い方をすれば、組織における俺と言う人間の信ぴょう性みたいなものにキズがついたと言うことだった。
6
「そもそも、本当にそんな子どもがいたのかよ。」
「なんだよ。いたに決まってるだろ。俺がどうして嘘をつかないといけないんだよ。」
「その日に限って寝過ごしたとか?」
「はぁ_ !?_ そんなことで嘘なんかつかないし、つくとしたらもっとそれらしい嘘をつくだろ。」
「それもそうだ。でも、世の中にはスタバの行列が長過ぎて遅刻したって言うやつもいるんだろ?」
「なんだよそれ。」
「で、どうだった? その子、可愛かった?」
「お前はまた、訳の分からんことを……。」
「人助けなんて、らしくないことをしようとしたのが間違いだったんじゃなの?」
「うっせぇな。お前ならどうしたんだよ。」
「とりあえずすっと、すっと、おっぱい触ってた。」
「サイテーだな。」
後日。
あの日の出来事について話す時、気の知れた同期の間でさえそれはもう酒を飲む時の笑い話にしかならなかったし、半信半疑の上司なんかは*余計なことをした*俺をともかく慰めるような感じにしかならなかった。ましてや詳しい事情を知らない周りの人間からは「あまり無理をしないでくださいね」と、急な体調不良に見舞われた俺の健康まで心配される始末なのだから、それまで周りと同じ世界に居たはずの俺は、俺だけが周囲とは違う時間に足を踏み外してしまったかのような、そんな錯覚さえ覚えるのだった。
俺の目の前で少女が倒れたこと。
あの少女を助けようとしたこと。
俺は別に誰かに褒められようと思って行動した訳じゃない。ただ、俺も一人の人間として、自分の良心に反しない、負い目の無い生き方をしたかっただけだ。結果として、それで俺という人間にどんなキズが付くのだとしても、自分の意志を貫き通したのなら、それ以外のことがどうなろうとそれは些細な問題だ。けれど、俺が助けようとした少女、あの少女が本当に無事で済んだのかさえ今の俺には分からないのだ。そんな状態で俺は俺自身に一体何に自信を持てと言えるだろうか。
だからだろうか。
しょうもないことまで考えてしまう自分がいた。
あの後、あの少女は何事もなく目が覚めていたのかもしれないのだ。だとしたら、俺は目の前の少女を助けようとなんてしなければよかったのでは無いか、と。俺が少女を助けようとしたこと、それは本当に正しいことだったのだろうかと、そんな風にさえ考えてしまう自分がいるのだった。
あの場所から引き離されていく時に見えた最後の少女の姿。
冷たいアスファルトの上でまだ横たわっていた少女の姿。
その記憶だけが俺の中でずっと燻り続けているのだった。
7
「入院してる?」
「あぁ、オレはオススメはしないけどな。
でも、変わりの方法もないし、それで何かお前の気が晴れるのなら、
直接、会いに行ってくればいいんじゃないか?
場所はポートアイランドの中央市民病院だよ。」
そんな話をした数日後、
俺は胸のつっかえの様なものが消えて無くなることを期待して
この場所を訪れたはずだった。
そこはいくつも色とりどりの折り紙が貼られていて、
かわいらしい動物のイラストなんか壁を彩っていた。
3F小児病棟。
明るい雰囲気のその階にあって、
その部屋だけはどこか寂しささえ感じさせる殺風景があった。
あの時、俺の目の前で倒れたあの少女の病室だった。
「あら? ご家族の方ですか?」
話しかけてきたのは看護師だった。
「あぁいえ。自分は――、」
少女の担当だと言うその看護師。
俺は彼女に事情を説明して、少女のことについて尋ねてみたのだが。
「――そうだったんですね。いち早く見つけてくれた人が居たのはあの子にとっては幸運でしたね。搬送されてきた時は健康状態がずいぶん深刻だったから。」
「それで、ずっとあんな感じなんですか?」
「さぁ、もう体調の方は問題ないと思うんですけどね。
いかんせん何も話してくれないから。食事もあまり食べてくれないし。」
「一体、あの子に何があったんですかね。」
「そこまでは。本人が何か喋ってくれない限りは、私たちには何も。」
「そうですか。
あの子はいつまで入院するんですか。」
「ご家族の方か、あるいは彼女のことを知ってる人が早く見つかってくれれば良いんですけどね。」
確かに、俺の目の前で倒れた少女は実在して、確かにその少女は無事らしかった。
けれど、今、俺の目に映っているこの少女は本当に無事だと言えるのか?
