Still here.
この話を始めるにあたっては、一体どこから話せばいいのだろう。自己紹介をしたくても私には名前が無い。いや、あったと言うべきだろうか。私の存在は実に曖昧である。どこにでもいて、どこにもいない。これは誇張しすぎたかもしれない。私は人に認識される限り、人に記憶される限りそこにいる。けれども、私は確かにここにいる。私の存在に関しては、これを読んでくれている人には到底理解に及ばないだろう。しかしそれでいい。これを読んでくれる君がいる限り、私は君の目の前にいる。ここにいる私が死んでいても、だ。
『死』これは人間が最も恐れると同時に、最も親しまなくてはいけない存在であろう。存在と言えるかはともかくとして、歴史において様々な人間がこれを研究し記してきた。不老不死に関しての記述は、紀元前二千年のメソポタミア文明の伝説にも記されている。君たちの時代がいつかは分らない。私がまだ曖昧な存在ではなかった時の情報だと最古の文献だ。古代インドの経典には、不老不死の薬を巡り天使と悪魔が争ったという事も記されている。これまでに記したのはあくまでも神話や伝承。では人間は?私のいる時代では紀元前三世紀の中国、秦の始皇帝だ。彼は不老不死を求めた歴史上に残る、いや記録上に残る最初の人間かもしれない。しかし、時の権力を得た彼にさえその力は物にはできなかったとされている。記録では、だ。私がいる今の時代は、君たちのいる時代よりかははるかに昔かもしれないがいささか科学の力は進歩を遂げている。なので、その記録は間違っていないのだろう。
話を戻そう。ここまで死と人類について書いてきて一体私が何を言いたいのか。まだ疑問に思う、君がいるかもしれない。私が言いたい事をまとめると、人はすでに生まれたその時から不老不死の力を持っている。私は発見したのだ、そのことを。しかし、名前を失い、何者でも無くなってしまった私の言葉を信じてくれるかは君の判断次第だ。だがしかしだ、この文章を見つけてくれた君ならわかるはずだ。私の言いたいことが。君のいる時代がどういう状況かは解らない。もしなんならそこにいる私に教えてくれ。
ではどのようにか、どのようにして不老不死になるか。まず手始めは不老不死に対する固定観念を捨てないといけない。そう、いつまでも死なない、というイメージだ。もし君が、これを捨てたら不老不死じゃなくなると思うのであれば、即刻この文章を破棄してもらいたい。そうすれば私もこの曖昧な存在からも抜け出し、自然の摂理に従い死を受け入れなければならなくなる。個人的にはこの曖昧な存在はなんだかんだで気に入っているのだが・・・まあいいだろう。捨てる覚悟ができたのであれば読み続けるといい。多少わからなくても、目の前にいる私が答えてくれよう。
君たち『人間』は生まれながらにして備わっている器官があることを知っているだろうか。臓器などといったちんけなモノじゃない。人間にだけ与えられた厄介なモノ。それは何か、そう今こうして私が使っている言語、『言葉』だ。もし君がこの言語が読めなかったら、恐らく私はまた何年、何世紀と人々の言うところの死を味わっていなくてはならない。大変苦痛だ。念のため私の母国語じゃない言語で挨拶をしておこう。
Do not Read
non Read
不讀
не читайте
喧嘩腰になってしまっただろうか?まあいいだろう。世界中に私が分散しても、この言語しか使えない今の私には苦痛だ。では、幸運にも私と同じ言語が使える君に不老不死の方法を伝授しよう。この方法は実に簡単だ。この文章に君の名前を記せ。人に覚えていてもらう。それだけで君たち人間は不老不死になれる。実に単純明快かつ実行に移しやすいことなのだろうか。発見した私もとても驚いている。おい、よしてくれよ。目の前の私に文句を言うんじゃない。ん?何故分かったかって?言っただろう、今の私はどこにでもいて、どこにもいない。曖昧な存在だと。もしこの文章が量産され拡散した場合。その文章の数だけ僕はいる。大丈夫、そんな気持ち悪いことは起きない。きっとこの文章は、君にだけ読まれている。そうじゃないと困る。君がこの文章を読んでいるっていうことは、恐らく僕はもうその場所にはいないのだろう。そうふつうはいない。しかし、私は生まれながらにして手に入れた器官と人間であった時に養った知識でこうして君の目の前にいる。
ではなぜか。なぜ私のような曖昧な存在が君の前に立つか。
これは一種の遺言にもなるのだろう。おかしい気分だ。曖昧な存在として、人間じゃない存在として、生きているのにもかかわらずこうして遺書を記すだなんて。願いだ。お願いが一つ。この私を、曖昧なモノに成り果ててしまったこの僕を、覚えていてほしい。
