1 俺という人間 #1
初めて他人の面倒を見てもいいと思った。
俺にとって、それまでの人生で最も、俺らしくない瞬間だった。
1
俺と言う人間が誰なのか。
俺という人間がこの世界のどこにいるのか。
それを一言で説明するのは難しい。
そこは大勢の人間が暮らす場所で、
けれど大勢の人間にとって自分は見向きもされない他人であり、
自分にとってもその大勢の人間は知る必要さえない他人である。
そんな他人同士がこの場所では社会というモノをつくっている。
ここには変わらない日常がある。
朝、太陽が昇り始める前から朝刊を運ぶバイクは走っていて、
日が昇り始める頃になると大勢の人間が通勤・通学へと出かけていく。
街を歩く人のにぎわいは日が昇っていくごとに大きくなって、
ある人は遊びに出かけて、ある人は営業に出て、ある人は観光で訪れて、
ともかく人の流れは途切れてしまうことが無い。
日が傾き沈んでいくと街には明かりが灯っていって、今度は夜の歓楽が動き始める。
そして夜が更けて、やがて空が白み始める頃には、
ようやく家路に着く人と入れ替わるように、また、朝が動き始める。
ここはそんな場所である。
都市。
俺という人間はそんな場所にいて、
きっと辺りを見渡せばどこにでもいるような、
きっとそんなサラリーマンだった。
2
そんな俺と言う人間にとって、
人生というのは常に、間違いじゃない選択をすることである。
小さい頃、周りと同じくらいの勉強をした。
学生の頃、周りと同じように進学をした。
そして周りの人間と同じように大学を卒業して、そして、
大抵の人間がそうであるように俺もまた会社に勤める人間になった。
自分の人生に失敗しないこと。そのための選択をすること。
それこそが俺という人間にとっての正しさであり、
結果としてそれが他人と同じように生きることになって、
結果としていずれ他人と同じように死ぬことになるのだとしても。
それこそが俺という人間にとってのすべてだった。
この場所で暮らし始めてもうずいぶんと時間が過ぎた。
だから俺と言う人間は今ではもうこの都市という景色の一部なのかも知れなかった。
3
朝。
目が覚めると顔を洗って歯を磨いて身支度を済ませてそれから鞄を手に取るとスーツ姿で家を出る。そして歩き始める。オフィスビルや集合住宅・雑居ビルの合間を、道路の張り巡らされた都市の中で、どこまでも続いていく道に沿って、人が歩いていくのに従って。電車に乗ってバスに乗って、今日も職場へと向かっていく。
そしていつもの席について時間がくれば仕事に追われる一日が始まる。
夜。
ようやく職場を離れると一日が終わるにぎわいの中で家路に着く人波に紛れて帰宅する。部屋に帰ってまず上着を脱いで、やっと一息ついて、片付けもそれなりに、適当に夕飯を食べて、それから洗濯物も仕掛けて。風呂から上がれば後はベッドに横になるだけだ。スマホを閉じて枕元に置く。そして目を閉じる。
次に目を覚ますとやってくるのはまた同じ朝だ。
季節が変わっても、年を跨いでも、
毎日のほとんどがそんな平日の繰り返しであることに変わりはない。
仕事に行って。帰って。休んで。
だからこれからもそんな毎日がずっと続くのだろうと、
そんなことを思いながら迎えた朝だった。
その日もいつもと変らない朝だった。
4
俺は駅へ向かって歩いていた。
時計を見るといつもと同じ時間で。だからいつもの電車に間に合うだろう。
そう思っていつもの道をいつもの速さで歩いていた。
季節はもう冬が終わろうとしていた。
もうずいぶんと明るくなった空には朝焼けが淡く広がっていて、
まだ薄暗い街には街灯やサイネージの明かりがずいぶんと優しく光っていた。
空気はいつになく暖かで今年になって初めて春の香りのようなものさえ感じられた。
そんな季節の移ろいでさえも何も感じるものがなくなってしまった朝の中で、
俺はいつもの交差点を歩いていた。
いつもの様に無感情に出社を急いでいたはずだった。
それなのに俺はどうして足を止めてしまったのか。
それはきっとその時目にした光景があまりにも周囲の風景から浮いていたからだ。
だから尚更その少女の姿が俺の目が留まったのだ。
5
平日の朝と言う景色の中にどうして少女は迷い込んでしまったのだろうか。
俺にとって平日の朝と言うのは見慣れた人たちのいる見慣れたいつもの景色である。例えばスーツを着て駅へ向かって歩いていく人がいる。あるいは疲れた顔で雑居ビルから出てくる人がいる。清掃車から降りてきてゴミ袋を回収していく人がいれば、大きな荷物を引いて路地裏へ消えていく人がいる。そんな彼らがいつでも朝という景色の主役であることに変わりはなく、それは肌に感じる空気や目に映る街の明るさが変ったからと言って変わってしまうものじゃない。
