プロローグ ウォルバーとの出会い
逃避行の中で、宿の質はロウソクの灯りで測れ。彼らは私にそう教えた。
手元しか見えず、互いの顔はよほど火に近づかなければ見えない。そんな宿屋の一階、飲食ホール、カウンター席に私たちは滑り込んだ。酒臭い汗の匂いがむんむんと漂う中、客をかき分けて、ようやく高椅子によじ登る。
「エール3つ」
連れの声に、暗闇からぬっと顔を出した店員が応じる。見えるものは、ロウソクの灯りで全て橙に染まっていた。
「はいよ」
すぐさま、勢いよくエールがカウンターに置かれた。木製ジョッキから薄い泡が漏れる。先客が残したパン屑を払おうと思っていたのに、溢れた液が沁みてそれができなくなった。
「つまみじゃなく、腹にたまるものくれ」
連れ、クラークがエールを持って来た給仕を引き止め告げる。もう一人グレイが私の手元を見た。
「なんだ、きれいにしたいのか繊細なこった」
彼らは手元を払う素振りすら見せない。
「不衛生だ、これからここでご飯食べるんだよ」
「別に飯食うんだから、飯が落ちてても構わんだろ」
全く信じられない、と私はエールを手元に引きずり寄せた。
「お城育ちだからな。コッカテイルは」
注文を済ませた連れ、クラークが私の頭をグリグリ撫でた。その手の強さでジョッキに上顎がごつんと当たる。痛い。
「それで、道はどうだ」
先日の嵐で、橋が落ちていた。私たちはこの辺りの道をよく知らない。正直、足止めを食らっていた。
「さして回り道にはならないらしい。そこがダメでもあと二つ生きている道を聞いた。焦らなくていい、間に合うさ」
再び近寄る店員に聞かれないよう、会話を打ち切る。
「ほいよ、シチューと腸詰、あとパンは一人一個でいいな」
目の前にシチューの白い湯気が一気に立ち込めた。鼻腔をあっつあつの美味しそうな匂いが占領する。涎が溢れて口に溜まる。分厚く切られた豚バラ肉がシチューから顔を覗かせていた。
「俺にパンもう一つくれ」
グレイが手を挙げる。
どろっとしたシチューを啜った。
久々の温かい食事だ。厚みのある肉を選び、噛むと脂身から肉汁が口に広がった。雑穀が入った香ばしいパンを噛みちぎると、思わず笑みが出るほどの満足感。続けざまに、匙を口に突っ込む。もっとパンチのあるものが食べたくなって、三人分が一挙に盛られた腸詰に手を伸ばす。
すると、グレイと手がぶつかった。譲ることもなく、グレイは腸詰を一本攫っていく。私も奪うように取った腸詰をかじる。肉汁の甘いしぶきが弾けた。グレイがマスタードをたっぷりつけて齧り付いているのを見て、今まで倦厭していたマスタードがとてつもなく美味しそうに見えてくる。試しにと、ちょびっと付けてかじる。むむっ。これは。もしかして、止まらない。
がっつきながら、そっと向こうを伺うと、クラークも珍しくガッついていた。だよねーと、シチューの人参をゆるく噛んだ。煮込まれた野菜は力を入れずとも歯が通るのが良い。
三人とも無言で目の前のものを必死に腹に入れる。限界まで飢えていた。
「ノース勢の騎士団だ」
店の中で、誰かが叫ぶ。私たちもソーセージで頰を膨らませながら、その声を聞いた。既に何人かがフードを被って顔を伏せる。暗い店とは、そういう場所であった。顔を見られて、都合が悪い人間が顔を隠して飯をかき込む。店をそそくさと出た人間もいる。
私たちも目を見合わせた。クラークが静かに席を立ち、私はとっさに机上にあるパンを全てカバンに潜らせる。腸詰も油紙に包んで同じくぶち込む。素知らぬ顔で食事を続けているグレイも、何気なく店内に目を光らせていた。そして、彼は人目を盗み私の背に手を伸ばしローブからフードを掴んでかぶせた。ぽふっとカビ臭い空気が鼻頭を撫でた。
クラークが帰ってくるのを尻目に、最後の悪あがきで二人ともシチューを頰いっぱいに口に詰め込む。
「裏に馬を用意させた、行くぞ」
外に出る間際、松明の灯りの下でクラークが私に向き直った。
「コッカテイル、お前は本当にオカメインコみたいな顔だ」
まだ咀嚼を続けて、膨らんでいる頰を突く。口の横についたシチューを指で拭った。
「本当は女の子なのに、こんな思いをさせて悪いな」
クラークの言葉に、私は頭を横に振る。
「詫びと言ってはなんだが、お前、自分の馬を欲しがっていただろう」
私はコクコクと頷いた。
「プレゼントだよ」
グレイが扉を押しあけると、立派な二頭の馬と
「ウォルバーだ、乗れ」
「なにこれ!!」
私は叫んだ。
「乗り物、欲しがってただろ、乗れよ」
グレイは黒い馬に跨りながら私を笑った。
「やだよ、なにこのウォンバットみたいな頭がついたエミューみたいな……気持ち悪い」
クラークは白い馬に跨った。
ウォルバーは、にょろんと長い首を曲げじっと私の顔を見ている。こっちを見るんじゃない!
「ねえ、今までとおんなじようにクラークの馬に一緒に乗るから。馬が欲しいなんて、我儘もう言わない」
「馬鹿、騎士団から追われるんだぞ、今までみたいに緩くねえ」
グレイが見下ろしてくる。私は助けを求めてクラークを振り返った。
「時間がない、乗りなさい」
いじめられてる。半泣きで私はウォルバーに近づいた。茶色くて毛深い。私が乗りたかったのは、ツヤツヤと毛並みのいい馬だったのに。こいつはボサボサだ。私の顔をずっと見てくる。変に小さい目に見られると居心地が悪い。
鞍は付いていない。手綱を取ってよじ登ろうとすると、ウォルバーは急に屈んだ。唐突なものだからびっくりする。
「実物を見るのは初めてだが、ウォルバーとは本当に賢い生き物なんだな。お前を乗せようとしてくれてるんだぞ」
完全に他人事の体でグレイが呟く。恨みがましい目でグレイを睨みつけた。
「うるさい、馬鹿」
屈んだ背に跨ると、微妙に早いタイミングでウォルバーが立ち上がった。背中が丸いせいでずり落ちそうになる。二本足がひょろりと長いせいで視線が馬のように高い。落ちたら一大事だ。座るとお尻に、鶏の丸焼きのような筋肉の形が直にに伝わった。
「行くぞ」
クラークの声に合わせてグレイも馬の腹を蹴った。私も真似してウォルバーの腹を蹴る。前の二頭を追ってウォルバーも、変に上下する走り方で走り始めた。
夢に見たものを文字に起こしてみました。これから物語に仕立てていきます。