一言も話さない少女の前で、ついに俺はこの場所を訪れた目的さえも忘れてしまって。必要なものだけがそこに置かれただけの病室。ベッドと、サイドテーブルと、テレビの載ったタンスと、そして点滴から伸びたチューブの先、ベッドの上でじっと座った少女の姿を最後にもう一度見て、それでも俺は、誰も見舞いに来た様子が無いその病室を後にするしかないのだった。
8
なぜ少女はあの場所に居たのか。
なぜ少女は倒れたのか。
あの少女は一体誰なのか。
きっかけはある民生委員のある高齢者居住居への定期訪問だった。
この現代の日本における社会問題の一つとみなされるようになって久しい孤独死。
だからそれ自体は、高齢者の健康の確認と孤独死の予防・その早期発見を目的とした定期訪問の中で、折りしも住居者の死を発見するという、きっとこの世の中でごくありふれた出来事だった。問題だったのは、その「彼」には住まいを共にする人間が居たはずで、民生委員が警察と彼の家を確認した時にはその同居者の姿が見つからず、それからずっとその「彼女」の安否確認が出来ない状態が続いていたことだった。
市で管理されていた住民記録情報の照会によれば、祖父を世帯主として少女は二人で暮らしていたらしい。親権者もその祖父で少女に両親は居なかった。何故そうなったのか。少女の家庭の事情が少女の両親に関わることで、それが個人情報保護法で護られた範囲にある限り、第三者にはその理由なんて知りようはないのだが。仮に分かったところで、それが少女が行き倒れた直接の理由を説明するものにはならないことだけは確かだった。少なくとも当時の少女の状況については、祖父の医療カルテの記録や、民生委員と警察が見た現場の状況を頼りにすれば、少女はその時まで心臓を患っていた祖父と二人で暮らしていた。そして、その祖父が亡くなるまで、あるいは亡くなってしばらくの間、寝所を共にしていたらしい。そして、数日後、住まいから遠く離れた駅前の商業エリアの真ん中倒れることになる少女はその後、疲労状態と栄養状態を理由に搬送先の病院で入院することになるのだった。
――そして、俺にかわって一通りのことを話し終えたユースケは、また
残ったミルクをティーカップに入れてまたぐるぐるとし始めるのだった。
9
俺たちは市庁舎_ 24_階の喫茶店にいた。
今回のことで俺に唯一幸いなことがあったとすれば、それはユースケが市役所の職員だったことだろう。だから俺は少女のことについて、また、当時の状況について、後になって、それが明らかになった後で聞き出すことが出来たのだ。少女が入院している場所を知っていたのもユースケだったし、少女の倒れた現場に居合わせた人間の聴取を得たのもまたユースケだった。そして今、あの時、俺の目の前で倒れた少女の事情を知ることができたのもまたユースケがいたからだ。
けれど、今となってはそのことさえも俺は素直には喜べないのだ。
天ヶ瀬月。か。
この世界の中で一人きりになってしまった少女は今、何を思うのだろうか。と。
そして静かになった店の中でふと考え込んでしまう俺がいるのだった。
「やれやれ。」
しばらく考え込んでいた俺を見て、ため息をついたのはユースケだった。
「なんだよ。」
「だからはじめに言ったろ? いい話は出来ないって。」
「そうだったな。
あの子はこれからどうなるんだ?」
「もちろん元の家で暮らすことはできないだろう。両親は親権をとっくに放棄してるし、そもそも探したけど見つからない。なら、後は、そうだな。オレはいつも通り、仕事をするだけだよ。」
「そうか。」
「あまり深く考えすぎるな? あの子どもの事情を知ったのだとしても、だからと言って、それでオレたちに何かできる訳じゃないんだぜ? お前が悩んでも仕方のないことなのさ。
