ヘルハウンドと獣人の少女
草原の中にある小さな村が今、〈災害〉に見舞われている。
疎らに建つ木造家屋が燃え上がり黒煙を昇らせていく。
辺りがその炎に囲まれる中逃げ惑う村人達の姿。
そして鉄鎧を纏った者達がその村人達の身体に次々と剣を突き立て、声にもならないような悲鳴が響き渡る。
どれだけ泣き叫ぼうが、どれだけ命乞いをしようが、その者達が虐殺を止める事はない。
村人はそれを〈災害〉と呼ぶ他無く、ただ通り過ぎるのを神に祈る事しか出来なかった。
それが届かない祈りである事を知っていても。
その最中、一人の母親が生後数ヵ月の赤子を大事そうに抱え泣きながら、眼前で剣を振り上げている男に懇願していた。
「この子だけは! この子だけは助けて……!」
その懇願も当然の様に受け入れられる事は無く、男は表情を変えずに血で濡れた剣を降り下ろしたーー
――すると、降り下ろされた剣は金属が擦れる耳障りな音を発し、その倍以上はある無骨な大剣に受け止められた。
「な……!」
終始表情を変える事の無かった男の顔が歪む。
その大剣の持ち主である、異形の姿を見たからだ。
「相変わらずだな、人間」
次の瞬間、鉄鎧の男はその鎧ごと胴から両断された――
□■
時は数十年前まで遡る。
今まさに絶滅の危機を迎えている種族が居た。
大きな樹木が広範囲に渡り鬱蒼と生い茂る深い森を星月の光が静かに照らす中、そこを進む屈強な男達の姿があった。
五十名以上は居るだろうその集団の前方に位置する十数名が手に持ったランタンで森を照らし、その周囲は夜の森とは思えない程だ。
人間達は今、魔物討伐の為に深い森の中を行軍している。
その魔物というのが人間程の大きさを誇る狼、その目は赤黒く輝き人語を解す魔物、ヘルハウンド。
森の奥のその住処へと、今正に足を踏み入れる所だ。
「いたぞ!」
「油断するな!」
人間達は数頭居るヘルハウンドの姿を確認すると、数に任せて一斉に襲い掛かる。
ヘルハウンドの中でも一際大きな体躯を誇る1頭が人間達に向かい唸り声を上げた。その後ろには既に傷ついて地面に伏している1頭と、小さな子狼の姿が2つありその背中で3頭を守る様な姿勢をとっていた。
そう、その魔物はただ家族を守りたい一心だった――
かつて魔王と呼ばれた存在に従属していた魔物達は、数年前に突如として現れた勇者に魔王が敗れてからというものその庇護が無くなってしまい人間に害したとして討伐対象となった。
既に数の多い主要な魔物達は討伐され魔族と呼ばれた亜人種やそれに従っていた獣人等も人間によって蹂躙され、そして数の少ないヘルハウンドにもそれは及ぶこととなる。
数百年は生きると言われる魔物、ヘルハウンド。
今人間に立ち向かっているのはその背中に守る家族の父親であり、歳は二百を超えている。
魔物の中でも類まれなる英知を誇る種族の長であった彼は人間の愚かさを知っていた。
当時から同じ人族に分類される魔族や獣人を襲ってはその命を命として扱わず、動植物に対しても慈愛の心など無く無惨にも自然破壊を行う非道な種であり、彼自身も以前住んでいた森を追われている。
かつて魔王と呼ばれた者に従属したのも、その庇護を受ける為だけでなく人間達の非道な行いを目の当たりにしてきたからである。
そしてそれが自分達に向けられる。
本来であればヘルハウンドの動きは普通の人間には捉えきれない程のスピードを誇るが、守るものを背中にしていた彼はその場から動く事が出来なかった。
妻は人間達が森に入り込んだのを確認しに行った時に見つかり傷を負わされ、下の子はまだ生まれて数ヶ月と小さな体を震わせている。そして目の前の人間達は剣や斧等、様々な武器を持ちその身を鉄や革製の鎧に包んだ屈強な男達だ。全てを凌ぐのは不可能であった。
そう判断した彼は子狼2匹だけを森の中へと逃がし、迫り来る人間達を殺し続けた。
子供達が逃げる時間を稼ぐ、ただそれだけの目的の為に。
しかし人間達も討伐に来ただけの事はあり戦いなれている者も多く、しばらくの抵抗も甲斐無く彼は人間達の凶刃により二百余年生きたその命を散らした。
残った人間達が歓喜する中、その一際大きな身体の近くには無数の人間の屍と、寄り添うようにして倒れた一回り小さなヘルハウンドの姿が共にあり、長としての立派な最後であった。
逃がされた子狼達は兄である1頭が妹を伴い、森の中を必死に駆けていた。
だが妹の身体はまだ小さくその速度は余りにも遅い。容易く人間に追いつかれてしまう。
兄は後ろを走っていた妹がついて来ていない事に気付き振り返るも時既に遅く、小さな妹の身体は倒され人間の持つ刃物が突き立てられる瞬間だった。
