Ⅴ.悲恋って何ですかっ!?
日が傾き、空の向こう側が茜色に染まる頃、澄んだ鐘の音が城下町に響き渡った。
時刻を告げる音が夕暮れ時になったのを示しているのだ。
この夕刻一の鐘を定時の終業時刻と定めている所が多い。此処、第二王子付き文官執務室もそうである――が、未処理の書類、資料が山済みでは殆ど残業しなければならないのだが。
七日に一度だけ。なるべく就業時間内で終わるように心掛けている。
それを新人が望んでいるからだ。無論、真面目な新人はそんな事を口に出さないが態度を見れば、一目瞭然。
だから、年齢が一回り以上も違う新人を妹や娘のように可愛がる文官達はついつい些細な願いを叶えたくなってしまう。
慣れない拙い手付きながらも懸命に仕事を行う新人の姿に好感を抱いているから尚更だ。
今日は七日に一度の例の日。
城の中に居てもよく通る鐘の音が聞えた途端、仕事を疎かにする事はないが、新人はそわそわし始めた。その様子を隠しているつもりで隠し切れていない。
そんな新人の姿に目元を和ませながら、文官達の視線が奥の席の上司へと集まる。
もう終わりにしませんか、文官達の目配せに上司は失笑して、処理済みの書類をトントンとわざとらしく整えた。
「今日はここまでにしよう。今、手元にある書類で最後にして、終わった者から帰りなさい」
今か今かと待ち望んだ言葉に新人がぱっと顔を輝かせる様の可愛らしい事と言ったらない。
「はいっ」
誰よりも明るく返事をした新人は書類を整理し、机の上を手早く片付けると。
「では、すいません。お疲れ様です!」
一礼して文官執務室を軽やかな足取りで退室して行った。
普段は最後まで残って何かしら作業をして文官を見送っている新人だが、この時ばかりは誰よりも素早い。
「デートとかだったら、それはどうかって帰せる訳ないけど、さ」
新人の隣合った席で何かと構う機会の多い文官が空いた机を見やり、呟いた。
性格を表すかのように整理整頓された机の持ち主、新人が胸を躍らせて向かった先は、愛しい異性の元ではなく、神殿である。
敬虔な信者でもある新人は決まった日取りに神に祈りを捧げに行く事を常としているのだ。
ごく一般的な信仰心しか持っていない文官には理解出来ないが、信仰篤い新人は非常に楽しみにしている。それこそ、指折り数える程に。
「本当、良い子だよな。クリスタちゃん」
思わず呟けば、周りの文官達も頷いて同意を示した。
――家の子供もあんな良い子に育ってくれば良かった(若しくは良いのに)。
全員の心の声である。
遣り取りをしながらも手を動かし、新人ほどではないがそれなりに早く帰り支度を整えていく。
新人の為の終業時刻上がりだが、他の文官にも概ね好評だったりする。
既婚者は家族と夕食を共に出来て団欒の時間を持てるし、未婚者は帰って寝台直行、じゃないゆったりとした時間を持てるしで。
「こんな日くらいさっさと帰れよー」
扉に向かう上司も奥方と外食に出掛けるのだとか。
◇◆◇◆◇◆
走ってません、早歩きです、と言い訳が許されるぎりぎりの速度で歩を進め、王城を出たクリスタは城前広場の馬車乗り場から目的地行きの乗り合い箱馬車に飛び乗った。
カラカラと車輪が回り出した振動を大量のクッションの下で感じる広い車内。他に客が居ないのを良い事に進行方向の窓際を陣取った。だというのに、あんまり外には目を向けていない。
「ああ、もう。どうしよう」
頬に手を当てたクリスタは独りごちる。
非常に楽しみである、これからを考えるだけで胸は高鳴り、顔が自然と笑みを浮かべてしまう。
到着までに疲れてしまうから、誰かに見られると変に思われるから、と言い聞かせても自制が利かない。
こんな調子では冗談抜きにして疲れ切ってしまう。それはもの凄い困るのだ。
外を眺めたり、手で顔の筋肉を解して、兎に角気を紛らす事を心掛ける。
「…」
努力の結果、次第に高揚も落ち着きを取り戻し、平静――を通り越してしまったようだ。
クリスタの顔は暗く、どこか落ち込んでいるではないか。
一体全体、何があったのだ。
「…はあ…」
とうとう大きな溜め息がレースのカーテンを揺らす。
城下町を挟んで、王城とは反対側の街外れに神殿はある。馬車は市街地の夕方の賑わう大通りを通り抜けて行く。
そうなると、否でも応でも目に入ってしまう。聖女の名を閃かせる幟が。ついでに並ぶ黒衣の重騎士も。
左右、前後ろ。ありとあらゆる所に容易に発見出来る。
救国の存在である聖女への国民からの人気は凄まじく、そこら辺の二枚目俳優や、王族の方々すらも軽く凌ぐ。
その中でも皆の心を鷲掴みにしたのは、黒衣の重騎士との悲恋だ。
商魂逞しい商人達が見逃す筈もなく、町中に聖女と黒衣の重騎士の悲恋関連商品が溢れている。こじつけた感満載なのに飛ぶように売れているのだ。
書籍は物語から子供向けの絵本まで出版されるや、ベストセラー間違い無しの売れ行きだし。
演劇も入場券が足りないと騒がれる、日々満員御礼だし。
これだけに及ばず、聖女と黒衣の重騎士シャツやら、悲恋ほろ苦饅頭やらまで。
悲恋の事実等は無いと否定したくとも否定する事を許されていないクリスタは歯痒さを抱えながら口を噤んでいるしか無い。
何で否定を出来ないかだって。そりゃ、出来るものならしたいが。
国王より直々に賜ったお言葉が戒めになって否定を出来なくしているのだ。
「聖女とその護衛である騎士に纏わる噂については知っておろう?聖女をよく知るそなたには不本意であろうが、この噂話は出来るならこのままにしておきたい」
国民に暗い影を落としていた生命の危機が払拭され、漸く他愛ない噂を楽しめるようになったのだから、出来るならこのまま楽しんでもらいたい。国王のそんな考えからの言葉であった。
同意を示すも不満げなクリスタを察した、同席していた王妃が言葉を継ぐ。
「大丈夫。人の噂も七十五日。直ぐに忘れられるから心配しなくても平気よ」
慰めでもあり、当時はそれくらい軽く考えていたのだろう。
よもや、日々時間が経つにつれ、熱狂度が増していくとはその場の誰も予想出来なかった。
そして、現在。クリスタは不承不承ながらも律儀に聖女と黒衣の重騎士関する全てに沈黙を貫いている。
そりゃ、ね。幾らクリスタ独りが声を大にして否定――事実を口にしようとも誰も聞いてはくれなかったと思われる。そう言い聞かせても、聖女の名を他人が話しているのを耳にするだけで気鬱な気分になって仕方がない。
「はあ~ぁ」
いけない、また溜め息が。
だが、せめてこれだけは言わせてもらいたい。
聖女と黒衣の重騎士Tシャツ、団扇や悲恋ほろ苦饅頭、さようならチョコとかは止めてもらいたい。
誰が好き好んで神聖なる聖女の姿を描いたものを身に付けるのか、食せというのか。
人気の波に乗って吃驚するぐらい飛びように売れているが、絶対の絶対っ、間違っている。
悪意しか感じられないクリスタには力いっぱい断言出来た。