だからこそ、少女はどうしてこの景色の中へ迷い込んでしまったのか。
少女は一人で歩いていた。
およそ大人には見えない小さな姿だったから俺は少女だと思った。
何も持たず、どこへ向かっているのかも分からず。
ただ薄暗い街を背景にとぼとぼと俯き加減で歩いていた。
だからこそ、平日の朝と言う景色の中で、
行くあてを無くしてしまったかのような、そんな
少女の姿が特別異質なものに感じられてならないのだった。
きっと、そう感じたのは俺だけじゃ無かった。俺の前を歩いていたサラリーマンもOLも向こうから歩いてくるその不自然な存在に明らかに気が付いていて明らかにその姿を目で追っていた。だから少その女の脇を通り過ぎる時には今度は誰もがその存在を避けるように大きく回りこむように歩いていくのだ。
その様子が一層、少女の異質さを際立たせていたのだから、
俺は思わず足を止めてしまって、ふと、少女のことを確かめようとしていたのだった。
けれど、俺はまた歩き始めた。
そんなことを気にして一体それが何になると言うのだ。
6
もし、
この社会の中で、最も人が平常と言うものに縛り付けられる瞬間があるとするのなら、
それがこの時間だと俺は思う。
誰もが時計を気にしながら時間に追われて動いている。この時間、電車の時間もバスの時間も歩く時間でさえも誰もが気にしながら動いている。そしていつもの時間通りに動いていつもの時間通りに出社することこそが何よりも優先することなのだと思っているのだから。仮に、人身事故のような人の生死に関わるような重大な事故やあるいは大雪や地震といった重大な災害が起きていたのだとしても、そこにはもう人間的な意味なんてどこにも無くて。自分が巻き込まれなければそれはもう無関心の出来事で、自分が巻き込まれて仕舞えばそれはいつも通りが狂わされた「ムカつく」対象にしかならないのだ。
だから少女が一人で朝の街を歩いていることくらい。それがどんなに不自然であったとしても、いかにもそれが不自然であるからこそ、わざわざ自分からその理由を確かめようとする人間が居ないのは仕方がない。
そして漏れなくこの俺もこの平日の朝と言うものの中でいつもどおりを急ぐ人間の一人なのだった。
どうして平日のこんな朝の早い時間に、住宅地でもない駅前のオフィス街で、
少女は一人で歩いているのか。どこへ向かって歩いているのか。
俺ももう数十歩も歩けばその少女の横を通り過ぎなければならないのか。
あえて綺麗事を言うのであれば、自分のことなんか気にせずに些細なことでも然るべき対応を取れるのが真摯で誠実な大人であるに違いない。確かに、俺も以前はそんな人間に憧れていた。けれど、現実にはやっかいなことに一々自分から首を突っ込む大人なんて居ないのだ。そんなことをするやつがいるのなら、そいつはおよそ暇を持て余してしまったのか、あるいは何か別の意図があるからそんなことをする訳で。
現実に少女がこんな時間にこんな場所を一人で歩いていたからといって、だからどうした。現実に俺がその少女に何か助けを求められた訳じゃないし、俺が少女に対して何か手助けをしなければならない理由がある訳じゃない。それこそはた迷惑なお節介と言うものだろう。
あるいはと思う。
あるいは、今日が平日の朝でなくて、
俺も急いでいなければ、あの少女の事情を確かめようと思ったかもしれない。
あるいは、俺ではない誰かが、その役割に適した誰か警官なんかが
あの少女のことを確かめてくれればいい。
あるいは、俺の悪いクセで、本当はあの少女にはなんの問題もなくて
すべてが単なる思い過ごしだったのだ。と、
それならすべてが丸く収まるのだ、と、そうなることを願いながら、
傍に近づくにつれて汚れてみすぼらしい姿がハッキリと分かった
少女のすぐ脇を
俺はまるでなにも見なかったかのように通り過ぎたのだった。
7
それなのに、あの時、次の交差点で立ち止まった俺は、
どうして少女の方を振り返ってしまったのだろうか。
そしてあの時、少女は、どうしてこちらを振り向いていたのだろうか。
俺と彼女は目が合った。
確かにそんな気がした。
そして、俺が見ていたその目の前で、
少女はふっと力が抜けたようで、そのまま地面に倒れてしまったのだった。
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2019.04.09 Twitter 発信内容に合わせて修正・再編集
2019.05.05 COMITIA128 出版物の内容に合わせて修正・再編集