子狼の兄はその光景を見て頭に血が上り、妹の血が滴る刃を持つ人間に襲いかかった。
その心は悲しみに満ちていたが涙は出ない、ヘルハウンドの肉体には涙を流すという概念が無いからだ。
父の力が大きく追ってきていた人間の数は少なかったが、子供とはいえヘルハウンドの脚力に追いつく男達だ。
妹を殺した男の喉を噛み千切るも、そこに襲い掛かる人間に反応できず大きな傷を負う。
それにも怯まずにその爪で人間を引き裂く。
数人を片付けた頃にはもう、その身体は血に染まり傷だらけになっていた。
傷を負ったその身体を引きずり、必死で歩いて森の外れまで辿り着くと、子狼は家族を追うかのように静かに倒れた。
その黒い毛に覆われた身体は血で赤く染まり、両親から受け継いだ赤黒い目から生の灯火が消えかかる。
その時、小さな命が消えようとするのを発見し近付く者の姿があった。
その者は薄っすらと青く輝く立派な鎧を纏い、背中には紋章があしらわれた剣を携えている。
それは数年前、少年の身でありながら魔王を滅ぼし、その後成長した勇者の姿であった。
「僕にはもう何が正しいのか分からない。でもお前を癒すのは僕の意思だ」
勇者は呟くと、その手から優しい光を発し子狼の小さな身体に触れる。子狼の傷は時が戻るかのように瞬く間に塞がっていき、その赤黒い目に再び命の光が宿った。
そしてその優しい光がもたらしたのはそれだけでは無かった。
その治癒の力が大きすぎたのか魔物に合う力では無かったのかは定かではないが、子狼の身体が段々と大きくなりその身体は黒い毛に覆われたまま、まるで人間の少年の様な形へと変わっていく。変化が終わるとそれはまるで人狼の様であった。
「お前がこれから何を成すか、それは僕には分からない。ただ例えそれが凶事であったとしても僕がこの行いを悔いる事は無いだろう。……さあ、行くといい」
人狼の様な姿へと変貌してしまった子狼は立ち上がり、憎しみを込めて勇者の目を睨んだ。
そこにあったのは暗く光の無い目、死んだ者の様な目だった。
だがそれを見ても憎しみが深くなるばかりだ。
愛する父と母、そして妹までも殺されてしまった子狼はその元凶である人間に感謝等感じる事は無く、森の中へ消えていった――
――あれから数十年が過ぎた。
あの日家族を失い、しばらくしてヘルハウンドという種族も滅んだ。
そして一族の証である姿までを失った俺を生かし続けたのは憎しみによって生まれた怒りだ。
数年間はこの変異してしまった身体の使い方を覚える事に費やし、同時に肉体を鍛え続けた。
身体が人間の倍程大きくなり充分な力を得ると、俺は人間に復讐を始め数十年間に渡り幾度と無く人間を襲い、怒りの赴くままにその肉を引き裂いた。
数え切れない程の戦いの中で身体にはいくつもの傷を負い牙を折られ、そしてまるで人間の様になってしまった手からは指も数本失った。
攻撃の手段をもほぼ失った俺はそれでも憎しみが晴れる事は無く、人間が持っていた無骨な大剣を手にし人間達が使っていた革鎧を複数繋げ身に着け、さらに多くの人間の命を奪ってきた。
だがそれも今日で終わりだ。
俺は今、あの時の様に死を間近に感じている。
今しがた襲った大きな街には多くの人間が居た。
単身だった俺は、数の暴力には勝てず肩に深い傷を負ってしまったからだ。
幾度と無く繰り返した戦いも、この川辺でようやく終わりを迎える。
仰向けに倒れこむと太陽の光が鬱陶しく、俺は目を閉じた。
あの時俺を助けた人間が言っていた通り、俺は人間に凶事をもたらしただけの存在だった。
復讐以外考えられず、この生き方しか出来なかった。
そんな俺が死ぬ事にきっと意味等無いのだろう。あの時死んでいたとしても、今死ぬのと何も変わらない。ただ人間の屍の量が増えただけだ。俺の心も遂に晴れる事は無く無駄な生き方だったよ。
死を目の前にして頭に浮かんだのは父の顔、母の温もり、そして妹の無邪気で小さな瞳。
家族と共にあった日の事は今でも鮮明に思い出せる、とても幸せな日々だった。
どうせ死ぬんだ。意識が無くなるまでの時間だけは怒りを忘れあの日々の事だけを考えよう――
――暖かい。
この暖かさの中で死んでいけるのであれば、俺はそれだけで充分だ。
だがその暖かさは家族を想って心が感じただけで無く、俺の身体が直接感じていた事に気が付いた。
抜けていた身体の力が戻ってくるのを感じ、薄っすらと目を開く。
鬱陶しいほどの光の中微かに見えた小さな頭の上には、俺と似たような耳が見える。
それはあの時と変わらぬ、子供のままの妹の姿と重なった。