僕は物心がついたころから一つの念に駆られていた。死ぬこと。そう生きているモノは必ずとして通らないといけない道。世界が破綻しても不変としてある真理、現実。僕は何より死が怖かった。成長するにつれそれは身近なものになっていく。社会がいくら安全でも、それはいつも隣にいる。親友、そんなものよりもかけがえのない友達だった。僕は、何としてもそれから逃れようとした。一時は受け入れようともした。しかし僕の奥底にすでに根付いていた曖昧な私がそれを拒絶した。逃げ場をなくした僕がたどりついたのは一体なんだったのか。それは今の私でさえ分からない。ただ言えるのは、私は拒絶したその時から何かに憑りつかれた。いや、言葉だ。私は言葉に憑りつかれたのだ。ツールであった言葉が私には生きているように思えた。彼らは人を呪う。あの時、こう言っておけば未来は変わったかもしれない。あの時あんなことを言わなければあいつとの関係は悪くならなかったかもしれない。そのように人を後悔させる言葉に私は魅了された。それに気付かずに多用する人間に興味が湧いた。その時だ、きっとその時すでに僕は死に、私が生まれた。不老不死になった瞬間ともいえる。国を殺す場合、一体どうするか。私はその国の言葉を奪えばいいと思う。実際、失われた言語は多々ある。そう、私は自分を言葉にしようと考えた、弱い僕を言葉によって不変のものにしようとした。これはある意味、過ちだったかもしれない。弱い僕は、人間として周りに影響を与えすぎた。人が突然死んだとき、残された人はしばしばその人に縛られる。あの時こうしておけば、もっと話しておけば、しかしいずれそれも終わる事もある。何故か、人は『忘れる』という安全装置を知らないうちに脳に装着しているからだ。ここだ、ここに人の死がようやく訪れる。だがしかしどうだろうか、まだ覚えている人が忘れていた人の脳にもう一度記憶の種をばらまくと。その人は思い出す、勝手に芽生えた罪の意識を。ほんとに何故だろうか、責任は全くないのに勝手に自分のせいだと思い込む。だが私の理論が正しければそんなことは起きない。何故か。覚えていること、そう覚えていればその人は記憶の中で存在し息を吹き返す。難しいだって?君は相変わらずだね。物は試しだよ。ネガティブになっちゃいけない。目の前の僕で練習するんだ。きっと役に立つよ。その分、僕も存在できるしね。
僕は死ぬのが怖い。これはきっと長い子と一緒にいた君なら分かってくれるだろう。ここで言う『死ぬ』という事が本来の意味とは違うという事も。これは恐らく君に対する最初で最後のお願いになるだろう。そう、君にカタチ作られた僕ではなく自意識のある紛いもなくここにいる僕からの願いだ。どうか僕がそこにいたことを忘れないでほしい。僕がすごしたその場所を、大切でかけがえのないその場所を失くさないでほしい。こんな事を言うのはらしくないかもしれない。なんだか気恥ずかしいな。心からの願いだ。どうか聞き入れて欲しい。そこに僕がいれないのはとても残念だ。しかし、君がこの願いを聞き入れてくれれば僕はそこに入れる。そこにいるのは君に、君たちに脚色されたまがい物ではあるが僕に変わりはない。許容の精神で溢れているからね。ましてや君たちの作り上げた僕だ、瓜二つに違いない。僕もどうやらここまでみたいかな。後の話は曖昧な方の僕に任せるよ。
いままで、このように私の不老不死の意見を綴ってきたがどうだっただろうか?あぁ私に言わなくてもいい。きっと、これを読んでくれている君の目の前にいる私に話してくれるであろうと信じている。私か?どうやら役目を果たせたらしい。名前のあった頃の私・・・私は人間であって良かった。こうして言葉を使い、自分を書き残せる。人間の特権ともいえる素晴らしいものだ。これを読んでる君も共感したらぜひ広めてほしい、こんな奴がいたとな。きっと彼も報われる。
彼は、
自分は
忘れられるのが嫌いだからね。
私が手に取った手紙らしきものはそこで文章が終わっていた。私が偶然足を踏み入れた廃墟にその手紙は丁重に保管されていた。これを読んだ私は何故か読み終わる頃には頬に涙が伝っていた。この廃墟の廃れ具合を見ると、恐らく何千年も前に書かれたモノなのだろう。世界は荒廃して、人類は減少したが、大昔の科学は素晴らしい。住居であったであろう建物たちは骨組みや家財が一部残っている。この手紙も状態のいい机の上にあった。書き手の名前は記されていない。送りあても書かれていない。しかしどう見ても誰かに宛てられた手紙なのは一目瞭然である。その手紙の横には書き手と思われる人の骨が横たわっていた。私にはその人が悲しそうであると同時に微笑んでいるようにも見えた。私はその手紙を懐にしまい、廃墟を後にした。彼のためにも広めないといけない気がした。残されたものに託された彼の思いを胸にしまいながら私は荒廃した世界の地面をまた歩き始める。しかし、今までのような、寂しいひとり旅ではない。
私の横には、彼がいるから。