そりゃぁ、まぁ、綺麗事を言おうと思えばいくらでも言えるんだろうけど、そんなことまで気にしてどうする。結局は、自分とは関係の無い人間に起きたことなのさ。」
「分かってるよ。」
そんなことを話した。
朝の人混みの中を歩きながら、俺はユースケの言葉を思い出していた。
ユースケは言う。
自分とは無関係な人間にこだわること。そんなものに一体どれだけの価値があるのか。
他人に感傷的になることが、一体、自分の人生に、どれだけの価値を持つと言うのか。
お前にはお前の生活があるはずだ。であるのなら、
自分は今、何をしなければならないのか。他人のことなんかよりも、
もっと他に集中しなければならないことがあるはずだ。と。
駅を通り過ぎていく車窓には列で待つサラリーマンやOL・学生の姿が映っている。道路には職場へ向かっているのだろう車や原付が走っていて、街を歩く人の姿は通勤・通学・あるいはゴミ出しとそれぞれの目的に向かって動いている。そして電車を降りた俺もまた、今からその景色に溶け込んでいくのだ。
だからこそ、彼女のことを聞いたこと。それが失敗だったかもしれないと、いまさらながらに思ってしまうのだった。
_ 10_
俺という人間には、今、
あの少女のことなんかよりも目を向けなければならない現実がある。
それは今まで通りのサラリーマンとしての生活で、例えば、
それが通勤中なら始業時間に間に合うように出社することに他ならない。
それが勤務時間中なら仕事を上手くまとめることに他ならず、
それこそが自分の将来を考えた行動であり、人付き合いを上手くすることであり、
あるいはそれらを失敗しないことである。
そして、仕事が終わってしまえば残されたわずかな時間を自分のために使うこと。
自分と言うものがなくなってしまわないように。自分というものを思い出すこと。
やっと手に入れた生活が途切れてしまわないように。自律した毎日を繰り返すこと。
そんな現実の中にあの少女と言う存在は必要なかった。
確かに。
そうだな。それが俺と言う人間だった。
結局のところ、俺はほんの空いた時間を利用して感傷に浸っているに過ぎないのだ。重要なのは「少女を助けた」と言う自分にとって都合がいい部分だけで、他人でしかない少女に俺自身がそれ以上の何か責任を持とうなんて考えがある訳じゃない。だから極端な話、俺が困っていた少女を助けたのだと満足さえしてしまえれば、その後、もし少女がうっかり死んでしまったりなんかするのだとしても、それが俺の知らないところでありさえしたら、もうそんなことはどうでもいいことだし、それを知ったからと言って、少し後味が悪いというだけで、やっぱりどうでもいいことなのだった。
あれはまだ、少女の素性を知る前、病院を訪ねた時のことだった。
あの時、少女は一言だって話さなかったから、俺たちの間には会話と呼べるものはなかったのだけれど、それでも、俺は立ち去る間際、その少女に言葉をかけて病室を出たのだ。
「大丈夫。すぐ元の生活に戻れるさ。」
それを聞いた少女は俺の目には何か頷いたようにも見えた。
その罪悪感さえも俺は時が経てば忘れてしまうのだろう。
それは俺と言う人間の汚い部分だった。
けれどそれこそがこの都市と言う場所にいる俺という人間であり、
そして、それこそが大人になってしまった俺と言う人間なのだった。
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2019.04.18 Twitter 発信内容に合わせて修正・再編集
2019.05.05 COMITIA128 出版物の内容に合わせて修正・再編集