段々とその姿が見えてくると、そこに居たのは妹では無く獣人の少女だった事が分かった。
狼の様な耳に長い尻尾、栗色の肩まである髪を風が揺らし、顔は人間と大差ないものだ。その小さな手から優しい光を生み出し俺の肩に触れて傷を癒している。身に着けた薄い布の服はぼろぼろに破け、あまり服としての機能を果たしていない様だ。
その傷を癒す光は子供の頃に体験したものに比べれば弱いものではあったが、徐々に痛みが引くのを感じその少女に問いかける。
「お前、獣人の子か? 何故俺を助ける」
「探してたの」
「……俺を? 怖くないのか、この姿が」
「うん、助けてくれたから」
――少女が言うには俺が先ほど襲った街で殺した人間の中に、こいつを奴隷として飼っていた奴が居たらしい。
その後街から逃げ出す事が出来、俺を探していたと。
「俺はお前を助けたつもりは無い、大体俺に近付いて殺されるとは考えなかったのか?」
「思わないよ、だって狼男さん泣いてるもの」
言われて初めて俺の目から水の様なものが流れ、頬の毛が濡れている事に気が付いた。
この身体になってから涙が出るようになったのを知り、動揺を隠せない。この数十年、この悲しいとも嬉しいとも判別がつかないような感情に支配された事は一度も無かったからだ。
俺は小指の無くなった右手でそれを拭い立ち上がる。
その獣人の少女は小さく、背は俺の膝を少し超えるくらいだった。
その破れた服から見えた身体にはいくつもの傷跡が残り、奴隷として凄惨な扱いを受けていた事が伺える。
「その身体中の傷、俺と同じだな」
少女は自分と俺を見比べて、その幼い顔に満面の笑みを浮かべる。
「あははっ、ほんとだ! 家族みたいで嬉しい!」
嬉しい……。
その言葉に、この少女は俺と全く違う物を見ている事に驚愕した。
俺は自分の傷痕を見るとそれを付けた人間を思い出しさらに憎しみが増していくのを感じていた事の方が多かった。
だがそんな自分とは違い、自分の傷痕を見ても迷う事無く笑顔でそう言った少女を目にして、世界を捉える目が違うんだと驚きを隠せなかった。
――『お前がこれから何を成すか、それは僕には分からない。ただ例えそれが凶事であったとしても僕がこの行いを悔いる事は無いだろう』――
ふと俺を助けた男の言葉が頭に浮かんだ。
絶望に満ちた目をしながらも俺を助けたあの男は、他の誰とも違う世界を見ていたのではないかとこの時初めて思った。
きっとあの男は過去の自分を後悔していた。
そして俺には自分の存在を、そして選んだ選択を悔いる事の無い様に生きろと、今ではそう言われた様にも思える。
「お前行く所無いんだろう、俺と一緒に来るか?」
不意に出た言葉。
妹の姿と重なったこの少女と共に行けば違った景色が見えるのでは無いか、俺も今までとは違う世界を見てみたい、そう思って出た言葉。
「え? いいの? 勝手についていこうと思ってたんだ」
こいつには俺の考えというのはあまり意味が無いらしい。
俺が復讐の為に一人で生きてきた事、多くの人間を殺し狙われている事を伝えた時も、少女は一切臆すること無く笑って言ったのだ。
「じゃあ、約束ね。これからは復讐の為じゃなくて、私の為に生きる事。私も狼男さんの為に生きるから、そしたら寂しくないよね?」
「……俺は狼男じゃない、ヘルハウンドだ。お前名前は?」
「リューネ! お母さんが付けてくれたの! 狼男さんは?」
「だから……まあいい、良い名前だな。俺はニウス」
「素敵な名前」
「父と母から貰った名だが長く名乗る事もなかった……。お前が初めてだ」
俺は宛もないままリューネの小さな身体を肩に乗せて歩き出した。
「わぅ、ニウス高いよ……」
□■
数年後。
草原を歩く大きな体躯はまるで人狼の様な異形の姿。背中には無骨な大剣、身体には継ぎ合わせたような革鎧を纏い、全身漆黒の毛で覆われているがその体毛に所々隙間があるのは無数の大きな傷痕のせいだ。
そしてその肩に乗っているのは数年の月日で大きくなった獣人の少女。装飾の無い綺麗な白のドレスを着て頭には狼の様な耳、乗っている肩を長い尻尾で叩きながら遠くを見据えている。その瞳は以前と変わることのない光を讃えていた。
「ねぇ、あれ見て!」
前方には少し長めの葉が風に揺らめく草原が広がっている。その奥に見える集落から大量の黒煙が上がっているのを確認した少女が指を指す。
「何かあったんだよ! 早く行ってあげないと!」
「お前がそうしたいのか?」
「うん!」
「……捕まってろ」
ニウスはあの時の約束に答える事はしなかったが、それは今も胸に刻まれている。